積まれしものは
コト、と小さな音が部屋に響けば、同時に小さな粒が音も無く動き始める。
それを合図として、閉じられた室内で身じろぎをするように、わずかに空気が動いた気がした。
「久しぶり、かな」
「色々バタバタしてたからな」
机の向こう側には、やわらかく微笑む少女の姿が。背中まである黒髪に、首元まで見える白い肌。そしてその身を包むのは見慣れたセーラー服。
でもそんな姿を見るのも今日が最後かと思えば、寂しいという気持ちも芽生えてくる。
「分かってるよ。大変な、大事な時期だったもんね。それでー、結果は?」
笑みを絶やさず訊いてくる。そのまっすぐな視線は、初めて彼女を見た時からまったく変わっていない。
「二次志望は無事合格。一次志望の結果はまだ先だけど」
「そっか。無事に進学できそうだね。おめでとう!」
屈託無く祝ってくれる。そんな彼女を前に、はたして俺は上手く笑えているだろうか。
「おっと、もう一分経つね。そっかー。もうキミも卒業なんだね」
向こうから言われて、思わず視線をそらしてしまう。
「あっという間、だったね」
「当たり前だろう。そんなに長い時間、一緒にいたわけじゃないんだからな」
思いのほか雑な返事になってしまったのを、頬をかいて誤魔化してみるが。
「そうなんだけどね」
それでも返ってくる声に変化は無い。
そらした視線を机の上に向ければ、そこにあるのは一つの砂時計。
小さなガラス管の中を、砂は滞りなくさらさらと落ちていく。
それは唯一にして、彼女と俺を結ぶもの。
「残り三分ちょっと。きちんと言っておかなきゃね」
机越しにゆっくりと手を伸ばしてくる彼女。その手は俺の頬に触れる、はずだった。
だが俺にはなんの感触も無い。手の感触はおろか、周辺の空気が動く気配すらも、感じることが出来ない。
それでも彼女はゆっくりと手を動かしながら、やはりずっと微笑んでいる。
触れられない――。その理由は出会った時に彼女の方から告げられていた。
「あたしは、この砂時計に宿った幽霊だから」と。
彼女との出会いは、この高校に進学して二ヶ月が過ぎようとする頃だった。
友達の付き合い兼部員確保の名目で籍を置いた美術部。その活動場所である美術室の隣の、なかば物置と化した美術準備室の片隅で、画集の山に埋もれるようにして砂時計は置かれていた。
天地の台に幾何学模様が掘り込まれていて、くびれのあるガラス管を挟むように伸びている三本の柱にぐらつきはなく、しっかりとしていた。
手に取って何気なくひっくり返してみれば、中の砂はさらさらと落ちていく。
年代物に見えるが、壊れているわけではないようだ。先生か先輩の置き土産かもしれない。
そう思い美術室に戻ろうと振り返ると、一人の少女がそこに立っていた。
あまりの驚きに声すら出なかった。美術室から誰かが入ってきた様子も無かったし、まだ短い付き合いとはいえ、美術部のメンバーの顔くらいは覚えている。にもかかわらず、少女の顔には見覚えが無かった。
しなやかに流れ落ちる黒髪。意思を感じる瞳。その顔立ちは整っていると表現出来るだろう。
「……君は?」
そんな感想を他所に、俺は渇いた口を必死に動かして問いかける。
すると少女は目を丸くして、こちらに問い返してきた。
「キミは、あたしの姿が見えるの?」
その口調は明るく、どこか嬉しそうな響を含んで。
それが俺と彼女との、沙羽との出会い。
見えると分かった時から、矢継ぎ早に説明をされた。
いわく、波長、相性の合う人にしか見えない。
いわく、交流出来るのは、砂が落ちている間だけ。
いわく、幽霊だから触れられない。取り憑いたり、危害を加えるつもりは無い。
「そもそも取り憑くって、どうやるのか分からないんだけどさ」
そう言って軽く肩をすくめながら笑う沙羽。その姿に『幽霊』の二文字が連想されるようなイメージは、全くといっていいほど重ならない。
「……本当なのか?」
