プレシャス タイム!
人はどんなに気丈に振る舞っても脆い
だから結婚をすることでお互いを支えていくことを望む
しかし、中には上手くいかず別れることもある
色々な人生を通し経験し大人になりいずれは・・・
中には動物をペットとして飼うことで癒しを求める人もいる
何れにしても人とは弱く脆い存在
そのことを受け止め、自分なりにどのように生きるかが大切
最近、そのように考えるようになった
私の名は「カスミ」。平凡なOLだけど、それでも誰にも負けたくないという強い気持ちで日々奮闘していた。もちろん私だって女、早く結婚して家庭におさまりたいという夢はそれなりに見ていた。が、私の性格は一本筋が通ったというか男性よりも女性から好かれるタイプのようである。もちろんそんなことは本人も気づいてはいない。そんな時、翔という取引先の割と現代風のかっこいい男性と出会い、彼女のどこが気にいったのかわからないが、あっという間にお互い結婚を意識したお付き合いへと発展したのだった。現在は周囲も羨ましがるほどの仲睦まじき二人であり、まさに絵に描いたような幸せを掴んでいた。彼女にとって唯一気になることがあるのだが、それはよくどこにでもある月並みなことで、翔のご両親のことだった。それは一般的な家族とはあまりにもかけ離れたすごい豪邸に住み社会的立場もかなりの物で、家政婦はもちろんのことお茶の先生、お花の先生とお母様もその方面ではかなり知名度のある人でカスミにはとてもではないがふさわしくないと言える家庭環境なのである。最初に知り合った頃の翔からはどことなくそれなりのオーラがあることには気づいていたが、まさかこれほどとは想像すらしていなかったのだ。なにせ私の両親はどこにでもあるごく普通の一般サラリーマンであり、特に有名でもないし、まして母は花道とか茶道など全く興味もなくむしろ程遠い存在であった。そんな家庭環境で育った私のどこを気に入ってくれたのだろうかとちょっと不思議に思っていたが、その’ことに対してはあまりにも怖かったのであえて聞かないようにしていたのだ。そんな中彼の両親と一度会ったことはあるが、当然のごとく私に対しての印象はかなり悪かったようだ。それを感じたのは、お母さんの私を見た瞬間、なぜこのような人を、もっと素敵な人がいるでしょうと言わんばかりの明らかに敵視した鋭く厳しい視線が明らかに物語っていた。それでも私はひるむことなく心の中で「結婚するのは私達だから私達さえ良ければそれでいいんだ!」というぐらい気楽に考えていた。〈KBR〉
私がいつものように朝ごはんの準備をしていたら、「今日のご飯は何?」とベッドから声がした。私は思わず恥ずかしくなったが「いつもと一緒だよ。何か食べたいものがある?」と聞き返した。その恥ずかしかった理由は、カスミは料理が下手で、さらにレパートリーもハムエッグとかカレーぐらいしか作れないのであった。もちろん将来的にはちゃんとお料理教室にでも通って、一端に美味しい料理を食べさせてあげたいという気持ちはあったが、忙しさにかまけてなかなか行動に移せずにいたのである。そこへ翔が起きてきて「どうしたの、ボーとして。それより、僕がコーヒーでも入れようか?」と優しく言ってくれた。「なんでもないよ!では、お願い。翔の入れたコーヒーは特別美味しいから!」と返答しながら、そそくさとご飯の支度を整え二人で食卓に着いた。ハムとベーコンが日替わりで軽く焼き、あとは目玉焼きか卵焼きかというだけで、実際にはほぼ毎日同じメニュー。スープは市販の物を、味噌汁は具を少し変えるくらいで、よくもも文句の一つも言わず、さも美味しそうに食べてくれるのであった。そういう彼の表情を見ながら、「これでいいんだよね!だって何も文句言わないし、美味しそうに食べてるから」と自分に言い聞かせていた。〈KBR〉
ある日、カスミが帰宅してきた時、彼が少しイラつきながら電話をしていたのである。その溢れ聞こえてくる話の内容から推察してお母さんであることは容易にわかった。何を話してるんだろうと、聞き耳を立てていたわけではないが翔の声がいつもより大きいので否応なく聞こえてきたのであった。それでやっぱりお母さんは私のことを受け入れてくれてないんだなということがつくづくわかったのである。それは「そんなことはない!結婚するのは僕なんだ!それに手料理も本当に美味しいし、僕にとって素晴らしい人なんだ!だからこれ以上くだらないこと言わないでくれ」とかなり強い口調で話していたのだ。私は少しうつむきながら翔の言葉を聞き、本当に嬉しかったし、それに何よりこんなに私のことを愛してくれていると分かって最高に嬉しくなったのであった。「翔の私には対する気持ちに応えるためにも、やはりここは気合い入れて早くお料理教室に行かなくっちゃ!」と心に誓い、夜ご飯の支度をし出したのである。翔はお風呂を溜めながら食事の出来上がるのを心待ちにしているのである。といっても所詮カスミのこと。大したものなんか作れるはずもないが、それでも彼女の手料理ということで喜んでいるのだ。今日のメニューは、ご飯とお味噌汁と大根おろしと焼き魚だけである。しかも魚は少し焼きすぎ、一部が焦げているし、味噌汁はインスタントに豆腐を切って入れただけの夕食である。それを食べながら二人は今日の出来事やニュースで取り上げられていることなどを話していた。そしてカスミが後片付けをしている間に翔が風呂へ入り、そのあとカスミが風呂へ入る。その間、翔はビールを飲みながらカスミの上がってくるのを待っているのである。それからゆっくりとベッドへ向かうのであった。ごくごく楽しく甘い日々を送っていたのであった。〈KBR〉
しかし、仕事は仕事である。そこはきっちりと大人の分別ができているのであった。そんなある日のこと、いつもと同じように颯爽と髪をなびかせながら同社員とすれ違うたびに自然と元気よく「おはよう!」と挨拶をしながら自分の席に向かっていた。彼女のそんな姿は女性社員からも注目の的であったが、そしている時、いつもなら恐縮して挨拶を返してくる仕事ができずにいつもカスミから叱咤激励を受けている青木が急に「先輩、今日はどうしたんですか?やたらと化粧のノリがいいじゃなですか?」と、少しニヤつきながら面と向かって話しかけてきた。カスミは思わず青木のやつをキッと睨みながら「いつもと一緒だよ!何バカなこと言ってるの」と、昨夜は彼と特別な日であったことがバレたのかと急に恥ずかしくなったカスミは少し慌てた様子で言い返した。そこへ彼女が尊敬してやまない恭子先輩が「青木君?なかなかどうして女性のちょっとした変化を見抜くとは大した奴だね。そのくらい仕事もできるといいのにね」と大声で笑いながらカスミのことを庇いながら入ってきたのである。「やっぱしバレてるよ!恥ずかしいよ」思いながらも「恭子先輩まで何言ってるんですか?私だっていつもこの程度の化粧ぐらいはしてますよ」と返すのが精一杯で赤面顔で、どこかぎこちない様で机に向かった。恭子は誰もが認める女性なら誰もが羨ましく思うぐらい、しっとりした家庭的な雰囲気を醸し出す落ち着いた大人の女性という感じで社内でも評判の高い女性なのである。どうあがいてもカスミが同性としてかなう相手ではなかったのである。しばらくして、上司でもあり私の幼馴染でもあり一番の喧嘩相手である課長の斉木が大きなため息とうなだれながら戻ってきた。席に着くなりいきなり「おい、誰かお茶をくれ」と言ってきた。私はその言い草に腹が立ち「お茶は歩いてきません!ご自分でお入れください」と、PCの画面を真剣に覗き込みながら答えた。部署内でのいつもの会話が飛び交っていたが、周囲の連中も「また二人のバトルが始まった。とばっちりを受けないように気をつけよう」と言わんばかりに、二人と目を合わせないように急に資料を取り出したり引き出しを漁ったりとさも仕事をしていますという態度をとりながら、それでもクスクスとほくそ笑んでいたのである。そこへ恭子先輩がお茶を注ぎ、斉木のデスクにさりげなく手渡しながら「課長、どうかされたんですか?今朝の会議で何かあったんっですか?」と心配そうに訪ねたのだ。周囲の連中は、どうせいつもと同じでお偉方さんにグチグチ言われたんだろうし、次は課長から我々にその煽りがくるのが分かっていたので、気づかないふりをするためにいそいそと仕事に精を出し初めのである。そんな中、課長が「大谷取締役からこのままでは俺は左遷だと言われた」と声が溢れた。その瞬間、みんな一斉に手が止まり課長に目を向けたが、課長は何も言わずクルリと背を向け窓の外を見ながら黄昏出したのである。あいつのそんな寂しそうな後ろ姿を始めてみた社員達は、誰一人課長に言葉を掛けられないでいた。カスミも初めて目にする光景にどことなく寂しさを感じたのであった。〈KBR〉
そこに恭子が「部署の成績も対前年をわずかとは言え上回っているし、誰も大きなミスなどしてないではないですか!もしかしたら誰かの差し金かもしれませんね、だとしたら私は納得いきません。そんなことを画策するのは間違いなくあいつしかいないと思うけど?」と苛立ちを隠せない様子で言い放ったが、それを聞いた斉木は「滅多なことを言うものではない。会社としても経営が著しく苦しい時なんだ。何か手を打たなければならないだろうし、そんな言い方はよくないぞ」と恭子をなだめたのである。確かに誰しもがそう思ったが、そんな我々を見ながらさらに「ここは会社だ。命令があれば動く!それだけだ。みんな気にすることなどない!それより仕事だ」と彼奴なりの強がりを見せていた。いつもクールにまるで親の仇と見ていた私でさえ、その哀愁すら感じ取れるあいつの姿には何処と無く寂しさを感じずにはいられなかった。何も言えずに私は打ち合わせ先の元へ。先ほどのことが気にはなっていたものの仕事は仕事だと自分に言い聞かせて先を急いでいた。まさかその原因が私だとはこの時、全く想像すらしていなかった。〈PBR〉
先方の受付を通り、商談相手の元にやって来た。いつものようにドアを開け元気よく「おはようございます」と挨拶した途端、「どうぞ、お入りください。お待ちしておりました」と、少し浮かない表情でトーンも低く招き入れてくれた。私はどうしたのだろうと思いながらも、言われるがまま中に入った。今日の相手は、なかなかの強者で普通はこんなに何度も会ってくれない人だと聞いていたが、何故かカスミだけには連絡するたびにいつも会ってくれる、聞いていた話と全く違い、むしろカスミにとっては会いやすい相手である。彼女自身不思議には思っていたが、あえて聞くことでもないし、また個人的感情などあるはずもなかった。相手は小田という人で、かなりいかつい顔の持ち主で、見るからに昔は結構バカなことをして来たのかなと容易に想像できるタイプである。その小田課長から「先に聞きたいことがあるがいいかな?」とどっしりとソファーにもたれながら聞いてきたのだ。仕事のことだろうけど一体なんだろうとカスミは内心不安に駆られたが、ここは素直に「はい、どうかされましたか?」と返答した。少し嫌な感じの間があってから小田の重たい口が動いた。「君の上司の斉木課長は元気にされてるかな?ちょっとある噂を小耳にしたんだが?」と聞いて来たのだ。「えっ!何で彼奴の事を知ってるの?」と驚きであったが、「はい、あのバカ•••、あっ、失礼しました。斉木は元気です」と、慌てふためきながら何とか返答した。その時のカスミの言い草を聞いて、小田が不思議そうな表情をしながら身を乗り出してきて「あれ、君は私とあいつの関係を何も知らされていないのか?」と聞き返してきた。思わず「どう言うことよ?あいつは何も説明なんかしてくれなかった。よくも私に恥をかかせたな?これは社に戻ったらとっちめないと気がすまない」と心の中は穏やかではなかったが、「はい、全く存じ上げませんでした」と小声で頷きながら返答した。小田課長は天を仰ぎながら「そっか、何も聞かされていなかったのか」と独り言を呟いた。私はどう切り返して良いのかわからず、黙っていた。そんなカスミを見て小田が「そうか。じゃあ、俺が教えるか?それにしても相変わらずだな、斉木の奴は!」と全くしょうがない奴だなとつぶやきながら二人の関係を話し始めた。心臓がドキドキしてるそんなカスミを尻目に小田がしみじみと話し始めたのだ。「もうかれこれ三十年以上の付き合いになるのかな、彼奴とは」それを聞いたカスミは幼少の頃を回想したがこの人と会った覚えもないし、聞いたこともなかった。小田から「そういえば君は奴の幼馴染だそうだな?」と急に訊ねられ、「何でそんなこと知っているの?まさか彼奴は私の変なことを言ってないだろうな」とかなり心配しながら思わず目をそらしながら「はい、そうです。たまたま実家がご近所だったもので・・・」と答えた。「うん、そしたら彼奴が空手を習っていたのは当然知っているよね?」と聞かれ、私もそのことは知っていたので「はい、結構強かったみたいで・・・」とまるで自分のことのように自慢げに返した。「俺は斉木と同じ歳で、実はその頃、私も同じ空手を習っていたんだ。ただ、奴は東京、俺は北海道と全く離れていたんだが、毎年全国大会の決勝戦で闘い、それがきっかけで、それ以来の付き合いなんだよ。だから彼奴とはライバルでありながら良き親友でもあるのだ」と教えてくれた。カスミは「二人の間柄のことなんか一言も聞いたことなんかないぞ。しかし、私の変なことを言われてなくてよかった」と安堵した気持ちと少しムカついた気持ちが交錯しながらも「そうだったんですか?」と返答した。「昔が懐かしいな。この歳になるとお互いなかなか稽古も出来なくてな。しかもお互い社会の波に飲まれて・・・」と、寂しそうにうつむきながら言ってきた。しばらく無言状態が続いたが小田が「ところで、何で俺が彼奴の移動の話を知っているか疑問だろう?違うかな?」と意味ありげな表情で聞いてきた。当然私もその理由を知りたかったので「はい、ぜひ知りたいです」と返答した。「実は、奴とはそれ以来社会人になってからも付き合いが続いているのだが、いわゆる腐れ縁という奴でな、前に一緒に飲んでいた時に相談があったんだよ。この状況ではかなり厳しくてな、今のままでは左遷さそうだと。そこでたまたまこちらの社内でもあいつのやっている仕事に関係するある需要の話が上がってきたところだったから、それで奴にその件を教えてやったが当然その後は私にはどうすることもできないから、後はお前次第だと言ったんだ。俺は単なる課長であって会社の決定権などあるはずもないからな」とこの仕事がどうして我が社に来たのか何となく理解できたのである。「だからといって私が今ここにいるのは彼奴からの指示ではない。むしろ、これまでの私の仕事上の付き合いの関連会社からの紹介があったからで、決して彼奴の力などではないはず」と頭の中で考えていた。そこへ「会社同士の付き合いというのもそうだが、個人的な人間対人間対の付き合いも面白ういもので、どこでどのようにつながっているか全く不思議なものだよ。今の君ではおそらく想像すらできないだろうけど、本来なら斉木自身がやるはずなのに、それをわざわざ君に任せたと言うのは、あいつは君を信じているのだろうな?それから君には我々の知らない何かを持っているのかもしれないな」と目をまっすぐ見つめながら言われた。私には全く理解できず、何も返答できないでいた。そして「今日はこれで終わりにしよう。とにかく頑張ってくれよ、この仕事を君に任せるかどうかは、私が判断することではない、君自身に掛かっているのだから」と、にっこり微笑みながら席を立ち部屋から出て行った。カスミはしばらくの間、「今のはどう言うこと?私の何にかかっているの?普通に仕事をこなすだけではないの?」と、いくら考えてもわからず、動こうにも動けないでその場に座ったままだった。社へ戻る途中で以前から気になっていたケーキ店に入ってみた。すると椅子テーブルも用意されており食することもできたので、ここはゆっくりとさっきの話のことを考えながら食べるべきでしょと勝手に判断し、ケーキとコーヒーを頼んだのである。そんなことは許されることもないが、外回りをしているものにとっては唯一の特権とも言える行動である。一人カウンター席に座りボーとしながら色々考えるがどうしてもカスミにはわからなかったのである。ケーキも美味しく食べコーヒーも飲み終わったので、「社に戻ったらあいつにどう言うことなのかな聞いてみよう」と決心し帰ることにしたカスミであった。〈KBR〉
社に’戻ると、奴がいつもになく真剣に仕事をしていたのを見て、「一体どうしたんだろう、さすがのあいつも左遷という言葉が余程響いているのかな?」と話しかけるタイミングを逸してしまったカスミは、そんなにたいしたことでもないし、それに何より彼が帰ってくるから私も早く帰ろうと思い直し、さっさと身支度を整え「お疲れ様でした」と言い残しさっと帰路についた。いつものように自宅近くのスーパーで買い物を済ませ帰宅した。カスミは会社での出来事はどこ吹く風と言わんばかりに、夕食の準備に取り掛かる。「そうだ、そろそろ真剣に料理教室のことを考えなくては・・・。さすがにこのままだと翔に悪いわよね!彼の健康とかもちゃんと考えてあげなくてはいけないから」と考えながらそれなりにいつものパターンではあるが夕食の準備が整った。その次は、洗濯物をたたみながらお風呂を沸かしたりとバタバタと家事をこなしていると、「ただいま」と疲れた表情で翔が帰ってきた。「夕食できてるけど一緒に食べよう?」と切り出すと、「うん、先に服を着替えてから来るよ」と言いながら寝室へ入った。普段着に着替え終わり、二人揃って食事を取り出した。「カスミ、今日は何だか疲れているみたいだけどどうしたの?」と、相変わらず私の心境を見抜き話しかけて来た。「うん、実はね、幼馴染の彼奴が左遷されるかも知れないらしいの。そこで今日ね、たまたま打ち合わせ先の小田課長という人と会ってた時、教えてくれたけど、二人は旧友の中で付き合いも長いんだと言われたの。そしてね、何とその課長は彼奴の左遷のことをすでに知っててさ、社内でも私達ごく一部しか知らない情報なのに、何で知っているのだろうと不思議だったんだけど、それがまた聞いてびっくりなんだけどさ、あいつは私達より先に小田課長に移動の話をしたらしいのよ、しかもね、今私が担当している仕事も本当はあいつに依頼していたらしいの。それをなぜか私に担当するようにしていたらしいの。それってどう思う?」と翔に聞くと、しばらく考え込んでいたが「余程の付き合いなんだろうね。そうでないといくら付き合いが長いからといっても普通にそんな内輪話をするとは考えられないし、それにカスミに任せたと言うのは斉木課長として何か考えがあったのではないかな?」と返事が帰ってきた。ほら見たことかと言わんばかりに私は「そうでしょ、やはりおかしいよね!左遷の話は今日言われたことではないよね。それに私にその仕事を振ってくるのも、いつ移動になるか分かっているだろうから、だから振るしかなかった、そう言うことか、それなら納得できる」とカスミの心中モヤモヤが吹き飛んだのであった。さらにカスミは「なんかね、同じ部署の女性先輩の言い方だと、重役の誰かがそう言ったのではないか?、その重役っていうのが、一癖あるらしくてどうも以前から彼奴を追い出してその後釜へとそいつの親戚筋の誰かを押そうとしているらしいというのを聞いたことがあるのと言っていたのだけど、それはひどい話だよね」と話を続けていると、翔が「何かおかしいよ、そういうのはさ。だって斉木っていう幼馴染の課長さんも仕事をそれなりにできるわけでしょ?なら、余程の失敗でもしない限りそんなこと簡単に許されるはずないと思うけど・・・。しかし、会社組織というものはそうゆう闇の部分もたしかにあるから仕方がないよね」と、首を傾げながら言った。軽くビールを呑みながら翔が「それよりさ、次の休みはいつなの?」と少し嬉しそうに聞いてきた。私たちは会社もましてや仕事内容も全く違うため、なかなか一緒にということが出来なかったのである。どうしてもというときはどちらかが会社に休日希望を出すしかなかったのである。今回は翔が何か希望があるんだろうなと容易に想像はできが、今私にとって大きなプロジェクトを抱えていたため、大した用事でないなら断ろうと思い、「どうしたの?休日希望を出せば何とか出来ると思うけど?」と少し怪訝そうな表情で返した。そしたら「大したことではないんだけど・・・」と考え込むような表情で返してきた。いつもならあそこに行こうよとか、いい映画があるからとか理由をちゃんと言ってくれるのに今回は彼にしては珍しく言葉を濁していた。こんなことは初めてだったので「どうしたのだろう?いつもの翔とどことなく違う。