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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

みとがわ発零時四十二分

作者: 御剣多聞

1 終電


 流啓人ナガレケイトが、その駅を初めて見たのは一月ほど前のことだった。

 それは、朝の通勤途中のことだった。

 いつもなら、余裕で座れるはずの電車が、人身事故の影響でいつになく混んでいたために、啓人は乗降口にへばりつくようにして立っていた。

 幸い、彼の立っている側のドアは、目的の駅までは開くことはない。彼は、現実から逃避するようにぼんやりと車窓を流れる風景を眺めていた。

 乗車して二十分が過ぎたころ、電車は郊外の人家のまばらな田園地帯に差し掛かっていた。

 だんだん視界が開けると、啓人は、五十メートルほど先に、並行して延びる別の路線があることに気付いた。

 最近、この地方の支社に転勤してきた啓人はこの辺りの地理にはウトく、果たしてそれが本当に別の路線なのかどうかさえ定かではなかった。

 ただ、こちらの線路とあちら側のそれとの間に延々と続く古びたフェンスがあることで、別の路線が並行して走っていると判断したのだった。

 十分程、漫然とフェンスの向こうの線路を眺めていた啓人は、その寂れた駅に気が付いた。

 彼の乗る快速電車の速度が速く、駅はあっという間に車窓を通り過ぎたが、通勤時間にもかかわらずホームに全く人影はなかった。

 啓人は駅の寂れた様子から、勝手にその路線を廃線と決め込んで、いつしか記憶からも消えてしまっていた。

 ところが十日ほど前の週末、啓人は再びその駅を見かけることになった。

 その日、自らの歓迎会で三軒の飲屋をはしごして、したたかに酔った啓人は、降りる駅を乗り過ごすことを恐れて、敢えて座らずに空いた電車の乗降口付近に立っていた。

 彼の乗る最終電車が自宅の最寄駅に着くのは、午前一時頃のはずだった。

 腕時計は零時四十分を指している。後二十分の辛抱だと思った時、啓人は、真っ暗な窓外に煌々(コウコウ)と輝く灯りを見つけた。

 電車が近づくと、それが駅であることがわかった。その時不意に啓人の脳裏に二十日ほど前に見たあの寂れた駅が浮かんだ。

 いつも乗る快速電車と違って、今夜は速度の遅い普通電車に乗り合わせたために、この前よりは駅の様子が詳しく観察できる。

 廃線だと思い込んでいたが、ホームには二両編成の電車が停車していたし、中には数名の乗客がいるのが見て取れる。

 あんな寂れた駅によくこんな遅い時間まで電車が走っているなと思った時、乗客の一人がこちらをじっと見つめていることに気付いた。

 背丈や身なりからして小学生くらいの男の子だろうと見当はついたが、さすがに距離があるので表情まではウカガい知れない。

 学習塾の帰りかもと推測したが、同年代の自分の子供を思い浮かべて、この深夜に一人で電車に乗せる親の神経を疑うななどと考えていると、その子が小さく手を振るのが見えた。

 その瞬間、啓人は耐え難い悪寒に襲われて、その場にうずくまった。嘔吐するのではと疑った近くの客が慌てて、傍を離れる。

 啓人が数秒後になんとか立ち上がると、視界の端に先ほどの駅を発車する電車が見えた。

 それは、彼の乗る電車の進行方向とは逆方向へと走り出した。

 みるみるうちに距離が開き、電車も駅も啓人の視界から闇の中へと消えて行った。

 月曜日出社するなり、啓人は、支社勤務の長い同僚や先輩にその駅のことを訪ねてみたが、皆、怪訝ケゲンそうな顔で首を横に振るばかりだった。

 昼休み、啓人が社員食堂で一人で定食を食べていると、この地方出身の再雇用の六十半ばの男が傍に寄ってきて聞いた。

 「ここいいかな?」

 男は、啓人がうなづくより早く、うどんの入ったどんぶりをテーブルに置くと、隣に座った。

 「あんた。さっき、妙な駅の話してたよね?」

 男がうどんをズルズルとすすりながら言った。

 「ええ!川堀さん、何かご存知なんですか?」

 川堀と呼ばれた男が、やせぎすの狡猾コウカツそうな顔で啓人をチラッと見ると、うどんの方に視線を戻して言った。

 「まあね。地元だし、いろいろとね・・・・」

 「もったいぶらずに、教えてくださいよ。」

 啓人は、下手に出て頼んでみる。

 「あんまり、いい話でもないしね・・・・」

 「余計に気になるじゃないですか。別に気にしませんから」

 川堀が内心、話したくてうずうずしていると踏んだ啓人は、水を向けてみる。案の定、川堀は問わず語りに話し始めた。

 「俺も聞いた話だよ。地元の知り合いにさ。三、四人かな。その駅を見たって言ってたのは。

 今、九号埋立地って呼んでるところ知ってる?

 そう、知ってるんだ。あそこさ、昔は大きな軍需工場があってね。そこから、陸軍の基地まで鉄道が引かれてたんだよ。今、市立博物館になってるところに基地があったんだけどね。

 距離にしたら七、八キロぐらいかな。当時は軍の専用鉄道だったらしいんだけど、戦後、市が管理してる市電みたいなのが走っててさ。

 市内から、軍需工場の焼け跡に建った自動車工場に働きに行く人達の足になってたんだ。

 昭和五七年だっけなあ。俺がこの会社で働きだしてちょっとしてから、その工場が移転になって、すぐに鉄道も廃線になっちまってね。

 確か、始発駅と終着駅の間に駅が一つだけあって・・・・みとがわ・・とか言ったなあ。」

 「廃線になったのに、なぜ、電車走ってたんですか?」

 啓人が、不審げに口を挟むのを、川堀は、手で制しながら先を続けた。

 「まあ、慌てない。ここからがこの話の肝心なところだからさ。

 廃線になってから、しばらくすると妙な噂が出てね。都市伝説っていうの?真夜中に走ってるはずのない電車が走ってるのを見たとかなんとか。

 それについては、問い合わせの多さに驚いた市の方から国鉄、あ!今のJRね。に貨物用の軌道として貸してるって正式な通知が出て一件落着したんだけどね。

 でも、やっぱり、怪しげな噂は消えなくて。この市に住んで長い奴なら、何かしらあの廃線についての噂を聞いたことのない奴はいないと思うよ。

 ほとんどの奴は、そんな噂は信じてなくてさ。何ていうのか。あいさつ代わりみたいな感じでさ。

 俺も、当然、そんな噂を信じてた訳じゃないんだけど、ここんとこ四、五年の間かな。みとがわ駅に電車が停まってるのを見たって話しをよく耳にするようになってね。

 それも、真夜中に貨物じゃなくて客車を見たって話しでさ。俺も直接、知り合いや友達から聞いたしね。どいつも真面目な奴で、とても、俺をカツごうとかするタイプの奴じゃないから、こっちも、頭から否定できなくてね。