「疑うの? まぁその気持ちは分かるけどさ。……ほら」
沙羽はゆっくりと右手をこちらに差し出した。その手はクラスメイトの手よりも白っぽく見えたが、それは準備室の照明のせいだろうか。
沙羽の顔とその手に交互に視線を送り、おずおずと自分の手を伸ばすが、逡巡してしまう。
「えいっ」
そんな俺の手に、向こうから手が伸ばされた。反射的に手を引いてしまう、が。
「……マジかよ」
こちらが手を引くことも予想されていたのか。沙羽の指はこちらの手と重なる位置にあった。だが手には何の感触も無く、ゲームや映画のホログラムのように彼女の指が俺の手を突き抜けていた。
「ね? 分かったでしょう?」
沙羽が手を下げたのを見て顔を上げれば、彼女はその手で髪を耳へとかけているところだった。
自分の手を見て、グーパーと動かしてみるが、特に違和感は無い。
「大丈夫だと思うよ。今までも問題無かったし」
「今まで?」
問い返すが、沙羽は曖昧に笑って砂時計を指差した。
「ごめん。今日はもう時間が無いんだ」
ちらりと見れば、確かに砂の量は残り少なくなっていた。
「その砂時計、あとで見てほしいんだけど、上になっている方に花が彫ってあるの。今みたいにそっちを上にして砂が落ちている間だけ、こうやって話が出来るみたいなの」
後で見てみると、確かに平面部には花が掘り込まれていた。ノースポールというキク科の花らしい。
また、砂時計の砂が全て落ちきるまでの時間はたったの五分間。片側でしか交流できる時間が取れないので、五分以上連続で会う事は出来ないようだ。しかも一日に一回限りというオマケつきとのことだ。
「あたしと話せる子が来たのは、ほんと久しぶりだよ。よかったら、また来てほしいな」
早口でそう言い残して、沙羽の姿は消えていく。砂時計に視線を向ければ、全ての砂が落ちきっていた。
人に話したところで、到底信じてもらえないような話だろう。いやもしかしたら、夢だったのかもしれない。
それでも三日後、訝しがりながら花模様が上になるよう砂時計をひっくり返してみれば、沙羽は再び笑顔で現れた。
「来てくれると信じていたよ」と、嬉しそうな声を響かせて。
それから俺と沙羽との、限られた時間の交流が始まったんだ。
視界の中、落ちる砂が徐々に山を築き始める。
「少し出会った頃を思い出してたよ」
限られた五分間。他の人がいる時は話せないし、準備室にずっと篭っているわけにもいかない。
一日に一回、五分間だけの限定交流。その山をいくつ築いてきただろうか。
「そっか」
なでられる。感触の無い手。その手は頬から顎、唇、鼻、目の辺りをゆっくりと辿り、そしてまた頬へと戻ってきた。
「あたしはずっと楽しかったよ。色々教えてくれてありがとね」
「沙羽……」
本当に変わらない。そのままで、俺を見送るつもりなのかもしれない。
それが沙羽らしいとは思う。それでも寂しさを感じているのは、俺だけじゃないはずだ。
それだけの時間を、俺達は過ごしてきたはずだから。
「それが今の携帯電話?」
とある放課後、まず沙羽が食いついたのは、俺が持っているスマートフォンだった。彼女が以前に見た携帯電話は、二つ折りの物だったという。
最近――といってもここ数年らしいが――学生がいじっているのを見て、疑問に思っていたらしい。
「そうだよ。こうすると電話で、メールもこのアイコンで出来る」
タップしてみせれば、沙羽は顔を近づけて覗き込んでくる。人間と違い気配が無い分、俺はその行動に驚いてしまう。
当人は全く気にしてなさそうなのだが。
「へぇー。ねぇ、他のは何?」
「ああ、ゲームとかネットとか色々出来るんだ」
いくつかのアプリを起動してみせる。沙羽が言っていた二つ折りの携帯とは、ガラケーの事を指しているのだろう。しかも結構前の仕様の物のようだ。
「ほんとだ! 画面きれい! 凄いなぁ」
「そんなに驚くとこ?」