今までは大して気にしなかったけど、やっぱり私が料理が下手だから嫌気がさしたのかな?それとも私があまりにも仕事を優先させているから、それとも何?私のストレートすぎる性格?私は十分幸せなんだけどやはりご両親のことを考えると私とは不釣り合い?これまでの幸せは私の一人よがりだったの?」と暗い心境で色々な考えを巡らせた。そのうちだんだん腹立たしくなり、ついに私の中で爆発してしまった。「いつもの翔なら理由を言ってくれるのに何?どうしたの?私に何か言いたことあるなら言ってよ?そうでないとわからないよ?どうして何も言ってくれないの?」と激しく噛みついたのである。翔にはかなりの衝撃が走ったようでどうしようという混乱している表情を見せたが、それでも何も言ってくれず、先に布団に潜り込み寝入ってしまったのである。そのような翔をみて「どうしよう。こんなつもりではなかったのに。どうしたのよ?何がいけないの?こんな私でもあれだけ好きだと言ってくれたではないの!それなのに一体どういうことよ?」と一人つぶやきながら崩れるように泣き崩れた。気づくとそのまま朝を迎えていた。カスミは「しまった。あのまま寝てしまった。朝食を急いで作らないと・・・」と思ったが時間を見て愕然となった。それもそのはず、すでにいつもの時間をはるかに過ぎ、職場にも遅刻であったのだ。翔はと言うと、一人黙って仕事に出かけた後だった。こんなことは初めてだったし、カスミに声もかけずに出ていった、そのショックはカスミにとってはかなりのものであり、自分でもどうしていいのかすらもわからない精神状態であった。私のことを嫌いになり荷物をまとめて出て行ったのではないかと勝手な妄想をし、恐る恐る部屋を覗いてみると普段と同じように翔の着替えなどが置かれていた。荷物もそのままちゃんと置かれていたのを見て、心底ホッとすると同時に昨夜の煮え切らない翔の態度でに怒りがじわじわと込み上げて来たのだ。「何よ?私も仕事に行くのに起こしてもくれないなんて!ふざけるな」と怖い表情で身支度を整え走って出かけて行った。いつもの道を走り、電車に飛び乗った。気づくと周囲の人々が私を触らぬ神に祟りなしという具合で遠巻きに見ていたのが分かり、結構恥ずかしい思いをしたのであった。それでも、汗をにじませながら会社に着くと、周囲から冷ややかな目で見られ、さらに最悪なことに彼奴から「お前、遅れるなら遅れるで連絡の一本も出来ないのか?いつまでも駄々っ子をやっているのではない、ここは会社だ、もっと大人になれ」という具合に、こっぴどく怒られ、挙げ句の果て仕事も全く思うようにいかず全てが手付かずという始末、「ああ、今日は最悪だ!人生で一番最悪の日だ」と、一人嘆き、そして辺り一面にどんよりとした重たい空気を漂わせていた。休憩時間になり、皆んなは外へ食べに出て行ったが私はいつものように社内に残り持参したはずの弁当を食べようとしたとき、今日は寝坊したため弁当すらないことに初めて気づいた。「そうか、寝坊したからお弁当作り損ねたんだった。忘れていた、私どうしよう。そう言えば翔のお弁当もなかったんだ、彼奴はどうしたんだろう」とそんなことを考えている内に、どうしようもないくらいの切なさと寂しさに襲われた。そこへ恭子は手作り弁当を持参していたが、カスミのことを心配し、近くの店で適当に見繕って買って来てくれたのである。そして、「ねえ、カスミ!一緒に食べよ!」と言いながらそれらを差し出してくれたのである。思わず泣き崩れそうになるカスミに、「今日はどうしたの?今までこんなことなかったのにね」と聞いて来たのである。カスミは話そうかどうしようか迷っていたが昨夜の出来事の一部始終を話したのである。その話をじっと聞いていた恭子が突然「ね!私の経験上での感想を言っていい?」と意味ありげな表情でカスミに確認を取った。もちろんカスミはハイと返事をしたが、それを受けて「おそらく彼はあることをしようとしているのではないかな?」と切り出したがカスミには全くその意味を理解できないでいた。その表情を見て、「仕事はできても、どうしようもないくらいあなたって人は鈍感ね?」と言って来たのである。恭子の意外な口調にかなりムッとするカスミである。そこへさらに「もう少し男心を理解した方がいいと思うな。多分、男としてのけじめをつけようとしているのではないかな?」と続けてたのである。カスミが「けじめ?」と不思議そうな顔で恭子にたづねると、「正式にプロポーズなり、それなりの形を取ろうとしているのではないかな?しかもあなたには悟られないようにサプライズとして。男にはそんな可愛いところがあるのよ」とにこりと微笑みながら話して来たのである。そんなこと今更しなくてもとカスミは思ったが、そこへ恭子が「昨夜のことをちゃんと謝って、彼の気持ちを汲んであげればいいのでは?ただし、あくまでも彼には悟られないようにね」と追加して来た。カスミは「どうすれば、何て言えばいいのですか?」と恭子に問うたが、「それは自分の気持ちに素直に、相手の気持ちを考えて言えばいいのでは?あなたにできるかな?」と突き返されてしまい、途方にくれるカスミであった。彼女の様子を見て、天を仰ぎながら「これはダメだな!本当に恋愛下手だな。まあ、そんなところに惚れたのかもしれないけど・・・」と思いながらその場を後にした。残されたカスミはぷいとそっぽを向き「素直になれと言われても・・・。それよりなんて言えばいいのかな?どうすればいいのかな?」と気が重くなるのであった。〈PBR〉
午後からの仕事中、カスミは先ほど言われたことを必死に考えていた。斉木が「おい、お前の進捗状況はどうなっているんだ?早く報告書を出せ!」と大声で言われても全く耳に入ってこなかった。そのようなカスミを見て、後輩の多田が「先輩?呼ばれてますよ!」と小声でカスミに囁いたがそれすら気づかないのである。その様子をみた恭子が彼女に近づいて来て頭をポンポンと軽く叩きながら「課長に呼ばれてるよ!今は仕事中でしょ?それに集中しなさい!」と厳しい目つきでカスミを諭して来たのである。ハッとした表情で慌てて斉木の元に行くカスミだが、「要件は何でしょう?」と思いっきりすっとぼけた質問したのである。周囲の連中もこれは課長が切れるぞと緊張が走ったが、斉木は「報告書を早く提出してくれませんか?お嬢さん?」と呆れ顔で力なく伝えるだけだった。課長の態度を見て、みんなの緊張が一瞬にしてほぐれたのであった。さすがの恭子も「今日は使い物にならないわね!」と、課長に言いながらお茶を持って来てくれたのである。そのお茶をすすりながら「ちょっと外出してくる」と肩を落としながら出て行くのであった。そんな後ろ姿を見ながらカスミは「課長、どうしたんだろう?何かあったのかな?」と他人事のように捉えていたのであった。周囲の連中もカスミの態度にかなり困惑したが、早く今日の日報を提出しないと今度は自分だよと考え、そそくさと作成に乗り出したのである。後から日報作成を始めたカスミが一番手に提出し、さっさと帰社して行ったのだった。その書類をみんなして覗き込んだが、そこはさすがカスミのことである。誰よりも正確で綺麗な書き方であったので、その力量の差を見せられみんな一斉に肩をおとすのであった。恭子はみんなの姿を見ながら、「仕事は誰にも負けない凄いものを持っているのに、恋愛に関しては本当に子供以下だわ。やはり天は二物を与えずか!それにしても課長の気苦労も大変ね!」と斉木のことを心配したのだった。〈PBR〉
帰宅途中も相変わらず悩んでいるカスミである。いつもなら意気揚々とスーパーで買い物をしているのだが、心ここにあらず状態で適当にカゴに入れている彼女に店員が話しかけて来た。そこではいつも挨拶をしてくれる笑顔の素敵な店員さんでカスミも買い物の時、よく話しかけていたのだ。今日はさすがに店員もカスミの様子がおかしいと感じ、それで何気なく話しかけて来たのだ。急に話しかけられたのでびっくりしたが、彼女だとわかり安心していつものように世間話を始めるカスミであった。たわいもない話をしていたら、先ほどまで真剣に悩んでいた自分がバカバカしく思えるようになり、気持ちが楽になって行くのを感じて始めたのである。それで店員さんへお礼を言いながら、買い物を終えてさっさと帰路につくカスミを見て微笑んで見送る店員であった。帰宅してから「何て話を切り出そうか?先輩の言っていた悟られないようにって、無理だよ!どうしても勘付かれてしまうよね。彼は感が鋭いから、一体どうすればいいのかな?」と悩んでいるところへ翔がきたくしてきた。ドギマギしながらカスミの口から出た最初の一言は「今日はどうして起こしてくれなかったの?」だった。またどうでもいいことで自分の責任であるのことはわかっていたのに言ってしまった。少し間を空けてから「それと昨日はごめん、少し言い過ぎた。本当にごめんなさい!それで私の休暇は、いつもがいいの?」と、彼には問いただした。まるで弾丸トークのように感情のおもむくままに。カスミの慌てたようななんとも言えない表情に翔も笑いながら、「わかったよ。今朝、起こそうかどうしようか悩んだけど、カスミも疲れているんだよなと思うと今日ぐらいは無理やりでも会社を休んだ方がいいのではと考えて、それならこのまま寝かしておこうと思ったんだ。ただそれだけのことだよ!本当だからね!」と説明した。さらに「今度の日曜日なんだけど、なんとかならないかな?」と続けた。カスミは「大丈夫かな?取れるかな?でも翔が珍しく一緒に休もうと言ってくれるんだからここは何としても願いを叶えないといけないよね」と自分に言い聞かせ、微笑みながら頷いた。「休暇取れたかどうか明日連絡するから」と伝え、夕食の準備にはいったのである。大した料理ではないが、店員さんから教わった通りに作って見たら、それがどうしたことか本当にうまくできたのである。カスミ自身驚いたが、翔はもっと驚いていた。カスミがその表情をみて「このぐらいの料理なら私にだってできるよ。今までは面倒臭くてやらなかっただけだからね」と自信満々の笑みを浮かべながら言ったのである。それを見て翔が「へえ、カスミもやるもんだね!それより冷めないうちに食べようよ」と言いながら先に頬張った翔であった。カスミがそれを見て「こら、私がまだテーブルについてないのにお行儀が悪いぞ」と言うと、「そんなセリフをまさかカスミに言われるとは?」と言い返して来たのである。カスミがちょっとだけ怒った表情をして見せると「ごめんごめん」と言いながらさらにつまみ食いをすのであった。慌ててカスミも今出来立ての料理を口に頬張るが、当然熱すぎてハーハー言いながら口を大きく開けていた。「いつものカスミだ」と心底笑いながら二人で楽しく夕食を取ったのである。カスミは「店員さん、ありがとう」と感謝しながらはにかんだ笑顔であった。翌朝一番で休暇願を提出したが、どうして今度の日曜日なんだろうと考えていた。特別な日であることは容易に理解できたが、二人にとって大切な日ってなんだろうと考えていたのである。翔や私の誕生日でもないしご両親でもない、ましてや私の両親でもない。なんの記念日なんだろうと思いながらも仕事に励んでいた。そんなカスミの様子を見て、誰にも悟られないように恭子が「昨日はうまくできたようね?」とさりげなく肩をポンとつつき、それに対してカスミも小さく頷くことで返答したのである。希望がなんとか叶い、今度の日曜日に無事休暇を取れたことを翔へ急いでメールを入れた。すぐに返事が来たがただありがとうとの一言だけであったことに少し憤りを覚えたものの、ここは恭子が言った言葉を信じて我慢するカスミであった。デスクに戻り仕事をこなすふりをしながら、カスミなりに夢見ていた教会スタイルでの挙式のサイトを必死の形相でみっていたのである。それに気づいた恭子が「そんなにニヤニヤしながら見ていると周囲にバレるわよ!」と言いながら、PCを覗き込んで来た。恭子も女性である。画面を食い入るように見入りながら二人でヒソヒソと話しが盛り上がる。そんな二人を見ていた斉木が「何をしているのだ?まさか仕事以外のことをしているのではないだろうな?」と威圧感たっぷりな口調で諭して来たが、カスミは私達に限ってそんなことするわけないでしょうと平気な顔で言いのけたのである。さすがの恭子もカスミのクソ度胸には恐れいった表情だった。恭子がごめんなさいと言わんばかりの恐縮した態度で席を立ち、斉木の元にご機嫌とりでお茶を持って行ったのである。二人目を合わせ恭子はごめんなさいという表情を、斉木は全く仕方ないなという呆れ顔でいた。周囲の連中もカスミが何をニヤついているのか薄々気づき始めていた。そんな中、青木がカスミの後ろから覗き込むようにしながら「ああ、先輩、ついに・・・」と言いかけた時、カスミが振り向きざまにボディーへきつい一発をお見舞いし、青木はそれをもろに食らってしまい思わず膝から砕け落ちたのである。それを見ていた周囲の連中も大笑いしながら、その程度の攻撃で済んでよかったなと口々に言われたのを聞き、「それは一体どういうことなの?何かいつもの私が暴力を振るっているみたいでしょ」と相変わらず強気の口調で諭すカスミであった。しかし、みんなクスクス笑うだけで何もフォローしてくれないことにカスミの怒りが爆発し、青木に「あんたが悪いの!何て後輩なの?もう仕事を教えてやらないからね」と言われ、「ちょっとそれは待ってくださいよ。姉御様」とひれ伏す様子を醸し出すと一気に大爆笑となったのである。それを見ていた隣の部署の連中まで吹き出してしまったのである。すごく恥ずかしく感じたカスミは「もう、みんなして何よ?私をバカにして」と一人ふさぎ込んでしまったのである。その様子がさらに笑いを誘い、小田課長も腹を抱えて笑いながら「お前の良き指導のおかげだな」と言われ、斉木も「当たり前だろ!最高のお笑いのセンスだろ?」と言いのけたのである。それを聞いたカスミが斉木を厳しい目つきで睨みつけるのであった。視線を感じた斉木はクルッと後ろを振り返り肩をゆすっているのだった。〈KBR〉
日曜日の朝、いつものように朝食を食べ、二人で久しぶりのお出かけをした。カスミは内心「どこへ行く気だろう?教会?イベント会社?」と想像を勝手に膨らませながら翔の後をついて行った。行き先を何も教えずに先へと急ぐ翔。電車を乗り継ぎながら向かう先は実家からほど近いご先祖様のお墓であった。恭子は想像と全然違ったことで戸惑っていたが、お墓まいりが済むと実家へ行くだろうと思いきやそのままUターンし、都内へ戻って来たのである。「一体どうしたのだろう?」と思いながらも敢えて何も聞かずにただ後をついてくるだけのカスミ。そこへ翔が「さっきお墓まいりの時、カスミとの結婚の報告をしたんだ」とさりげなく教えてくれたのである。カスミは想像すらしていなかった言葉に一瞬驚いたが、すぐに嬉しくなり「それって、プロポーズなの?」と聞き返したのである。素直にだきつなり涙ぐむなど可愛い女性になりきれないカスミであった。それでも困惑した表情の翔が「そうだけどダメ?」と自信なさげに聞き返して来たが、嬉しそうに「うそよ。うそ。本当は嬉しかったの」と答えると、ホッと胸をなでおろす翔であった。そこでさらに彼が「では、中に入ろうか」と言いながらウェディングドレスが展示してある店に入って行ったのである。慌てたカスミは「ちょっと待ってよ?」と言いながら翔の手を引っ張ったのである。翔が「どうしたの?一緒に入ろうよ」というと、「だって私たちは結婚式も披露宴もしないって話し合っていたではない。それなのにどうして?」と釈然としない表情で問いただすと、「そうだけど、せめて二人だけの記念にドレスを着て写真だけはと思って・・・」と小声で答える翔。カスミはその気遣いが嬉しかったが、「そういうことなら仕方がない。どうしても私のウェディングドレス姿を見たいわけね?」と相変わらず可愛くない女性をしていたのである。店員さんが二人に「今日はどういったお衣装を?」と問いかけながら近ずいてきた。翔が「いや、その、ウェディングドレスで記念写真だけどもと思い、それで衣装を選びにきました」と辿々しい言い方で答えると、「お好みのデザインとかありますか?新婦様?」と突然聞かれ、その新婦様という言葉に嬉しさがこみ上げてきたカスミはうろたえながら「私、こういうのって初めてで・・・」と返答するのが精一杯であった。そんな二人を優しい眼差しで迎えながら、「それではとりあえずサイズなどもありますので、一度試着してみましょうか?」と誘われ、店員さんが適当に選んだドレス試着してみた。そしてかなり恥ずかしそうな表情で試着室から出てきたカスミを見て翔が思わず見とれてしまったのである。翔の表情を見て思わず嬉しくなったカスミも自分の姿を鏡に映し出し、その姿に惚れ惚れしたのである。そこへ店員が「今度はこちらを試着室してみましょう」と別のデザインのウェディングドレスを持ってきてくれて、再度試着室してみるとこれまた素晴らしくカスミが映えて見えるのであった。結局二人揃ってどれが一番似合うかわからくて、カスミが「店員さんならどれが私に似合うと思いますか?」と尋ねたのである。店員が「私ならこれをお勧めいたしますよ」と勧めてきたのがフリフリの衣装ではなくシンプルでそれでいてしっかりと存在感を醸し出している、カスミもこれがいいのではないかと内心思っていたドレスであった。それで二人安心してそのドレスを選択したのである。写真撮影の日程なども決めて店を後にしたのである。その後、近くにある小さな教会へ翔が案内し、日取りを決めたのである。あっという間の一日であった。帰宅してからカスミの抱えていた疑問を聞くことにした。それはどうして今日だったのかということであった。それに対し翔が「二人が結ばれてちょうど一年という節目で結婚したかったし、それに合わせて日程を考えていくと今日しかなかったんだ。黙っていてごめん。でも喜んで欲しかったから」と繊細な男心kの一部を打ち明けてきたのだ。「恭子先輩の言った通りだった。どうして先輩にはわかって私にはわからないのだろう」と落ち込みながらも彼の気持ちが嬉しくて喜んでいるカスミであった。〈KBR〉
