4月19日(火) その1
この日も朝から水汲みに追われていた。もう朝のお通じ以外はできる限り、給水スポット近くのトイレまで行くようになっていた。
わざわざ水汲みするよりも外で用をたす方が楽だからである。ああ、協力隊時代を思い出す。
ただ、あの頃は常に断水がある事を前提にした生活だから、常に水を25リットル入りポリバケツを2個用意して、水が出る時に貯めて生活していた。だから、断水があれば、その水を使って水浴びやトイレをすませていた。
日頃から断水を前提にした生活をしていれば、水を風呂に貯めておく事もできたはずなのに…。熊本市は人口73万人もいながら、水道水の全てを地下水でまかなう事ができる大変珍しい都市である。
そのため、いかなる渇水があろうとも、阿蘇山麓に豊富に貯められた地下水のおかげで断水知らずである。そのため、熊本では断水への備えをしていない人が多かっただろう。
かつて、福岡市に住んでいた事があるが、福岡市は市域に地下水もなければ、大きな河川もなく、渇水時はすぐに断水を強いられるため、水に対する備えがしっかりしている。海外や県外に出ているからこそ分かる水の有限性…。
断水が土曜未明以降から長期化していた。すると、風呂や洗濯ができない事がどうしても問題になってくる。朝、母から連絡があり、地震が来るなんて思わなかったから、洗濯物がたまっていて困っているとの事。
そこで震源地から離れていて、既に水道が復旧している熊本市北区か合志市辺りのコインランドリーへ行く事にした。しかし、考える事はみんな同じでコインランドリーはどこも人があふれていて、なかなか洗濯できそうになかった。
やむえず、知人を頼って洗濯機を貸してもらう事になった。洗濯機を借りるなんて、震災前なら考えもしなかった事であった。
しかし、震災以降の熊本では当たり前のように水が出る地域の知人を頼って、洗濯機や風呂を借りる事が行われている。
母の洗濯が終わると、知人へ感謝の言葉を述べた上で、知人宅を後にする。
「地震さえ無ければ、こんなみじめな思いをしなくて良いのに…」
車の中で母がボソッと言う。私は思わずラジオのボリュームを上げた。今回
の地震が私達から奪ったものはあまりにも多過ぎて、もう何が何だか分からない…。
地震の回数にしても、前震から本震までの間はまだ何回か数える余裕もあったが、あまりにも余震が多過ぎて何回地震があったかもう分からない。
ただ、何もかもが前例のない異常事態である事だけはきちんと理解できていた。
この日は臨時休業で一日休みであった。この先どうなるか分からない。昼過ぎに会社から連絡があり、臨時休業が翌日まで引き延ばされる事となり、状況次第ではさらに休業期間が延びるらしい。このままでは気分が滅入るばかりである。