 それが、今朝、全くおんなじ話をあんたがしてるから、ちょっと気になってね。思わず声をかけちっまたってわけなんだ。」

 「じゃあ、川堀さんの友達や知り合いの人も俺と同じ駅や電車を見てるってことですね?」

 川堀が黙ってうなづくのを見て、啓人は思い切って頼みごとをすることにした。

 「めんどくさいこと頼んで恐縮なんですけど、是非とも、その人達に会わせてもらえませんか?」

 「いやー、悪いけどそりゃあ無理な話だよ。」

 あまりにも、あっさりと断られたことで絶句している啓人に向かって、川堀がかぶせるように言った。

 「みんな、死んじまってるからね・・・・・」



2 足止め


 啓人の乗った電車が突然の豪雨の影響によって、その駅で運転取止めとなったのは、長男のアキラを連れての二泊三日の登山から帰宅途中だった。

 啓人は、人影のまばらなホームの椅子に朗と並んで座っていた。その椅子は今時珍しく木製の背中合わせの長いベンチだった。

 背もたれが高いので、反対側に座っている人がいるのかどうかは定かではないが、こちら側には彼等だけだったので、隣には自分の四十五リットル入りのリュックと朗の十五リットル入りのリュックが無造作に投げ出してあった。

 午後十時半を過ぎ、まだ小学四年生の朗は、さすがに眠そうな目をしている。

 運転取止めになってから三十分は経つというのに、駅のアナウンスは沈黙したままだった。

 啓人が朗を連れて久しぶりに本格的に登山をしようと思い立ったのは、まとまった休みが取れたこともあったが、朗の十歳の誕生日を特別なものにしてあげたいと考えたからだった。

 ハイキング程度の経験はあるものの、本格的な登山は初めての朗は、見るもの聞くもの全てが新鮮な驚きに満ちた経験だったらしく、啓人の思惑通りに特別な誕生日となったようだった。

 二回の流産を経て、やっと二人目を身ごもった妻が実家に里帰りしていることもあって、最近寂しげな様子だった朗もこの経験で、気のせいか、少し大人になったように啓人は感じていた。

 このまま、普通に帰宅できていたら、完璧だったのにと考えると啓人は、鉄道会社の対応の遅さに苛立ちを覚えるのだった。

 明日は二人とも休日で、仕事や学校に支障が出ることはないというものの、自分も朗も山小屋の雑魚寝に近い状況で二晩過ごしているだけに疲れを意識せずにはいられなかった。

 「電車が復旧しないようなら、駅前でタクシーでも拾って帰ろうか?ついでにラーメンでも食うのはどうだ。」

 啓人がそう言うと、朗は急に元気を取り戻したように明るい声で言った。

 「それ、大賛成!でも、こんな時間にラーメン屋さん開いてるかなあ?」

 「開いてるよ。この時間からがラーメン屋さんの忙しい時間だからね。」

 「へーそうなんだ。でもさ、パパ、タクシーなんか乗ったらまたママに叱られるよ。」

 「大丈夫だよ。だって今ママいないし。」

 「あ、そうだったね。じゃあ安心だ。ところで、ここ、なんて駅?」

 「・・・・・・・・あれ。そういやなんて駅だっけ。」

 その時になって啓人は初めて、自分達が足止めされた駅の名前を聞き逃したことに気付いた。

 疲れてるなーと苦笑しながら、駅名の表示を探す。

 よく見ると、ずいぶんと古い駅のようだった。いつも見慣れた電光掲示板もなければ、天井から吊るされた表示灯もない。

 啓人は仕方なく、立ち上がると、ホームにあるはずの駅名を書いた看板を探して辺りを見回した。

 それは、彼らの座るベンチから二十メートルほど離れた位置にあった。

 丈の低い植え込みの後ろに白ペンキで塗られた木製の看板があるようだが、啓人の位置からは、角度的に駅名が読み取れない。

 彼は仕方なく、看板の方へと歩き出した。今頃になって、足腰が筋肉痛で悲鳴を上げ始めていた。

 ホームは一つしかなく、端の方は屋根でオオわれておらず、いかにもローカル線の古ぼけた駅といった風情である。

 少しベンチを離れて振り返ると、自分達親子の反対側に、登山の恰好をした中年夫婦らしき二人連れと女子高生が座っているのが見えた。

 さらにその先に同じようなベンチと駅舎が見え、駅舎の待合室らしき辺りにも人影が見える。

 ざっと見た限りでは、この駅で足止めされたのは、十人前後のようだった。

 やっと駅名表示の看板の前に立って、それを見た時、啓人は思わず声を上げそうになった。

 そこには「みとがわ」と表示されていたのだ。

 漢字の表記が消えかかっていて判読できないが、右側には「きいずみ」左側には「うつせ」と表示されている。どの駅名も、啓人には聞き覚えのないものだった。

 混乱した頭でベンチに戻ると、啓人は朗に向かって言った。

 「どうやら、みとがわって駅らしい。パパはちょっと駅員さんにいつ頃、電車が動き出しそうか聞いてくるね。」

 努めて平静を装ったつもりだったが、顔に出ていたらしく、朗が不安げな表情でうなづいた。

 駅舎に向かう途中で見ると、中年の夫婦らしい二人連れの登山客の顔に明らかに見覚えがあった。

 確か今朝早く、山小屋を出る時にすぐ後から出てきた人たちに間違いはない。向こうも見覚えがあったらしく、前を通り過ぎる際に会釈をされたので、啓人もぺこりと頭を下げた。

 その隣の制服姿の女子高生は、うつむいたままで生気がまるで感じられない。

 みんな疲れてるなあと思いながら、二つ目のベンチの横を通ると、そこには、作業着姿の実直そうな中年の男と大学生くらいの痩せた男が座り、反対側には、見事な銀髪の老婆が、半ば諦めたような様子で座っていた。

