ル・キャバレー
三年前の春。私はこの恋がまさか大恋愛になるとは知らずにお付き合いを始めた人がいた。彼とは三年半という長い年月を共に過ごした。
最初はそんなにきっとお互い好きじゃなかったのにいつの間にか高校三年間という青春時代を丸々一緒に過ごした相手になったのだ。私達は学校の中では有名なラブラブカップルだった。後輩達からは憧れのカップルです!なんて事を何度も言われた覚えがある。そんな相思相愛カップルも、高校生活が終わり半年を過ぎようとしていた頃に、消滅した。この学校マジックは一体何なんだろう。物凄く仲が良かった友達も、今となっては音信不通だったり、いつの間にか引っ越していたり。とにかく、「高校出てからも月に一回は遊ぼうね」なんて事を話していた友達はみんな、知らぬ間に私の知らない場所で私の知らない人たちと楽しくやってるみたいだった。
私は彼と、本気で結婚したいななんて考えていた。もうすでに三年間付き合っているわけだから、このままうまくいけば同級生で結婚する最初のカップルになるだろうなんて思っていた。
彼の考え方が好きだった。それまでなんとなくで聞いていた音楽も、興味がなかった洋服も、全部彼から教わった。顔は俳優並みの整い方をしていて、同級生や後輩からも人気があった。なのに、どこか抜けていて、AB型からなのかは分からないが、とっても変わった感性を持っている人だった。おまけに0か100かの考え方の人間で、頑固な所もあった。そこがまた、周りに流されない我を持っている感じがして好きだった。彼と出会ってから、それまで周りに流されがちだった私の人間性も少しずつ良い方向に変化していった。
最終的に別れた原因は、彼の一夜の浮気だった。でも、彼が浮気してくれたおかげでようやく離れられたという感じだった。最後の方の私達は、「恋人」というより、「兄弟」とか「親友」の方が近しかった。二人ともお互いに恋人として見れる部分が見れなくなってきてしまっていたし、彼の立つものも立たないといった感じで、身も心も限界を迎えていた。
大切なんだけど、何か違う。
好きなんだけど、何か足りない。と、思っていながらも、私達は一緒にいたこの濃い三年半を思うと、なかなか終わりを切り出せずにいた。
だからこそ、彼の浮気で踏ん切りをつけることができたのだ。彼には止められた。一緒に暮らそうとまで言われた。でも、きっとここで私が折れたら一生彼も私も苦しむことになりかねない。彼のことが本当に好きだった。だからこそ、元々浮気をするような彼ではなかったのを知っているし、本当に弾みの一夜限りの事なんだって分かっていたけど、許せないから一緒にいれない、と彼を手放した。許していたけど、そういう設定にせざるおえなかったのだ。お互い、最終的には恋人として好きではなくなってしまったんだけれど、別れても、多分人類の中で一番好きな人だった。
今の彼の話に戻るけれど、彼もまた実は私とおんなじような状況で2年間連れ添った彼女と別れたばかりだったらしいのだ。きっと美容の学校で出逢ったのだろう。故に、彼とその元彼女の共通の友達は多い。美容学生時代のどの場面のどの話を切り取っても、彼らには通じるのだろうと思った。私と元彼のように。
昭和くんと私にしか分からないところはもちろんあるけれど、何度かしか遊んだことのない私と、元彼女とじゃ、思い出の数も天と地の差なのだ。もし張り合われたら折り合いあがつかないのである。そのことが、当たり前の事なのに何だかとても悔しくなってたまらなかった。
これは、恋をすると毎回思う事で。自分が人生の中心で物事が進んでいくというのに、私が好きになった彼は、私がいない所で、私の知らない人達と、私の知らない場所で、私の知る得る事のない思い出たちを淡々と作ってきた。逆も然りで、私も当然そうなのだけど、好きな人の知らない過去があるだけで、どうしても無性に悔しくなってしまう。誰と競うでも無いけれど、負けたくない、という気持ちに駆られてしまうのだ。というのは、人だけでなく場所にも同じことを思う。旅行先で行ったことのない場所に行った時に電車から見る風景。