「驚くよー。もう何年もきちんと見たことないし」
聞いてみると、前に沙羽の姿を見ることが出来た人は、六年くらい前の人らしい。おしゃべりが楽しくて、同じ日に二回目の時間を過ごそうと砂時計を動かしてもらったけれど、何故だか二回目は存在を認識できなかったらしい。俺も後で試してみたが、やはり一日に二回は無理だった。
ついでに沙羽の行動範囲は、砂時計を中心に半径五メートル程度。壁を抜けて教室後方や廊下にも出ることは可能とのことだ。
もっとも何のリアクションももらえないから、滅多に出ないという。
「また見せてやるよ」
砂時計に目をやり時間ギリギリにそう伝えると、沙羽は笑顔で目の前から消えていった。
こういった新鮮な反応が面白く、少しずつ沙羽を構う時間が増えていったんだ。
「沙羽はいつも笑っていたね」
「そうかな?」
「そうだよ」
俺がどんなに不機嫌でも、沙羽は笑顔でいてくれた。
「めったに出来ないことだから、もったいないでしょ」
あくまで前向き。これも変わらない。
幽霊らしくないその態度。陰鬱さなんて全く感じられず、逆に子どものような純粋さを感じることの方が多かった。
だからこそ、砂の落ちる限り、俺は沙羽との時間を過ごしてきた。
そして自覚が無いままに、その時間を好きになっていたんだ。
名義だけのつもりが、美術部の活動に出来るだけ参加していたのは、沙羽の存在が大きい。
存在、というと語弊があるのかもしれないが。
砂時計はずっと美術準備室にあったという。以前に俺と同じように沙羽と交流できた女子生徒は、時々美術室に置いてくれることもあったらしい。
「時間が経っても、やってる事は変わらないね」
準備室で俺の描いたデッサンを見て、沙羽はそう言った。
「美術道具に進化を求められてもなぁ。紙に筆、絵の具さえあれば描けるものだし」
「そうだね。だからこそ」
沙羽はそこで言葉を切ってこちらを見る。
「自分の何かをそこにぶつけてるんでしょ?」
あまりに真っ直ぐな言葉に、俺は苦笑いを浮かべてしまう。
俺は部員の責務として描いているだけで、自分の何かや、伝えたい事のために描いているわけじゃない。
もちろんそういう人もいるのは事実だし、芸術の本懐とはそうあるべきかもしれない。だが携わる者全てがそうかといえば、ノーになるだろう。
「俺は付き合いで美術部に入部しただけだよ。そんな高尚な目標なんてもってないさ」
俺の答えに沙羽は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに笑ってこう言った。
「だからこそ、味が出るのかもしれないよ」
本当にコイツは幽霊なのか、と疑問を覚えてしまう。
「それは、俺の絵が下手ってことだな」
横目で睨むと、沙羽は笑ったまま手を振って消えていった。
タイムアップを狙ったのか。だとすれば、なんとも計算高い奴だ。
だがそんな人間っぽさが、より沙羽を遠ざけない理由だと気づいたのは、それなりに時間が経ってからだった。
徐々に砂の山は大きくなっていく。砂の残量は、そのまま卒業までのカウントダウンと言える。
「沙羽は……ずっとここにいるんだね」
「そうだね。あたしは砂時計から離れられないから」
理由なんか分からない。彼女自身、自分がこうなってしまった理由を覚えていないと言うのだから。
ただなんとなく校舎の記憶は残っていたらしい。服装が学園のセーラー服な事を踏まえれば、過去の生徒だったのかもしれない。
だとすれば、彼女は何回こうやって見送ってきたのだろう。
今日俺を見送れば、また独りになってしまうというのに。
「相変わらず優しいね。キミは」
沙羽はいっそう目を細めて俺を見る。
「大丈夫だよ。だからキミは新しい道を歩いてほしい。あたしには、歩くことが出来ないからさ」
俺の考えなどお見通しなのかもしれない。沙羽が俺を見つめる目は、何より優しく感じる。
