6 彼の未練・グラン視点
街道から森へと入る道をまっすぐ歩きながら、グランはアリアのことを考えていた。彼女を家に一人にして本当によかったのかと、街に行ってからもずっと不安で頭が埋め尽くされていた。けれど、そろそろ街に行って必要な食料などを蓄えておく必要がある。いくら人嫌いで森に隠れ住んでいたとしても、人間の社会と全くの無縁ではいられないのだ。
こんなことなら、アリアがやって来る前に街へ買い出しに行っておけばよかったと街にいる間ずっと後悔していた。こうなったら早く家に帰ろうと歩幅を大きくして、足を交互に忙しなく動かしていく。そして、家の近くまでやって来たとき、後悔はさらに大きいものになった。
この森に移り住んでから、いつも見ていた風景は見るも無残に変わっていた。家の前に生えていた木は全て根元から折られていて、明らかになにか大きい生き物がいたと分かるくらいの跡が残っている。それを見た瞬間、グランは咄嗟に家の中にいるであろうアリアの元に向かった。
「アリア! 大丈夫かい?」
彼が血相を変えてアリアの元へ駆けつけると、彼女は台所の隅に座り込んでいた。
「はい……」
「怪我はない? どこも痛くないかな」
「大丈夫です」
「良かった……」
アリアが無事だと分かってとりあえずは安心したが、自分がいない間に何があったのか心配になってグランは彼女に尋ねた。
「一体、僕がいない間に何があったんだい? 家の前の木がなぎ倒されていて驚いたよ」
「実は……」
アリアはグランに一部始終を話した。話を聞き終えたグランは、険しい表情を浮かべた。
「なるほど……。そんなことがあったんだね」
「はい。私、とても怖くて。近くにまだいたらどうしようかと……」
「……大丈夫、僕がすぐに外の様子を確認しに行くよ。でも、とりあえずこの家を壊されなくて良かった」
グランは彼女を安心させるための言葉を吐いた。本当はこの場所で何が起きたのか、何がここにやって来たのか検討は付いている。きっとアリアの夫である竜人だ。アリアが喋ったその化け物の特徴は本で見たことのある竜の姿と一致している。
竜人の番同士は互いに強い絆で結ばれていると聞くので、なかなか戻ってこない妻を心配するあまり迎えにでも来たのだろう。けれど、アリアの夫は妻に忘れ去られていたことに怒り狂って、この辺り一帯を破壊しつくしたに違いない。
グランはため息をつく。竜人だから仕方ないとはいえ、アリアに番が存在しているというのは、全く面白くない。いっそのこと彼女の夫を殺してしまおうかと思い至った。実はこう考えたのは今回が初めてではない。これまでも何度かそう思ったことがあった。
しかし、接触が難しいこともあって、放置していたのだ。けれど、今の状況は違う。もしかしたら、番のことを諦め切れずにこの辺りをうろついているかもしれない。グランが最初で最後のチャンスだと考えつくには仕方のない状況だった。
「……アリア、君はしばらくこの家から出ない方がいい。またいつあの怪物が来るか分からないからね」
「はい……」
「君が怖い思いをするのは辛いけど、あの怪物がまた来るかもしれない以上仕方がない。僕はこれから外の様子を確認してくるから、アリアはここで待っていてね」
「分かりました」
「……じゃあね」
グランはアリアが震えているのを見て心を痛めた。同時に彼女の夫を早く始末しなければいけないとも考える。そして彼は家の外に出た。
***
その巨体は思ったよりも早く見つかった。今は地面に蹲っているようだが、木々の高さは余裕で追い越しているため、森の中では非常に目立っている。
赤黒い岩石のような身体はピクリとも動かず、まるで死んでいるかのように見えた。だが、その身体からは強烈な威圧感が放たれており、ただじっとしているだけで周囲の空気を支配してしまうほどの力を持っている。
