第7話
「なぁんで、ついていかないけんとよ」
「当事者やけん、しょうがなかろ?」
小声で文句を言い続ける私のことを弥生が宥めすかす。
(コートにげな、入りたくなか)
校庭に一面だけある、やたらと立派なテニスコート。見るのも嫌なのに、まさか入ることになるなんて思わなかった。心がグチャグチャになりそうで、つい伏し目がちに歩いてしまう。目線を上げれば、サッカーウエアと制服姿が視界の中心でげんなりもする。
(鼻歌交じりに歩かんでよ)
機嫌が直っている小永吉先輩は、アディダスのテニスシューズに履き替えていた。右手には、赤を基調とするフレームカラーのブリジストンラケットを一本握り締めて、左の脇にダンロップフォートの新缶を一つ挟んでいる。
そしてその隣の、縦も横も見劣りする彼はというと、使用許可を取りつけてあるということで、コート中央に位置する出入口の鍵を右手に線細くも颯爽と向かってる。よくよく袖口や裾なんかを見てみると、少し余っているのが分かって幼さが隠れているみたいに見えた。そんな彼が、どれほどのプレーをするかということだけは、本能的に私は気になっていた――。
(きぶん、悪うなる……)
コートへ足を踏み入れた途端、埃っぽいような塗料のような、そんな独特な臭いがモノクロみたいに全てを映させた。
(でも……)
この場所には、まだ大切なものがあるような気がした。高みを目指したこの空間には、私のことを成長さてくれるものが未だあるように感じた。
(絶対に、嫌)
そんな下らない不明瞭なことの為に、復帰を目指したりなんかしない。
私は弥生と二人、サイドフェンスに寄り掛かった。
「ごめん、ちょっとお願い!」
「え!?」
先程まで身に着けていたブレザーと、同系色のネクタイを彼が預けてきた。私は驚きつつも、反射的にそれらを受け取ってしまい、抗議しようと口を開きかけるも片膝を突きながら見覚えのあるシューズに履き替えていく彼の姿に思わず口を噤んでいた。
(なん……)
まるっきり違う、その様子。気高さがありありとしている。先ほどまでの雰囲気から一変、近寄り難くも魅入ってしまうような、そんな動作があった。そして、それを目にした私の胸が一つトクンと鳴って、複雑な思いが込み上げていた。
――プシュ! ポン、ポポン……。
押しとどめるように顔を上げてみると、先輩が缶の蓋を開けて逆さにしていた。黄色い二球は真空はとても窮屈だったとでもいうようにして落下して転がり、それらを無意識のうちに目で追う私は、抱えている物に力を込める。
「3セットマッチでよかか?」
大きく肩を回しながら先輩が聞く。思案顔をした彼が「はい」と答えた。シューズ同様、彼は覚えのあるラケットを手にして立ち上がると、転がる一球を打面で突いてキャッチしていた。そしてもう一球は、右のシューズの外側とフレームで挟み込んで浮き上がらせて。
私も同じことが出来る。けれど、あの優雅さには程遠い。まるで彼が行うと、ボールが従う意志を見せているみたいだった――。
「長う、なりそうやね……」
呟く弥生。口が開いているので、手で押さえてあげようかと思ってしまう。
「そうやね」
顎を上げては引き戻し、そして、首を捻る動作を私達は繰り返していた。
試合が始まって直ぐに気付いたこと。それは、逆さ帽子は無いものの、サッカーで鍛え上げられたものが上乗せされた先輩のプレーだった。
低い体勢で猫背のレディースポジション。逆関節を駆使したようなフットワーク。インパクト時には、聞き覚えのある「セイ!」という騒音。
後方から高々と打ち上げる超ディフェンシブルなテニスは、ブランクを感じさせずに健在だった。
(やめても、一生懸命できるもんなんやね……)
どうしても見ているだけということができない。プレーヤーとしての自分に腹が立つ。ディフェンス主体だった私は、先ほどから先輩目線で次の展開を観ていた。せめて、あの先輩の集中力が散漫だったらよかったのにと苦いものが口の中に広がる。そんな私は結局、辛くて棄権するように俯くことを選んだ。
――バンッ!
