雨朝
西暦二○一九年六月七日朝七時四十五分、iPhoneの予め設定していたアラームで政二は目を覚ますのであった。一日の中で最もストレスが瞬時にピークに達する最高に嫌なひとときである。とりあえずiPhoneを開き、インスタグラムをチェックする。いつも昨日寝る前に見ていた頃より更新されていないのが大抵であったが、何気なしに一応チェックするのが政二のいつもの習慣であった。さて、家を出るまであと二十分近くあるから、インスタグラムのフォロー欄からお気に入りの、はて通算何回我が性器の餌となったであろうか、隣の二年三組の伊藤彩香の耳と首筋が、政二お気に入りの画角で写った写真をスクリーンショットで保存し、ズームして"モーニングショット"と自ら名付けた自慰行為に及ぶのであった。スティーブ・ジョブス様様である。しかしながら、この自慰行為は自身の性的快感の為、というよりかは、布団を脱出するのが非常に怠いがゆえに、半ば惰性化している習慣であり、それはあたかも社会に出たくない大学四年生が、"もっと勉強する必要がある"などと称し、日本国憲法に記された労働と納税の義務を逃れるがため、同大学院に進学するなどという愚行を平気で行うポンコツ大学生の有様によく近似しており、全く意味のなさないものである。したがって精液も雀の涙しか放出せず、その勢いも極めて軟弱なものであるから、性的快感より、朝っぱらから自身の手を汚しパンツを汚物同然のものとするがための不快感の方が、一層勝つ。
はて、枕元に常備してあったティッシュ三枚ほどで体液を清掃したあとは、すぐさまトイレに駆け込み、夜中溜めておいた尿を勢いよく放出する。父親が用意したいつものスクランブルエッグとウインナーを温め、六枚切りの食パンをトースタで焼いたあとは、机に座りニコニコ動画でいつもの動画を再生しておき、待機する。コメントは低能の動物が書いているため、常時オフにしている。今日のスクランブルエッグはいつもよりしょっぱかった。
令和時代に時代錯誤の学ランに自慰行為後の性器を包んだパンツのまま着替えた政二は、学校というよりかは、駄菓子屋にまず急ぐ。
「おう。」
小学校からの友人、聖誠と合致。
「今日部活ある?」
「うん。」
「中上先生て、厳しいん。」
「そんなやで。政二と相性良いと思うけどな。」
「ないない。体育会系とは合わんで。でも陸上は可愛い子ばっかでええなあ。俺んとこなんか、女子一人もおらんねんで。ホンマ羨ましいわあ」
小雨が二人の会話の心地よいBGMになり、政二はいつもより落ちついて学校へ向かう。
「テスト期間なったらあそぼな」
雨の日独特の匂いがする下駄箱で上靴に履き替え、聖誠と二人でテクテク階段を上り教室へ向かう。政二は三階の二年一組、聖誠は四回の二年五組。どちらもクラスの中でそれほど目立つ存在ではなかったが、ある種クラスという閉鎖社会の中で一定のキャラを確立しており、それほど居心地の悪い場所ではなかった。むしろ小学校から一緒の、学年で一番幅をきかしている竹中龍太郎と同じグループに属していたため、彼らに忖度する奴もいた。しかし、どちらも大人しくいじられキャラなので、異性から恋愛対象に積極的に入り込むような存在ではなく、特に政二に関しては、その変態的な面と、気持ちの悪い笑顔が要因で、一定の距離を保つ女子の方が多かった。
「こにーおはよー!」
聖誠(本名:小西聖誠といった)のクラスメイトであり、同じ陸上部である、佐藤沙耶香だ。政二のトップスリーに入るお気に入りのオカズである。身長は一六○センチメートルぐらいで、体重は四十キログラム後半ぐらいであろうか、その長いスラリとした、しかし太腿には程よく肉がついた、柔軟剤のいい香りがしそうな白いソックスに包まれた踝から殿部までの造形は見事と評するしか他ない、芸術的でさえある。小学校高学年の時は、水泳の時間に彼女のスクール水着を足先から頭頂部まで後ろから視姦し、家で盛大に自慰行為に及んだのはそう遠くない過去である。あぁ、後ろからその発達段階にある胸をエロティスティックな手つきで愛撫して、耳を舐めたい。絶対いい匂いするやん?その耳たぶの肉付きを舌でたっぷり味わいたい。どんなに気持ちのいいことだろうか。耳を十分に舐めたあとは首筋に移行するのは政二の中では鉄板中の鉄板であるから、言うまでもない。首筋を政二人に舐められる沙耶香の顔面を想像するだけで、陰茎がニョキニョキと肥大するのであった。それに要する時間はわずか一秒で十分である。
