07 教師
翌日、聖司が登校すると、待っていたように真崎がいた。二週間前と同じく、ニッと笑って片手をあげてくる。だが、ふらりと足を踏み出す聖司のほうは、うまくいかなかった。真崎へ近づく前に身体が後ろへ傾いていく。視界が回った。おい大丈夫か、と耳に届いたが、起き上がれない。
次に意識が浮上したとき、聖司はベッドの上にいた。馴染みのないシーツの感触と、見慣れない天井とクリーム色のカーテンと、カチコチと響く秒針の音が、保健室だと告げる。
状況が把握できず、戸惑いながら身を起こすと頭痛がした。つきん、つきん、と突き刺さるような痛みがする。すると、唐突にカーテンが音を立てて開いた。保健医が顔をのぞかせ、
「あ、目が覚めた? 頭の後ろ痛いでしょう。倒れたときに打ち付けたのね、こぶになってるよ」
彼女は――確か名前を岸田と言った――聖司に対し何事もないように接してくれる一人だ。快活に笑って、体温計を差し出してきた。それを脇に挟みながらぼんやりと聖司は時間を確認し、目を疑った。もう昼休み前である。
「あはは、仕方がないわね。バッタリ倒れたっきり目覚めないんだもの。さて、今から授業に戻ってもすぐ昼休みでしょう? しばらく休んでいきなさいな。どうして倒れたのかも、自覚があるなら話してごらん」
「ただ、寝不足だったんです」
「バカ言っちゃいけないわよ。その腕の傷、一応手当したけど、こんなになるまで引っ掻かれるなんて普通ないわ。他にも傷があるんじゃないの」
舌打ちしたくなった聖司は、顔をそむけた。ちょうど良いからと夏服を選ばず、冬服にしていればよかった。そうすればケガなど目立たなかったのに。
(この人は、事情を察してくれないのか)
「言いたくないならいいんだけどね……。一応、私もそのお話は聞いているから。でも、何があったのかやっぱり学校として把握しておかなきゃマズいでしょ。キミは今までこんなことがなかったし。倒れるほどのことなら、」
「先生、今後こんなことがないよう気をつけます。ご心配をおかけして、すいません」
聖司は、いつもどおり口の端を上げて台詞をさえぎった。穏やかに、少し困ったようすをにじませながら。
すると、岸田は苦笑を浮かべた。
「眠れないの? 寝不足って言ったわね」
「そんなこと……ありません」
「調子悪いって自覚はあったでしょう、キミならね。お家じゃ気が休まらない?」
「……学校に、来たかったんです」
それは暗に質問を肯定していたが、聖司は家にいたくない、と口にしたくなかった。自分はなんとかやっている。外側からかき乱されるのは迷惑なのだ。ぴぴぴ、と体温計が鳴った。彼女は体温計を受け取ると、代わりにタオルと小さなアイスノンを聖司の手に置いていく。
「頭打ってるからね。ちゃんと冷やして。目眩とか吐き気とかない?? 今日はもう安静にね。念のため体育があるなら休むこと」
はい、という返事を聞きながら、彼女は自分の座る椅子を回す。聖司に背中を向けたまま「微熱があるね」と口を開いた。
「まだ顔色も悪いし、午後も休んでく?」
「……いえ、大丈夫です」
「ねぇ、担任の山口先生も心配されていたわよ。あの人はキミをはらはらしながら見ているのよね。よかったら頼ってあげて。あと、あなたを連れてきた……ええっと商業科の子も血相変えていたわ」
一人で抱え込まないでほしい、と言われているのがわかった。だが、聖司には無理な注文である。
母は、置いて行かれるのではないかと、一人になりたくないと、怯えている人なのだ。聖司が自分以外にだれかと親しくなるのを嫌う。聖司の目が自分一人に注がれていないと不安になって暴れる。ひどい裏切りを受けたため、わが子でさえ信用していないのだ。
聖司自身も外から事情をあれこれ詮索されるのは不快だったため、他人を寄せ付けなかった。それに、だれかを頼ったところで問題はなにも解決しない。弱音を吐いたところで、なにも変わらない。
「心はね、軽くなるよ」
先生は自分のワークデスクに向ってペンを滑らせていた。白衣を着た背中がさらに言う。
「だれかがいるだけで全然違ったりするよ。自分の感情を言葉にすることって本当に大事なんだから」
「自分の不安を押し付けるってことですか。面倒ごとでしかないのに」
「その人の抱える不安は、キミが解消してあげればいいって思えないのかな。それに、不安も面倒も相手が決めることだよ」
聖司が言い返そうとしたところで、チャイムが鳴った。昼休みである。廊下のざわめきが聞こえ始める。聖司は息をついて制服を整え、鞄を持って、保健室の扉を開けた。そこへ、やわらかく声がささる。
「ここなら、いつでも来ていいからね。辛くなる前にいらっしゃい」
鈍く痛みを発し続ける頭を冷やしながらふらりと教室へ戻ろうとした聖司を、引きとめる声があった。これは、と思う間に肩をつかまれる。真崎だ。
「よかった、もう起きられるのか」
ぜいぜいと息をして汗をぬぐう真崎は、チャイムと同時に教室を飛び出したに違いない。真崎、と目を丸くした聖司は続いてごめん、と謝った。なにが、ときょとんとした真崎は聖司の謝罪がわからなかったらしい。
「保健室まで運んでくれたって聞いたから」
「ああ、びっくりしたぜー。突然すーっとマネキンみたいに倒れんだもん。それきり反応ないし。でも安心した。真っ白だった顔色、マシになってる。頭、やっぱたんこぶできた?」
屈託なく言われ、聖司のほうが狼狽える。迷惑をかけられたと真崎はまったく思っていないようだ。触っていい、と後頭部を触りたがる真崎の手を苦笑しながら払う。
「来いよ、飯食お。ぐずぐずしてたら山口がくんぞぉ。お前弁当? それとも食堂? あ。飯食えなかったりする?」
そう言っている間に、村木、と聖司を呼ぶ声が響いた。廊下の端に担任の姿が見える。こちらも授業が終わって早々、足を向けてくれたに違いない。真崎が「げっ、きやがった」と聖司の隣で呻く。二人は休み時間になるたび保健室で顔を合わせていたようだった。
「もう大丈夫なのか」
眼鏡をかけた三〇半ばでまだ独身の担任は、愛想よく訊ねてくる。丸い雰囲気が周りを安堵させるタイプの男だ。はい、とうなずく聖司に「よかった」と担任は何度か繰り返した。
「あんま無理はするなよ」
山口はちらり、と聖司の腕を見る。絆創膏をはってあっただけの二の腕は、保健室で眠っている間に手当てされ、包帯が巻きつけてあった。聖司の顔も引っかき傷が残っている。腫れないよう昨夜冷やしたおかげで、それ以外に目立った箇所はないが……これができた原因を担任は問いたいのだろう。
しかし、聖司の微笑は崩れなかった。いつものように、はい、と返事をするのみだ。
他人を立ち入らせない回答を聞いて、「行こうぜ」と真崎が先を促した。その助け舟に乗って、聖司は担任へかるく頭を下げた。途中気になって背後を振り返れば、山口は保健室へ消えていった。問題児の話を聞くためだろう。