もしクラスの男子がその姿を見ることが出来たなら、おそらく皆黙っていないだろう。美人というよりは、可愛いほうに分類されると思われるが、話題に、そして的にされる光景は容易く思い浮かべることが出来た。
結局親友にも三年間、砂時計を含めこの事実を話すことは無かった。
反対に沙羽には、そんな親友にも話せない事を話したりもした。
どこかに話が漏れる心配も無いし、なにより食いついてくる彼女の反応が、俺はとても楽しみになっていたからだ。
「あたしは彼女さんの気持ちも分かるけどな」
「俺も分からなくはない。でも、どうしてもアイツに肩入れしちゃうんだよな。俺は相手を知らないからさ」
今日の話題、もとい愚痴は、友人の痴話喧嘩だ。同じ男としてアイツの言う分は理解出来るし、そっちの肩を持つのも自然な話なのだが。
それでもさすがに一日そんな話を聞いていると、こちらの気も滅入ってしまう。俺は独り身だというのに。
「ま、その辺は女の子の事情かな」
「女の子ねぇ。て、お前の年齢は」
「なにかな?」
遮られた言葉。そして俺にはいつものように笑顔が向けられていた。
そう、見た目は完璧な笑顔だ。だがその裏の真意は推して知るべし、か。
存在は無くとも怒気を感じる、とはどういう事だろうか。いや、単純に心理的プレッシャーを受けただけかもしれない。
幽霊と言えど、女性としてのタブーは変わらないという事なのだろう。不用意な発言は慎むべきか。
「まったく。キミはもう少し気を使う人だと思ってたんだけどな」
幽霊相手に気遣いも無いだろう、とは思うのだが、それは幽霊相手に意地を張っても仕方ないとも言えよう。
「そうだな。俺が悪かった。すまん」
「ん。分かればよろしい」
腰に両手を当てて胸を張る沙羽。それはそれで不用意な気がするが、さすがに突っ込みづらい。
触れられないのは分かっているが、そういう考えをしてしまうのは、やはり男子の悲しい性だろう。
ましてさっきまでの会話が友人の痴話喧嘩だったのだから、さもありなん。
「まったく。そんなだから、恋人の一人も出来ないんじゃない?」
「余計なお世話だ」
恋人が欲しくないと言えば嘘になる。だが声高に叫べば、がっついてると思われそうだ。
て、俺は沙羽相手に何を気にしているのだろう。幽霊相手に見栄を張る必要も無いのだが。
「キミは誰か好きな人、いないの?」
沙羽が身を乗り出して訊いてくる。好奇心を表す大きな瞳が、はっきりとこちらを捕らえていた。
幽霊になっても、女の子はこの手の話題が好きなのは変わらないようだ。
「特にいないかなぁ」
そんな沙羽を前に、思わず視線を遠くに向けてしまう。
クラスで話をする女子はいるし、遊びに行く仲間内にも女子のメンバーはいる。
そんな女友達とそれ以上の関係になりたいかというと、そうでもない、というのが現状だ。
友達としては、楽しい奴らばかりだけれど。
「残念だなぁ。キミのそういう話を聞いてみたかったのに」
本当に残念そうな沙羽。申し訳ないが、その期待に応えることは出来ない。
「浮いた話が無くて、申し訳ございません」
話を流そうと、わざとらしく丁寧に謝ってみる。
「じゃあさ、どんな子が好み?」
まだ食いついてくるのか。あんまりこの手の話題を続けたくはないのだが。
無下にするのも気が引ける。当たり障り無く答えて、濁してしまおうか。
「何でそんな事知りたいんだ?」
「キミの事、もっと知りたいから。あたしが話出来るの、キミしかいないんだもん」
当然でしょ、と言わんばかりの表情。そして幽霊とはいえ、女の子にそう言われれば嬉しく思ってしまう自分がいた。
「やれやれ」
大きく息を吐きながら視線を動かせば、砂時計の残り時間はわずかになっていた。
「んじゃ、また今度な」
砂時計を指差し、話を流す。
「ん。今度聞かせてもらうからね」
念を押して消えていく沙羽。
さて、次回は何かネタを仕込んでおかないとな。追求されるのはゴメンだ。