 駅舎にたどり着くと啓人は、改札口から窓越しに駅の事務室をノゾき込んだ。

 六畳ほどの広さの狭い事務室には、落ち着かない様子の若い駅員が一人座っているだけだった。

 なにやら、電話口の応対に忙しそうなので、啓人は、声を掛けるタイミングを待つことにして、そこに立ったまま辺りを観察することにした。

 改札を抜けた待合の中には、明らかに水商売と解る派手な様子の若い女と、生活に疲れた様子の三十代後半の女、それにどこかで見覚えのある危険な雰囲気の短髪の中年男が堅い木製の椅子に距離を取って座っていた。

 今年で三十五になる啓人には、昭和の記憶は全くないが、その駅舎は昭和レトロという表現がぴったりの駅舎だった。

 十畳ほどの待合室の床は黒ずんで所々ひび割れたコンクリートむき出しで、木製の椅子が改札の横手からコの字型に壁にへばりつくようにして作り付けてある。壁が背もたれを兼用しているので、その角度は九十度だった。

 待合を抜けた先が駅の玄関口だったが、その古風な引き戸の先には漆黒の闇が広がるばかりで、駅前の商店街でラーメンをすすることなど到底無理な話に思われた。

 ただ、時代に取り残されたような駅舎なのは事実だが、川堀が言うような廃線になった路線の駅舎の空虚感はない。

 廃線になったというのは川堀の思い違いで、現在も稼働中の駅であるのは確実のようだった。

 あるいは、路線が廃止になったのは事実だが、駅舎だけは、別の路線の駅舎として稼働中なのかもしれない。

 事実、改札口から左手を見ると、ここが終端駅なのか、駅舎の先から延びる別の線路がおぼろげに闇に浮かんでいる。

 啓人がいろいろと思考を巡らしているうちに電話が終わったのか、いつの間にか駅員が改札口に戻って、真近で彼の顔を覗き込んでいた。

 「何か?」

 いきなり声を掛けられた啓人がぎょっとして顔を向けると、若いくせに極端に顔色の悪い駅員が驚いたように目をしばたかせる。

 「いや、いつごろ復旧しそうか情報ないかなと思って。全然、放送とかないし・・・」

 「すみません、会社からの指示がなかなか来なくて。復旧までは、早くて一時間半、もしかしたら、二時間くらいかかる見通しです。」

 「二時間?・・・・小学生の子供がいるんだけど、代替輸送とかないの?」

 「それが・・・あいにく他でも事故らしくて・・・・」

 一瞬、怒声をあげかけた啓人だったが、済まなさそうに頭を下げている目の前の駅員に怒りをぶつけたところで仕方がないと思いなおして、ため息まじりに聞いた。

 「駅にタクシーとか呼べる?」

 「一応、私も近くのタクシー会社に確認してみたんですけど、今、全車、出払ってるらしくて。時間かかると思います。」

 「この雨の中、駅を出るわけにもいかないし、結局、二時間待つしかないってことか」

 啓人は、独り言のようにそう言うと、思い出したように聞いた。

 「ところで、この駅って、廃線になった路線の駅じゃないの?地元の人がそんな風なこと言ってたけど。」

 「廃線・・・ですか?私、この駅に来て3年になりますけど。毎日、電車走ってますよ。」

 怪訝そうな顔で言う駅員に啓人は笑ってごまかしながら言った。

 「そうだよね。現にこうやって皆ここにいるわけだし、ここまで電車で来たんだしね。それはそうと他の駅員さんは?お宅一人だけなの?」

 「もう一人駅長がいるんですけど、電車の本数も乗降客も少ないんで、何駅か掛け持ちしてるんですよ。今日は、夕方にここへきて、隣の駅に二時間くらい前に移動しました。」

 「それじゃあ、責任重大だね。大変な時に時間取らせてごめんね。幸い、雨のおかげで涼しいし、ホームで待たせてもらいます。」

 駅員がほっとした顔でお辞儀をするのに軽く会釈して、啓人は朗の待つベンチに戻った。

 「遅かったね。駅の人なんだって?」

 「早くて一時間半しないと電車来ないって。タクシーも出払ってて呼んでも無駄みたいだな。」

 「しょうがないね。次の電車待ってようよ。それより、喉かわいたよ。」

 豪雨による深夜の足止めにスリルを感じているのか、朗が元気な声でそう言うのを聞いて、啓人はこれも朗にとって貴重な体験になると考えて、気持ちを切り替えることにした。

 「そうだな。確か、改札口の横に自販機あったから、なんか好きなもの買っておいで。ついでにパパもコーラ買ってきてもらおうかな。」

 そう言って五百円玉を渡すと、すごい勢いで走り出した朗の背中を目で追いながら、啓人は、微笑を浮かべていた。

 一人になると、降りやまない雨が屋根をたたく音が急に大きくなったような気がした。

 

3 雨の記憶 


 朗が自販機に飲み物を買いに行った後、雨の音を聞くうちに、啓人は十三年前の雨の日の出来事を思い出していた。

 思わず右手が左腕の古い傷跡を押さえる。その傷は、とうに治っているにもかかわらず、こんな土砂降りの夜には決まってウズくのだった。

 それは、大学四年の夏の終わりの頃だった。

 ゼミの教授の紹介で早々に就職先が決まった啓人は、就職活動に忙しい同級生を後目に、趣味の登山に明け暮れていた。

 その日は、夏山の総仕上げのつもりで計画した三泊四日の縦走を終えて、帰京することになっていた。

 三時半頃には無事下山して、登山口に停めてあった父親から借りた車で帰途についたのだが、突然の豪雨に見舞われたのだった。

 登山口からフモトの町までは、通常なら一時間半のところを、途中、寄り道を余儀なくされたために午後六時を過ぎてしまい、雨のせいもあって辺りは既に薄暗くなっていた。

 啓人は、一時間ほど前に付けてしまった車の前部の大きな傷のことで頭がいっぱいだった。

 車は父のお気に入りの新車だったし、何にもまして、当然求められるであろう傷を付けた理由の説明を考えるとパニックになりそうだった。

 集中力を欠いたまま、大きなカーブを曲がり終えた時だった。

 何か大きな物体が、車めがけて飛んでくるのが視界の端に入った瞬間、強烈な衝撃を感じて啓人の意識はそこで途切れた。

 次に啓人が意識を取り戻したのは、病院のベットの上だった。ぼんやりとした頭で辺りを見回すと、心配顔でこちらを覗き込む両親と兄の顔が目に入った。

 「よかった!意識が戻ったみたいよ。お父さん。純ちゃん。」

 大仰に叫ぶ母の声が割れがねのように頭に響く。父と兄も意味もなくしきりとうなずいている。

 何事か把握しきれていない様子の啓人に兄の純也ジュンヤが、子供に言って聞かすようにゆっくりと説明し始めた。

 「お前。鹿をねたんだよ。でっかい牡鹿で、百キロ超えてたらしいよ。それで、道路から飛び出して木に激突して三日間も意識不明の重体ってわけさ。

 あの辺交通量が極端に少ないし、大雨だったから、その日のうちに、しかも夜に見つかるなんて奇跡だって警察の人も言ってたぞ。」

 「車は?」

 かすれた声で啓人が聞くと兄があきれ顔で言った。

 「車の心配か?死にかけたくせに。車なら大破したから廃車だよ。今日あたりスクラップになってんじゃないか。」

 どうやら、あの傷のことはバレていないらしい。少し安心したせいか左腕が急に痛くなってきた。ギブスらしいもので固定された左腕を不思議そうに見ている啓人に今度は父親が語りかけた。