月曜日、いつものように出勤するといつもの様子でみんな忙しく動いていた。そんな中、カスミはタイミングを見計らっていた。それは恭子と二人になるチャンスであった。誰にも気づかれないようにカスミも何食わぬ様子で仕事をこなしていたが、その心境は一刻も早く恭子に昨日の二人の出来事を報告したかったがなかなかチャンスが巡ってこない。そこで昼休みを待つことにしたのだ。やっと待望の時間になり、みんなが昼飯で外出して行ったのを見送りながらそこらへんに誰もいないことを確認すると、恭子の隣に座り「一緒に食べてもいいですか?」と話しかけた。恭子も待ってましたという様子で「もちろんお待ちしておりましたよ、どうぞ」と嬉しそうに対応してくれた。「先輩の想像通りでした。最初は実家の方向へ向かって行ったから、正直行きたくないなと思いながらも黙ってついて行ったら、お墓まいりだけで、それから都内へ戻り、プロポーズしてもらって、そのままウェディングドレス選びと教会へ・・・」ととびきりの笑顔笑顔で全てを話したのである。恭子もその表情を見ながら嬉しそうに聞き入っていた。「やはり私の行った通りだったわね」とちょっとだけ自慢げに言う恭子であった。それを受けてカスミが「私にはさっぱりわからなかったのにどうして先輩はわかったのですか?」と聞いて見たのだ。ニコと微笑みながら「長年女をしているからではないかしら?」ととぼけた言い方で恭子は返した。うまくはぐらかせられたという気持ちではあったがそれ以上は聞かないでいたカスミだった。二人の楽しい時間があっという間に過ぎ、午後の仕事時間がスタートしたが、斉木が戻ってこなかったのである。そんなこと誰も気にも留めるはずもないが、恭子が「誰か課長の行き先を聞いている?」と尋ねた。誰からも返事がなく、その時初めて斉木が戻ってきてないことに気づいたのである。青木が「そういえば、課長は?」と改めて戻ってきてことに気づくのである。田崎が「どうした?昼飯から戻ってきてないのか?まあ、いろいろ事情があるのだろうよ」と意味深い物の言い方をしたのである。カスミは大して気に留めなかったが、恭子はどこか心配そうな様子だった。彼女の様子を見て、「全くしょうがないわね、あいつ。こんな美女を心配させるようなことばかりして、一体どこをほっつき歩いているのよ」と独り言を言いながら斉木の携帯に連絡を入れた。しかし、音信不通で電話にすら出ないのである。「戻ってきたら思いっきり叱りつけてやるからね」と言葉を吐き捨てながら大きなため息を突き、仕事に戻ったのであった。田崎も奴のことを一体何をやっているのだというような様子で部下の作成した書類に目を通していた。そこへやっと戻ってきた斉木は疲れ切った表情で席に座り、大きなため息を突きたかと思えば、いつものように景色に見入っていた。そこへ恭子がホッとした様子で「どうしたのですか?行き先を誰に言わずに?」と聞くと、「ああ、悪かった。昼飯を食っていたら目の前に空手道場の看板が飛び込んできたので、それで行って見た」と眠そうな声で返答したのである。彼女が「そうですか!それならいいけど、あなたは課長という責任ある職なんですから、もう少し自覚をしていただかないと困りますよ」とあいつだけに聞こえるように小声で囁いたのである。思いっきり怒ってやろうと意気込んでいたカスミだったが彼女のそんな優しくもさりげなく厳しい一言で振り上げた拳を静かに下ろしたのであった。そのことに気づいた田崎が「おい、斉木?優しい部下でよかったな?誰かさんが怒り心頭で振りかざした手のやり場に四苦八苦していたぞ」と笑いながら言い放った。それでも心ここにあらずという態度でイスにもたれながら静かに寝入ってしまったのである。その姿を見てカスミは昔の斉木のことを思い出していた。「いつもあんな風に稽古から戻ってきたらどこででも寝ていたな。勘違いして私のベッドで寝たり、全く空手バカなんだから。もういい大人なんだからちゃんとしてよね、こんな素敵な人がそばにいるのに!」と心の中で一人つぶやきながら仕事をしていた。やっと眠りから目が覚めた斉木に、恭子が「よかったらワイシャツを脱いでください。大きなほころびがありますので」と裁縫道具を準備したのだった。そんな彼女の姿を見て、カスミは帰りの電車の中で「翔が同じような状況でも私にはできないな。大体そんなことにも気づかないだろうし、裁縫なんてもう小学生の時以来やってないし、それに不器用だからな、私は。やっぱり先輩はすごい、本当に女性の中の女性だよ、どうあがいてもかなわないよ私なんか。そんなこと大した自慢にはならないけど」と、ちょっと恥ずかしそうにうつむきながら帰社したのだった。流石に翔には恥ずかしくて言えず、連絡もなしに勝手なことをしていたことだけを話ししたが、「童心に戻ったのかもしれないね。珍しいね、カスミからはいつも厳しい厳格な上司という感じしか受けなかったから。でもなんとなく安心したというか、人間らしさを感じられたから。それによほど空手をしたかったんだろうね!」と少し安堵した様子でビールを飲みながら食事を進めていたのである。カスミも同じようにビールを飲みながら「そうか、翔にはそういう風に思えたんだ。確かにいつもは厳しく部下達に接していたし、いざというときは誰にも真似できないぐらいの仕事量を完璧にこなしていたし、これぞ信頼される上司という姿だったからな。だから空手もできなかったのかな?確かに昔を見ているようだったな。それにどことなく輝いて見えたのも本当だから・・・。それでも私は認めないけど」と一人心の中で舌をベーと出しながら呟いた。〈KBR〉
それから数日経ち、カスミは上司である斉木を喫茶店に呼び出し、結婚をすることを報告をした。斉木が驚いた表情で、しかしどことなくショックを隠しきれない様子でもあったが「そうか、とうとうその気になったか?おめでとう」と言ってくれた。しばらくは二人で昔話をしながら懐かしく思い出していたが、「今お前の抱えているプロジェクトは何が何でも成功させろ。これは結婚とは関係のないことだからな」と厳しい口調で言ってきたので、カスミも結構ムッとした表情で「それは当たり前のことです」と言い返したのであった。社に戻ると斉木が「みんな、ここに来てくれ」と大声で指示を出した。みんなは一瞬何かトラブルでもあったのではないかとビクつきながら斉木の元に集まった。斉木が「彼女が結婚することになった。祝福してやってくれ」と言うと、みんな嬉しそうに微笑みながら「料理できるの?」とか「いつまでそのバケの皮を被っていられるのかな?」とか、散々いじって来たがそれに対し相変わらず強気で「大丈夫だよ。この私だよ!」と言い返していたものの、カスミは正直なところ「本当だよね。いつまでもあんな料理では嫌われてしまうから、早くお料理教室に通わないと」と思っていた。そこへ青木が「一度、先輩の手料理をご馳走になりたいな」とニヤニヤしながら茶化して来た。流石にむかっときたカスミは「どうしてあんたに私の手料理を食べさせないといけないのよ?バカ言ってるんじゃない。それよりあんたも私のような素晴らしい女を早く見つけなさい」と睨みつけながら言い放ったのである。流石にみんなが「お前、言われたぞ」と今度は青木を茶化して遊んでいた。そこに斉木が「本当にお前は料理は大丈夫か?」と誰にも聞かれないように聞いてきた。一瞬びっくりしたカスミだったが「大丈夫だよ!多分?今までも私の料理で文句言われたことはないから」とかなり恥ずかしそうにうつむきながら返答したのだった。心配した斉木が「お前がよければ恭子さんに頼んで押して貰えばいいのではないか?彼女の手料理は最高だぞ」と嬉しそうに話してきた。「やっぱりこいつは先輩のことを好きなんだ。なんとなくそんな気はしていたけど、いつの間にか手料理をご馳走になるほどの仲になっていたんだ。こいつもやるではないの?」と一人想像していた。みんなから「今日は別の仕事をしないといけないな、課長?」と、目を輝かせながら尋ねてきたが、斉木は「なんでこいつのためにそこまでしなければならないのだ?」と笑いながらカスミを見ながら言いのけ、さらに「そのぶんは当然明日が大変になるぞ?それでもいいのか?」と聞き返すと、みんなは「よっ、その言葉を待ってました。大丈夫、大丈夫!明日は明日の風が吹く」と嬉しそうにはしゃぎ出した。もちろんあいつの言い草に頭にきたカスミは「なによそれ?どういう意味よ」とものすごい形相で睨みつけながら叫んだが、カスミの声など届くはずもないくらいの騒ぎであった。そこに隣の部署の連中までご多忙にもれず参加してきて、一緒に行くことになったのである。「なんか私はだしに使われたような気がするけど?」と納得できない表情をしていたが、恭子が「たまにはこんな連中のためにだしになってあげてもいいではないの?それにみんな嬉しいのよ」と微笑みながら宴会の予約などの準備に取り掛かったのだ。こういう時の先輩は特に手際がいいし、気がきくのである。そこはさすがといつも感心していたが、今回はどうしてか恭子の姿を素直に認めたくない心境であった。〈KBR〉
宴会が始まったが、結局はいつもの呑み会であった。仕事の憂さ晴らしをしながらもカスミには「たまにはこんな楽しい呑み会がなくては?」と、完全にだしにされていたのである。「クッソ!」と思いながらもみんなの気持ちに触れて徐々に「確かにこういうのもたまにはいいかもしれないね、みんないつもは必死で働いているから」という気持ちへ変化していったのである。そしてさりげなく斉木と恭子を観察していると、誰にも悟られないくらいの二人だけにしか分かり合えないくらいのサインで会話をしていることに気づいたのである。お互いを信頼しあっているからこそできることなんだと羨ましく思いながら二人をみていたのである。そして「私たちもあんな二人みたいになれるのかな?」と心配と希望が交差している不思議な感覚に陥っていたのである。さらに斉木を見ていると初めて気づいたことがある。それはどんな時も誰とでも決して目をそらさず、常に相手をしっかり見ながら話をしているし、自分の言葉に自信と責任を持っているということである。一人の人間として最も大切で基本的なことではあるが、現代の世の中では珍しい存在であることは言うまでもない。このような人は大抵出世できないが周囲からの信頼は厚いのである。「昔から本当に変わってないな、こいつは」と少し安堵していたのである。呑み会も終了し帰宅したカスミは翔を起こさないようにそっと布団に入いり寝入ったのである。〈KBR〉
社内ではいつもの風景が広がっていた。斉木をはじめみんな仕事を黙々とこなしていたが、その中でカスミ自身気になっていることがあったのである。それは斉木の異動の件である。最近は誰も噂すらしなくなっていたが、一体どうなっているのだろうと思っていた。さりげなく青木や他の連中にも探りを入れてみるものの全く情報がない。あの情報通の恭子ですらわからないのである。「あの騒ぎは一体なんだったのだろうか?」と納得いかないにしてもカスミにはどうすることもできないのである。そのような彼女の動向を見ていた斉木が「おい、久しぶりにコーヒーでも飲みに行くか?」と誘ってきたのである。「私には決まった人がいるから今更口説いてもダメだからね!それにあんたにもいい人がいるのでは・・・」と恭子にさりげなく目線を持って行きながら言いのけたのである。それに対し、大きなため息をつきながら「何を勘違いしているのかは知らないが、ただ例のプロジェクトの件でコーヒーでもゆっくり飲みながら話をしようと誘っただけだ」と言い返し、「どうするんだ?行くのか?」と催促した斉木である。「もちろんおごりだよね!そうでなければ行かない」とちょっと反論してみたが、「わかっている」とだけ言い残しさっさと出て行ったのである。慌てて追いかけるカスミ。その彼女を見送りながら恭子は「まだまだ人を見る目ができていないようね?どうやら私たちのことを誤解しているようだけど、私こそ大切な彼氏がちゃんといるのよ。斉木くん以外は誰も知らないことだけど」とさりげなく自慢げに微笑みながら仕事に戻ったのである。恭子の言った通り、恭子の私生活のことを誰も知らなかったのである。もちろん仲がいいカスミですら仕事以外での付き合いをあまり好まない恭子であるから、仲良く話をしていても家庭のことは全く触れないでいたのだ。〈KBR〉
喫茶店に入った斉木が「おい、カスミ。俺のことを色々詮索しているようだがどうかしたのか?」と直球で聞いてきたのである。少し驚いたカスミであったがこれまた直球で「この前あった異動の話はどうなったのかな?と思って」と返したのである。すると思いもかけない返事が斉木から帰ってきたのである。それは「さあ、俺もよくわからないのだ。あれ以来、専務からは何も話が来ないしな。それにしても俺のことを少しは気にかけていたのか?」と。慌てて「何をバカなことを言ってるの?」と返しながらも「そうか、異動の話はとりあえずは無くなったということか」と安心したカスミであった。さらに斉木が「お前の言っていたいい人とは彼女のことか?それだったら思いっきり勘違いしているぞ」と高笑いをしたのであった。その様子を見てカスミは「だって、誰がどう見てもそのようにしか見えないと思うけど?」と不服そうな表情で切り返すと、「彼女はそんな人ではない。もちろんある意味で俺にとっては大切な人ではあるが、決してそんな勘違いされるような人ではないぞ。お前の人を見る目も大したことないな?」と言いながらさらに笑われてしまったカスミであった。まだ納得できずにいるカスミではあったが、嘘を言うようなやつでもないしそれならそれで生涯独身でいろと思ったカスミであった。社内に戻ると青木のプレゼンの準備が進められていた。このプレゼンで成功すると本契約が成立すると言うことで青木を中心に必死に準備してきていたのである。当然のこと、社の運命を左右すると言っても過言ではないくらいのビッグチャンスであったので当然力が入っていたのである。いよいよプレゼンの出来を確認してもらうために行うのだが、そこには斉木の存在が必要であった。彼は過去にそれ以上の仕事を成し遂げてきた、誰もなし得なかったビッグビジネスを一人でこなしてきたのであった。それだけに斉木からの評価がないと前に進まないのであった。全員が揃い、いよいよプレゼンがスタートした。真剣な青木の表情を見ていたカスミは「結構成長したではないの?私の指導が良かったから」とちょっと自慢しながら見入っていた。それが終了して青木が「課長?どうでしたか?」と恐る恐る尋ねたところ、しばらく真剣な表情で考え込み、そして厳しい目で青木を見つめながら「
内容はなかなかのものだ。これなら何とかなるかもしれない。が、問題はお前の顔だ」と言いのけたのである。みんなはその言葉を聞いて爆笑したが、青木は照れ臭そうに「それを言われても・・・」と嘆いたのであった。そこに何一つ反応しなかった恭子が「青木くん?課長の言われた顔はあなたの思っている顔ではなく、自信に満ち溢れた溢れた表情でいなさいと言う事なのよ」と呆れ顔で忠告したのであった。それを聞いたみんなが一斉に静粛ムードに陥り、改めて恭子の存在に驚かされたのである。いつもはお茶汲みなど雑用も平気でこなす社員であるからそのうち誰しもがそれが彼女の仕事だと勝手に思い込んでいただけで、実際は誰しもが認める才能を持っていたのである。その実力は間違いなく斉木がいなかったら彼女が出世していただろうと言われるぐらいであった。みんな、改めてそのことを思い出したのである。カスミもその一人だった。まだカスミが駆け出しの頃、出先の会社で聞いたことがあったのだ。〈KBR〉
「彼女は元気にしているか?」と聞かれ「はい、元気に仕事をしています。どうしてご存知なのですか?」と質問したところ、「そうか。彼女はもともとはこちらに社員として在籍してたのだよ。しかもそれなんかよりも凄腕の持ち主で誰もが出来ないと思われたプロジェクトをこなし、それも大成功させたのだよ
。だから誰しもが彼女が出世頭だろうと疑わなかったのだが、そのような彼女にとって不幸な出来事が起きたのだよ。あれは今考えてもあまりにも酷い出来事だった。それでここにいずらくなって辞めてしまったんだ。誰の責任でもなかったし、ましてや彼女を責める奴は誰一人いなかったのだが、それでも辞めざるを得なかったのだろう。今でも残念だったよ」と言われたことを。「あれはどういうことだったんだろう?先輩に何があったんだろう?」とちらっと恭子を見たがそのようなことを聞くわけにもいかずカスミの心の中に閉まっておく事にしたのであった。〈KBR〉
数日後、青木のプレゼンの本番が行われていた。社内には重苦しい雰囲気が漂っていた。そのような中、一人だけ青木のことを気にせず自分の仕事に精を出している奴がいた。それはカスミであった。なぜなら彼女はなるようにしかならない、そんなに心配なら一緒に行けば良かったのにという冷めた視線で物事を考えていたからである。しかもカスミ自身が育て上げた後輩ならなおさらであった。斉木も似たような感覚の持ち主ではあったが、そこはやはり上司でもあるし会社の存続にも関わってくるプロジェクトであるからどうしても心配せざるを得なかったのである。いつもなら昼休みともなれば一斉に食事のために飛び出していく連中が今日は食事もせずにずっとデスクに居座りじっと電話を凝視しながら鳴るのを待っている。カスミはそのような雰囲気を嫌っていたが、本当のカスミの気持ちは「大丈夫。あいつはいざとういうときは頼りになるものを持っている。あいつなら堂々とやり遂げてくる」と信じていたのである。なぜなら、研修をしているとき、一度青木のここぞというときの行動力を目の当たりにしていたからだ。いつもは頼りなさげなふにゃふにゃした態度ではあるが、窮地に追い込まれたときの青木の精神的強さを知っていたので誰よりも信じることができたのである。そこへ恭子がみんなへコーヒーを持ってきてくれたのである。さすがに気の利く女性である。何も話をするわけでもなくさりげなくそれぞれの手元にそれを置いてくれたのである。カスミはその様子を見ながら、「私も一息いれるか」と背伸びをしながらコーヒーを取りに行くと、恭子が「あなたは強いわね?」と話しかけてきたのである。その言葉に対しカスミは「あいつはいざという時の行動力には目を見張るものがあったから心配してません。むしろもっとあいつのことを信じてやれないのかと思うんだけどな」と平然と返したのである。それを聞いた恭子が「そうか!彼の研修はカスミさんがしたものね。だからよく彼のことをわかっているのね」と納得した様子で頷いた。〈KBR〉
夕方になり、朝から静まり返っていた職場に一本の電話が鳴り響いた。恭子がその電話に出たが、即座に「課長?青木くんからです」と言い、課長へ電話を繋ぐ。周囲はドキドキしながら課長の表情を見入っている。徐々に緩んでいく斉木の表情を見て身を乗り出してくるみんな。そして斉木が突然立ち上がり手を高々と築き上げてガッツポーズを取ると同時に歓喜の渦になったのである。みんなそこら中にいるもの同士肩を抱き合いながら、握手をするやつもいれば、全員が喜び勇んでいた。恭子もホッとした表情で胸をなでおろしながら、湯沸室へ向かいながら「手伝ってくれない?」と誘いを受けたので、仕方ないなという表情で一緒に行った。驚いた事に冷蔵庫の中には大量のビールが冷やしてあったのだ。それを見て思わずカスミが「ええ、これは?いいのかな呑んでも」と言うと、恭子が「青木くんのことを信じていたのはカスミさんだけではないのよ?斉木課長もそうなのよ!それでも心配なのよ?それが上司ってもんよ」と微笑みながら言ったのだった。その言葉を受けて「へえ、たまにはあいつも気がきくことをするもんだ」と笑って答えると、「そうよ、だからこそみんな課長についてくるのよ」と嬉しそうにグラスやおつまみなどを準備し始めたのである。そうこうしているうちに青木ががっくりとうなだれ「疲れたー」と大きくため息をつきながら帰ってきたのである。斉木が青木の方へ近づき何かを言おうとした時、湯沸室にいたカスミが「こら!青木!誰にもできないような大プロジェクトをやり遂げたんだからもっと威張りなさい」と威勢のいい声で檄を飛ばしてきた。思わず肩透かしを食らった斉木は「しょうがねーな」と言わんばかりの表情をしながら青木の肩をポンポンと叩き「よくやった。でかしたぞ」とだけ言い、クルッと回ると自分の席へ戻って行った。その様子を見ながら小田が「おいおい、今日ぐらいは斉木の出番を作ってやれよ」と笑いながらカスミに言ってきた。恭子も笑いながら「全くあなたって人は・・・」と半分呆れ顔で笑っていたのだ。恥ずかしそうにしながら斉木に目をやると苦笑いをしていたのである。その表情を見てカスミは「ごめん」と思いながらもついつい素直になれずそっぽを向きたのであったのだ。斉木がビール片手に「青木、よくやってくれた。これからもっと忙しくなるが乗り切れよ!お前には誰よりも頼り甲斐のある強い男勝りの先輩がいるから」と言うと全員笑いながらカスミを見たのである。カスミが「その言い方・・・」と言いかけると、間髪入れず声高々と「カンパーイ」とカスミの声をかき消す勢いで音頭を取ったのである。恭子がカスミの肩をポンと軽く叩きながら「さっきの仕返しだね」と微笑みながら囁いてきた。もちろん悔しいと思いながらもここは仕方がないよなと言い返すのをやめたのである。恭子が斉木の元に行き、何やら話をしていたが二次会の場所の指示を仰いでいたようで、席に戻ってくると早速その店に電話を入れて予約を取ったのである。そんな流れるような二人の仲を羨ましく思いながら見ていたのである。〈KBR〉
あれから数週間経ち、いよいよ待ちに待った二人の結婚式当日がきたのである。朝からバタバタと動きながら準備をしているとそこへ翔の携帯が鳴る。翔が電話に出ると一瞬で表情が曇ったのである。なんとこんな日に限って翔の会社でトラブルが発生したのである。それを聞いたカスミは「今日は私達にとって一番大切な日ということぐらいわからないの?」と怒り出したがそんなカスミを後ろから優しく抱きつき「ごめん、僕にしか対応できないところだから仕方ないよ。それより、式には十分間に合うから先に教会へ行ってくれない?」と言われ、頷きながら彼の手をそっと握りしめるのであった。カスミは「大切な日だと言うのになんで電話なんかしてくるのよ」と怒り心頭であったが、翔のさりげない優しさに仕方なく一人で準備をして出かけたのである。緊急呼び出しと言っても翔以外に対処できないとういうだけで実際には数十分で処理の済む内容であった。余裕を持って準備を始めていたので焦ることはなく、むしろ余裕の状態であったのだ。しかし、さすがの翔も「よりによってこんな日に限って」と少し苛立ちながらも急ぎ足で会社に向かっていた。そして現場にいた二人の部下を引き連れ、復旧箇所に向かい、その手順を二人に指導しながら作業をこなした。そのことにより、万が一再度事故が起きても復旧できる訳だから、急ぎつつも丁寧に教えたのである。予定通りすぐに復旧作業も終わり、「これで大丈夫だから今日は電話をしないでくれ。もし何かあってもこれ以上はどうにもならないし、君たちに手順を教えたから対処できるだろう。ではよろしく頼むよ」と言いながら挙式会場にいそいそと向かっていたのである。二人は翔に「すみませんでした。大切な日に呼び出しをしまして。ありがとうございました」と深々と頭を下げながら感謝しながら、急ぐ翔を見送ったのである。カスミにとっても部下二人にとってもまさかこれが翔の最後の姿となることなど微塵にも思わなかった。〈KBR〉
