7 蘇る記憶・アリア視点
「う、うぅ……」
アリアは家の中でうずくまるようにして泣いていた。先程から外では化け物の咆吼や地面が抉れるような音が響いている。音だけで外で何が起きているのかは分からない。それだけで否応なくアリアの不安はかき立てられた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。私がグランさんのことを止めていれば、あの化け物を刺激せずに何事もなく過ごせていたかもしれない。私のせいだ。
その時、一際大きい嫌な音がアリアの耳に届いた。そしてそのすぐ後に、グランの断末魔が聞こえてくる。それを聞いた瞬間、アリアは耳を塞いで床に蹲った。
もう耐えられない。この現実を受け入れることを脳が拒否している。いっそのことこのまま意識を失ってしまいたい。だが、アリアはそれができないことを理解していた。
今ここで気絶してしまったら、きっと次に目覚めた時には全てが手遅れになっているに違いない。だからアリアは恐怖と戦わなければならなかった。そして震える足を奮い立たせながら、玄関に向かった。
玄関の扉に手をかけて家の外に早く出ようと焦りながら力を込める。しかしその扉は押しても引いてもビクともしない。
「うそ……。開かない」
アリアは絶望する。しかし焦りのあまり今までになく頭を働かせた彼女は次の脱出口の目星をつけて二階へ向かった。階段を駆け上がり、廊下を進んで突き当たりにある部屋の前に立つ。
その部屋の中に入って、開けたままにしてあった窓から躊躇わずに身を乗り出した。アリアは窓枠に足をかける。その瞬間、アリアは地面に落下した。
「きゃあっ!!」
幸いにも柔らかい土の上だったため、大怪我をすることはなかった。それよりも大きな声を出してしまったせいで、位置がバレていないか不安で周りを見渡す。すると、少し離れた所にあの恐ろしい姿が見えた。向こうもこちらを見ていて、ゆっくりと近寄ってくる。
早く逃げなければいけないとこの場から逃げだそうとするが、着地の衝撃で足首をひねってしまったのか、動こうとすると鋭い痛みを感じた。しかしここでグズグズしていては自分も殺されてしまう、という恐怖から痛みは無視して動き出す。立ち上がるのにも痛みが走るが、アリアは足の痛みには構わずに走り出した。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
化け物が追いかけてきているのかどうか、後ろを振り返る余裕はない。けれど確実に近づいてきているのが分かる。
「ガルルルルッ!!」
後ろの方で竜が吠えた。その声でまた少し距離が縮まったことが分かる。
怖い、死にたくない。アリアは泣きそうになりながらも必死に走った。しかしとうとう限界が来て、膝が折れてその場に倒れ込む。そしてすぐに竜が追いついた。
「グルルルルッ!!」
竜は嬉しそうに喉を鳴らした。
「ひっ……」
アリアは怯えるが、竜はそんなことはお構いなしといった様子で顔を近づけてくる。
「グルルルッ!!」
早くもっと早く、遠くに逃げなくちゃ死んでしまう。でもこれ以上は走れない。息が切れて苦しくてしょうがなかった。ここから逃げられる方法は何かないかと祈るような気持ちで、足を一歩前に踏み出す。そして地面を蹴り上げた瞬間、アリアの身体はふわりと浮かんだ。
驚く間もなくどんどんと空高く上がっていく身体。下を見ると、地面がどんどん遠ざかっていく。そして今まで追いかけられていた化け物の姿もはっきりと目に映る。
そこにいたのは紛れもなく、アリアが唯一愛している夫、フレイだった。
(どうして彼がここに? それより私はどうしてこんな必死に逃げているの?)
