09 報せ
「へえ、俺の写真が?」
真崎が聖司の前の席に陣取って複雑そうな顔をした。単純明快なこの男が誉められてこういう顔をするのが聖司は引っかかった。
昼休み、聖司のクラスへ遠慮のえの字もなく入ってきた奴は、弁当を広げながら眉を寄せている。母親がマメな人なのだろう、彩り鮮やかな小学生の遠足で見るような弁当だ。ただしサイズは小学生の倍以上だったが。
聖司のものは、夕飯の残りと購買で買ったパンがある。自分で家事をするようになって、弁当というものの面倒さを知った。そのせいか、真崎の弁当を見ていると小さかったころを思い出して、無性に懐かしさがこみ上げる。
聖司の好きなものを詰めてくれる母のあたたかさと、全部を食べて帰って「おいしかった」と伝えたときの母の嬉しそうな顔。ぬくもりのある家庭に自分はいた、と思い出せる。
聖司のそんな感傷とは裏腹に、真崎はいぶかしげに箸を止めていた。
「変なことを言ったか」
「いや……俺のってあまり評価されないし、何を撮ったのっておばさん言ったんだろ。訳わかんねってことじゃん。だから何がよかったんだろって」
肩をすくめる真崎の言う通り、母は「きれいね」と繰り返すだけだった。封筒を手放さないほど気に入ったのだと、深く考えもしなかったが――
「でも、ほとんど何に対しても関心を示さなかったんだ。いいことだって先生も言ってた」
「ああ、それはな。でも俺はちょっと心配」
なにが、と問うと真崎は至極真面目に、
「気に入ってるのばっかだから」
しばらく真崎と聖司は黙々と弁当を平らげた。女子のけたたましい話し声や笑い声が耳朶に触れていく。廊下から聞こえるのは、もう弁当を平らげた男子の声だ。昼休みに流れる放送は流行りのポップスだった。
「その……気を付けとくから」
「いや、いいんだけどさ、フィルムあるし。気に入ってくれたんならやっぱうれしーから」
聖司が言いづらそうに礼を言おうとしたときだった。視界に、三年を示す赤の入ったネームプレートが光った。え、と仰げばすぐ脇に、半眼になった写真部部長が仁王立ちしている。
「ちょっと聞くけど……君らはホモか?」
「は? いきなり何言い出すんスか」
空になった弁当をとっととしまって、ペットボトルをあおった真崎が胡乱な顔つきをした。
「私と村木君とでえらく態度が違うじゃないのよ。偶然見ちゃった時には鳥肌たったわよ? なぁにあんたのその表情! ちょっとー、気持ち悪いんですけどー」
「はぁ? 部の後輩をなんつー目で見てんのあんた」
「先輩相手にあんたとか言わない。退部騒動ちゃんと食い止めてあげたんだから感謝なさいよ。再入部には二週間のペナルティが科せられるんだからね」
「誰も頼んでねぇっつの。そんなペナルティどうでもいいし。てか何の用スか? 下級生の教室でめっちゃ目立ってますけど?」
「あんたもよその子でしょ。連絡事項があったのよ。たまたま見かけたから寄っただけ。次のコンクール課題とか夏休みのスケジュールとか」
数枚のプリントを受け取りながらげんなりした真崎が、
「ええ、もう夏休みの話? まだ六月なのに」
「今年は各部のようすを撮る予定なのよ。許可が下りたら練習風景とか、近場の合宿なら付いてって撮らせて貰うの。面白そうでしょ?」
「うえぇ……めんどうくさ……」
「良い練習になるわよ? 人を撮るのあんた苦手だもんねー」
にたにたと部長が笑い、真崎が露骨に舌打ちした。そのまま写真部の話題に突入していく。チラリと見えたスケジュールはかなり埋まっているようだった。部活だけではなく、委員会活動やボランティアにも参加し、カメラに収めてくるようだ。
暇だった去年と全然違う、と真崎がうめいている。
「当然よ。写真部の活動をもっとアピールしてかなきゃ、潰されるじゃない。人数少ないんだから危機感持ってよね。あと、文化祭でいくつか教室借りて展示するから、そのつもりで」