そんな事を考えながら、次回に備えて砂時計をひっくり返しておく。
正直、詰め寄られて悪い気はしていなかった。
むしろ、そっちの好みはどうなんだ、と聞き返しておくべきだったのかもしれない。
でも多分どんな答えが返ってきても、俺はリアクションに悩んだ気がする。
その理由が幽霊だから、という一言以外にもある事に、俺は気づいていながら頭の外へ追いやった。
もう何度、この砂が落ちるのを見てきただろうか。その回数が、沙羽との時間そのものだといえる。
それでも卒業アルバムに、その笑顔を残すことは出来ない。俺がカメラを操作しても、沙羽の姿を残すことは出来なかったのだから。
「沙羽は、ずっと俺を見てる、と言ってたね」
「うん。砂の落ちる限り、この時間はキミとの時間。そう最初の頃に言ったと思うけど」
たった五分しか交流することが出来ない。だからこそ沙羽はその五分間、全力で俺を見ていた。
「キミは照れ屋さんだからね」
沙羽は俺の頬に寄せていた手を戻して、砂時計へと指を触れさせる。
実体を持たない彼女の指では、砂時計の何の影響を及ぼすことも出来ないというのに。
落ち続ける砂。何回も見続けてきたから、何となく残り時間が分かってしまう。
「二分、かな」
それは沙羽も同じ。いや、彼女の方が正確だ。
まだ伝えたい事がある。してやりたい事もあった。
出会って半年ほど経った頃、他の教室に砂時計を持っていくことを提案したことがあった。
いつもこの部屋ではつまらないだろう、と思ったのが表立った理由だが、それ以外の思惑もあった。
だが沙羽は、その提案に明確な拒否を示した。
「これは、ここになければならないの。たぶん、あたしもここか、美術室じゃないと見えないと思うから」
笑顔を絶やさない沙羽が見せた、唯一の苦い表情。
その表情を前に、俺は彼女に無理強いさせることは出来なかった。
それでも彼女の別の場所を見せたかった。違った時間を過ごしてみたかった。
だから二年の夏休みに、沙羽に許可を取らないまま砂時計を持ち出した。そして誰もいなくなった自分の教室でひっくり返してみたが、沙羽の姿は現れなかった。
彼女の言うとおり、美術室でなければならないらしい。別な場所を見せるという俺の目論見はあっさりと頓挫してしまった。
さらには教室で消化した時間は戻らず、その日は沙羽と顔を合わせることが出来ないというオマケまでついてしまった。
「どうして勝手なことするかな?」
翌日には沙羽に怒られ、つまらない言い争いに五分間を費やした。思えば沙羽と揉めたのは、その一回が最初で最後だった。
結局俺があちこちの写真を撮って沙羽に見せることで手打ちとなった。撮りためた写真に当然彼女の姿は無いが、絵の背景や素材では役に立ったのだから、よしと言えよう。
それよりも普段見せない彼女の表情と感情が見れたほうが収穫だった。それは本当の人間と変わりなく感じられ、より彼女を意識する一因になったのは事実だった。
「俺は、もっと君の事を知りたかった。でも、叶わなかった」
「その気持ちだけで、あたしは嬉しいから」
沙羽をそこから解き放ってやりたい、と思うようになったのは、いつからだろう。
もっともっと彼女と話したい、知りたいという、単純なエゴ。
だから砂時計の由来を調べたり、過去の生徒を追えば、彼女の事が分かるのでは、と考えた。
だが現実はそう上手くいかない。美術部顧問にしても、その砂時計がいつからあるのか知らないという。もっとも顧問が赴任してきたのは三年前らしいので、仕方ない事だろう。
過去を追うにも限界があった。理由も無く過去の部員名簿を見ることは出来ないし、美術室や準備室に残されていた作品にも、沙羽の心当たりになる物は無かった。
空いた時間に図書室にあった学校史をめくってみたが、有益な情報は得られず、早々に手詰まりとなってしまったのだ。