 「複雑骨折で、骨が飛び出してた。たまたま通りかかった営林署の人が見つけてくれなきゃ、出血多量で危なかったらしいぞ。」

 その後退院まで二週間、左腕が完治するまでには、さらに二か月を要したが、幸い機能的な支障が出ることもなく現在に至っている。

 ただ、あの日と同じ土砂降りの夜には、左腕にうっすらと残る傷跡が決まって疼きだすのだった。

 まるで、あの日の出来事を忘れさせないためのように。

  

4 消える客

 

 朗がコーラとジュースの缶を揺らさないようにしてベンチに戻ってきたのは、十分近くもたってからだった。

 「えらく、時間かかったな。」

 啓人が朗から少し温くなった缶を受け取りながらそう言うと、朗がベンチの反対側を指さして言った。

 「あっちに、山小屋で会ったおじちゃんとおばちゃんいたよ。ちょっとだけしゃべってたら時間経っちゃった。」

 「そうか。やっぱり、小屋で一緒だった人達だったんだ。パパもたぶん、そうだろうなって思ってたんだ。」

 「うん。向こうもそう言ってた。ぼく見て、はっきり分ったみたい。」

 朗が明るい声でそう言うと、甘ったるいジュースの匂いがした。

 啓人は、微笑みながらコーラを飲み干すと、何気なくホームの先を見た。

 一瞬だが、雨で煙るホームの先から誰かが線路に降りたような気がした。

 確信はないが、制服姿だったようにも思える。とすれば、さっきベンチの反対側にいた女子高生だろうか。

 啓人は、身を乗り出すようにして反対側のベンチの様子をウカガうが、中年の夫婦以外の人影は見えない。

 彼はあわてて立ち上がると、中年夫婦の方へ歩き出した。

 朗がジュースをもったまま、気楽な様子でついて来る。

 啓人は、一通りのあいさつを済ましてから尋ねてみた。

 「さっきまで、そこに高校生の女の子いませんでしたか?」

 「ああ。麻衣子ちゃんね。あれ?そういえば、いつの間にいなくなったのかしら。」

 妻の方がおっとりした口調でそう言うと、夫も口を開いた。

 「おかしいな。ついさっきまでいたのに・・・家が近くて迎えが来るって言ってたから、帰ったのかな?でも、あいさつくらいして行きそうな子だったけど。」

 「暇なもんだから、いろいろとお話ししてたんですよ。高校のこととか、部活動のこととかねえ。変ねえ。急にいなくなるなんて。」

 啓人はいよいよ胸騒ぎがして少し躊躇チュウチョしたあげくにこう言った。

 「いや、今、制服姿の子が線路に降りたのが見えたような気がして・・・」

 「まあ!それは大変。雨も降ってるし、電車来たらどうしましょう。」

 「私、ちょっと駅員に知らせてきます。」

 「ああ。それがいい。私たちは、その辺り見てきます。」

 啓人は不安そうな顔をした朗の手を引いて、駅舎に来ると事務室を除いた。間の悪いことにそこは無人だった。

 待合をノゾくと、先ほどと寸分違わない位置に三人が座ったままだった。一番近い派手な女に聞いてみる。

 「あのー。今、ここを女子高生が通りませんでした?」

 「こんな時間にこんな田舎の駅で、女子高生が通るわけないじゃん。お兄さんJK専門?あたしじゃダメ?」

 派手な女はそう言うとけたたましく笑った。短髪の男が明らかに憎悪のこもった目で女を見た。

 二人が知り合いとも思えなかったが、険悪な空気を察して啓人がベンチに戻ると、ちょうど、中年夫婦も戻ってきた。

 啓人の顔を見るなり、夫の方が性急な口調で聞いた。 

 「あっちのベンチの人らにも聞いたけど、誰も見てないらしいねえ。そっちはどうでした?駅員さんいた?」

 「いや、不在でした。待合の人に聞いたけど、誰も通ってないみたいです。」

 「待合を通らないと外へは出れないはずだし、おかしいわねえ。」

 妻が思案顔でつぶやくように言う。

 「ちょっと、さっき人影見えたあたり確認してきます。息子のことお願いできます?」

 「いいわよ。麻衣子ちゃんも帰ってくるかもしれないから、私たちはここにいますね。」

 啓人は、不安な表情の朗にうなづいてみせると、ホームの端に向かった。

 端まで後十五メートルほどの所で屋根がなくなっているので、傘を差して先へ進む。端の方は光がほとんど届かず真っ暗だった。

 今まで気付かなかったが、ホームの端には古びた小屋が建っていて、その陰で何やら動くものの気配がする。

 啓人は自分の飲み込むつばの音を意識しながら、そっと小屋に近付いた。

 裏側へ回り込んだ瞬間、まばゆい光に目がくらんで、その場に立ち尽くす。

 「こんな所で何をしてるんですか?危険ですよ。」

 相手が落ち着いた声で、懐中電灯の光を足元に向けながらそう言った。

 声の主は雨合羽から雫を垂らしたあの若い駅員だった。

 「いや、その・・・高校生の女の子がホームから線路に降りるのが見えたような気がしたから。」

 「そうですか・・・・確認は私の方でしますから、お客さんは戻ってください。」

 「ホームにもいないし、改札を通った形跡もないんだけど。麻衣子ちゃんとか言うらしいんだ。構内放送で呼んでもらえないかな?」

 「あの子ですか。あの子はよく駅に来るんですよ。ちょっとした決まりがあって、ここの電車には乗れないんで、そのうち帰るんですけどね。」

 「知ってるの?あの子。」

 「ええ。よく知ってます。でも、今日はあのご夫婦にいろいろと聞いてもらって何かふっ切れたような顔してたから、電車に乗れるかもしれないなあ。そうだとしたら時間になったら出てきますよ。トイレとかに行ってるかもしれないし。」