次々と疑問が頭に浮かんだが、今はとにかくフレイの方へ行こうと、彼に向かって声を上げようとする。しかしアリアの口から出てくるのはうなり声だけだ。けれど何もおかしなことはない。アリア自身も竜人なのだから当然のことだ。
(そうだ。私は竜人だった。)
そんな当たり前すぎることを、何故か先程までのアリアは忘れていた。けれど今、ようやく思い出すことができたのだ。
しかし安心したのも束の間、アリアの身体はふと違和感を覚えた。何だろうと思う暇もなく、浮力を失って身体ごと落ちていく。きっと人間の姿にまた戻ってしまったのだ。今度こそ本当の死を覚悟した瞬間、すぐに固いものの上に落ちた。少しの高さだったのでそこまで痛みはないが、地面にしては着地するのが早すぎる。
そしてよくよく見てみると、アリアが着地したのはフレイの体表だった。恐らく背中の辺りに乗せられているのだろう。
「助けに来てくれたの? ありがとう……」
「グルル……」
アリアの言葉に応えるように、フレイは優しく鳴く。ほんの少し前までは恐怖するしかなかったその鳴き声も、可愛らしく思えてくる。
「ねぇ、お願いがあるの。私を降ろしてくれる?」
「グルゥ……」
少し迷う素振りを見せた後、フレイはゆっくりと地上に降り立った。アリアは急いでフレイから降りようとしたが、まだ足が痛んで上手く歩けない。すると、フレイの背中についていた手からゴツゴツザラザラとした感覚がなくなった。それと同時に、誰かに身体ごと抱えられる。
「足、怪我、したのか……?」
久しぶりに聞くフレイの声に聞き惚れながら返事をする。
「うん……。ごめんなさい」
「……足は、使わない方がいい。俺が、抱えて、帰る」
「分かった。ありがとう」
アリアは大人しく従い、フレイに抱き上げられた。少しの間があってからフレイの身体は、また竜の姿に戻っていく。そして家に帰るまで、アリアはずっとフレイの首に腕を回していた。
***
「アリア……?」
「なあに」
「俺が、怖かった、のか……?」
久しぶりの我が家に帰ってきてすぐ、フレイが眉をひそめながらそう尋ねてきた。
「どうしてそう思うの?」
「最初、迎えに、行ったとき……。アリア、怯えてた……」
「それは……」
アリアは、彼についての記憶を無くしていたことを自分の分かっている範囲で話した。グランという男のことも一緒に伝える。
「じゃあ、お前は、もう、大丈夫なのか……?」
「もちろん。フレイのことはしっかり思い出せたしね」
「そうか……」
そう言って彼は安心したような表情を浮かべる。そしてアリアの方を見て言った。
「アリア……」
「どうしたの?」
「もう……、外には、出ないでくれ……」
「……どうして?」
「人間は、危ない……」
フレイは悲しげに目を伏せ、小さく呟いた。そして続けて言う。
「あいつらは、竜人を、殺そうと、する……」
確かに竜人は人間にとって脅威的な存在であり、恐れられている存在でもある。だからといって、そんな理由で引きこもり続けるわけにもいかない。
「でも……竜人の国の中だったらいいでしょ? 人間はいないんだし――」
「頼む……」
アリアが反論しようとすると、フレイは切実そうな声で遮ってきた。そして更に言葉を続ける。
「俺は、アリアを、失いたくないんだ……」
「フレイ……」
フレイは、いつの間にかアリアが外に出ることを恐れるほどまでに、アリアのことを想ってくれていたようだ。それが嬉しくないはずがない。それに彼女は、彼の気持ちが痛いほど分かった。きっと逆の立場でも同じ事を言う気がする。
「……分かった。それでフレイが安心できるなら外には出ないよ」
「ありがと、う……」
フレイはほっと息をついた。そしてすぐに口を開く。
「今日は、もう寝よう……」
「そうだね。おやすみ、フレイ」
そう言って、寝室に向かおうとするアリアの後をフレイはくっついて歩いた。
「? フレイ、こっちは寝室だよ。玄関はあっち」
「……今日は、一緒に寝たい」
フレイは子どものようにアリアを見つめてくる。その様子はとても愛らしいのだが、さすがに同じベッドでは狭い。
「でも、ベッド狭くなるよ? それでもいいの?」
「構わない……」
「寝てる間に、竜の姿に戻ったらどうするの?」
「大丈夫だ……」
フレイは、絶対に譲らない様子だ。
「分かった。竜の姿になって潰さないでね?」
「ああ……」
アリアは折れて、共に寝室に向かった。そしてベッドの上に隣り合って横たわると、当然ながらいつもより狭く感じた。けれど、どこか安心感に包まれるような心地だ。
そして考える。これから先、自分たちがどうなっていくのかを。
このままこの家で閉じこもって二人きりで生涯を終えるのかもしれないし、もしかしたら自由に外に出られる日が来るかもしれない。未来のことは分からないが、それでも今はフレイの心が癒えるまで気長に待っていようと、アリアはひっそりと心に誓うのだった。