教会近くの交差点で暴走してきた車が通行人や他の車を巻き添えにしたかなり大きい事故が発生した。はねられた通行人の中に翔がいたのである。凄まじい車の音を聞いた瞬間、振り向く翔。暴走車両は翔のいた場所とは違う方向に向かっていたが、そこに対向車と接触し突然報告転換をし、彼をめがけ突っ込んできたのである。一瞬の出来事であった。大きく跳ね飛ばされ路上に頭から落ち横たわり、ピクリとも動かない翔。周囲が騒然となり「誰か救急車を呼んで」と叫び声や、「大丈夫か?おい、大丈夫か?」と負傷者に声をかけている人や泣叫ぶだけの人や、車に閉じ込められた人たちを勇敢にも救出しようとする人たちで大混乱になっていた。周囲のそういう声が聞こえてはいたが、と同時に走馬灯のようにカスミとの出会いからこれまでの楽しかった日々が頭の中に駆け巡っていく。声すら出せず、全く動くことすらできない。翔は「大事なカスミ一人を残し、ここで死ぬのか?カスミ?ごめんね、僕では君を幸せにできなかった」と後悔の気持ちと「もう一度会いたかった」という気持ちが交差し、動くことのできなかった翔の目に涙だけがほとばしっていた。十数分し、やっと救急車が到着し、負傷者の具合を見ながら次々と病院へ搬送されていく。搬送されている救急車の中で、動けなかった彼の右手の人差し指がズボンのポケットを指したのである。その様子に気づいた救急隊の一人が「もうすぐ病院ですよ。頑張りましょう」と話しかけながら応急処置を施していたが、彼の指差すところを触った。ポケットの中に何かふっくらしたものがあることに気づき、それを出してあげたが、それを見た瞬間、隊員が「これを渡したいのでしょう?頑張りましょう!もうすぐ病院につきますから頑張りましょう。あなたがこれを手渡さすべきです。それをお相手の方も誰よりも待っていますよ。だから頑張りましょう」とさらに力が入った声で励ましながら心臓マッサージを続けた。やっと病院につき、救急隊員よりバイタルなど引き継ぎを受けながら看護師と医師が処置室へと急ぐ。その頃には翔の意識レベルは全くなく、さすがの医師たちもどうすることもできなかったのである。先ほどの救急隊員が看護師に「これを相手の方にお渡しください」と言いながら翔のポケットから預かったものを手渡したのである。その手渡されたものを見た瞬間、人の死というものに感情を出さないはずの看護師、医師全員が悔やんでも悔やみきれない表情で自然と涙がこみ上げてくるのを抑えることができず、ただ呆然とその場に立ちすくんでいた。一人の看護師が「お相手の方に連絡を取りましょう。そして本来渡すはずのこの方に変わって手渡しましょう。この方の気持ちと一緒に・・・」と、溢れる涙をぬぐいながらみんなに伝えた。次から次へと運び込まれる負傷者の対応に追われ、先ほどの気持ちなど忘れ去られたように見えるが彼らは決してそんなことのない、むしろその気持ちを受け入れ、その上で現場に立ち向かっているのだ。〈KBR〉
少し早めではあったが、教会へ着いたカスミは衣装室にいた。翔のことが気がかりではあったが、メイクや最終的な衣装の手直しなど準備を着々と進めていた。時折時間を気にしながらも係の指示に従いながら今日の手順の確認を一人で行っていた。いよいよ時間もさし迫り、何とも言えない寂しさと悲しみと怒りがこみ上げてき出したのである。翔の携帯へ連絡してみるものの応答の気配すら感じられない。何度も試してみるが全く駄目である。徐々にカスミの心に不安がよぎってきたのである。「仕事がうまくいってないのかな?でもそれならそれで何か必ず連絡してくるはず、今までもそうだったよ!何で何も連絡してくれないの
?もししたら連絡できないような状況なの?一体どうしたのよ?」と、胸が張り裂けそうなくらい心配になってきたのである。何度も教会の前に迎えに出てみるが、その度に鳴り響く救急車のサイレンが聞こえる。その度に良からぬことを想像するようになっていくのであった。教会の関係者がカスミにお相手の方はまだでしょうか?と問われるが、カスミにはどうにもできない。どんどん時間が迫ってくる。翔も衣装を着替えないと間に合わない時間であった。それでも何も連絡が来ないし、泣き出しそうになるカスミであった。教会の方から「少し遅れても構いませんので、御新郎様がお越しになられたましたら改めてご連絡ください〈KBR〉
と、少し微笑みながら言ってくれた。その表情に少しカスミも安堵したが、それからどの位の時間が経ったであろうか、突然私の携帯に翔から連絡が入った。急いで電話にでながら「今どこにいるのよ?何をしているのよ?」と激しい口調で問いただした。すると携帯の向こうからかなり落ち着いた女性の声が聞こえてきた。一言一言を確かめるかのような、そんなゆっくりと話す口調である。そして「落ち着いて聞いてください。こちらは警察の者です。この携帯の持ち主の方とはお知り合いですか?」と聞こえてきた。何が何だか理解できないカスミに「翔という方のお知り合いですか?」と聞かれ、「はい、翔の婚約者です。今から教会で二人だけの結婚式を・・・」と詳しく説明をしようとしたが、「わかりました。いいですか?これから私の言うことを落ち着いて聞いてください。よろしいですか?現在、翔さんは先ほど事故に遭われまして救急病院へ緊急搬送されました。病院に着いた時にはすでに息を引き取った状況でした。そこで、彼のご親族にも連絡を取っていただき、至急こちらまでお越しください」と言われたのである。カスミの予感が的中したのである。冗談か何かと思い、「翔を出しなさいよ!冗談ではすまないわよ!早くそこに翔を出しなさいよ」とカスミが怒号したが、携帯の向こうから「落ち着いてください。私は警察の者です。冗談などではありません。大至急ご家族の方とご一緒にこちらへ来てください」とさらにいって来たのである。呆然と立ち尽くすカスミ。何も考えられなくて、その場に崩れ落ちてしまったのだ。その様子を見ていた教会の関係者の者がカスミを暖かく包み込みながら、カスミを優しく包み込んでくれたのである。それでやっと落ち着いてきたカスミは教会の関係者の指示の元、取り急ぎ翔の両親に連絡をし、彼女はそのまま病院へ急いだ。到着するとそこには異様な雰囲気を醸し出しながら慌ただしく動き回っているドクターや看護師たちの姿が目に飛び込んで来た。カスミは翔がどこにいるのか必死で探すがどこにも見当たらない。そこで近くにいた看護師を捕まえ、翔の居場所を聞くと親切で丁寧に案内してくれた。カスミに気づいた看護師の一人がそっと彼女に近づき、「お待ちしておりました。こちらです」と案内しながら、他の看護師・医師に合図を送る。すると翔の遺体をを取り囲むように集まり、一礼をし、翔の顔に被せられた一枚の白い布を取った。そこには今朝まで元気な姿だった翔とは別人が横たわっていた。そこに警察官も立ち会い、その警官が「確認です。あなたの婚約者の翔さんでお間違えないですね?」と尋ねた。これは違う、何かの間違いだと思いたいカスミはこの横たわっている人の顔を誰か別人にしようと考えるくらい認めたくなかったが、そこにいる人は紛れもなく翔である。しばらくしてやっと「はい」と力なく答えると、先ほどの看護師がカスミの手をそっと握りしめ、あるものを手渡しのである。それに目線を落とすと、本来なら今日教会で付けてもらえるはずの結婚指輪であった。脳裏に教会の様がよぎり、「これは悪い夢よ。翔の一世一代の大芝居だよ」と自分に言い聞かせていたが、そこに横たわっている翔を叩き起こそうとするが全く反応のない冷たい翔を感じると同時に自然と涙が溢れでて、「これを私に付けてくれんじゃなかったの?どうしたのよ?返事してよ」と叫びながら崩れ落ちたていったのである。そこへ医師が「ここへ運ばれて来た時には手の施しようのない状況でした。助けられなかったことが非常に残念です」と一言だけ言うとその場を全員静かに去っていった。残されたカスミと翔。翔の遺体にしがみつきながら泣き崩れ、一体どこからこんなに涙が出てくるのと言わんばかりに溢れ出てくる。そのうち声すら出なくなっていた。ただただその場には涙で床が満たされるのではないかというぐらいとめどもなく溢れ出ていたのである。彼女の脳裏には翔との出会いからの二人だけの楽しかったことや喧嘩をしたことやいろんな思い出がそうまとうのように駆け巡っていた。そうしていると翔の両親が到着し、安置室へ案内されて来た。ドアが開き、翔の変わり果てた姿を見たお父さんは怒りをどこにぶつけていいかわからない様子でただ両手の握りこぶしを震わせていた。お母さんは私を払いのけ翔の傍に縋るようにただ泣き崩れたのであった。この時、カスミは「私の居場所がない。ここに私がいてはいけないんだ」と初めて自分の立場を感じ取ったのである。それでも少しでも翔のそばにいたいと思う気持ちは誰よりも強かったが、そんなことが許されるはずもなかった。案の定、お父さんから「一体何が起きたのだ?説明してくれないか?」と聞かれ、今日の経緯を目を閉じ朝起きた時からを話し始めたのだ。そしてここへ到着し、看護師から手渡された結婚指輪を見せた時、お父さんがから「申し訳ないが、これは返してくれないか?あなたにはもう必要のないものだろう」と言いながら奪われたのである。驚きとともに何が起きたのか全く理解できないカスミ。その場に居合わせた看護師も目を閉じるだけで何もしてくれない。どうしようもないとてつもなく深くて暗い闇の中に突き落とされたかのような感覚さえ覚えたのである。その部屋から引きずり出され二度と入れてくれないのであった。看護師もどうすることもできずその場でただうろたえているだけであった。ドアを叩き「私も中に入れてください。彼のそばにいたいです」と何度も訴えたがそれすら叶わなかったのである。見るに見かねた看護師が一階のロビーへカスミを抱きかかえながら連れていってくれたが、それを振り切り翔のいる安置室へ戻ろうとするが看護師が「今は行かない方がいいです。あのご両親が受け入れてくれるとは思えません。あなたが傷つくだけですよ」と諭してくれるがその声すら今のカスミには届く余地は全くなかったのである。もう誰も信じることができなくなった彼女は一人呆然とロビーで泣き崩れるしかなかったのである。そしていつしか朝が来て、他の患者さんたちでその場を追いやられてしまったカスミはどこにも居場所がないなく、どこでどうしていたのか全く記憶になかったが、気づくと翔の実家の門前に立ち尽くしていたのだった。雨がしとしとと降りカスミはびっしょり濡れていた。そこへお手伝いさんが傘を持って来てくれたらしいが、その傘すらさせずその場にただ立ち尽くすことしかできないでいた。見るに見かねたお母さんが「ここはあなたのいるところではありません。ここから立ち去りなさい」と冷たい重い声で言い放った。カスミが「一度でいいです。合わせてください。お願いします」と母親の手を握りながら振り絞った声で懇願したが、受け入れてもらえるはずもなかった。彼女のその手を振り払いながら背を向けて「あなたの気持ちもわからないではないが、ここにはあなたの居場所などありません。とっとと家に帰りなさい」とあしらわれたのである。力なくそこから立ち去ったものの両親からは見えないところで一人翔を待っていたのである。通夜が営まれ、翌日には葬儀であったが、当然参列すらさせてもらえないカスミは、ただ霊柩車の発するなんとも寂しい音色の警笛を聴きながら泣き崩れるしかなかったのであった。最後の言葉すらかけられない見送ることもできなかった自分に苛立ちを覚えていたのである。〈KBR〉
それからどれくらい過ぎたであろう。突然ドアホンがなった。その瞬間、翔が帰って来たと思い込むカスミが「やっと蹴って来てくれた」と嬉しそうに言いながらドアを開けると、そこにはお母さんが立っていた。そしてその瞬間現実へひきづり戻されたのである。何も言えずにそこにたったまでいたが、お母さんが「中に入ってもいいかしら?」と冷たい視線でカスミを見ながら尋ねた。断る理由も思いつかないし、彼女の圧倒的な態度に萎縮したカスミは「どうぞ」と部屋に通したのである。「何をしに来たのだろう?もしかして翔の服などを奪い返しに来たのか?でもそれらは私にとっては唯一残された遺品のようなもの。絶対にそれだけはダメ」と思い、翔の使っていた洋服ダンスの前に立ちはだかったのである。そんなカスミを見たお母さんが「あなたにはもう必要のないもの。処分してもらって構いません」と相変わらず冷たい低い声で言ってきたのだ。「どうしてそんなに冷静でいられるのだろう?人間味のない人たちなんだ」と思い込むカスミであったが、彼女の震える手を見て「違う、それは違う。この人もすごく悲しんでいる。でもどうして私にはそんなに冷たいの?それは認められていないのはわかるけどそれでももう少し私の気持ちも考えてほしい」と願った。そこへお母さんから「本当はこんな形であなたとお会いしたくなかった。我が家の嫁としてふさわしい女性になって欲しくて厳しく接していたの。昔の私もそのようにして鍛えられたから今の私があるように!あの頃は右も左もわからず亡きお母様を酷く恨んだものだったけど、だからこそ今の私があるのよ。そんな時、あの子から結婚したいと思う女性がいると聞かされて、とても嬉しかった。私もこれであなたをしっかりした女性に鍛えれば後は安心して隠居できると思ったの。それがまさかこんなことになるなんて想像すら・・・。それにこの間は本当に辛い仕打ちをしてごめんなさいね。私たちも気が動転していて自分が何をしているのかすら覚えていないくらいだったの、本当にごめんなさいね」〈KBR〉
と涙をこぼしながら話してきた。それでもカスミは素直になれないでいたのだ。それならそうと言ってくれて入れば、まだ受け入れられたのだろうが、あの時のご両親の態度があまりにも酷い仕打ちだったので、とてもそんな気持ちにはなれなかった。困惑した私を見て「信じられないという思うでしょうけど、今さ何を言ってるのと思っているでしょうけど、改めてこれをあなたにお渡ししておきます」と言いながら手渡して来た。さらに「これはあの子が本気であなたを愛していたという証。私達も相当悩みました。一日でも早くあの子のことを忘れてあなたの人生をやり直してほしい、もしこれをあなたの元にお返しすると一生あなたの人生を縛り付けてしまうのではないだろうかと。でも、あの子の気持ちだからやはりあなたが持っているべきと思ったの。だから受け取ってもらえないかしら?」と大粒の涙を流しながらカスミの手を握りしめてながら言ってくれたのであった。そのようなお母さんを見ながら、カスミはその指輪を手で握りしめ、そしてカスミの心の中にしっかりと彼の存在を改めて感じることができたのであった。しばらくしてお母さんが「あの子のことを大切に思ってくれるのは私としてはすごく嬉しいことだけど、あなたはまだまだお若い。だから、あなた自身もっと前を向いて進んで欲しいの、あの子のためにも!すぐには無理かもしれないけど、少しずつで構わないからあなたの人生を前へ進めてほしいの。そうでなければあの子の気持ちが浮かばれないし、今のあなたのそんな姿を見て悲しむと思うの。だから、必ず・・・。あの子が果たせなかったあなたの幸せをあなた自身で叶えて欲しいの」と続けたのあった。その時、お母さんの全身が震えていたのを感じた。この人もあの家に嫁いで来た時に物凄く苦労して来たのではないかと初めて感じとり、さらに本当は嬉しく思ってくれていたんだということも初めて思った。だから嫁としてふさわしい女性になって欲しかったからあんなに厳しい態度で接して来たのだと初めて素直にお母さんの気持ちを受け入れることができたような気持ちへと変化してきたのであった。お母さんが帰った後、指輪を眺めていると翔との楽しかった時間が鮮明に蘇ってくるが、そこに翔のぬくもりを感じるこはなかった。その度に深い悲しみに襲われたが、あ母さんの言っていた「翔のためにも」という言葉を思い出していた。果たして今の私を見て翔は喜ぶのか、決してそんことはないむしろ悲しむだろうなと、カスミの気持ちに変化が起き始めていた。そしてカスミは「泣くのは今日まで!明日からは仕事にも復帰しよう、仕事をすることで少しでも私の気持ちを切り替えていこう、そして二度と恋はしない」と誓ったのであった。〈KBR〉
会社に行くと、みんなが何事もなかったかのように出迎えてくれた。それがとても暖かく感じたカスミは、「やはり仕事をすることが今の私にとって一番」と自分自身に言い聞かせた。そして、彼奴のライバルだったと言う取引先の小田課長を訪ねて行くことにした。理由はどうあれ、しばらく連絡すら取らずに失礼をしていたのだから、真っ先に挨拶ぐらいはしておこうと考えたのである。会社に着くと、何と小田自ら玄関先で出迎えてくれていたのだ。思わず嬉しくなり、小田に飛びつかんばかりに手を振りながら走り出したカスミであったが、その様子を見て、後ろへ二歩三歩と後ずさりする小田。カスミが「ええ?、どうして後ずさりするんですか?私がせっかく来たと言うのに!」と言うと、苦笑いしながら「いや、あまりにも君の勢いがすごくて、思わず俺が食われてしまうぞ!と思ったんだ」と大声で笑い飛ばした。そんな小田を見て、まだ完全に吹っ切れた訳ではないが、それでも社会復帰してよかったと心底思うのであった。〈KBR〉