 確かにトイレまでは確認していない。駅員のさっきとは別人のような落ち着いた様子に啓人もようやく緊張が解けるのを感じた。

 その、時だった。

 強烈な稲光りが、辺りを一瞬真昼のように照らし出した。やや遅れて雷鳴が響き渡る。

 啓人は、その白い光に浮かびあがった光景に凍り付いた。

 それは、駅員の背後に置かれたバケツから飛び出た人間の腕と足、ゴワゴワの長い髪にオオわれた虚ろな目をした若い女の首だった。

 その場に棒のように突っ立っている啓人に駅員が一歩近づくと、思わず後ずさりした啓人の耳にささやくような抑揚のない声で言った。

 「あなたが見たことは誰にも言わない方がいい。世の中には知らない方がいいこともいっぱいありますから。まあ、あなたは秘密を守るのは得意ですから大丈夫ですよね。」

 

5 鬼畜の顔


 「パパ!パパ!」

 朗に激しく揺すぶられて、啓人は我に返った。

 一瞬、自分がどこにいるのか、何をしているのかすら分からなかった。

 不思議なものを見るような目で自分を見てくる父親に向かって、朗が心配顔で尋ねる。

 「どうしちゃったの?パパ。変だよ。」

 「あの子は?警察にはもう連絡したのか?」

 かすれ声でそれだけ言うのがやっとの啓人に首をかしげながら朗が言った。

 「何言ってるの?麻衣子ねえちゃんなら、さっき来たじゃないか。トイレ行ってたんだって。パパだって、よかったあなんて言ってたじゃない。」

 どうやら、記憶が少し飛んでいるようだった。疲れから、瞬間的な睡眠に落ちて夢をみたのかもしれない。そんな事例を会社の研修か何かで聞かされたような気がする。

 それにしても、生々しい夢だった。啓人は頭を振って、雨に洗われた轢断(レキダン)死体のロウのような肌の色を記憶から拭い去ろうとした。

 「ねえ。ちょっとおねえちゃんとこ行ってきていい?チョコくれるって。」

 啓人がウナヅくと、朗が弾かれたように飛び出して行く。すぐに楽し気な話声が聞こえてくるが、雨音にかき消されて詳しい内容までは聞き取れない。

 安堵のため息をつきながら、啓人がふと隣を見ると、リュックの下に夕刊紙が見えた。どうやら、気付かずに敷き込んだらしい。

 啓人がそれを引っ張り出すと、一面に「平成の殺人鬼死刑に!」という見出しが躍っていた。

 啓人は、思わず記事の内容を読み始めた。

 「平成十八年から十九年にかけての一年足らずの間に、内縁の妻など男女五人を殺害したとして死刑判決を受けた車崎史郎死刑囚(四十六歳)が昨日、仙台刑務所で刑を執行されていたことが判明した。

 車崎死刑囚は、昭和四十八年群馬県前橋市で鉄工所を経営する父と旅館の仲居をしていた母との間に私生児として生まれた。

 高校卒業後、上京し、墨田区の自動車修理工場等で働いたが、どれも長続きせず、ギャンブルにのめり込んでいった。

 平成十五年頃から、上野でスナックを経営する柴田洋子さんの家に入り浸り、内縁関係となった。

 その後、スナックのアルバイト従業員大月佳代さんと関係を持った車崎は、柴田さんが邪魔になり平生十八年六月二十日深夜に、同人の首を絞めて殺害し、死体を奥多摩の山中に遺棄した。

 また、何の連絡もなく失踪した妹の身を案じて静岡から上京した柴田大輔さんを、借財の取り立てから逃れるために潜伏している所へ案内すると偽って、埼玉県の郊外へ誘い出すと平成十八年九月二日夜に刺殺し、遺体を鉱山跡地に遺棄した。

 さらに、大月佳代さんと三角関係にあった派遣社員の柴田翔さんを平成十八年十月三十日開店前のスナック店内で絞殺して、遺体を使用していなかった店の二階の押し入れに遺棄した。

 平成十九年に入り、身の回りで続いて起こる失踪に疑念を抱いた大月さんからたびたび詰問されるようになった車崎は、次第に大月さんをウトましく感じるようになっていた。

 春頃、店の二階で異臭がするので、警察官に立ち会いを求めて確認すると大月さんが言い出したため、柴田さんの遺体が発見されることを恐れた車崎は、大月佳代さん宅において佳代さんと同居していた祖母の大月文代さんを平成十九年四月二日早朝に撲殺した。

 隣人から大月さん宅で悲鳴が聞こえたとの通報により駆け付けた警察官によって、車崎は逮捕され、一連の殺人が明らかとなったものである。

 一審、二審ともに死刑判決が下り、車崎の上告が最高裁により棄却されて平成二十四年二月二日に死刑が確定していた。」

 当時、マスコミをにぎわした猟奇的事件だけに、啓人も事件の概要はおぼろげながらに知っていたが彼の目は、記事の隅に掲載された犯人の顔写真に釘付けになった。

 それは、画質が粗く鮮明とは言えなかったが、間違いなく待合室にいたあの男の顔だった。

 啓人の頭は混乱した。なぜ、死刑になったはずの男が駅の待合室にいるのか?

 実際には脱獄しているにもかかわらず、当局が失態を隠蔽インペイするためにその事実を伏せて、あんな発表をしたのか?

 それとも、単純に他人の空似というやつか?

