第5話
入学式当日。気温は然程ではないものの、午前中から既に夏の下準備といった日差しが照りつける。歩けるようになるまでは、父に送ってもらうことにした。というのも、駅からの道のりは平坦なのだが、80メートル弱の校門までの傾斜が中々の難所になると思われたからだった。
「スーツ着ると格好よかよ」
最寄りとする駅前の一階で小さなテニスショップを営む父は、立ち寄ってから式に参加するという。
「そうか? 着なれんけん、なんだか落ち着かん……」
娘の新生活の門出とあって、しっかりと髪をセットして髭も剃った父は、かなり緊張しているようで、その様子に私の心は却って解れた。
「じゃ、後でね」
黒のスクールソックスを引き上げて、同系色の膝のサポーターで口ゴムの部分をしっかりと押さえ込んだ私は、年季の入った軽から力強く降りた。そして、松葉杖を脇に挟み込み、校門に立ち並ぶ先生と思しき人達に「おはようございます」と挨拶を送り潜った――。
男女共学の学び舎、筑清学園。
文武両道を重んじるこの学校は、創立から三年と日が浅い。なので、未だ校舎は新しい雰囲気が漂い、そこはかとなく透き通った空気すら感じる。
入学前、一番気に入ったところ。それは、テニス部がないこと。
(嫌な思いばせんですむ)、そう思った。
紺のブレザーは志望していたところよりも可愛かったし、チェック柄のスカートも品があっていい。
「は? 嘘やろ」
暗い気持ちの中にでも、高鳴るものを忍ばせながら足を踏み入れた私の視界に、見てはいけないものが映り込む……。
「なんで?」
そう、なんで、ここに――
「テニスコートがあるとっ!?」
校庭に入って直ぐの左奥。綺麗なフェンスで囲まれたハードコートが一面あった。しかもよく見ると、全米オープンで使われるというデコターフ。
用を済ませる為に一度だけ学校を訪れていた私だったけれど、その時は駐車スペースのある裏門から出入りしたこともあって、この高価なコートに気付けなかった。
「知、知らん……」
とにかく部はないと聞いているので、見なかったことにした――。
「ええっと、これから担任を務める鴨志田です。よろしくお願いしますねー」
体育館で行われた式は、つつがなく終了して、それぞれのクラスに場所を移す。
式の間、悶々としたものを抱えながらも、檀上に腰掛け居並ぶ中に祖父の名前と姿を見つけて、私は繁々と眺めていた。その顔立ちはというと、母からは想像が出来ないほどに強面のつるっ禿げ。だけど、その凛とした様子から。写真の母を直ぐに思い起させていた。
(外見、お祖母ちゃんに似とったっちゃろうか?)
そんなことを考えながら観察していた私だったけれど、祖父の方はチラリとこちらを見たきり、パイプ椅子に深々と腰掛けて腕組みしたまま目を瞑っていた。
「今後の予定ですが――」
眼鏡をかけた二十代後半ぐらいの男性担任は、理科が担当とのことだった。博多弁が出ないところをみると、恐らく県外、それも九州以外の人なのだろう。何とも和む雰囲気と存在感の薄さが、中学の頃の強烈な担任を何故か思い出させる。
そして、そんな先生に、男子の誰かが質問をしていた。
「二、三年生より若いからだそうです」と、フワリ答えた先生だったけれど、実際には入試などの為に三年生の登下校が不規則になっていくことへの配慮で一年生が最上階であるらしい。そして、今の私にとって、それは大変迷惑なことであり、初めて上る時には案の上、舌打ちするほどに手こずり転倒しかけてしまっていた――。
「大丈夫?」
そんな私のことを古賀原弥生さんという、長い髪を一つに束ねた女子が後ろから支えて助けてくれた。
「あ、ありがとう……」
「気にせんで」
短い会話だったけれど、私より少し背の高い彼女とは、気が合いそうだと思った。
(心機一転やね)
そうして今、窓際の真ん中に座る私は、ちょうど反対側へ向けて小さく手を振っている。廊下側の古賀原さんとは、クラスメートだった。
彫りの深い彼女の笑みに満足した私は、教壇に立つ先生の話を耳にしながら、視線を外へと向ける。
(爽快!)
青空が広がり、学校の周囲には、生命力豊かに樹々が生い茂っている。この絶好のポジションからは、ちょっとした博多の街並も見下ろすことが出来て、福岡空港から飛び立つ飛行機も景色の一部となっていた。
(いい眺め……やったとに――)
見ないようにしていたテニスコートが、目に入ってしまった。
瞬時に蘇る記憶……。
「テニスげな、ばり好かん」
機嫌を損ねさせた人工的な青と緑を見下しながら、私の高校生活が始まった。