それにしても私が会社を休んでいたことなど知るはずもないのにと不思議に思いながらも仕事の話に入った。しかし、なかなか思うように進展しないことへのジレンマを感じていた。その原因がカスミの力量不足だと言うことは十分わかっているが、それにしても手応えが全く感じられないのは何故なのか今のカスミには全く理解できないでいたのだ。そんなことを考えながら社に戻ると何やらどよめきが起きていた。いつもの細かな小さい取引しか成績を残せなかったカスミの先輩で目立たない存在の片桐が、誰が担当になっても仕事を取れなかった最難関とも言われる会社から夢のようなとてつもなく大きな取引を成功させていたのだった。それを聞いた瞬間私も「嘘でしょ!この私ですらどうすれば・・・」と耳を疑ったくらいであった。恭子先輩がカスミの元に駆け寄り、これで課長の首も繋がったかもと言うのである。そんなこと等、忘れていたカスミは思わず彼奴に目を向けたが、彼奴はいつものように終始クールな態度を装っていた。そんな姿を見ていると、ついついお互い幼少の頃の思い出が蘇ってきて、「そうそう、周囲が盛り上がっている時も常に自分は冷静だと言わんばかりの態度でいたっけ!ほんとうは誰よりも嬉しいくせに本当にむかしから素直ではなかったよな、あいつ」とうつむき手を後ろで握りながら一人クスクスと苦笑いをするのであった。そんなカスミに気づいた彼奴は「何を一人で笑っているんだ。気持ち悪いぞ」と、いつの間にかカスミの横にいて囁いて来た。びっくりした私は思わず飛びのいてしまったが、その様子を見ていた周囲の同僚たちが「また二人の世界に浸っているぞ」と冷やかして来たのだ。思わずカスミはカッと赤面になり「何バカなことを言ってるの?私は二度と恋なんかしないと決めているの。それにこんな奴・・・」と言いながらそっぽを向いた。彼奴の呆れ顔が目に浮かんだが、気付かないふりをしたのだった。周囲は、特に青木の奴は調子こいて「ええ、もったないな!すぐそばにいると思うけどな」と軽い口調で言って来たが、それがカスミにとっては偉く腹立たしく感じ「あんたね、この前のプロジェクトは認めるけど、全然傷が癒えてない私によくもそんなことを言えたもんね!あまりにもデリカシーが無さすぎなんではないの?だからいつまでもチェリーボーイなんだよ!」と言い返してやった。確かに青木の一言で一瞬周囲の空気が凍りついたが、カスミの一言で一瞬で大爆笑の渦となってしまった。恭子先輩からも「あなたって本当に強い人ね」と驚愕の表情をされ、そのことによりさらに盛大に盛り上がったのである。これも全て私を元気付けるためとわかっていたカスミであった。それでも彼女にとっては最高に嬉しい瞬間であった。それは「まさに私の居場所はここしかないよ」と言わんばかりであった。片桐自身も自分の成功よりも私をさりげなく気遣ってくれているのが十分伝わって来た。彼奴は私の目を見て、もう大丈夫だなと言わんばかりに微笑みながら自分のデスクに戻っていった。「私もうかうかしていられない。このままでは先輩や後輩が先に上に行ってしまうことになる。そんなことは絶対に嫌、許せない」と彼女の心の中にメラメラと闘志が燃え上がってきたのである。そこに一本の内線電話が鳴る。恭子先輩が対応し、課長へ取り次ぐ。その電話を取った瞬間、彼奴の表情が曇ったように一瞬見えた。恭子先輩もカスミと同様に感じ取ったのであろう、かなり心配そうな表情であった。そういう二人を尻目に「ちょっと部長のところへ行ってくる」と言い残し部屋を後にした。全く帰ってくる気配がない中、いつの間にか周囲の連中も「大丈夫だろう?あれ以来、二回も起死回生の一発を放ったんだから」と口々につぶやていた。みんななんだかんだと言いながら彼奴の左遷を阻止したいという気持ちでいたんだと思うと何となく嬉しく思うカスミであった。それにしても一体何の話をしているのだろうと気がかりではあったが、そんなことよりもまずは私自身、成績を上げなくては話にならないと以前にも増してがむしゃらに仕事に立ち向うカスミ。彼奴は退社時刻になっても戻ってこない。しかも誰が命令したわけでもないのに誰一人帰ろうとはしない、ただ黙って仕事を黙々としていた。と、そこへ彼奴がやっと戻って来た。全員が固唾を飲みながら課長の一言を待っていた。重たい異様な空気が漂っていたが、その中、彼奴が「どうした?何でみんな残っているのだ?そんな忙しい仕事は今ないだろう!無駄な残業は認めないぞ」といつもの口調で言った。みんな一瞬「あれ!」という表情で彼奴を見つめていたが、「異動の件ではなかったぞ」と一言だけ言い立ち上がった。恭子先輩が「片桐さんの功績をもってしてもダメなんですか?」と心配そうに彼奴に聞いたが、彼奴から出た言葉は「そんなことではないよ。もちろん今回の片桐の功績は大きいさ。もちろん専務もその件に関してはよくやったと評価はかなりよかった。が、今日の話しはそんなことではなかった」だった。みんなが「そんな?では一体何の話だったんだ?」と考えを馳せ巡らせたが、恭子が「それでは、一体何の話だったんですか?こんなに長時間も・・・」と聞き返すと、彼奴は大きなため息をつきながら「上には上の考えがあるんだよ。俺たちがどうこう言う問題ではないし、しかも我々では銅像もつかないような問題があるようだ。そんなことより、さあ、帰るぞ」と一際大きな声でみんなに帰宅を促した。みんなはそれは何?という気持ちであったが、カスミには何かもっと大切なことを隠しているように感じていた。また同じように恭子先輩も同様であったようだ。「ここは私が頑張らないといけない。あのプロジェクトを是が非でもやり遂げないと」という気持ちで私は一人残って仕事をしようとしていた。そんな私を見透かしたかのごとく、しばらくして彼奴が戻ってきた。そして「おい、差し入れ持ってきたぞ。それにしても今日は片桐には本当に驚かされたよ!」と言いながら思い出し笑いをしていた。それを受けてカスミも「私だってここに戻って来たらいつもと全く違う雰囲気だったからどうしたの?と聞いたら、これがまさかまさかの出来事でしょう?心臓が止まるのではないかと心配になるぐらいびっくりしたよ」と返すと、「お前、そんなに小さかったのか?」とカスミをまじまじと見入りながら言い返してきた。その目を睨み返しながら、「これでも一応女性ですから、少しは遠慮しなさいよ」と返したが、まさに幼馴染の会話になっていたことに、二人とも噴き出してしまった。お互いしばらく無言だったが、彼奴が「あまり無理をするなよ!」とだけ言い残し帰っていった。この差し入れはなんだろうと覗き込みながら、「彼奴、私の気持ちをわかってくれていたんだ。私も期待に添えるように、そして彼奴に残ってもらえるように頑張らないと」と気持ちを引き締めたカスミであった。〈KBR〉
それから数日が経ち、片桐のプロジェクトがついに本格的に稼働しだしたのである。それまでひっそりと静まり返っていた部屋に久々に煌々と明るい光が差し込んで来たかのような活気が満ち溢れていた。そんな中、私は一人、例の件をどうしてまとめ上げきれないんだろうと悩んでいた。「私ではできないの?そんことない。では一体何が私には足らないの?」と自問自答していた。そのような状態がさらに一週間ほど続いたていたが、それとは関係なくついに片桐のプロジェクトが佳境を迎えようとしていた。結局私は何も進まないうちに手伝いすらできずにいたことを後悔し始め、心の中で「片桐さん、ごめんね」と叫んでいた。そんな私の気持ちを察したかのように斉木が「これで大方片付いたな。今度は、小田課長に連絡を取ってくれ」と言われ、仕方なく連絡を取った。心の中で「やはり私には無理と判断されたんだろうか?」と心配になったが、そのようなカスミの心境を全く無視し、「急げ!早く電話をしろ!」と威勢のいい声で煽り立てて来た。かなりムカついたカスミではあったが、この場は課長の顔を立てておこうと思い、取り急ぎ先方に連絡を入れたのである。「あ、小田課長でいらっしゃいますか?もしお時間のご都合がつくようでしたら、今からお伺いさせていただきたいのですがいかがでしょうか?」といつもの私からは想像できないぐらいの丁寧な口調でお伺いを立てた。小田課長から「ああ、いいよ」とすんなりと許可をいただけたのでその旨をムカつく彼奴に報告しようと振り向くと、そこにはすでに外出準備の整った彼奴が待っていたのだ。それを見て思わず「都合がつかないそうです」と言おうかと思ったりもしたが、お互いに空手を通しての知り合いだからもしかしたら事前に連絡を取っていたのではあるまいかと思い直し、「何?何も言わないうちから一人準備しているのよ?ちょっと待って!」と言いながら私自身の準備を急いだのであった。周りもあっけにとられた様子で見ていたが、そこへさらに「急げ!相手を待たすのは失礼なことだぞ」とダメ押しの言葉がいきなり飛んで来た。バッグを背負い、上着を羽織りながら必要な書類を手に持ち駆け足で追いかけて言ったのである。その慌てぶりにみんなクスクスと笑っていたが、それどころではないカスミがやっとのことでエレベーターの前で彼奴を捕まえ、「何をそんなに急いでいるのよ。これは私の仕事だから邪魔しないでくれる?」と私も腹立ち任せに噛み付いて見たが、全く意に介してない様子であった。一体何よと独り言をつぶやきながら後をついて行く。途中、課長が「何か食べて行くか?」と尋ねて来たので、「当然、課長のおごりだよね?社内であれだけ私に威張ったんだから」と答えてやった。呆れ顔で「しょうがない。今だけだぞ」と渋々返答して来た。「以前から寄って見たかった店があるの!そこでいいわよね?」と聞くと「お前、仕事中に何をしているんだ?まさかこんなことばかりしているのではないだろうな?」と疑いの眼差しで見やって来たので、ついカッとなり「そんわけあるわけないでしょ!」と力強く返したが、納得のいかない表情をしていた。それならそれでもいいと思い、さっさと店内に入って行ったのである。こんなチャンスは滅多にないと思ったので、結構な値段のする通常私の給与では無理だなと思うぐらいの高価なケーキとパフェとコーヒーを頼んだら、彼奴が身を乗り出しながら「お前、そんなに食うのか?」と面食らった表情をしていた。当たり前だろう、こんなチャンス滅多にないんだから、このぐらいはあたりまえでしょと思いながら勢いよくパクついていた。勢い余って思いっきり喉に詰まらせてしまい苦しそうにむせてしまった私をチラッと横目に覗き込みながらザマアミロと言わんばかりの表情で笑われてしまった。悔しさ一杯であったが、思わず私まで涙目になりながら噴き出してしまった。そんな楽しいひと時を過ごし、二人してさあ勝負と勢い込んでその店を後にしたのである。〈KBR〉
先方にに到着すると、彼奴はさっさと会議室へ入っていった。私は「えっ!ノックすらせずにいきなり入って行くの?それはいくら何でも・・・」と慌てながらも付いていった。そしたら案の定、部屋の中から「おいおい、それはないだろう」と相変わらず低い響く声で出迎えたのである。カスミは彼奴の態度に驚きながらも用意されていたソファーへ座る。小田課長が部下にお茶を持ってくるよう指示を出しながら、「久しぶりだな?お互いこんな格好で会うのは?」といつもより気軽に構えているように見えたが、それに対し、彼奴が「そうだな!この前は偶然飲み屋でお互い私服で出くわしたが、今日のように背広姿は何年ぶりだろうな?」と返していた。その会話を聞きながら、やっぱりこの二人は昔ながらの友達だったんだと感じていた。しばらく世間話が続いていたので、私も普通に安心して聞き入っていた。そこへ突然「おい、そういえば君はこいつの幼馴染とのことらしいな」と私へ話しかけて来た。突然だったので驚いたが、「はい、そうです」と返答すると、「俺はこいつの家には何度か泊まったこともあったが、一度も君のことを話を聞いたこともなかったし、合わせてももらえなかったぞ」とニヤつきながら聞いて来た。「こいつ、いったい私のことをどのように話しているのよ」と不信感で一杯だったが、「はい、そうなんです」と返答すると、「君も大変だったろう?こんな奴がそばにいるだけで」とさらに聞き返して来た。心の中では「そうなんです」ときっぱりと言いたかったがそれはさすがに言えないことなので、「そんなこと、ないですよ。いつも優しいお兄さんという感じで」と自分でもびっくりするぐらいのことをスラスラと言ってのけたのである。そのような言葉がすんなりと出た自分に驚きながらもとりあえずは良かったと思ったが、そこへ斉木が「俺たちの最後の試合、覚えているか?」と、悔しさを滲ませるような言い方で小田課長に話しかけた。「ああ、もちろん覚えているさ。忘れられるわけないだろう」と瞬時に鋭い視線へと変貌しながら返答した。「あれは今考えても俺の勝ちだ」と斉木がかなり不満げな激しい口調で言いのけたのである。斉木をじっと睨みながら「審判が下した判定だ。どう見てもあれは俺の勝ちだ。今でもそんなくだらないことを言っているのか?」と少し憤った声で言い返して来たのである。雲行きが怪しくなって来ているのはわかっていたがカスミにはどうすることもできない。それに二人の間に何があったのか知るはずもないのでどのように対応していいのかわからないでいた。二人の非常に危険な一触即発状態を感じながらもカスミは二人を見ることすらできず、ただその場にいただけであった。二人の会話がどんどん話がエスカレートしていき、高ぶる感情を抑えきれなくなっているのを感じたのである。カスミは「これ以上は危険だよ。いくら何でも喧嘩になってしう!私はどうすればいいの?」と、どうすることも出来ない自分に腹立ちさを覚えながらも全身がこわばって動くことすらできないでいた。斉木が「あれは絶対に俺の技が先に決まっていた。それをあのヘボ審判は何を見ていたのか、未だに納得できない。できるわけないだろう」と悔しさを滲ませながら言い放ったが、それに対し小田が身を乗り出し「それは違うぞ。間違いなく俺の足が先にお前にぶち当たっていた」と言い返して来た。それを聞いた斉木が「だからそれが違うんだ。だいたいお前の短い足が俺に届くか?」とムキになりながら言い返したその会話を聞いて、思わず小田課長の足に目をやると、それを小田が察知し、「おい、斉木、ちょっとそこに立て」と言いながら小田自身も立ち、「カスミくん、俺たちの足のどっちが長いか判定してくれないか?」とお互いズボンを上へ持ち上げながら私の判断を仰いで来た。カスミは「いったいこいつらは何くだらないことで競い合っているのよ」と心の中で叫びながらも、言われた通りに二人の足の長さを比べたが、そこにはまさしく太くて短い足があったのだ。もちろんそれを正直を言える訳もなく、すっかり返答に困ってしまったカスミは目線を落とすしかなかった。斉木が自信満々に「どうなんだ?俺の方が長いだろう?」と私を覗き込んで来た。思わず目線を反らすとこんどは小田が、まさか俺たちの足の長さだよなんてくだらない返事はないよね?と、低くてでかい声が会議室内に響き渡った。斉木が強気でそんなことはないと言い張ってはいたが、どこからどう見てもカスミの目には太くて短く、しかもほぼ同じ長さにしか見えなかったのだ。彼女のそんな困り果てた姿を見て、斉木が「どうした?いつものお前ではないぞ?」と言って来た。そのような斉木をカスミは「このバカ!」と言わんばかりに睨みつけてやったのである。一瞬しまったと思ったが、しかし時すでに遅しで、小田課長にしっかりとカスミの本性を見られてしまったのである。カスミは即座に「いつもこんなではないですよ」とにこやかに返答したが、二人目を見合わせながらにらみ合っていたが、しばらくすると吹き出して大声で笑ったのである。さらに打ち合わせでもしていたのかのごとくふたりして机と椅子を邪魔と言わんばかりに片付け始めたのである。いったい今から何をしようとしているのか見当すらつかなかったが、あっという間にだだっ広い部屋に変化した。そして背広を脱ぎ捨て、屈伸運動や柔軟などをしながら「さてと、そろそろいいか?」と小田が言ったのである。その時初めてカスミは「まさかここで試合をするのでは?」と悟ったのである。さらに「どうしよう!こんなことが許されるわけもない。私はどうすれば・・・」と一人でうろたえていたが、そこへガチャっとドアの開く音が聞こえたのである。扉の方に目を向けると、そこには社長や専務達が何事だと言わんばかりの態度で立ち尽くしていた。それを見たカスミは、二人を止めるようにお願いしようとしたが、その時、専務の一人がカスミを静止するよう手で合図を送り、と同時に「どうしてもやる気なのか?」と二人に問いただしたのである。それを耳にした時、カスミはこの人まで何を言っているのよとかなり動揺したが、次の瞬間、その言葉の意味を理解できたのである。「それならばここではなく、私が故意にしてもらっている場所があるが、そこなら思いっきり闘えると思うがどうかな?」と、真剣な眼差しで二人に聞いたのである。その瞬間、カスミはホッとして胸をなでおろしたのだが、専務の意見に対し二人は、「わかりました。それでは今からそこへ行きましょう。お前もそれでいいな?」と小田が斉木に承諾を求めたのである。それを受けて「お前がそれでいいなら俺も構わない。それではそうさせていただきます」と専務に一礼をし返したのだ。専務は早速そこへ連絡をとり、許可を得たのである。移動した二人は、先ほどの格好のまま闘うつもりでいたが、そこへ社長が「誰か道着は持っていないのか?」と周囲を見渡しながら言い放った。気づくとそこらへん一体に社長を先頭に、先方の社員が大勢集まって来ていたのである。カスミは「何、これはどういうことなの?なぜみんな集まっているの?こんなの普通では考えられない」と思いながらも誰に聞くわけにもいかず、ただそこには立ち尽くすのみであった。そのうちの一人が「ちょうどここに二人ぶんの道着があります。よろしければどうぞ、先輩方、これに着替えてください」と言いながら二人に手渡したのである。
しばらくするとそこには今までに見たこともないくらいの凛々しい二人が道着姿で寺の境内に登場したのである。そんな斉木の姿を見たのは私にとっては初めてで思わず惹かれる自分に戸惑いを隠せなかったカスミ。幼馴染と言っても道場に一緒に行ったことなど無く、そもそもカスミ自身空手というものに全く興味を持っていなかったのである。二人が堂々と面と向かい合い、動きが止まった。その瞬間から声援が起こり始めたのである。私は驚いたが、よく見てみるとここに集まって来ている人たちは、二人のことをよく知っているかのような感じがした。どうしてだろうと思い、ここへ二人を誘導した専務にカスミは「ここに集まっているみなさんは一体・・・」と質問してみると、意外な言葉が返って来たのだ。「ここにいる連中はみんな二人と同じ空手仲間なんだよ。全国津々浦々から集まってはいるが、ほぼ全員が空手道場の師弟関係なんだよ。あの二人は常に決勝戦の常連で、誰しもが二人に憧れ、一度はあの舞台で闘ってみたいと思われるほどの憧れ的な存在なんだ。しかし、学生最後のあの試合には特別な二人の因縁があってな、それを数十年越しに決着をつけようというのだ。だから、みんなこの試合をまじかで見たいという気持ちなんだよ」と、真剣な眼差しでありながらどことなく微笑ましい表情で教えてくれた。そんなことを言われても全く理解できないカスミは、「へえ、あの彼奴がそんなにすごかったなんて想像もつかなかったけどな?」と内心クスクス笑いながら斉木を改めて見つめていた。そしてついに「試合開始!」と専務が凄まじい気迫のこもった号令で試合が始まった。さらにエキサトする社員達。その中にいると不思議とカスミも感情が高揚し、これまで経験のないくらいの声援を送っているのだった。全てが昔に戻ったような錯覚さえ覚えたのである。二人に目を注ぐと、お互いに縦横無尽に動きながら相手を倒そうと本気でぶつかり合っている姿がそこにはあった。二人の激しくもなんとも美しい攻防を見ていると、みんなが夢中になる理由が分かるような気持ちがした。「あんな蹴りや突きを受けて痛くないの?骨は折れないの?」と恐怖と闘いながら見入っていたが、いつしか二人のあまりにも綺麗で華麗な動きに心弾む自分がいた。理由はわからないが、いつの間にか私も試合に釘付けになっていくのがわかった。普段からは想像すらできない素早い動き、それでいてまるで猫を連想させるかのようなしなやかな身のこなし。衝撃的な破壊力とそれを物ともせず平気で受けている二人。まるで猫が乗り移っているのではと思えてくるぐらいシャープで俊敏で、誰しもが想像できない動きをしているのである。寸前でかわしながら攻撃を仕掛ける、攻撃を繰り出しながら相手の一撃を交わす、まさに一進一退の攻防が今カスミの目の前で繰り広げられている。こんなに近くでこのようなすごい試合を観れることこそ、幸せなことであるかもしれないと思いながらも、こんなことをして怪我でもしたらどうするのと心配しているカスミもそこにいて、二人とも無事でいてほしいと願うカスミであった。〈KBR〉
かなり時間が経ったように感じたが、力尽きたのか二人の動きが止まった。周囲にいる社員たちの声援も急に静かになった。「急にどうしたの?何?今から何が起こるの?」と急に不安に駆られたが、誰一人として止めようとしない、それどころかただならぬ今にも押しつぶされてしまいそうなぐらいの緊張感が押し寄せてきたのを感じた。ジリ、ジリっと誰も気づかないくらいの動きで少しずつそれぞれの間合いに近ずき、「この距離は危ない」と思った瞬間、二人が飛びながら空中で交差した。その瞬間、審判の左手がさっと上がった。それはまさしく二人の決着がついた瞬間だった。カスミにはどんな攻めがあったのか全く見えなかったが、周囲の応援しいた社員みんなは大きなため息をつきながら歓喜していた。どっちが勝ったのかカスミにはわからなかったが、確かに雌雄が決したのである。「どっちが勝ったのか?誰か教えて?」と周囲の連中に尋ねると、たまたま横にいた社長が「小田君が勝ったよ」と教えてくれた。私はそうなんだとそして悔しい胸中であったが、改めて彼奴のことを少しはかっこいいではないかと思い始めていた。さらに「お互いに不器用な奴らだからな!お互い真正直からぶつかることで男気を出している、今時珍しい二人だよ。だから損をしているところもあるのだが、それでも自分たちの生き様を決して変えることがない。最近の若い連中の中でも観どころのある連中だ」と社長が教えてくれたのである。それを聞いて、確かに不器用だよな彼奴と思いクスクスと笑ってしまった。〈KBR〉