瞬間、視界の隅で驚くようなプレーを彼が見せた。
(なん、今の……)
打った本人は、小首をかしげて小さくフォアハンドの素振をりしていた。納得していないことは、眉間に皺が寄っているのでよく分かる。
彼は先輩や私と同じように、シングルハンドのフォアとダブルハンドのバックでドライブを打っている。
グリップの握りは、先輩が最も厚くて軟式のよう。恐らく、彼と私の握りがセミイースタンとセミウエスタンを使い分けるタイプなので近いと思う。だけど、そのフォームは俄然美しかった。
壁打ちという、限られた空間で直ぐにボールが返って来てしまう場所でも正確なショットを見せていた彼だったけれど、実際のコートでは、更に伸びやかで芯がしっかりとしていた。小さい子達の手本になるスイングだった。だけれど、それ以上のものは、感じなかった。
それ以上のもの。
それは、迫力。
試合に対する先輩のような、鬼気迫るものが感じられなかったのだ。勝負しているというふうには伝わってこなかったのだ。
確かに、意味不明で始まった練習試合。気が乗らないのも当然と言えば当然だろう。でも、驚きの表情の後は、楽しみな様子でいたのだから、闘志を燃やす先輩に対して、もう少し感じるものはないのかと思わないでもなかった。
(勝つ気あるとかね)
そうして、私のイライラが先輩への応援に内心で変わろうとした頃に放たれたショットだった。長い長いラリー戦を制した打ち込み。テイクバックしたラケットを先輩が引っ張り出そうとした瞬間、ベースラインの内側へポジションを上げて叩き込んだドライブボレー。格段に上がった球威。別次元の動き。迸るような躍動感。ポイントに対する圧倒的なまでの執着を感じさせたショット。 ……なのに、あれの何処が気に入らなかったというのだろう。繰り返しフォームチェックする彼に対して、私は高望みにも程があるんじゃないのかと呆れと一緒に先ほどの分と合わせた怒りを覚えてしまった。
「まだ、これからたい!」
小刻みに足を動かして言う先輩に、彼は思い出したかのように朗らかに返事をしていた――。
「ありがとうございました!」
「お、おう……」
握手を交わす二人。対照的な表情が結果を物語る。
「甘露寺くんて、強いっちゃね」
耳元で囁いた弥生。辛うじて返事した私は、6-2・6-0というスコアに唖然としたままだった。
「また、お願いします!」
弾ける笑顔。よほど圧勝したのが嬉しかったようだ。
「考えとく……」
瞬きの無くなってしまった先輩が白くなって答えた。
自信喪失。その一言が私の頭に浮かんだ。
ドライブボレーでポイントを奪われていたことから、先輩は戦術を変えていた。何としてでも持久力を活かした戦いに引き釣り込もうと、弾道を押さえた緩慢なスライスを駆使してみせていた。
その低く飛んでいくショットならば、打ち下ろされることがなくなり、落下点で待ち構えられることもなくなる。万が一、彼がポジションを上げてきたとしても、サービスラインとベースラインの間であるデッドゾーンと呼ばれる場所に立ってくれるのだから、そのショットは有効打となるからだ。
そうすると、今度は彼の戦術が気になった。
選択肢としては、ショートポイントとなるネットプレーが思いついた。けれど、一撃で決まるとはいえ、一連のモーションとしてネットへ向かう姿を見せていないことからして、その可能性は低そうに思えた。すると、やはりストローク戦。それもロングラリー。あのスライスに対して、打ち抜くことは困難に思えたからだった。
「先輩は、あんまし強くなかったと?」
弥生は口元に手を添える。彼女が聞きたくなるのも無理はない。これだけ実力差のある戦いを見せつけられたら、先輩が弱いと思ってしまっても仕方がないと思う。けれど、九州大会までコマを進める程の選手だったのだから、先輩が弱い訳がない。この差は全て、彼の実力が尋常じゃなかったということだ。
「そんなことなかよ」
確かに、ストローク戦を彼は選んでいた。けれど、捉え所のないように見えたあのスライスに対して、数回のショットで追いつけなくさせていた。
彼は先輩が戦術を変えたと知ると、直ぐにベースラインにポジションを下げて、アングルショットに切り替えていた。軽快なフットワークから繰り出せる容赦のないショットは、見ていて残酷なほど正確にサービスラインとサイドラインの交わる箇所に落ちてコートの外へ曲がって行っていた。