 しかし、あの男の身にまとった危険なオーラは、とても、善良な市民とは言い難いものだった。

 啓人は、駅員にこの疑念を伝えるべきかどうか迷ったが、ついさっきの夢の影響で駅員が信用できない気がして携帯電話で110番通報をすることにした。

 電話はすぐにつながり、歯切れのいい女性の声が聞こえてきた。

 「はい!110番緊急電話です。事件ですか?事故ですか?」

 「こちら、豪雨の影響でみとがわ駅に足止めになっている者なんですが。」

 「豪雨・・ですか?あのどちらの駅からお掛けでしょうか?」

 「だから、みとがわ駅だって言ってるでしょう。」

 「みとがわ駅ですね・・・わかりました。それで通報の内容はどういったことですか?」

 最初は有能そうな応対だった相手が、なぜか急に頼りなく思えてきたが、啓人はともかく先を続けた。

 「実は、この駅の待合室に車崎が、あの死刑囚の車崎がいるんです。妙な話なのは承知しているんですが、一応、通報しとこうと思いまして。」

 そう言い終わると、今度は一転して紋切型の口調で相手が答えた。

 「貴重な情報ありがとうございます。よく調査いたしました上で、対応させていただきます。」

 「あの・・・・」

 結果を連絡してくれと言いかけた通話は一方的に切られてしまった。

 クレーム処理担当を二年経験したことのある啓人には、その応対がいたずら電話に対するマニュアル通りであることがすぐに分かった。

 確かに冷静に考えてみれば、死刑を執行されたばかりの男が駅の待合室にいるなどど言われれば、いたずら電話か、異常者の妄想以外の何物でもなかった。

 啓人は、意を決して立ち上がると、もう一度男の顔を確認しに向かうことにした。可能ならば画像を撮影するつもりで、携帯は握りしめたままだった。

 朗に駅舎に向かうと声をかけると、中年夫婦と麻衣子という女子高生との話しに夢中で、うわの空の返事が返ってきただけだった。

 余計なことを話して、不安を掻き立てるのも良くないと考えて駅舎に急ぐと、途中で駅員に出くわした。夢の中とは違い、相変わらずおどおどした様子である。

 「ちょうどよかった。スピーカーの調子悪くて構内放送できないんで、お知らせして回ってるんですが、後五分ほどで、電車到着するそうです。」

 彼はそう言い残すと、あわただしく朗達のいるベンチへ歩き出した。

 啓人が時計を確認すると、いつのまにか、日付が変わって三十分以上が経っていた。

 時間の感覚がどうも変だと思いながら、改札から待合室の様子をウカガおうとすると、ぐしゃっという何かをツブすような音が聞こえてきた。

 啓人は、とっさにその場にしゃがみ込むと恐る恐る中をノゾき込んだ。

 次の瞬間、啓人に背を向けた男が黒光りのする金槌を振り上げて、あの派手な女の頭めがけて振り下ろす光景が目に飛び込んできた。

 唖然としたような表情の女の顔の半分は既に原型を留めてはいなかった。そこへ、二度、三度と男が力任せに金槌を叩きつける。

 湿ったものを打ち付けるような気味の悪い音と共に、女の顔が首振り人形のように激しく上下に揺れ、血しぶきがそこら中に飛び散った。

 啓人の顔にも何かが飛んできてへばりつく。あわてて取ると、それは血濡れた毛髪と頭蓋骨の骨片だった。

 啓人は悲鳴が喉の奥からこみ上げてくるのをかろうじて飲み込んだ。待合室の奥には首にロープを巻き付けられ目を飛び出さんばかりに見開いてこと切れた中年女が見える。

 しびれたように力の入らない足で何とか啓人が立ち上がった時、待合室の男がゆっくりと振り向いた。

 「見たな!」

 返り血を頭から浴びて、目だけを異様にぎらつかせた男がそう言うと、右手に金槌を握りしめたまま啓人の方へゆっくりと向かってくる。

 啓人はよろけるように後ずさりすると本能的に朗のいる方とは逆の方角へ逃げた。

 なぜか、足がもつれて思うように走れない。振り返ると、男が改札口を抜け一歩、一歩踏みしめるようにこちらへ向かってくるのが見えた。

 前を見ていなかったせいで、啓人はベンチにぶつかって転んだ。そこには、実直そうな中年男と若い男がいた。

 「逃げろ・・人殺しだ。車崎が来る!」かすれ声でそれだけ言うと、啓人は立ち上がってさらにホームの端へ向かおうとした。

 「どうしたんで・・・・ぐあああ!」

 驚いた顔で啓人を助け起こそうとした中年男の背後に、まるで、瞬間移動したように車崎が迫ると背後から、いつの間にか左手に持った柳葉包丁を突き刺した。切っ先が中年男の作業服から突き出ている。

 中年男は口から黒い血を吐きながら、がっくりとその場に膝から崩れ落ちた。包丁が柄のところまで背中に埋まっている。

 車崎が、さらに啓人に迫る。その時、車崎に背後から若い男が飛びついた。車崎が首に巻かれた若い男の腕をほどこうとして金槌を取り落とす。

 啓人は、ベンチにあった中年男のものと思われるカバンを思い切り車崎の顔に叩きつけた。

 書類が詰まったそのカバンは重量があり、車崎がよろける。

 再度それを叩きつけようとした時、老婆がよろめくようにこちらへ歩いて来るのが見えた。

 「危ない。こっちへ来たらダメだ!」

 啓人が大声で叫ぶが、老婆は認知症でも患っているのか、なおも近づいて来る。

 老婆に気を取られたスキをついて、車崎が啓人の腹を蹴った。

 体重の乗った蹴りで、啓人は二メートル近く飛ばされて、ホームのコンクリート床で後頭部をシタタかに打った。

 ほんの数秒だが意識を失っていた啓人が、ふらつく頭を押さえながら立ち上がると、車崎が若い男の首を両手で締め上げているところだった。

 啓人が助けようと二、三歩そちらへ歩きかけた時、乾いた音がして、首の骨を折られた若い男の体がくにゃりと力を失うのが見えた。

 車崎は、緩慢な動作で金槌を拾い上げると、啓人ににやりと笑って見せた後、ホオけたようにそこに立ち尽くしていた老婆の頭にそれを振り下ろした。

 「止めろ!」

 啓人が叫びながら、倒れた老婆の頭に再度金槌を振り下ろそうとする車崎の右腕にしがみつこうとした瞬間、どこからか伸びてきた太いロープが車崎の首に生き物のように巻き付いた。