アリアの竜の姿とはまた違って、野生の本物の竜なのではないかと思ってしまう程だった。
「グゥウ……」
しばらくその姿を見つめていると気配に気がついたのか竜が顔を上げた。その瞳は赤く、炎のように揺らめいて見える。そして、それは真っ直ぐにこちらに向けられていた。
グランは一瞬、恐怖で足がすくむ。けれど、なんとか気を取り直して杖を強く握りしめた。そして、覚悟を決めて口を開く。
「聞け! 竜よ!」
「グルルルルッッ!!」
次の瞬間、グランに向かって巨大な火球が飛んでくる。グランはそれを間一髪で避ける。地面が溶ける音が耳に届いた。
「ふん……。話し合いの余地はないということか」
グランは思わず歯噛みする。相手は会話ができない程の知性しか持っていないのだろうか。いや、きっとそんなことはないはずだとグランは思う。恐らく、目の前にいるこの竜人は自分のつがいであるはずの女が自分のことを忘れているのが許せないだけだ。
けれどここにいるのは本物の竜で、アリアとは無関係の存在だという可能性も否定できない。もしそうだとしたら、罪のない竜を殺してしまうことになる。
「まあいい。とりあえずはお前を退治させてもらおうか。アリアのためだ」
グランは相手の隙を見て魔法を使った。けれど竜は何食わぬ顔でその魔法を受け止め、そして何事も無かったかのように吠え始めた。「ガァアアッ!!!」
「なっ……」
グランは魔法が効かなかったことに驚き、言葉を失う。そして、竜の攻撃を避けるのに精一杯だった。
「くそ……」
「ガルル……」
「このままではまずいな……」
グランは焦り始める。竜の攻撃を何度も避け続けているうちに、体力の限界が迫ってきていた。魔法使いにとっては体力の育成など、どうでも良いことだった。そのため、普段から碌な運動もしていない。それに、自分の体力のなさは自分が一番理解している。グランは攻撃を避けながら、どうやってこの場を切り抜けるべきか必死に考え続ける。けれど、いくら考えても名案は思い浮かばなかった。
「はぁ……、はぁ……」
ついにグランは膝をつく。そして、それを見逃さなかった竜がグランに襲いかかった。
「っ!」
グランは咄嗟に魔法でバリアを張った。どうせ無意味だと分かりつつも、身体が思わずそうしていたのだ。
竜はそんなことなど気にせず、グランに向けて爪を振り下ろす。グランは死を覚悟して目を瞑った。しかし、竜の鋭い鉤爪がグランの身体を貫くことはなかった。
その代わりに、何かを強く弾き飛ばしたような音と感覚が伝わってくる。なんとあのバリアがまともに機能したらしい。それならと魔法でバリアを作ったままの状態で竜に近づいてみる。すると、竜は驚いたように後ろへ下がった。
「グルルルッ!!」
「逃げるんじゃない。お前にはここで死んでもらう」
「グアウッ!! ガウゥッ!!」
逃げの姿勢に入っていたかに思われた竜は突然騒ぎ出した。
「なんだ?」
「グオォオッ!!!」
竜がそう叫んだ瞬間、竜の周りに炎の渦が巻き起こった。
「なっ……!?」
グランは慌てて後ろに下がる。魔力の供給がその瞬間途切れてしまい、展開していたバリアが消えた。しまったと思い、少しでも炎から逃れようと身をよじると、その炎はすぐに消えた。そのことに少し安堵して体勢を立て直そうとしたその時。目の前には絶壁がそびえるように赤い竜が立っていた。
慌てて攻撃魔法を使って抵抗するが、先程と同じで全く効かなかった。その間にもどんどんと竜の顔は近づいてきて、そして――。
「ご、め……。守れ、なか――」
竜の凶悪な牙と顎の力によってグランの身体は見るも無惨な姿となり、そして唯一の未練の呟きと共にこの世を去った。家族もいない彼の死は、永久に誰にも知られることもなく森の中の一部となって終わっていくのだ。