(でも、あれが試合……)
私は思い出す。
<――栞。ゲーム差があろうが、マッチポイントば握ろうが、勝ったわけやなかとぞ。諦めん相手は必ず勝機ば探しとうとぞ。試合が始ったら、必ず最後まで気抜かんでやらないかん。それに、お前は日頃の練習の成果ば発揮する為に試合に出よっちゃろうが。相手のこと見下す暇げな、なかろうもん>
少し勝てるようになってきた頃、慢心に足元を掬われると父から掛けられた言葉。諭されるたび、私は泣きじゃくりながらも試合の奥深さを知ることとなっていった。
(それにしても……)
だからこそ、今となると序盤の彼のプレーに引っ掛かるものがあった。確かにアップもなしに始めたのだから、怪我しないようにと慎重になってもおかしくはない。その為にスケールが小さくなって球威が出ないのも分からなくはない。でも、余りにも消極的なスタートだったように思う。まるで、今の私がコートに立ったら……というような、そんなプレーじゃなかっただろうか。
(でも、私との違いは、そこから)
体格通りというか、彼のショットに重みは感じられなかった。けれど、バウンド後の伸びに驚かされた。まるで、ボール自身が力を蓄えているかのようで、生き物みたいに見えた。それに、ヒットするテンポがとても早かった。スプリットステップで先輩が合わせようとするも、合わせ切れないでいたほどだ。それは、何より瞠る程の予測のよさがあってのものだったと思う。インパクト時点で既に動き出しが始まっていたのだから、唖然とした。
そして、体格差があるにも関わらず、寧ろ先輩より大きく見えるような、そんなプレーヤーだった――。
「鍵返してくるから、ちょっと待ってて!」
肩を落とて退場していく先輩を見送ると、そう言って彼は校舎へと向かって行く。去り際の先輩の呟きが気にはなったものの、二人とも気付いていないようなので気にしないことにした。それより……
(何者なんやろうか)
同じ競技をしてきた人間とは思えない彼のプレーに私は戸惑う。
九州という枠に収まるようなレベルじゃない。
練習の量や質、性別じゃ理由にならない差を感じる。
才能という言葉以外、見つけられない――。
「先輩のテニス、どげんやった?」
「面白か動きばってん、真剣にやりよう姿は凛々しかね」
沈んでいきそうな思考から逃れたくて、私は弥生に問い掛けた。そして彼女の答えに緩むものを感じながらも勝負の世界の厳しさに冷たい風が胸を掠めていた。すると、「栞の彼氏、ばり上手やったね」と、彼女が言った。
「は? 違うって。会うのこれで二度目やし付き合うもなんもないやろ」
「でも、人を好きになるんに会った回数は関係なかろ?」
「そうかもしれんけど、人のことば『君』とかいうやつばい?」
「君っちゃなんか、いかにも標準語って感じやね」
「標準語ば、喋る男が好きなん?」
「どうやろねー」と、何やら違和感のある微笑みを彼女が浮かべたころ、息を弾ませながら彼が戻って来た。
「……お待たせ。よかったら、一緒に帰らない? き、君たち、電車には……乗る?」
その息遣いは、プレー中よりも明らかに上がっていた。私は、それが気にならない訳ではなかったけれど、妙な居心地の悪さをどうにかしたくて、彼の胸元目掛けて預かっている物を返してやった。そして、「なんが君たちね!? 私達には、ちゃんとした名前があるっちゃけんね!」と、言いたいことの前振りとして勢い任せに言ってやった。
「もしかして、マネージャーになりたかったの?」
眉を顰めた彼。見当違い過ぎて私は焦りを覚える。
「そうじゃない! そうじゃないの!? って、あれ?!」
自分の口から出た標準語に戸惑ってしまい、何が言いたいのか分からなくなってしまった。
「助けてくれてありがとう。私は古賀原弥生です。こっちが中牟田栞ちゃんです」
「余計なお世話じゃなかった?」
「ううん、とっても助かったとよ。 本当にありがとう」
「それならよかった」
弥生が引き継いだ会話の向きに渋い顔をしつつ、彼の呼吸が落ち着きを取り戻していくのが分かって内心安堵する。思っていたよりも、私は気にしていたようだった。
「甘露寺君も、電車に乗るっちゃろ? 一緒に帰ろ」
「うん!」
そうして「よかろ?」と、こちらを向く彼女に私は不承不承うなずく。そして、この時になって、彼氏発言について糾弾したかったのだと気付いたものの、もう言い出すタイミングを失ってしまっていた……。