「おう。」
無愛想に返事を返した聖誠と踊り場で別れた政二は、一組の真ん中後方二列目右方座席に着席した。
政二が所属する榊原市立第一中学校(通称一中)二年一組は、校舎三階の一番奥に教室を控えている。昭和四十年代から続くボロ校舎であったがため、校内は暗く、ましては今日は雨であったから、一層、世紀末感が漂う。クラスの人数は三十六人で、政二(本名:有吉政二という)は慣例通り出席番号一番であった。席に着いた政二は、少しあたりを確認しつつ、今朝急いでエナメルバッグの中に入れた教科書を机の中にしまう。一息ついていたら、視界の真下に腕が勢いよく入り込み、首がやや強い強度で圧迫される。その学ランから臭う独特な香り、思春期の十三歳〜十五歳の男子特有の臭いで、すぐさまこのスリーパーホールドの犯人は中一から同じクラスの佐々木健太だと判明する。
「なんやなんや。」
「イカ臭えーーーーー!!」
「は?笑、訳わからんし、声でかいわ」
「朝からぶっ放すとは、有吉はさすがやな」
佐々木健太はみんなからササケンの愛称で皆んなに親しまれていたが、政二が苦手とする若干の体育会系、この場合、あからさまな完全な体育会系(運動部のエース、主将など)は政二には然程問題にならないのだが、佐々木健太のようなサッカー部でいつまで経ってもベンチの席に居座ってそうな、拗らせた体育会系の男は政二にとって大の苦手であった。政二と同じく若干疎ましく思ってそうな、クラスメイトも数人確認済みである。しかし、朝っぱらから教室内に十分響き渡る声量でイカ臭いと言われて、政二も泣く泣く黙っているわけにはいかない。
「あ、ササケン、昨日の石原さとみのインスタライブみてたやろ?」
「見てない」
「嘘つけや、石原さとみに、ムラムラする時はいつですか、とか、質問してたやん笑」
「は?笑、してへんわボケ、殺すぞ」
「ムッツリスケベ乙〜〜www」
「殺す」
そう言って、また下手なプロレス技を政二に仕掛けて、揉み合いになるのだった。一番奥の掃除箱付近で駄弁っていた大人しいグループの女子達は、こちらの方をチラチラ見ながらクスクス笑っていた。あぁ、めんどくせぇ、佐々木死ねや、と心底思っていた政二だが、女子がこちらに気を掛けているとわかれば、一転、何か存在を認められたような気がして、少しばかり心が弾むような心持ちになる。政二は至って純粋な男子であった。そう、朝っぱらからモーニングショットを決め、且つまともにパンツの中の掃除もせず登校し、陸上部のマドンナに階段で出会っただけでわずか数秒で妄想で犯す社会人であれば健常者の一歩手前を行くような有様の男だが、畢竟、彼はまだ若干十四歳の少年である。まだ、他人を蹴落として自分はのし上がるといった、日本社会で往々にして観察されるグロテスクな競争など微塵も知らない少年である。思春期の男子特有の自分という存在を異性に誇示する欲求は、彼の心の中にはっきりと認められていた。むしろ自分という存在が多くの男性から性的対象と見られることに、早くから敏感に察知している同年代の女子と比べれば、政二は一回りばかり、精神年齢という面で、彼女らに劣るのであった。ササケンも同様である。
「キーン、コーン、カーン、コーン・・・キーン、コーン、カーン、コーン・・・」
午前八時四十分、担任教師の新谷がドアを勢いよく開けて、おはよう、と今までの人生、五十年ばかりであろうか、蓄積された辛苦と、今日も1日頑張るか、と言った微妙な意気込みが、絶妙なバランスで混ざった、何とも言えない、が、もう十分聞き慣れた低声で、教壇にある出席簿に目をやりながら、体育教官特有の威勢が良い姿勢で、堂々と入室するのであった。
「はい着席。」
「おい、中野!黒板消せや!、何しとんねん」
などと、朝っぱらからうるさい声で、しかし決して耳障りではない、低声で教室内の士気を一変させる。
「はい、出席。有吉!」
「はい」
政二は怠めの声で返事する。
「池野・・・上田・・・大崎・・・加藤・・・・・・・」
窓に打ち付けられた水滴を眺めながら、新谷の出席確認を聞き流すのであった。