OBのコネクションも無く、気づけば受験へと駆られる時期になり、結局はそのまま今日という日を迎えてしまった。
自分に出来た唯一の事は、その存在を形にして残す事。写真も無理なら、出来る事はこの腕を使う方法しか思い浮かばなかった。
もっとも、まだラストピースが埋まっていないままなのだが。
「もう少し、やれる事があったと思うんだけどな」
思わず自嘲気味に笑ってしまう。そんな俺に、沙羽は小さく首を横に振って見せる。
それから俺の方に歩み寄り、ゆっくりと俺の体を両腕で包み込んだ。
「……沙羽?」
息遣いも、熱量も、腕の感触も、何も感じない。
目の前には、胸に顔を寄せる少女の姿が、確かに見えるのに。
「本当に、ありがとう」
沙羽は顔を上げて俺を見る。その表情は、唇を震わせつつも笑っていた。
「あたしは、涙を流すことも出来ないから。だから……笑顔で送り出させてほしいんだ」
「沙羽……」
腕を伸ばし抱きしめたい衝動に駆られる。だがその手は彼女をすり抜けてしまうと分かっていた。
だから拳を握り、俺も笑って彼女の顔を見つめる。
細められた瞳。震えるまつげもはっきりと分かる。
「こちらこそ、ありがとう。楽しい時間を過ごさせてくれて」
「うん。元気でね」
「ああ」
またね、とは言えない。もう会えないという事を、俺達ははっきりと理解してしまっているから。
砂が落ちる。山となって、その時間を積み上げていく。
「ありがとう」
どちらともなく、繰り返し感謝の言葉を口にする。俺の吐き出す言葉だけが、風となって部屋の空気を動かしていく。
「卒業おめでとう。キミの笑顔に祝福を。なんてね」
微笑みをうかべたまま、顔を近づけてくる沙羽。背伸びをするように、ぐっと体を伸ばして。
「……バイバイ」
耳の近くで小さな擬音と言葉を残し、沙羽の姿が消えていく。
「沙羽!」
思わず声と手を上げるも、その手は空を切ってしまう。視界の中に写る砂時計は、その動きを止めていた。
そのまま手を頬へと当てる。今聞こえたのが、空耳でないとするならば。
「反則だろうよ……」
姿は見えず、声を交わすことは出来ない。でも、沙羽はここにいる。
ここに、いるんだ。
だから俺は、棚から一冊のクロッキー帳を抜き出してページを開き、そばにあった鉛筆でページの片隅に言葉を殴りつけた。
「楽しみにしてろよ!」
誰も居ない美術準備室に声を響かせて、クロッキー帳を元に戻す。
それからもう一度、部屋を見渡した。
「これくらい、しておくか」
砂の落ちきった時計を手に取り、ひっくり返しておいた。
再び落ち始めた砂を少しだけ見つめ、美術室へとつながる扉へと足を運ぶ。
そしてドアノブに手をかけて、もう一言だけ置いていく事にした。
「沙羽。もう少しだけ遠慮を覚えてほしかったけどな。でもそんなお前を……俺は気に入っていたよ」
知ってた、とか言って笑っていそうだけどな。
感謝の言葉は言い置いた。あと残すべきは。
「いつか……」
小さく呼吸をし、唇を湿らす。ここで涙を見せるわけにはいかない。
「いつか……自分の事が分かるといいな。それを祈っているよ」
俺の声は小さく響き渡り、そして消えていく。
そう、これでいい。俺の気持ちは全て、形にして残してあるから。
「じゃあ、元気でな」
美術室へのドアを開く。
もう二度と開ける事のないドアを背に、俺は歩き出した。
あたしにとって、日々はただの繰り返しでしかない。
自分が宿る砂時計のように、同じような時間の中を行ったり来たり。
時々準備室で話し込む生徒の会話を聞くのが、数少ない楽しみだ。
今日もまた、一組の男女が準備室に姿を見せた。最近よく見る顔だ。新入生なのかもしれない。
男の子は、他の子と比べると線が細いように思う。いかにも文化部男子という雰囲気だ。
一方で女の子は、眼鏡のせいかとても理知的な印象だ。でもその顔立ちには、まだあどけなさが残っている。