いい年をした大人男子、二人ともその場に大の字に倒れ込み、ゼーゼー言いながらそれでも笑っている。それほど二人は本気で闘い合っていたのだ。二人ともすごく輝いて見えた。「私にはこんな真似は絶対できないな!」と思いながら、その姿に見とれていたのである。彼奴が「お互いに年をとったな?」としみじみと言ったが、多田課長は「何を言うか!それはお前で俺はまだまだ元気だぞ」と言い返した。そのやりとりを聞いていた周囲の社員連中も全く懲りないねと言わんばかりの表情で社に戻って行った。二人とも着替え終わり、先ほどの会議室に戻ると、そこには社長はじめ重役連中がずらっと雁首そろえて座っていた。私は状況を飲み込めずただただ驚いていたが、そんな状況にも関わらずこの二人は堂々と中に入り毅然とした態度で用意された椅子に座ったのである。カスミは斉木につきまとっている猫みたいにちょこちょこと彼奴の横に座った。「これから何が始まるんだろう?今回の二人の勝手な行動を当然許すわけないだろうし、そのことへの処分かな?もしかしたらこの会社に出入り禁止を食らうのでは?」といろんなことを勝手に想像していたが、社長からでた一言でその私の想像は間違いだったことに気付かされたのだ。専務が「素晴らしい闘いであった」と称賛してくれ、私はホッと胸をなでおろすと同時に「一体この人たちは何なの?」という疑問を抱いた。そこへ社長が「これでお互いに気分爽快になったことだろう」とニッコリと微笑みながらもどことなく社長も安堵した表情に見えた。小田課長が「はい、これで胸につかえていたものが取れました。本日はありがとうございました」と深々と頭を下げたのである。同様に彼奴も頭を下げたのである。やっと会議室に柔らかい温かい雰囲気が漂い始めたが、そこへ社長が「ところで、君は二人の関係を聞かされていなかったのかね?」とカスミに尋ねてきたので、カスミは正直に「はい。全然知らなかったです。何が何やら全く理解できてないです」と返答した。そこへ彼奴が「実は、この前たまたまこいつと飲み屋で合って、そこで俺たちの最後の試合のことで言い争いになって、お互いあの時の結果には納得してないということがわかったから、それならここでもう一度決着をつけようとなった訳なんだ」と斉木が事情を話し始めたのだった。しかしカスミには「でもなんでここなの?それにこの会社の社員は?」と、次から次へと疑問が湧き上がり質問ぜめになった。それを察知し、順を追って説明を始める斉木。「ここにいらっしゃる方々は、今でこそ、この会社の社長であったり、重役に付いておられるんだけど、実は出身地は違えども俺と同じ空手を習って来られてる先輩方なんだ。俺もこの会社に誘われたのだが、小田もここへ就職すると聞かされて、こいつと同じところで働くのは嫌だなと思い、それで違うところに就職したわけだ。しかし、どうあがいても腐れ縁ってやつは切れなくて、それで今回に至ったわけだ。それにお前の抱えている仕事も小田絡みではあるが、後はお前次第というわけだ。一癖も二癖もある小田をどのようにして口説き落とすか、そして小田がどう判断し決断を下すかというわけだ」と。間髪入れず小田が「お前はそれ以上の曲者だろうが」と話の中に割り込んできた。当然、社長を始めみんなが腹を抱えて笑っていた。小田がその先輩方に相談した結果、今日に至ったのであった。そして、俺たちの試合を見ていた連中は先輩後輩になる奴らなんだよ」とさらに続けたのである。私にある疑問が湧いていた。それは「この会社は空手関係とか防犯的な仕事ではないよな?普通に商社だよな」ということである。そのことを聞こうとした時、社長が笑いながら「あなたが今疑問に感じていることは、ごく当たり前のことだが、私が説明しよう。私はその流派の道場の一つで師範を務めていたのだ。そして私の親が残してくれたこの会社を私がそのまま受け継いだのだが、そこになぜか門下生が集まってきたわけだ。だからここの社員の大多数が現在でも空手を続けている連中も含めそのまま働いてくれているのだ。そして私がそこの社長だということだよ」と和やかな雰囲気で説明してくれたのである。やっと理解できたカスミは、「昔、二人にはどのような因縁があったのか・・・」と斉木に聞いた。そしたらみんな思い出し笑いをしながら「それはな、試合の最中は当然のこと、お互い死力を尽くして闘っていたのだが、とんでもないハプニングがあってな」と、そこまで話しておきながら全員が噴き出しながら笑いだしたのだ。さらに小田課長が「お互い似たような闘いのスタイルだし考え方も似ていたから、お互い繰り出す技が全く同じタイミングで同じスピードだったんだ。そこで飛び込みながらの後ろ廻し蹴りをしたんだがそれもスピード、タイミングでやったものだから同時に急所に命中し、二人とも倒れたのだ。しかし、審判が俺に手を上げたから一応俺の勝ちにはなったが、俺は到底納得できなかったし、こいつも全く納得してなかった。ちゃんと誰の目から見ても間違えようのないくらいの差で勝ちたかったから、それでいずれちゃんとした決着をつけようということになっていたんだ。それが、今日だったという訳だよ」と教えてくれた。しかし、なんでみんなが笑っているのかが理解できなかったので、社長に「どうしてみなさん笑っているのですか?」と尋ねたところ、さらに高い声で笑いながら「だってさ、考えてごらん。体型も、得意技も、スピードも、切れも、それに手足の長さとかもほとんど一緒だろ」と言った瞬間、重役連中がさらにかん高い声で笑いだしたのだ。カスミは「何?」という表情だったが、それは次の説明で理解できた。「だから、同時に後ろ回し蹴りに行ったのだがお互いに脚が同時に当たったのだが、ちょうど審判の位置からは小田くんの脚だけが当たったように見えたのだよ。それも同時に二人の技が炸裂したために当たった時の衝撃音もより大きく聞こえたのだよ。だから審判は小田くんの勝ちと判定したようだ。しかし、試合のみる位置によっては二人同時だったから引き分けとして判定しただろう」と言われた時、絶対笑ってはいけないと思いつつも、そう考えれば考えるほ笑い出してしまった私であったが、「それで、小田くんの優勝となったのだ」と初めてきかされた真実であった。カスミは「それは彼奴としても当然納得なんかできないよ」とかわいそうと思いながらも笑いを我慢できずに噴き出していた私であった。〈KBR〉
斉木がかなり怒った顔になりながら「お前、笑いすぎだよ!」と私に激しく言い放った。「情けない負け方したんだからしょうがないでしょ、これが笑われずに入られますか?」と、カスミは確かに悪いとは思ったが笑わざるを得ないでいた。「仕方ないだろう?誤審だと言うこともできないし、一度判定が出たからにはそれに従うしかないから・・・」と言い返してきたが、その言葉の意味も彼女には理解できなかった。なぜなら違うものは違うのだから、審判に抗議をしてもいいのではないかと普通に考えていたのである。そこへ専務が「それは、確かに普通に考えれば君の意見に同感だが、武道においては絶対にできないことなんだ。それだけ審判を任されている先生方は優秀な師範であると言うことなんだ。確かに人間の行うことだから誤審もあり得るだろう。だからと言って、それを選手が指摘することはできないんだよ」と説明してくれたが、それでも納得なんかできるわけがない。そんな私を見かねて「お前には理解できないかもしれないが、これが俺たちの習ってきた武術なんだ。どんなに強い相手であろうと常に自分の積み重ねてきたものを信じ、真正面から闘うことがお互いに認め合う唯一の方法だ。それが逆であっても、自分の全力を持って闘うものだ」と、言ってきた時のこいつは少しはかっこいいことを言うではないかと感心したが、それでも負け方を思い出すと笑われずにはいられなかった。その時、小田課長が「そうそう。今のその君だよ」と、突然私に言ってきた。私は全く理解できなかったが、さらに続けて「俺は媚びを売ることなく真正面からぶつかってくる、自分に素直に真正面から闘いを挑む、その姿勢が好きなんだ。誰もが仕事を成功したいと思っているが、その手段を間違うといけない」とさりげなく言ってくれた。私は心中「それは私も一緒。だからそんなの当たり前でしょう?」と思ったが、さすがにこの場所では言えないでいた。それを察知し、「あれっ、いつものお前ではないぞ?いつもならそんなの当たり前でしょうと鼻高々に言いのけてくるはずなのに、今日のお前はおかしいぞ?どこの猫を借りてきたんだ?」と斉木が顔を覗き込んできた。思わず引張叩きたくところだったが、ぐっとそれを堪えて「後で覚えてなさいよ・・・」と睨み返していた。そんな私たちのやりとりをみていた社長が「決着もついたことだし、これからはもっと楽しい仕事ができそうだ」と最後に一言だけ発し部屋を後にした。他の重役たちもその後を追うように出て行った。社長の言ったことはどういうことなんだろうと思いながらも、斉木が「さ、俺たちも帰るぞ!小田、今日は負けたがまた勝負しよう」と言いながら会議室を去った。当然私もその後に続いたが、小田課長が「ああ、いつでもかかってこい。今度こそぐうの音も出ないほどきっちりと決着をつけてやる。それではまたな」と言いながら見送ってくれた。〈KBR〉
帰り道、今度はカスミが斉木を誘い、とある有名な洋菓子店へ行った。そこで以前から目をつけていた見るからに美味しそうなケーキとコーヒーを頼んだのである。彼奴はコーヒーだけで他には頼まなかった。カスミの食べる様子を見ていた斉木が「お前、美味しそうに食べるな」と驚きながら話しかけてきた。私は口をもごもごさせながら「当たり前でしょう!前からずっと狙っていたの、やっと食べられるからね」と返答した。それの姿を見ながら相変わらずだなと言わんばかりの表情で見ていた。その後はコーヒーを飲みながらお互い無言でいたが、カスミが「社長の言ったことって、どう言うこと?」と聞いてみた。そしたら彼奴は「自分で考えろ」とだけ言い返してきた。カスミは「何よ、つれないやつ」と相変わらず無愛想な返事と思いながらも、カスミなりに考えて見たのである。こいつや他の取引先となら思いっきり自分をさらけ出し強気で言えるのに、小田課長にはなぜか大人しい態度になる自分に違和感を覚えていた。それまでは自分でも気づかないうちに長所を活かし、攻めの姿勢で相手を口説き落としていたのに、何故か理由はわからないが明らかにそれまでの自分とは違っていたのは間違いない。どうしてそうなったのかカスミにもわからなかった。斉木にそんなことを聞いても自分で考えろとか言うだけで絶対に押してくれないから、そこで恭子に意見を聞こうと決めたのであった。先輩なら何か教えてくれるかもしれないと期待したからである。帰社して、真っ先に恭子のところへ行き、「ちょっと聞きたいことがあるんですけど、今いいですか?」と話しかけた。恭子が「あら、珍しいこともあるのね。一体どうしたの?課長と何かあったの?」とニヤニヤしながら意味不明のことを言い出したので、慌てて「そんなことあるわけないじゃないですか?だいたい私はもう二度と恋なんかしないと決めているんだから」ときっぱり言い返した。恭子はかなりがっかりした様子で私の話を聞いてくれた。そして事情を全部説明したところで、恭子が大きなため息をつきながら「何だ、そんなことか」と言ったのである。カスミは恭子のそんな態度に驚きながら、「どうしたんですか?先輩?」と聞き返すと、「あなたはこの前の一件から、それまでのあなたではなくなったのよ。それまでは結果を恐れずがむしゃらに突っ走っていた。ある意味、無謀すぎると思う時もしばしばだったけど、それを難なくこなしてきたのがあなたのいいところだった。でも最近のあなたは守りに入ったと言うか無難なやり方をしようとしているみたいで面白みが全くないのよ。あなたの長所をあなた自身で消してしまったように見えるの。だから今の私にできることは、少しでも早く以前のあなたに戻ることを願うことしか出来ない。社内の雰囲気だって以前とは変わってしまったのよ?以前のあなたならもっと活気に満ち溢れていて、どんな逆光に置かれてもあなたがいれば何とかしてくれるという期待感があった。それが最近はまるでお通夜のような静まり返った雰囲気だもの?」とさらりと言われたのである。カスミは「そんなこと言われても私にもその原因がわからないから先輩ならと思い聞いたのに!」と嘆きたい気持ちをぐっと堪えて、これ以上聞いてもその原因を教えてもらえないだろうと諦めてデスクに戻った。周囲は私に気遣っているのかそっとしてくれている。カスミは「一体私はどうしたんだろう、どうすればいいの?以前の私と何が違うのだろう?何が原因なの?」と真剣に悩んでいた。そのような心理状態がさらにカスミの精神を窮地に追い込んでいくことになる。実際、カスミには他のセクションの連中ですら冷たい視線で私のことを見ていると感じていた。こんな会社なんか辞めてしまおうかなと考えたり、どんどん最悪の状況へ自ら陥れて行ったのである。帰宅してからもなんか燃え切らない、不完全燃焼の自分にもどかしく感じていた。そのような状況ではさすがのカスミも食事すら喉を通らず、その夜は結局何も食べずに寝入ってしまったのである。布団の中でもずっと考えていたがなかなかわからない、ただ時間だけが虚しく過ぎていった。気づくと朝日が眩しく差し込んできていた。ハッと我に戻り急いで身支度を整え出勤したが、いかせん寝不足である。頭の中は無回転状態、何をしてもうまくいかずさらに落ち込む悪循環へと落ち込んでいった。周囲の雰囲気も「あいつは、何をやっているんだ?やはり、ダメなのか?」という視線であった。そのようなカスミは、さらにどうしようもないこの気持ちをどこにぶつければいいのかすらもわからずさらに深く暗い闇の中へとさまよっていた。一体どうしたというのだろう、それまではこんな事一度も経験したこともなかった。ここ数日のカスミにとっては本当に辛い日々を送っていた。それでも仕事は仕事と気持ちを切り替えていたつもりではあったが、そんな精神状態で何もできるわけなどなかった。彼女自体、そんなことは誰よりも理解しているつもりであった。が現実に直面してみると、そんなに甘いものではなかった。まるで悪循環の無限ループをただひたすら歩んでいる情けない自分の姿を見ているようで本当に泣き崩れてしまいそうであった。そんなある日、斉木が上層部から呼び出しを受けた。重い口調で「はい。すぐに伺います」と返事をし、無表情で会議室へ行く。カスミは、一体どういうことで呼び出されたのか想像はついたが、今の私にはかける言葉すら見つからない、そんな情けない姿であった。斉木がしばらくしてデスクに戻ってきたが、戻ってくるなり外の風景を眺めながら、カスミには実際は窓に反射して見える私を見ているように感じていたが、そこへ大きなため息をつく斉木の姿があった。「もしかしたら、私のことで呼び出しを受けたのかもしれない。私はこの会社には不要と判断されたのかもしれない。だったらいっそのこと早く伝えて欲しい」と本気で思った。カスミは本気で「以前の私と今の私、どこが違うの?誰か教えて!」と叫びたい気持ちであった。そんな時に恭子が「よかったら今度の休みに、私の家に遊びに来ない?」と、微笑みかけるようにカスミを誘ったのである。カスミは「今頃どうして?それに首ならあいつから直接言われたい。何も恭子先輩を通さなくても・・・」という疑心暗鬼であったが、「今度こそ教えてくれるかもしれないし、それに何より気分転換になるかもしれない」という軽い気持ちで恭子宅へ伺うことにしたのである。〈KBR〉
当日になり「何がいいかな?」と有名な洋菓子店で散々迷っているカスミがいた。自分の好きなものを買うのはどうってことないが割と好き嫌いのある恭子のものを選ぶのは「あの時は確か生クリームでないと食べれないと言ってたし、しかもこの間は生クリームにチョコをかけてあるのは全くダメ。チョコならチョコだけでないと許せないとも言ってたし、ああ、難しい」と独り言を言いながら散々迷っていたのである。兼ねての付き合いから見ていてこれなら間違いなしと思われるケーキでももしかしたらダメかもなと勝手に想像しながらも、カスミにとって間違いなく最高に美味しいもの二種類をチョイスし急いで恭子宅へ向かった。カスミがドアをノックする否や、「はーい、どうぞ、中に入って!」といつもの恭子の声とはあきらかに違うこれぞ可愛い女性という感じの声で出迎えてくれた。会社での姿しか見たことがなかったので、一瞬ためらったが、「会社ではやはりそれなりに作っている、これが本当の先輩の声であり姿なのだ」と改めて認識したカスミである。恭子が「今日はわざわざありがとうね!何もおもてなしはできないけど・・・」と言いながらお抹茶を点ててくれた。こんな趣味があったのかと初めて知り驚いていると、「あれ、カスミは知らなかった?私はお抹茶とそれについてくる和菓子、そして何より和服が大好きで、それでずっと習っていたのよ」とニコニコしながら話してきた。カスミは驚きながらも今までの先輩のお茶を出すときの仕草など、女性が女性を見て本当に素晴らしい女性らしいさと思える瞬間が多々あったのを思い出していた。それでかと改めてあの女性らしさはこれなんだと改めて思い知らされたのであった。そこへ恭子が私の手土産をさりげなく興味深げに覗き込みながら、「これって、もしかして今日のために?」と舌鼓をしながら話してきた。カスミは思わず「えっ、これも先輩の本当の姿なの?何だ、私と何ら変わらないではないではないの。でも私なんかよりもずっと可愛く見える」と驚きながらも、「先輩?ちょっとはしたないですよ」とキリッと睨んでしまったが、恭子はそんな私を見てクスクス笑いながら「一人の女性としてもまだまという感じね?」と少し心配そうな表情を見せた。「そんなの当たり前でしょ。先輩は本当に女性らしく、思わず女の私でさえうっとりくるくらいなのに、私と比べられてもさすがに困るわよ」と思いながらも、さすがに先輩は全てお見通しなんだなと感じた。恭子が台所でケーキの準備をしていたので私もお手伝いをしようと台所へ入らしてもらった。抹茶の点てかたなど初めて見てびっくりしたが、それも先輩の手にかかると随分と慣れた手つきであっという間に二人ぶんのお茶を点ててしまったのである。「もしよければ、カスミもしてみる?」と誘われたのだが、カスミはとてもではないが恭子のような流暢なお点前などできるわけないし、それに余計私のガサツさが目立つだけとわかっていたので「御遠慮させていただきます」と後ずさりしながらペコッと頭を下げた。その様子を見ながら恭子は大笑いしながら居間に移動した。「ところでね?今日来てもらったのは他でもない、あなたのことなの。先日、カスミが私に尋ねてきたことなんだけど、最近のあなたはどうしたの?以前のあなたとは別人のように見えるのよ!それで私も心配になって、役不足かもしれないけど、それでも他人に悩みごとを聞いてもらうだけでも精神的に楽になるし、カスミ自身が気づくこともあるのではと思ったから誘ったの。普通なら私は他人をここに呼ぶこと自体ないのよ。それでも可愛い後輩のためだし、それにカスミは私の希望でもあるの。私も経験あるけど、その時私は現実から逃げ出してしまったの。もう後戻りは出来ないの」と目をまっすぐ見つめながら話しかけて来た。いつものしっかりした先輩としての態度と全く違うと恭子をみて、カスミは一瞬戸惑ったが、それでもさりげなくいつもフォローをしてくれていた恭子の姿をみていたカスミは、思い切って恭子を信じてみることにしたのである。単なる職場での女友達とか、そんなくだらない感情的なものではなく、今日の恭子はどことなくどっしり構え、どんなことでも受け入れてくれる、まさに女神とも思えるような神秘的なそのような不思議な雰囲気さえ感じられる、そして何より私なんかよりもっと哀しくて切ないやりきれない思いを誰よりも乗り越えて来ているような、そんな感覚を感じさせてくれるのであった。そう思うとカスミの心の中に何故か熱くなるものがこみ上げて来て、自然と涙がこぼれ落ちていたのである。そんな私を見て、「気にしなくいいのよ。誰だって泣きたい時は思いっきり泣けばいいのよ。誰が見ていようが関係ないじゃない。悔しかったりとてつもなく寂しかったり切なかったり、どうしようもない時は誰にでもあるの。大人だから恥ずかしいとか見られたくないとか変な感情が邪魔して感情を表に出すことが中々出来なくなってしまっているけど、もっと自分に素直に感情を表に出していいと思う。むしろ、いろんな経験を通して大人になっていくわけだから、それが一番大切なことだと今の私は思っているの。それを言いたくて今日は来てもらったの。本当なら誰もここへは呼ばない主義なのよ。だってここは誰にも見られたくない私だけの心の安らぎの場であって私自身のお城だもの」と、優しく悟ように話してきた。私は小さくうなずきながらしばし泣き続けた。やっと気持ちの整理ができたのか泣き止んだ私を見て、「こんなに泣いたのはいつ以来?」と微笑みながら聞いて来た。カスミは改めて考えてみたが、どんなに昔の記憶を辿って見ても今まで泣いた記憶がないことに気づいたのである。それで「なかったかも・・・」と小声で答えたのである。恭子はカスミのその言葉を聞いて「やっぱりね。そうだと思った。だっていつでもどんな時でも絶対に弱音を吐くことなく、必ず最後までやり遂げていたもんね。だからこの人は間違いなく強いと思っていたから」と言ってきた。それを聞いてカスミは「そんなに強くないですよ、私は」とちょっと反発して見たものの、恭子には全て見透かされいるような気持であった。カスミは「確かに先輩の言う通りだよ。