「人の写真撮って展示なんて、この鬼! 悪魔! そんなだからコンクール一次落ちなんだよ!」
真崎が喚くと、その頭を彼女はがしりと両手で掴む。
「当然、実績が残せるなら、残すわよ。人が撮れないならそれなりに良い結果出してくれないと、あんたいる価値ないからね。わかってるわよねぇ?」
墓穴を掘った真崎がひいっと引きつった声を出す。
「あの、盛り上がってるとこ悪いんですが、俺この後用事があって」
聖司が割り込むと、真崎が助かった、とばかりに便乗してきた。
「ああ、買いたいものあるって話だったっけ? てことでぇ、先輩その話はまた今度」
聖司を盾にしつつ、真崎もそそくさと席を立つ。「放課後スケジュールの打ち合わせあるから参加すること!」と部長の声が追いかけてきたが、写真部員は両手で耳を塞いでいた。
「仲いいな、写真部」
「どーこーがー! どっからどう見ても虐げられてただろー? 何で部長堂々と二年の教室入ってくんだよぉ」
逃げるように教室を出て階段へ駆け込むと、真崎が頭を抱えた。しかしすぐさま、こうしちゃいられない、と顔を上げる。
「ごめん、先輩来ると面倒だから戻る」
じゃあ、と階段を下りていく背中を聖司は見送った。
部長が真崎に思いを寄せていることは、今となれば確定事項だろうか。なぜ真崎は気づかないのだろう。ああやって言い合いができるほど、仲がいいのに。
ああ、仲がいいから、かえって気づかないのだろうか。
すると、アナウンスで聖司は呼び出しを受けた。職員室まで至急来い、というものだ。胸のざわめきを感じながら、呼び出される原因を探る。至急、と放送されるほどの心当たりが浮かばない。
担任から言い渡された内容は、飲み込むのに時間がかかった。山口の深刻な表情。肩に置かれた分厚い両手。担任の唇が紡ぎだす言葉は。
「落ち着いて、聞いてくれよ。たった今、病院から連絡があったんだが――」
母の事故。
血の気が引いていく音さえ聞こえるようだった。聖司は青い顔色のまま、山口とともにタクシーに乗り込む。思い出すのは三年前の事故だ。あの日は母のあとを付いて行った。同じようにタクシーに乗り、母のふるえる手をつかんだのだ。
病院に搬送された時点で、叔母である美弥は息を引き取っていた。それだけでもショックを隠せなかったのに、父の状態も危ないという。母と二人、手術が終わるのを沈痛な思いで待っていた。不安から口を開いても会話は長続きしない。誤魔化しのきかない静寂が、あのとき聖司と母を苛んだのだ。
そして今も聖司は病院へ向かっている。なぜか、凪いだように心は静まっていた。ああ、また事故か。そんな言葉だけが埋め尽くされるばかりで、今が現実だと受け止められずにいた。あの時の母は、こんな茫然とした思いを抱えて、病院へ向かったのだろうか。
「村木、大丈夫か」
山口先生が聖司に対して口癖のように言う「大丈夫か」も、今日ばかりは違った響きを持っていた。はい、と返すこともできず、ぎこちなく顔を担任に向けることが聖司には精いっぱいだった。
「お母さんは、大丈夫だそうだから」
その言葉を聞くのが聖司は嫌だった。気休めに身をゆだねたら、何かがあったとき立ち上がれないと知っていたのだ。だから、震える身体を叱咤して冷静であろうと努めた。真っ青の表情のまま言ったって、説得力などないとわかっていても、
「俺は、大丈夫ですから」
担任は聖司の態度にますます表情を深刻にさせていく。
山口がここまで心配してくれているのは、聖司の父親も叔母も三年前に事故で亡くしているからだろう。普通、高校生になった男子にここまで親身にはしないはずだ。母一人、子一人だからこそ、気遣ってくれているのか。それともこの人の性分だろうか。人がいいみたいだから。なんてくだらない考えが、ふとよぎっていく。
ああ、緊張しているんだな。
自分の中の冷静な部分がそう指摘した。
聖司は大きく呼吸をして、手のひらに爪を食い込ませた。自分がだれかに甘えることを許せなかった。