お似合い、と言えなくもないかな。
「これは何?」
少女がクロッキー帳を広げている。
「それ、ここにあったやつ? 先輩達が残していった物みたいだよ」
棚の整理をしていた少年が答える。なんせ物が多い準備室だ。使える物を分けておかないと、不便でならないのだろう。
「そうみたいね。年月日が書いてあるページがあるわ」
ページをめくりながらそんな声が響いてくる。
「先輩達は、色々描いてたみたいね」
そんなどこか間延びした声が準備室に響く。
「ま、モチーフの取り方の練習になるしね」
整理をしていた少年も手を止めて、クロッキー帳を覗きこんだ。
あたしは自分でクロッキー帳を開けないので、その中身には興味があった。
横から覗き込んでみれば、クロッキー帳には静物を中心としたデッサンが多く描かれていた。花や果物といったベタな物が多いけど、人物を描いたものも見受けられる。
「あれ、これって……」
ページをめくっていた手が止められた。何か気になるものがあるのだろうか。
「この砂時計って、もしかしてアレ?」
少女は顔を上げて、部屋の棚に置かれた砂時計を指差した。
「あー、それっぽいね。特徴あるし」
クロッキー帳の砂時計にも、台座に掘り込まれた幾何学模様がきれいに描かれていた。
見覚えがあるそれは、いつか彼が描いた物。
「上手ね」
「うん」
簡単な感想を口にして、二人はページをめくる。
「あれ?」
そしてまた手が止まる。そのページには少女の上半身が描かれていた。その服装は制服姿であり、胸の前に差し出された両手には、砂時計が描きこまれている。
「この砂時計も、アレだよね」
「そうだね。前のページのデッサンとは少し違うけど」
絵の中の砂時計は、今まさに砂が落ちている瞬間だ。絵の中の少女はそれを見つめながら、微かに微笑んでいるように見える。
「あの砂時計、まだ動くのかな?」
少年は立ち上がり、砂時計へと手を伸ばす。ゆっくり丁寧に持ち上げてひっくり返せば、砂は引っかかることなくさらさらと落下を始めた。
「古い物っぽいけど、ちゃんと動くね」
そう言って少年は元の場所に戻り、再びクロッキー帳を覗き込む。
「あれ、これ小さく書き込みある。日付、じゃないな。タイトルかな?」
砂時計を抱く少女の絵の下部に、手早くクセ字で書かれた文字が並んでいた。
「『spirit of hourglass』……? 砂時計の精霊、かな」
それを聞いて、自分の目で見て、あたしは思わず吹き出した。
なるほど。あの日、キミが最後に仕掛けたのは、こういう事だったのね。あたしをモデルにしていたのは知っていたけれど。
卒業の記念に、とか言ってたのに。
そのタイトルは、反則じゃないかな。
あたしは二人から目を離し、砂時計へと視線を向ける。
本当に、キミときたら……。
それからゆっくりと、砂時計に手を伸ばす。相変わらず、触ることは出来ないけれど。
「……さて、そろそろ帰ろう?」
「そうだね。あ、ごめん。教室に鞄おきっぱだ」
「早く取ってきなさいよ」
少女に促されて、少年は準備室から出ていく。この時間もお終いか。
小さく息を吐きながら、もう一度砂時計に触れ、見つめる。
そんなあたしに、横から意外な声がもたらされた。
「あなたは……誰?」
思わず視線を上げる。
残っていた少女が、クロッキー帳を片手にこちらを見つめていた。
まさか……。まさかまさか。
「あなた、あたしの姿が見えるの?」
思わず問いかければ、少女は小さくうなづいてみせた。いたって冷静な視線と態度。手に持つクロッキー帳は、あのページが開かれたままだ。
「……ありがとう」
思わずこぼれた言葉に、少女は首を傾げた。
違う。そうじゃないよね。
あたしは目じりを軽くこすり、少女の方に向き直る。
大丈夫。あたしは笑えるから。
「あたしは沙羽。あなたの名前は?」
だからまた、ここから始めよう。
かつてキミと、そうしたように。