誰にも私の弱みなんか見せたくない、知られたくないという思いでここまできたのだから」と思いながら、恭子の部屋をゆっくりと見てみると飾りっ気も何もない殺風景な部屋であることに改めて気付いたのである。先ほどのお茶を点てているときの姿からは想像もできないくらい、あれだけの女性らしさを持ち合わせている先輩ならもっと大人らしい素敵な部屋作りをしているはずと思ったが、本当に何もないのである。そのことを聞いていいものかどうか悩んでいると、恭子が微笑みながら「私の部屋、女らしくない部屋だと思っているんでしょ?」と鋭く聞いてきたのである。カスミはどのような応対をしていいのかわからず悩んでいると、「いいのよ!正直に聞いても」と優しく答えてくれた。そこで「どうしてお茶も習っている割には写真とか飾りとかないんですか?」と素直に聞くと、意外な答えが返ってきた。「そんなの趣味ではないだけよ」と。思わずカスミが納得出来ないという表情でいると、恭子が「嘘よ。本当は思い出したくないだけ、昔の私を。カスミには偉そうなことばかり言っているけど、本当は私自身にも言い聞かせているの」と話してきた。先輩に何があったんだろうと詮索していると、「私だって昔は結婚して専業主婦をしていた時もあったのよ。でもそんな幸せも長続きしなかった。というより突然終わってしまった」と続けた。さらに「年末年始とか相手のご両親宅に挨拶へ行くでしょ?あの人は迎え入れられても私は中に入ることすら許されなかったの。それでも我慢できた。だってそんな時はいつも彼がそんなご両親を怒っていつも親子ゲンカになったの。私もご両親をそこまでしなくてもと思って恨んだ時もあったのよ」と、目線を落とし少し涙目になりながら話して来た。私は「先輩は結婚経験があったんだ」と思いながら耳を傾けた。「相手の両親と中々うまくいかず、結構悩んだ時期もあったけどそれでもいいと思って結婚したんだと自分に言い聞かせていたんだけどね。それに彼が私のことを大切にしてくれて、どんな時も私の気持ちを最優先で考えてくれていたの。だからすごく嬉しかったし、本気で愛したの。それでも、彼とご両親が喧嘩別れだけはして欲しくなかったけど、結果そうなってしまったの。それでも構わないと言ってくれて、彼がご両親と縁を切ったの。そんな時、彼のご両親が交通事故にあったという連絡があって、もちろん彼にも私から連絡したの。そこで私は直接ご両親のところへ向かい、彼は会社から直接病院へ向かったの。そして私が病院に到着した時にはご両親はすでに亡くなられていたんだけど、彼が中々来ないのよ。もちろん何度も連絡をしたけど、全く繋がらないの。会社にも連絡してみたけど、とっくの昔にそちらへ向かったよというのよ。だったらとっくに到着してないとおかしい時間だった。私は気持ちだけが焦ったんだけど、そんな時、やっと携帯に連絡が来たから慌てて出てみると、その相手というのが警察からだったの。どうして警察?と思った瞬間嫌な予感が過ったんだけど、彼が車でこちらへ向かう途中、子供が飛び出してきて、結果、彼は運転操作を誤って壁に激突してその衝撃で亡くなってしまったの。そのことを聞かされた時は何も考えられなかった。それからというもの私は茫然自失になり何もやる気が起きず毎日毎日ただただ泣いてばかりだったの。飛び出してきた子供を恨んだりもしたし、その子の親のことも恨んだわ。どうにかして彼を元に戻してほしいとも思った。そんなことなど叶うわけもなくない事はわかっていた。だから私も彼の後を追って何度も死のうと思ったわ。それでも死ねなかったの。だって、その時には私のお腹の中には彼の生まれ変わりがいてくれたから、だから思いとどまることができたの。そんな状態がどのくらいだろう、数年は続いたわよ」と話して来た。私なんかよりももっと大変な思いをして来ていたんだと改めて気づいたのである。だからいつも周囲を見渡し、今何をすべきかを確実に把握して対処しているんだ、それができる本当に強い人なんだと初めてわかった。そんな彼女を誰も感謝などしていないのにそれでも彼女は自分のするべきことをしっかりとこなしている。誰もがわからなかもしれないけど私にはわかる、先輩の社内での仕事がどれほど価値のあるものか、彼女がいなければ間違いなく仕事が終わらない、全てが順調に進むのはいつも先輩が先回りし、先手を打ってくれているからだ。誰にも認められることなく、しかし自分の立ち位置をしっかりと把握しやることをさりげなくこなす本当にすごい人で、本当は誰よりも強い人なんだと改めて思った。そして、なにより誰よりも人の弱さを知りそれを受け止めている、カスミはそんな人なんだと心の底から尊敬の眼差しで見つめていた。それを感じてなのか、「私はそんなに強くないわよ!むしろ弱くて脆い人なの。だから誰からも評価してくれなくても構わない、ただ、自分の居場所があればそれだけで十分なのよ」と初めて見せるなんとも言えない優しい目をしていた。そのような話をしているカスミは少しずつではあるが、私の気持ちが軽くなっていくのがわかった。やはり一人であれこれ考えていてもダメなんだなと、これまでのカスミは相談をされることはあっても自分が誰かに相談をする、悩みを打ち明けるなどしたことがなかったしむしろ一人でこなし全てを乗り越えてきた、そんな誰よりも強い女性と思われていた、また彼女自身もそう思い込んでいたから、今回初めて誰かに話をすることの大切さというものを知ったのである。カスミにとっては人に弱みを見せたくない、泣き言を言いたくないというのが本音であろう。それが今日、ここで恭子によって脆くも打ち砕かれたのである。「他人に自分のことを聞いてもらうということがどれほど大切なことか初めて知った。私は一人ではない、そんなことわかっていたはずなのにいつの間にか人として一番大切なことを私は忘れていたんだ。いったいいつ頃からだろう?」と考えた。そんな時、恭子が、「そうだ!今まで誰にも話していない私の秘密があるのよ。それはね、亡くなったあの人の忘れ形見が、そろそろここへ来るのよ」とすごい嬉しそうな様子で話しかけて来た。「忘れ形見とは?」と、まさか恭子に子供がいるなんて誰も思ってもみなかったからだ。カスミにしては珍しく気をきかせて「それでは私は・・・」と言いかけた時、恭子が「今日は私にとって特別な日。しかもカスミが初めて来てくれた日。だから特別に会ってもらっていいわよ!紹介するから。私が言うのも変だけどとっても可愛いのよ」と嬉しそうにしっかりと自慢をしながら台所へ行き、夕食の準備を始めたのである。カスミも台所へ行き、お手伝いをしようとしたが、どこに何があるのかもわからないし、さらにもともと料理下手であるカスミはかえって邪魔な存在になっていたのである。そんなカスミを見るにみかねて、いろいろと指図をしてくれたが、それでも手元のおぼつかないカスミであった。それに比べ恭子は料理上手でその手際のよさもすごく、味も間違いなしだったので、これからは時々恭子に料理を習おうと考えていた。そのようなカスミを見て、「もしかして、カスミ?料理を作ったことないの?」と驚愕の表情で聞いて来た。恥ずかしそうに「そうなんですよ!昔から料理には全く興味がなくて」と恥ずかしそうにうつむきながら答えると、「ではまずは料理からね?」と上から目線で鼻高々と言って来た。さすがのカスミもその態度に悔しさを覚えたが何も言い返せず、ただ「はい」と小声で答えるしかなかった。ついでに「料理を教えてください」とこれ見よがしに言ってみると、突然キリッとした厳しい目つきに変化し「私の授業料は高いわよ。それでもいいの?」と聞き返しされたのである。たじろぐカスミを楽しそうに見ながら、すぐに「冗談よ冗談!無料でいいわよ!だけど材料代は折半よ。それでいいなら私は構わないわよ」と言ってくれたのである。まるで子供が悪あがきをしているかのような感じで「先輩!」と言い返して来たカスミ。「これなら大丈夫、もうすぐ完全復活するわ。よかった、本当に良かった。私にできるのはここまで。あなたは幸せものよ?あんなに親身になって、そしてずっとあなたが彼のことに気づいてくれるのを待っているいる人がすぐそばにいるのよ!早く気づいてあげなさいよ」と一人願う恭子であった。そんなことなど知る由もないカスミであったが、そこへ尋ね人が来た。玄関から「お母さん!」と声が聞こえた。中に入って来た男性を見るとなんとも立派な好青年である。さすが恭子先輩のお子さんだと感心していたが、恭子が「この人は時々私のことを心配して来てくれるけど、本心はたらふく飯を食うことが目的なのよ」と笑いながらここへ来る本当の目的を教えてくれたのである。それに対し息子は「そんなことはないよ?これでも少しは心配しているんだぞ。お母さんが一人では寂しく感じているのではないかと思って!それに寮にいると食事の量も少ないし、全然美味しくないんだ。だから時々この人の手料理を食べに来てるんだ」と言い返して来た。どうやらお子さんは中学生でありながら名門校に入学し全寮制で暮らしているらしく、それにちょっとだけ反抗期?かなと思いながらも親子のたわいもない会話にも癒され、さらに家族ってやっぱりいいよねと改めて考え始めていた〈KBR〉
恭子は一度結婚したが、認めてもらえなかったとはいえご両親と最愛の彼を失い、さらにその時身ごもっていたがその子をこんなに立派に育てながら家計を支えて来たというその女性としての精神的強さを感じずにはいられなかった。恭子が「そういえば、私が今の会社にどうして働くようになったか聞いてないわよね」と言いながら、その経緯を話してくれた。そこには斉木の空手が大きく働いていたのである。というのも斉木の先輩になる男性が恭子先輩の旦那さんであったのだ。そして先輩の葬儀で彼奴が、恭子先輩に働き口を紹介したのである。恭子は彼が試合の時等、いつも応援にかけつけていた為、斉木とも面識があったのである。少しは彼奴も人のためになることをやるではないかと少しは見直した。そこへ恭子が「課長は何も言わないけど、あんなにしていながら部下思いで頼りになる人よ。仕事だけではなく、一人の人間としても本当に素晴らしい人よとニッコリ微笑みながらまるで彼奴をアピールでもするかのごとく教えてきたのである。「それはわかっているけど、それでも彼奴は・・・」と、幼馴染ということもありあまりにも短すぎて長い付き合いのため、一人の男として見ることができないのであった。そんな私を見ながら「人はもっと自分の本当の気持ちに素直になれれば楽なのにね?どうしてそんなにはねっかえりの強い人なのかな、カスミは?」と少し説教じみた言い方であった。「私は私、これが私だからこれでいい」と自分自身に言い聞かせていた。息子さんが物凄い勢いで食い終わり、「ああ、食った食った。では帰る」と言ったのを受けて、恭子が「あなたね、せっかく来たっていうのに何よそれ?私はあなたの食堂の叔母さんではないのよ?もしそういうことならお金を置いていきなさい」と呆れ顔で言いのけると、息子が「将来の出世払?このまま順調に行けばプロだって夢ではないからさ」と言い返して来た。カスミは息子さんは何かスポーツでもやっているんだろうな、彼のこの体格を見ればわかるけどと思いながら聞き流した。息子が帰ったあと、恭子が「いつもああなのよね彼奴は!」と疲れたような、それでもどこと無しかうれしそうな顔で呟いたのだ。そこへ「家族っていいわよ。私にとっては心の支えかな?あんなに息子でも!とその前に、まずはカスミ?料理を覚えないと今のままでは誰も見向きもしないかもね!その点、私は母が幼少期からずっと料理を教えてくれたのよ。だから私の味は母の味とも言えるのよね。だから母にはいつも心の中で感謝しているの」と言い出した。カスミはどうかと言うと、両親共働きでいつも家にはカスミ一人だった。そのためいつもご飯は外から買って来た惣菜などであった。だから当然、母の味など知る由もなかった。彼女の幼かった時期の家庭事情を聞いた恭子は「ごめんね!辛いこと言って」と心から謝って来たが、カスミは全く気にしてない様子であった。それより恭子に料理を習おうとさらに強く思い、なお一層のお願いをしたのだった。恭子が「私で良ければ、休みのたびにここへいらっしゃい。私の味で良ければ教えてあげるから」となんとも心強い言葉をもらったのであった。二人して笑いながらゆっくりとした時間を過ごしたのであった。カスミはまるでお姉さんができたようで本当に喜んでいた。しかし、この時の恭子にはある思いがあったのだが、そんなことなど今のカスミには知る由もなかった。〈KBR〉
あれから数日が過ぎ、徐々に本来のカスミを取り戻してきつつあった。会社でも以前のように明るくテキパキと指示を出しながら、それでいて他の誰よりも仕事を捌き、誰よりも多い仕事量を素早く正確にこなす凄まじいほどの気迫を出していた。それを誰よりも喜んでいたのは幼馴染であり現在の上司でもある斉木であった。実は、兼ねてから密かに恭子に頼んでカスミをなんとか立ち直されるきっかけを作るよう頼んでいたのだ。そんなこととはつゆ知らず、必死に立ち直ろうとするカスミ。そんな時、上層部より斉木に呼び出しがかかったのである。斉木は相変わらず飄々とした態度で上層部のところへ出向くが、周囲はざわめき立っていた。なぜなら何度も呼び出しが来ると言うことはいよいよ左遷という事実が差し迫っているのではないだろうかと誰しもが容易に想像できたからである。しかし、斉木が戻って来ると「何をざわめいているのだ。そんなことより早く報告書をだせ」と呆れ顔で催促して来るのだった。みんな胸中穏やかではないものの慌てふためいて報告書作成をするという始末であった。上からの呼び出しというのは、カスミのことであったのだ。この厳しい会社の状況を一気に打破できるのはカスミしかいないと斉木が進言していたため、彼女のことを心配していたのだ。もちろんカスミの現在担当のプロジェクトがもしダメだった時は斉木自身が全責任をとるとまで言及していたのだ。このことを知っているのは上層部と斉木、あとは何故か恭子である。他にこの事実を知っているものは誰もいなのである。そんな中、斉木が外出先から恭子を急遽呼び出ししたのである。たまたま仕事で出向いていたカスミはそんな二人を目撃し、「なんだ?やっぱりあの二人はできているのか」とごく自然に納得しながらも、どことなしか初めて寂しさを思えたのである。「会社内で二人を見ていると全くそんなそぶりはみあたらないし、また噂話好きの連中ばかりなのに全く話題にすらなっていないのは一体どう言うことなの?」と不思議に感じていた。カスミは、「よし、次の休日はいつものように料理を習いに行くからその時のさりげなく聞いてみよう」と決心したのだった。それからというものカスミがさりげなく二人の様子を伺っていると、それまでは全く気づかなかった二人でしか分かり合えないような合図とも取れるような仕草や目配りなどに気付き始めたのであった。「間違いない。やっぱりこの二人はできている」と確信したのである。そんな二人を見ていて「なんだか羨ましいな、でももう二度とあんな辛い思いはしたくないもの、だから私はこのままでいい」と、それまでに感じたことのないような切なさを感じるカスミであった。〈KBR〉
いよいよ恭子の元へ習いに行く日が来た。もちろんカスミは二人の関係を聞いてもいいのかどうかすごく迷っていた。そんな時、恭子から「ねえ、カスミ?最近私と課長のことを注視してるでしょ?どうして?」と逆に不意を突かれてしまった。さすが全てをお見通しなんだと思いつつ、「はい、なんだか二人がすごくいい関係ではないのかな?」とカスミが正直に答えると、恭子が思いっきり噴き出しながら「カスミは本当に気づいていないのね!そんなことではあなたにとって本当の幸せを掴むことなんてできないわよ」と言って来た。なんのことか全く意味がわからないカスミ。恭子が満を持して「課長と私の間柄のことはこの前話ししたわよね。それにあんなスポーツバカなどうしようもない奴でも私にとっては生涯の宝物である息子がいるでしょ?そんな私が今更恋人なんて必要とすると思うの?それに私には生きがいってものがあるのよ」と言いのけて来たのである。それに対しカスミは、それと恋愛とは関係はないのではと思ったが、恭子の最後に言った生きがいとはなんだろうと疑問もあった。そこで「先輩のその生きがいってなんですか?」と率直に聞き返したのである。恭子はしばらく部屋の片隅にある机をじっと見つめていたが、しばらくして引き出しをおもむろに開け、中から封筒を取り出し、それをカスミに手渡しのだ。カスミは一体何が入っているんだろうと思いながらも中を出してみると、そこには結婚してからの恭子と亡き旦那さんとそのご両親の写真がたくさんあった。その中には正月であろうと思われる家族団欒の写真もあった。カスミは「ご両親は先輩のことを認めてくれていなかったのでは・・・」と不思議に思いながら見ていたが、そこへ恭子が「その写真は、ご両親がなくなる前の正月に撮ったものなのよ。一度くらいは家族みんなで写真を撮ろうと言ってくれて・・・!結局それが私たちにとっては最後の写真になったけど、もしかしたらご両親にはこうなるかもという予感があったのかもしれないな?と最近思うようになったの。それまではね、この写真も綺麗に大切に飾っていたんだけど、そんな風に考えるようになったら、見るに忍びなくて、それにね?私の心の中にはいつもひと時も忘れることなく大切に飾られている、だから片付けたのよ。そういう家族の思い・願いを大切にしながらあの子を立派に育て上げ、社会に送り出すのが私の生きがいなの」と寂しそうに教えてくれたのである。カスミは「私はなんて浅はかだったんだろう!こんなに家族思いの先輩のことを何一つわかっていなかった。私は本当にデリカシーのかけらもなかった」と後悔の念で一杯になった。そして素直な気持ちで「ごめんなさい」とだけ伝えたのである。恭子がパッと振り向きながら「感傷に浸るのはここまで!わかったら料理もわかってもらわないといけないからこれからは厳しく行くわよ。まるで姑みたいに?」と腕まくりをする姿を見て、思わず「帰ります」と言いたくなったカスミだったが、「お手柔らかにお願いします」とぺこりと頭を下げたのだった。それを見て「あなたには将来美味しくて健康思考の料理を作ってあげないといけない人がすぐ近くにいるでしょ?」と上から目線で言ってきたが、カスミには思い当たる人なんていなかったのでキョトンとしていたが、恭子が「もっと自分自身に素直になりなさい。いずれ気付くだろうから、今のうちにしっかりと美味しいお料理を作れるようにこの私が厳しく指導してあげる」と得意顔でビシッと言われた。さすがのカスミもこれには素直に従うしかないと腹を括ったのであった。恭子の厳しくも優しい指導のおかげで時間はかかったもののなんとか出来上がった料理を二人で食べた。恭子がゆっくり味わいながら全ての料理を食べていたが、「カスミ?最初にしてはうまくできているではないの?上出来よ」と優しく微笑みながらカスミを褒めたのである。カスミも本当だろうかと思いながらも食べて見るとこれまたびっくりで本当に美味しくできていたのだ。恭子が自信満々に「これは指導が良かったからだよね?」とカスミに尋ねてきたので、「はい、おっしゃる通りです」と頭を下げながら返答したのである。そこには二人の屈託のない笑顔であふれていた。〈KBR〉
帰宅途中、カスミは恭子の「すぐそばにいるよ」と言った言葉を考えていた。一体誰のことだろうと社内の男性陣を思い浮かべて見たり、取引先を考えて見たりしたが思い当たるような男性は誰一人として見当たらなかったのである。持ち帰った料理を食べながら「これは美味しい!なんでこんなに美味しく作れのかな?」と自分と恭子の違いを考えたり、風呂にゆっくりと入りながら誰のことだろう?それに素直になりなさいと言ったけど、私ってそんなに意地っ張りなのかなといろんなことを複雑な心境で考えていた。「恭子先輩と私は、真反対の性格だな」と思うと笑わずにはいられなかったのである。〈KBR〉