 車崎が金槌を取り落とすと、苦し気にうめきながら、首のロープを外そうと首を掻きむしるが、それはがっちりと食い込んでいる。

 呆然ボウゼンとする啓人の目の前で、ロープが上に引っ張られ、車崎の体が勢いよく持っていかれた。

 どうやらホームの天井の梁にロープが吊られていたらしく、車崎の体は絞首刑さながら宙にぶら下がった。

 そんな状態にもかかわらず、車崎は足を必死にバタつかせて悪態をついている。

 「黙れ!どうあがこうが、お前はこのツナからは逃げられん。」

 啓人が驚いて声の主を見ると、そこには、あの駅員が立っていた。

 しかも、車崎を吊るしたロープの端を片手で握って平然としている。おどおどとした様子は微塵もなく、寄り付きがたい雰囲気である。

 駅員は啓人には目もくれずに車崎の真下に来ると、見上げながら言った。

 「さあ!報いを受ける時が来たぞ。」

 その声に、氷を首筋に押し当てられたような気がして啓人は思わず肩をすくめた。

 すると、彼の眼前で信じがたい事が起こり始めた。

 倒れていた老婆と若者が操り人形のように起き上がると、吊るされた車崎の足にしがみついたのである。そして、包丁を背に突き立てたままの中年男も同じようにぶら下がる。

 「止めろ!止めてくれ!苦しい・・・くるし・・い・・」

 車崎の悲鳴を聞きながら、啓人は後ずさりしてその場を離れた。途中、頭を半分失った派手な女と首にロープを巻いた女とすれ違った。

 彼女達も車崎の足にぶら下がりに行くのか。何かおかしい。この駅はおかしい。

 啓人はそう考えながら、なおも後ずさりをしていると、背中が固いものに突き当たった。

 我に返って振り向くと、それは、いつの間にかホームに入ってきていたらしい電車の車体だった。

 啓人は、急いで朗のいるベンチに戻るが無人だった。

 ひょっとしたら、入れ違いに電車に乗ったのかもと考えて、さっきの電車に戻って中を確認する。

 電車は二両編成だった。最初の車両には人影はなく、次の車両を確かめるとあの女子高生の姿が見えた。

 朗の居場所を聞こうと傍に寄りかけると、彼女が不意に立ち上がり、電車の外を指さした。

 啓人がその指差す先に目をやると、反対側のホームにも電車が停まっていて、中にあの夫婦と夫婦に手を引かれた朗の姿が見えた。

 安心した啓人が電車の外に出ようとすると不意に手を引かれ中に引き戻された。目の前でドアが閉まる。

 彼の手を万力のような力で握っているのは、案に相違して小さな手だった。

 振り返ろうとした啓人の目が、横に立つ子供の赤い半ズボンをとらえた。

 そしてそれはびしょ濡れだった。


6 分岐

  

 「おい!息をしてるぞ!」

 朗の顔を心配そうにのぞき込んでいた若い救助隊員が大声で叫ぶ。

 「こっちもだ!こっちの夫婦も、まだ、息があるぞ。」

 十メートルほど上の方で土砂を掘り返していた救助隊の声が辺りに響く。

 その山域で大規模な崩落事故が発生したのは、早朝のことだった。

 幸い、山小屋から二百メートルほど下った辺りだったのと、夏山シーズンで人出が多かったために、事故の一報が山岳救助隊の元に届いたのは、事故発生から十分後のことだった。

 天候は快晴で風もなく、ヘリを飛ばすのには絶好のコンディションで、救助隊が現場に到着したのも事故発生からわずか三十分という速さだった。

 目撃者数人の話を総合すると、下山中の男女二人連れと親子連れと思われる男性二名が崩落により発生した落石に巻き込まれたしい。

 山小屋の宿泊者名簿で確認を取ると、やはり、四十代後半の中年の夫婦と小学生の子供、及びその三十代の父親が事故に巻き込まれたものと推測された。

 現場を指揮するベテランの若槻は、目撃者の情報から、彼等が登山道東側の沢筋へ滑落したものと判断して即座に総員六名を彼らが歩いていたと思われる登山道から沢に至る範囲の捜索に割り当てた。

 彼は、時間との勝負と考えて、さらにもう一班を派遣するように応援の要請を済ませると自ら登山道下の斜面を下った。

 崩落は登山道西側上部の張り出した岩峰の一部が剥離ハクリして発生したものと思われたが、そこら一帯を埋める土砂の状況から、大きな岩というよりも風化したもろいレキが大量に流れたものと推測された。

 「これなら、助かるかも知らんな。」

 若槻が傍の古株の隊員に声をかけると、彼も頷きながら言った。

 「登山道下の斜度がそれほどないから滑落の衝撃は致命的とは言えないし、沢の手前の岩と岩の間に埋まってれば、この礫の状態なら比較的に空気の層ができやすいかもしれませんね。」

 「俺もそう思う。問題はどこに埋まってるかだな。」

 だが、彼等の楽観的な読みは見事に外れることとなった。

 遭難者達が埋まっていると思われる場所が、沢に落ち込む断崖のすぐ傍だったことで、慎重な作業が要求されたからである。

 大量に埋まった礫が再び崩落して遭難者ごと沢に落ちないように、救助作業は遺跡発掘のような遅々としたものになった。

 じりじりとした時間が流れる中、ようやく三人を発見したのだった。事故発生の一報を受けてから六時間後のことで、意識不明ではあるが、生存していたのは奇跡と言ってよかった。

 幸い三人とも大きな外傷はなく、適切な治療を行えば十分に回復の見込みがある。

 問題は、子供の父親の所在が判明していないことだった。

 下山口でも目撃情報を当たらせたところ、最初ズルズルと流された四人が沢の手前の岩場の辺りで止まったので安心した直後に、再び発生した崩落で姿が見えなくなったという情報と、その際、子供を落石からかばった男が沢に落ちたという情報を得た。

 即座に別の班が沢一帯を捜索したが、日没まで誰も発見できなかった。

 父親の捜索はいったん打ち切られ、明日、日の出とともに再開されることになった。

 明日の捜索に備えて、フモトの救助隊本部で仮眠中の若槻の携帯が鳴ったのは、午前一時近くのことだった。

 電話の主は、三人を運び込んだ病院の医師からだった。古くからの知人である医師には、誰かが蘇生ソセイしたら何時でもいいから連絡してくれと頼んでおいたのである。

 「すまんな。寝てたか。たった今蘇生したよ。三人とも」

 たった一日で伸びた無精ひげのホオを緩めて、若槻は一人微笑んだ。

 

7 輪廻リンネ

 

 啓人は、飛んできたこぶし大の石を右肩に受けてバランスを崩し、断崖から沢に落ちた。

 十メートル以上の高さから落ちたが、深い淵だったため、水を大量に飲んだものの怪我はない。

 助かったと思ったのも束の間、今度はすさまじい勢いで下流へ向かって流され始めた。

 沢は夏とは言え雪渓の残る山域だけに身を切られるような冷たさだったが、それを感じる余裕は啓人にはなかった。

 どうやら、肩を骨折したらしく、右手が自由にならない。啓人は必死で左手でバランスを取りながら足先を下流へ向けるのが精一杯だった。

 沢はほとんど蛇行しておらず、流れが緩やかになることがない。

 落ちた所から数百メートルは流されただろうか、樹林帯に入って流れが少しゆるやかになったように感じたが、逆に川幅が広くなって、片手で岩にしがみついて岸に上がれる状況ではない。