私が存在していない場所でも、そこに存在して生活している人達が当たり前のように暮らしていて、私の知らない事を知っていて、私の知り得ない毎日を送っている。そういうものに限って、キラキラしていて綺麗に見えるのだ。そしてやっぱり、悔しくなる。綺麗だから、知りたくなる。
絶対にこの街の、知っておくべきことは知って帰りたい。知ってやろう。と、思うんです。
だから、彼のこれまでの全てが知りたくなってしまったし、彼もまた私と同じように私の知り得ない過去を思って悔しがりそして知りたくなって欲しいななんて、勝手に考えてしまっていました。
私のこのどうしようもない承認欲求が徐々に加速していると、我ながらに危険を感じていた。そんなある日のことだった。
流石に渋谷も飽きてきて、若干近しい「代々木」で待ち合わせてみることにした。
そこには、渋谷のような「居酒屋」「ハイボール199円!」「ハッピーアワー」という文字は全く見受けられなく、小洒落た横文字のやってるかやってないかのbarやビストロしか探し当てられなかった。渋谷に慣れてしまっている私たちにとってその場所は「背伸び」以外の何でもなかったと、思う。
どこのお店も、入り口がやや複雑そうだったり、常連客でやたら賑わっていたりと、背伸びするにもしきれない感じで何件も横を通り過ぎた。結構歩いた。この調子だといつまで経っても決まらない。次、良さそうなお店があったら絶対そこに入ろう!と、満を辞して入る事を決意。表明した2人。その決意もすぐに後悔することになる。ある路地に入る、路地を抜けるとまた少し大きい道路に出た。もう少し歩いたところに何やら賑わっているお店があるのが見えた。私達は何も言わず、その方向に歩を進めた。あるお店に到達した。
ここ何十分歩いてきた中で、一番小洒落ていて、中のカウンター席には常連客であろう人達が店員と親しげにお喋りをしている。冬だというのにテラス席まで完備されていて、中も外もほぼ満席状態。いわずもがな、彼も「良い店」と思ったはずだ。恐る恐る彼の方を見ると、私と同じ「さっき言ってしまったよね」という顔をしていた。
断られても、入れても、場違い感が否めなかった。
店員に聞くと、「今ちょうど空いたところなんですよ!」と、テラス席の端に通される。中の常連たちが若いカップルに見えているであろう私達に軽く微笑む。怖い。中の席じゃなくて良かった、と思う。
席に着くなり、どデカい看板メニューを手渡され困惑する。見慣れないカタカナ料理。何が何かも分からない。おまけに値段も書いてないので恐ろしい。それでも、彼も私もあたかも見慣れているかのように平然と何品か決める。もはや何が出てくるのか分からないので、これもこれで新しい楽しみ方だと思った。
まずは、何に対してのお祝いという訳でもないがとりあえずスパークリングワインを二杯注文した。その後は、お料理に合わせたワインを一杯ずつ持ってきてもらう事にした。出てくるお料理は格別。ワインと合わせると更に最高。これだけ混んでいる理由もすぐに納得がいった。だがしかし、一つだけ忘れてはいけない盲点があった。それは、店中のカウンター辺りを陣取っているあの怖い常連客達だ。そして、トイレはそのカウンターの真横に位置している事。
スパークリングワインを入れて4杯目の時点で、尿意が迫り来た。残るは、メインのみ。我慢しようと思えば難しくないぞ、と思っていたけれど、冬のテラス席で我慢できるはずもなく、私は席を立った。少しばかり小走りでカウンター前を通り過ぎ、無事に何もなくトイレの前まで到達。よしと思ってドアノブを捻る。あれ。
トイレには先約がいたのだった。それを見ていたすぐ横の常連客の中の一人が「今さっき入ったばっかだよ」と教えてくれた。私は吐息まじりに「あ」とだけ言い軽く会釈をして、一旦席に戻ろうとした。すると、さっきとはまた別の常連客の中の一人が、今度は目をギラギラしながら私に話しかける。それも少しオネエ口調の推測40代男性に。