それから一週間が過ぎ、カスミの心境に大きな変化が訪れていた。それは本人は気づいていなかったが周囲の誰もが感じられほどの変化であった。それは徐々に以前の明るく前向きでどんな苦境でも必ず乗り越え成功させてきた頃のカスミである。完全復活まであと少し。身近の存在には相変わらず鈍感であったが、確実に恭子の思惑通りの展開になったのはいうまでもない。そんな明るい兆しが見えてきた頃に、出社してきたカスミに突然青木が「今日はどうしたの?先輩!何故か化粧のノリが最高ですね」と茶化してきたのである。カスミがキリッと睨みつけながら「いつもよ!何、どうかしたの?もしかして何かしでかしたの?もう君は一人前なんだから私はフォローしないわよ」と逆に青木のことを一喝したのだ。青木もまさかの反応とさらにキレの良さにかなり驚き、カスミの態度を見ていた周囲では仕事をするふりをしながらも安堵の小さなため息が漏れていた。一番ホッとしたのは言うまでもなく斉木自身であった。相変わらず無愛想に外を眺めながら、それでも後ろ姿には胸をなでおろしている様子がうかがい知れたのであった。そこへ恭子が「青木くん?天下のカスミ様を怒らせたら私が承知しないからね!この間まぐれの逆転サヨナラヒットを打ったからたいって誰もあなたのことを一流だとは認めてないからね!勘違いしないように」と厳しい口調で叩かれたのである。青木は「すみません」と言いながら後ずさりし、それを見ていた周囲の連中も小さく頷きながらクスクスと笑っていた。斉木は腹筋が揺れているのが傍目にもわかるほど必死に笑いをこらえていた。やっと会社に本当の日差しが注ぎ込み始めたと恭子には希望が見えたのである。〈KBR〉
もうすぐ昼休みというところで突然一本の内線電話が鳴り響いた。恭子がその電話を斉木に取り次いだが、その電話が終わると斉木は「俺はこれから外出し、そのまま帰るかるからな」とだけ言い残し、いそいそと外出して行った。その様子を見ていた恭子は、これで上司にも何とかいい返事ができそうねと嬉しく思ったのである。外で待ち合わせをしていた専務と斉木は二人にとって隠れ屋的存在の店に入っていった。そこの店主が斉木と同じ空手を習っていた後輩であり、斉木が故意にしている関係で二人で訪れると必ず何も言わなくとも奥の誰も気づかない、声すら聞こえない隠し部屋的存在の一室を用意してくれるのである。そのため二人は安心して話ができるということでいつも利用させてもらっているのであった。今日もそこで二人は食事と酒を美味しくていただきながらざっくばらんに話をしていた。〈KBR〉
「最近の彼女はどうだ?」と専務から聞かれると、斉木は迷うことなく「はい、もう大丈夫だと思います。以前の彼女に戻っていると思います」と落ち着き払った様子で返答した。「そうか!それは良かった。これで、あとは例のプロジェクト次第だな?」と専務がホッと一安心と言わんばかりの表情で安堵したのである。さらに「彼女は大変な試練をやっと乗り越えらた訳だ。さらに強くなるかもな?お前はそんな彼女をこれまで通りサポートできるのか?斉木、どうなんだ?ますます扱いづらくなるぞ」と続けてきた。それにはさすがの斉木もちょっと困惑顔で「多分、大丈夫でしょう。あいつのことは幼少の頃からの付き合いでよくしているつもりですから。それにあいつも十分に大人ですからわきまえてくれていると思います」と言いながらも自信なさげに首をかしげるのであった。そんな斉木を見て「いずれにしろ、これでやっと本来の会社の姿に戻れるな!もしかしたら将来、この会社の社長に居座っているかもしれないな彼女は!」と嬉しそうに笑いながら答えていた。そんな和やかな雰囲気の会話がしばらく続き、そろそろいい時間になったということで本格的にお酒が準備されてきたのである。これは店主からのささやかなサービスであった。それを感じ取った二人は「いつも悪いな」と言いながら美味しそうに少し早い乾杯をしたのである。そこへ帰宅時間になった恭子が現れたのである。店主が「失礼します。お連れ様がお越しになりました」と案内してきたのである。その言葉を受けて二人揃って「待ってたよ」と恭子の顔を見ながら手招きをしたのである。実はここにいる専務と恭子は遠縁の親戚にあたる間柄だったのだ。斉木の勧めでこの会社に就職するまでお互いに親戚筋であるということすら知らなかったほどの遠縁であった。それが数年前の忘年会の時、偶然にも意気投合し専務宅へお邪魔することになったのだが、そこで初めてお互い親戚筋であるということがわかったのである。それ以来の付き合いとなったのである。今回はカスミにあのプロジェクトを任せたいという斉木の強い希望を通すため恭子が色々手配をしてくれていたのだった。その矢先に誰もが想像すらできなかった予想外の出来事が起こり、専務と恭子が「彼女を外した方がいい」と口を揃えて進言したのだが、斉木はガンとしてこれを受け付けず、それどころかカスミを立ち直らせるために恭子へ頭を下げてきたのだった。さすがに専務もこれには驚いたが、斉木のその自信に溢れた表情を見た専務もここはこいつの判断を信じようではないかということになったのである。その頃、そんなことなど知る由も無いカスミは今までの遅れを取り戻そうと必死に仕事に打ち込んでいたのである。そのことを恭子から聞いた斉木は、店主に頼みお土産を作ってもらい、みんな帰社したのを確認してから会社に戻っていったのである。斉木のその後ろ姿を見ていた二人は、「この二人が結ばれる日は来るのかな?」と思いながら黙って見送るのであった。〈KBR〉
会社に戻った斉木は、いつものようにさりげなくカスミに話しかけた。今はそれどころでは無いと言い返そうとしたが、斉木の手荷物を見て差し入れを持ってきてくれたことに気づくと「おっとこれはこれはなかなかどうして、気がきくではないの」とほくそ笑みながら「仕方ないな!上司が戻ってきたならお茶を入れるしかないわね」と相変わらずの態度で席を後にした。斉木が「俺の分はいらないよ。カスミが頑張っているようだから今日だけは特別に差し入れを持ってきただけだ。俺は終電の時間があるからこれで帰るが、あまり張り切りすぎてダウンなんかするなよ」と後ろ向きに手を振りながら帰っていったのである。そんな斉木の後ろ姿を黙って見送りながらもカスミの目線は差し入れを覗き込む。そこにはカスミの大好物の牡蠣フライと見るからに高級そうな、しかもかなりのボリュームの牛肉ステーキとサラダが用意されていた。思わずよだれが落ちそうになりながら「もう、今仕事中だからそれどころではないというのに、あいつはちゃんと分かっているのか?」と文句を言いながらも、それらを完食し、さらに気合を入れて仕事を続けたカスミであった。気づけば朝日が差し込み朝になっていた。「やばい!早く化粧を直さないと」と思いながらも後もうちょっと、あと少しと仕事に夢中になってた。そんな中、いつものように皆んなが出勤してきた。その頃には、すっかり化粧のことなど忘れて仕事に没頭していたカスミに活き活きした目でデスクワークをこなす以前の姿を見せていた。誰もがその様子を見て「やっと戻ってきた」と一安心したような表情になたのである。恭子が気を利かせてお茶を用意してくれ、「はい、よく頑張ったわね!これで課長も安心できるのではないかな?」と言いながら彼奴の様子を伺う。すると、斉木はそれに気づいたのか、クルッと背を向け外の景色を眺め始めた。しかし、その背中には安堵した様子がうかがい知れたのであった。カスミがありがとうございますと一言お礼を言いながら最後の追い込みでピッチをさらにあげるのであった。昼前になり、部署内に「出来た!」と一際大きな声が響き渡った。みんな一斉にカスミを見ると、そこにはついこの前までどんよりとしたお通夜のような暗いカスミの姿はどこにもなかった。斉木が勢いよく立ち上がり、「やっと出来たか」と身を乗り出しながら尋ねると、ちらっと斉木の方を見て「誰に聞いてるの?私が言ってるのよ!」とそこには自信満々の表情で言い返す元気な強気なカスミがいたのである。その姿をみた斉木は「では、今から先方に行ってこい。必ず小田を落としてこい」と激を飛ばした。それを受けて「当然、そのつもり。私を誰だと思っているの?私に出来ないことは何一つないから無駄な心配しないで」と返ってきた。次の瞬間カスミは勢いよく飛び出して行ったが、そんなカスミに「元気に復活したのは喜ばしいことだが、以前にも増して反抗的な態度になってないか?」と呆れ顔で呟いた。それを聞いていた部下たちが一斉に笑い出したのであった。そこら一体に眩しいばかりの光が差し込み始めたのを皆んなが感じ取っていた。そして言うまでもなく、誰しもがカスミの結果を楽しみにしたのである。そんなカスミは夕方になっても戻ってこないし、何の連絡もしてこないことに苛立ちと不安を抱えながらもじっと辛抱強く待っている斉木であったが、部下たちも同様誰一人として帰ろうとしないのである。さすがに斉木が課長として「仕事が済んだならさっそと帰れ!今日は残業も認めないぞ」と強い語気で命令したが、クスクスと肩を揺らしながら笑うだけで誰も聞く耳を持たず、挙げ句の果て隣の部署の田崎課長からも「斉木、今日は誰も言うことなど聞くわけないだろう。何せ彼女の帰社を誰もが待ち望んでいるんだ、心配しているのはお前だけではないのだぞ」とさも嬉しそうに話しかけてきたのである。いつもは犬猿の仲なのだが、それほどカスミの存在が会社にとって大きなものとなっていたのであることに改めて気づき、斉木自身嬉しく感じていた。そんなやりとりがあったことなど知る由も無いカスミが闘い疲れた重い足取りで、しかも小声で「ただいま」と言いながら戻ってきた。一瞬社内全体に重たい暗い雰囲気が漂ったが、そんな中斉木が勇気を振り絞り「おう、それでどうだった?」と気丈な態度で尋ねた。みんなうつむき目線も定まらない状態で、しかし聞き耳だけはしっかりと立てカスミの返答を待っていた。カスミが、「一体どうしたの?どうしてみんな残っているの?」と困惑したような表情であたりを見渡しながら、「うん、決まった。小田課長を口説き落としてきたよ」と虚ろな目をしながら返答した。一斉にみんな目を合わせながら「今、口説き落とした?」と耳を疑うような仕草をし、斉木も今何と言ったのか聞こえなかったらしく、「それでどうだったのか?手応えはあったのか?」と再度せっついた。カスミが斉木の真正面までつかつかと進み、大きく深呼吸をしてから「聞こえなかった?それともお年で耳遠くなったの?手応えどころか一気に口説き落としたわよ。だから言ったでしょ?私を誰だと思っているのって、そんなことより私は疲れているの、だから今日はもう帰る」と叫びながら言ったのである。カスミのその返事を聞いて、社内に残っていた皆んなが一斉に大喜びし歓声の渦となった。斉木もゆっくりどっしりと椅子に座りなおし、電話を手にした。相手はもちろん専務で「やりました。あいつがとうとう結果を出しました」と震える感情を必死にこらえながら平静を装いながら話すと、専務が低い声で「そうかそうか、とうとうやってくれたか?これでもう会社も安泰だな!それから彼女を十分労ってやってくれ!よくやった」と静かに答えた。野心家でライバルである隣の田崎も立ち上がり斉木に握手を求めてきた。それに答えながら斉木も涙をひっしに堪えていたのだ。恭子が「カスミ?疲れているのはわかっているけど、今日は思いっきり今までの鬱憤を晴らすために飲みましょ!当然課長のおごりで」と斉木をちらっと見ながら大声でカスミに言った。それまで疲れ切って今にも倒れて寝込んでしまいそうなくらいのカスミだったが、恭子のそれを聞いた途端、急に生気が戻ってきたかのような表情で「よっしゃー、ではでは、そうゆうことでみんな飲みに行こう」とガッツポーズを高々と決めたのである。それに答えるかのようにみんな大はしゃぎで一斉に身支度を整え出したが、斉木は一人そっと後ろ向きになり財布の中を確認したが、「おい、これで足りるかな?」とがっくりうなだれていた。それを見ていた田崎が、「これは、俺たちからの餞別だ。今日だけは遠慮なく使えよ」と袋を差し出してきたのだ。それを受け取りながら斉木は相槌を打ちながら「それでは遠慮なく使わせてもらうとするか、ありがとう」と言い残しみんなと一緒に出て行った。〈KBR〉
店に入るなり、「課長の音頭でスタートです」と言われ、素直に立ち上がった斉木は嬉しそうに「今日はこいつの完全復活を祝いカンパーイ」と言うとみんな乾杯しながら嬉しそうに飲み始めた。そんな中カスミが恥ずかしそうにしながらも、「ちょっと何よ完全復活って?」と噛み付いたところへ青木等がカスミに「まあまあいいじゃないですか?みんな心配していたんですから、ね!課長なんか見た目にはわからないくらいだったけど、本当は心配で心配で仕方なかっただろうし、結構イラついていましたよ。その煽りを我々は受けていたんだからこっちが大変でしたよ」と言うと、周囲の連中もそうそうと頷いていた。カスミはそんなみんなを見て「それは単純にあんたが頼りないからでしょ?だってあれくらいのプロジェクトも結局一人では何もできなくてみんなの助けがあって初めてやり遂げたんだし、あれくらいの仕事は一人でやりなさいよ」と相変わらず厳しい口調で言ったので、青木が寂しそうにしょんぼりしたので、恭子が全く仕方ないわねというお姉さん的表情で、カスミにそれは言い過ぎよと釘を刺してきた。それでもカスミはこのくらいのことでいちいちめげていたら仕事なんて出来ないと言わんばかりの態度で青木の肩を強くポンポンと叩きながら、「そろそろ独り立ちしなさいよ、いつまでもみんな一緒ではないよ」と喝を入れた。それを聞いていた斉木が笑いながら「もしかして、お前はあの話のことを気にしてるのか?」とカスミに尋ねると、「当たり前でしょ?これでも一応心配はしていたのよ」と返したのである。誰もが聞きたくても聞けなかったことを、カスミがここぞと言わんばかりに前振りをしたのである。恭子は下を向きながらクスクス笑い、斉木もどうしようもないなというあきらめ顔でみんなに「くだらない噂話など気にするな。俺はどこにもいかないし、それにもし俺がいなくなったら、誰がこいつの上司をやれるんだ?少なくとも俺には心当たりはないぞ」と言ってのけたのである。カスミは驚きながら「では、異動の話って一体どこから出てきたのよ」とキョロキョロしながらみんなに聞いてみたが、みんな「さあ、どこからだ?一体誰が最初にいいだしのだ?」と首を傾げていた。そこへ恭子が「そんなことどうだっていいではないの。それより今日は、彼女の復活をお祝いしているんだから課長のことなんてどうでもいいではないの」とみんなをなだめながら酒を進めてきた。異動話は一体どこから出たのか誰が言い出しのか、結局誰にもわからなかったのであった。カスミもいつの間にかそんなことなど忘れて美味しく飲みはじめたのだ。斉木はそんなカスミをみていたが、そこへ恭子が「あなたもそろそろ素直になったら?」と話しかけてきたのだ。まるでなんでもお見通しよと言わんばかりの恭子に何も言えない斉木であったが、あえて「なんのことでしょう」ととぼけてはみたものの、そんなことで納得する恭子ではなかった。「もうこれ以上彼女を待たせたら、本当に逃げるわよ?それでもいいの?お互いにもっと素直になればいいだけよ!空手はあれだけ強いのに恋愛に関しては本当に情けないくらい下手ね」と、チクリとさしたのである。斉木は一瞬厳しい目になったが、恭子を見てこれはとてもではないがかなわないと悟り、首をすくめながらそっぽを向くのである。恭子は斉木のその態度に落胆しその場を後にし、外に出たのである。そこにはカスミが一人佇んでいた。恭子はお互いに気持ちはわかりあっているはずと確信していたので、「カスミ?今日こそ素直になってみれば?そして受け入れて見てはどうかな?」とさりげなく話しかけた。それを聞いてカスミは「私は二度と恋はしないと決めているから」と何とも歯切れの悪い口調で言ったのである。恭子がカスミの目をじっと見つめながら、「臆病になってはダメよ。あの人ならどんなことも受け入れてくれるはずよ。今回のプロジェクトも途中で課長自らやれと言われたのよ。それでも専務たちを無理に説得し、あえてあなたにまかせたのよ。もちろんあなた自身そんな状態ではなかったのも承知の上で。それでもあなたは必ず戻ってくる、そして必ず立ち直り最後までやり遂げられると言い切って!その上でもしダメな時は自分が全ての責任を取るとも言いのけたのよ!」と初めて知らされたのである。それを聞いて「どうしてそこまでしてくれるの?自分でやればもっと早く上手く出来たはずなのに・・・」と理解できなかったが、そこへさらに「転勤の話は本当のことなのよ!そしてあなたに付いてきてほしいと思っているのよあの人は。でも口下手でしょ?だから私がしゃしゃり出るしかないのよ。だってあなたたちを見ていると本当にイライラするんだもの。ただ単にお互いに素直になればいいだけのこと、それだけのことなのにそれがよりによって二人揃って子供だから困るのよ!おばさんとしては心配で」とせっついてきたのである。カスミ自身も薄々は気づいていたが、幼馴染でもあるあいつには彼女自身の見られたくないところも全部知られているようでそれが恥ずかしくて否応無しに気づかないふりをしていたのだ。斉木もカスミと全く同様であったのだ。だからそのような二人はおたがいに不器用な形でしか接することができないのであった。そんな二人をなんとかしようと恭子は考えていた。もちろん遠縁にあたる専務も二人の気持ちには気づいており恭子と同じ気持ちであった。そろそろ宴会も終わりみんな二次会へと進んだが、カスミはここ数日徹夜だったし、斉木もそんな彼女を心配していたのだ。そこで、二人はここで帰ることにした。そんな二人をみんなで見送りそれから二次会へと向かって行ったのである。〈KBR〉
カスミと斉木が距離を取って帰宅する姿を見て恭子は「子供ではあるまいし、ここは彼が強引にでも引き寄せるべきななのに!カスミもカスミ!思いっきり甘えればいいのよ!甘えなさい!可愛い女になればいいのよ!ここは格好をつけるところではないのよ!」と激しくもどかしさを覚えた。みんなから見えなくなると少しづつ距離を縮めていく二人。カスミの家に着く頃に、やっと二人寄り添う二人。斉木が「着いたぞ」とカスミに促す。カスミは目を開けて鍵を渡し、中に二人で入るが、斉木はカスミを一人にしてそそくさと帰ろうとする。その時、カスミが「入っていかないの?」と初めて誘ったのである。斉木がおどおどしながら「入ってもいいのか?」と聞いた。「そんなんだからいつまでたっても一人なのよ!好きな女一人、ものにできないのよ!」と相変わらず可愛げのない強気な口調ではあったが、カスミ自身恥ずかしさをごまかすための言葉でもあった。その気持ちに気づいていた斉木は初めカスミの部屋の家に上がったのである。そのまましばらく部屋の中を見渡していると、斉木の目に今でも大切に飾られている翔の写真が大切に飾られていた。カスミが「ごめん、これはどうしても捨てられなかったの。でも、もういいの。だから今片付けるね」と言いながら翔との写真を引き出しへしまい込もうとした。いきなり恭子の手から写真を取り上げ、「無理をして片付けるね必要はない。むしろお前のことを誰よりも本気で愛してくれたんだろう!なら大切にすればいい」と肩にそっと手を置きながら言ってくれた。思いもしなかった斉木の言葉に初めて優しさに「どうして!」と聞き返すと、「俺と同じようにお前のことを大切に思ってくれた人だ。お前が本気で愛した男を忘れろなんて俺には言えない。なら、俺たちと一緒にいればそれでいいではないか」と言ったのである。さらに、翔からの最初で最後のプレゼントとなった結婚指輪も一緒に着ければいいと言ったのである。斉木のその優しさを最初は信じられなかったが斉木の優しい嘘のない目を見て、カスミは「もっと早く気付けば良かった、もっと素直になれば良かった。それにこんな幸せな時間なら、そのまま時間よ止れ」と本気で願う気持ちでいっぱいだった。斉木がそっとカスミを抱き寄せ「そいつはお前を幸せにするという夢を果たせなかった。だから俺が、そいつの分までお前を幸せにするよ」とカスミの耳元で囁いた。カスミはその言葉を聞いた途端、全身の力が抜けて行くのを感じていた。さらに斉木が「今度、その人の墓前に報告に行こう。そして、毎年二人で墓参りに行こう」と強く抱きしめながら言ってくれたのである。その言葉を聞きながら、本当はもっと昔から斉木の気持ちには気づいていた、それなのに思いを受け留められなかったカスミ。それでも待っていてくれた斉木の気持ちを今度こそ受け入れ、絶対に話さないと誓ったのである。「しばらくの間は恭子先輩のような可愛い女性を演じてやるか?しばらくは無理かもしれないな、数日、いや今日ぐらいでもいいよね」と自分に言い聞かせながらペロッと舌を出すカスミであった。
今をどのように生きるか
その選択肢は非常にたくさんある
何のために生かされているのか
その瞬間をどう受け止め、考え、判断し、自分の生きる道を進んでいくか
人生とは楽しくもあり最も苦痛でもある
どのように自分の生きた証を残せるか
その瞬間瞬間で考え行動できる人は素晴らしいと思う