 しばらくすると、視野が開け、前方に大きな橋が見えてきた。その橋は川から五十メートルほど上に架けられた鳥が半分だけ羽を広げたような特徴的な形の橋だった。

 その下はどうやら、深い淵になっているらしく流れがゆるやかになっているように見えた。

 助かったと思った時、啓人は、その橋のことを鮮明に思い出した。

 その日、啓人は、登山口から父に借りた車に乗り、帰路を急いでいた。大学生最後の夏とあって思い切り夏山を満喫するつもりで、日程に余裕のない計画を立ててしまい、明日の午前八時には、内定の出た会社の本社ビルでのセミナーに参加しなければならなかった。

 車で走り出すとすぐに雨が降り始め、今や豪雨となっていた。視界の悪い中をカーブの多い道を急いでいたために、その男の子が道路に飛び出したのに気付くのが一瞬遅れた。

 ドンという大きな音と共に、男の子が宙を舞うのがスローモーションのように見えた。

 啓人はハンドルにしがみつくようにして、しばらく呆然としていたが、我に返ると、道路わきにうつ伏せに倒れた男の子に走り寄った。

 あわてて抱き起すと、男の子の首が不自然にねじれてだらりと垂れ下がった。

 首が折れた。と思った瞬間、黒々とした未来が頭の中を突風のように吹き抜けた。

 彼は、しばらくその場に男の子を抱いたまま座り込んで、豪雨に濡れていた。

 元々、交通量の少ない道路のうえに、平日の悪天候のために、全く車が通りかからない。

 啓人は、何の考えも浮かばないまま、男の子を後部座席に横たえて走り出した。

 七、八分走ると、急に視界が開けてその特徴的な橋が見えた。

 啓人は、橋のたもとに車を停め、五分ほど思案する様子だったが、やがて、男の子を抱えて橋の方に歩き出した。

 橋は人道部分と車道とに分かれていて、真ん中まで来ると、半円形に飛び出した展望所が設けてあった。

 啓人は無表情で、抱いた男の子を手すりの上に横たえた後、少しの間を置いて、下へ落した。

 上から見るとそこは丁度深い淵の真上で、男の子の赤い半ズボンが水しぶきの中に消え、ゆっくりと沈んで行くのが見えた。

 彼は十五分ほどもその場にタタズみ、淵を見続けたが、ついに男の子が浮かび上がることはなかった。

 記憶が啓人の脳裏を矢のように通り過ぎ、淵がすぐそこに迫っていた。

 予想通り、流れが急にゆるやかになり、啓人は左手で上手く水をかいて、這い上がれそうな大岩へゆっくりと近付いた。

 あと少しで岩に手が届くと思った時、強烈な下降流に捕まって、彼の体は一気に大岩の下の洞穴へと吸い込まれた。

 必死に足で水を蹴り、左手で水をかくが、体はさらに深みへと持っていかれる。

 ダメかと諦めかけた時、不意に下降流が消え、体の自由が利くようになった。

 最後の力を振り絞って上昇しかけた時、彼の右手が何かに引っかかった。

 啓人が振り返ると、そこには、虚ろな眼窩でこちらを見つめる頭蓋骨があった。

 彼の手はその小ぶりな人骨に絡まって抜けない。

 そして、その人骨は赤いぼろきれの様になった半ズボンをはいていた。

 啓人が思わず叫び声を上げた時、彼の肺から、わずかに残った空気が泡となって、水面へと昇って行った。

 

8 行く先


 啓人は座席に座って、走り出した電車の窓から、ホームの向こうの電車に乗る朗の姿を見つめていた。ちょうどあちらの電車も反対方向へ走り出したところで、朗の姿はすぐに見えなくなった。

 電車の座席は全て横に並んで座る形式のもので、彼の横には、赤い半ズボンを履いた男の子が座り、対面には、麻衣子という女子高生が座っている。

 その横にはあの実直そうな中年男と若い男、それに老婆が並んで座っていた。

 隣の車両には、車崎と派手な女と三十女の三人が見えるが、皆、最初、駅で見た時の姿のままで、どこにでも居そうな普通の電車の乗客に見えた。

 横の男の子のズボンも濡れてはいない。

 ホームの端に差し掛かると、駅名表示の看板が最初見た時と違って、漢字表記まではっきりと読み取れた。

 そこには「現世うつせ三途川みとがわ黄泉きいずみ」と表記されていた。

 彼らを乗せた電車は黄泉へと向かうようだった。

 しばらくすると、あの駅員がやってきて、啓人に小さな紙片を渡しながら言った。

 「お預かりしていた切符をお渡ししますね。」

 「行く先はどこだった?皆一緒なのかな?」

 「いいえ。あなたと車崎さん以外は皆さん途中下車されます。そこから先は・・・・」

 「知らない方がいい・・・・か。」

 駅員は、啓人のその言葉を聞くと満面の笑みを浮かべて会釈をし、次の車両へと歩を進めた。

 豪雨はいつの間にか止んで、窓外には濃い霧が立ち込み始めていた。


9 転生


 大きなショウウインドウの前にベビーカーを停めて、着飾った若い母親同士が先ほどからとりとめのない世間話に興じていた。

 ショウウインドウの中には最新型のテレビがディスプレイされ、何事かニュースを流していた。

 ベビーカーの中の赤ん坊がまるで内容に聞き入るように画面を見ている。

 画面の中では、ベテランの女性アナウンサーが落ち着いた声で淡々とニュースを伝えていた。

 「昨日、午後二時頃、渓流釣りをしていたグループが、沢で二体の白骨死体を発見したと警察に届け出ました。警察が調べたところ、一体は去年登山道の崩落に巻き込まれた行方不明となっていた流啓人さんと判明し、もう一体は、十四年前に付近で両親とキャンプに来ていて行方不明となっていた小学四年生の黄泉連キイズミレン君であることが判明した模様です。失踪時期の異なる二人の遺体が同一場所で発見された理由については目下、専門家に意見を求めているとのことです。」

 熱心に画面に見入る赤ん坊に母親が気付いて笑いながら言った。

 「なんか解っているみたいな顔でテレビ見るのよ。この子。それに男の子のくせに妙に赤い色が好きなの。変な感じ。」

                     完

 


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[良い点] 次の展開が気になって一気に読みました。 こんなどんでん返しがあるとは。 [一言] 神天上ガンバッテ読み終えました。 長編だけじゃなくて短編もうまいと思いました。
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