しっかりとは見ていなかったから分からなかったが、こうまじまじ見ると常連客皆んななかなかいいキャラをしていた。オネエ口調の男性が「あんた、綺麗ね、最近いつセックスしたのよ」と聞いてきた時には、常連客一同私の顔を一斉に覗き込んで興味津々にその答えを待っていた。トイレが空いていなかったばっかりに。
質問をどう返そうと慌てていた時にちょうどトイレのドアが空いた。助かった。
注文を取り終わった店員がカウンターの方へ戻ってくると同時に、私に「もう〜ごめんなさいね」と謝ってきた。いえいえと笑いトイレの蓋を閉めるなり、「あの子可愛くって、つい〜」「若いって良いわねえ」なんて会話で盛り上がりを見せているのが聞こえた。私も私でその声を聞いてクスッと笑う。酔ってきているのか、あの変な会話も楽しかったなと感じた。だが今から彼の元へ戻るのだ、気張っていけ。と言わんばかりに鏡の前でクールな表情を作って見せた。よしっと呟き外に出る。
「さっきはごめんね〜」という彼らに私はまたもいえいえとクールに返す。
「あれ、彼氏?やだ〜男前ね」と言われ、スウっと通り過ぎようとしていた足が止まった。「いや!」と咄嗟に出てしまっていた。「え?」他の常連客もじゃあ一体何なのよという顔をしてこちらを見た。
テラスにいる彼を一度見た。ワイングラスに残っている少しばかりの液体を飲み切ろうとしていたところだった。
私はその隙に、みんなに近寄ってと両手で手招きし、「まだ、好きな人です、、」と小声で伝えた。彼らはそれを聞いて舞い上がり、「いいじゃないの」「お似合いよ」「頑張んなさいよ」などと繰り返し、応援してくれた。何だかこの間で少しばかり恐れていた常連客達とはすっかり仲良くなってしまった。あまりに盛りあがってしまったもので、その声がガラスのすぐ向こうにいる彼まで届きそうで、すかさず「しーーーっ」とやった。何だか小学校にでも戻った気分だった。お酒をのんでる大人達の知能レベルはもはや小学生同様なのだ。
きっとうまくいきわよ、とみんなに背中を押され余っていたワイングラスにボトルの残りを注ぎ込んで渡してくれた。私はそれをクイっと飲んだ。普段のんでいる赤ワインとはまるでタンニンが違くて驚いた。常連様達にお礼を言ってようやく席に戻った。少しばかり待たせてしまった、彼に謝る。なんで謝るのと言わんばかりに、「楽しそうだったね、ああやって人と話して笑顔になるって素敵な事だよね」とニコニコしながら彼は言った。不機嫌どころか、さっきよりも上機嫌になっている彼を見て、ああ、そうやって人が楽しそうなところを見て自分も楽しい気分になれる人なんだなあと思った。そう思って同時に、私が泣いた時なんかには一緒に泣いてくれもしそうだなと、勝手に感じて勝手に嬉しくなった。
会計が終わり、店を出る。暖かくていいお店だったねと話す。何かの記念日並みのフルコースとワインとそれに見合ったお会計だったねと笑いあうわたし達。次は何かの記念日に来ようね、とサラリと言う彼に、無責任な人だなあと思って少しばかりムカついてしまったけれど、その感情もワインで染めた赤いほっぺがかき消してくれた。
酔い覚ましに馴染みの場所まで歩く事にした。ここら辺の地形は大して詳しくもないのに、何も調べず歩いて行く。それもそのはず、ここらで一番明るいビルが密集している場所を目指せば、私達のいつもの場に辿り着けると分かっていたからだ。私達はハエの如くに光の多い場所へ吸い寄せられるように歩いて行った。
彼といるとよく歩く。一人で歩いて長いと感じる道も彼と歩けば秒速のように感じられた。
好きだから付き合うとか、
そういう形あるものを求めているんじゃない。
こういうどうしようもなく、たわいもない彼との夜道での会話。この秒速で過ぎゆく些細な時間こそが、今私が一番求めているものなんだと気づかされたのだった。