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錆の聲  作者: 橘高 有紀
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06 しがらみ

 思わぬ指摘に聖司は面食らった。自分の表情を意識したことなどない。いや、意識して感情を規制してきたせいで、自然と表情も動かなくなってしまったのだ。そんな自分が今、どんな顔をしているのだろう。


「あ、また元に戻りつつあるな……。問答無用で撮っちゃったほうがいいっぽい?」

「聞くなよ、当人に」


 ふ、と苦笑した瞬間だった。ぱしゃり、とシャッターが切られたのは。ぽかんとしている聖司と違って、真崎は難しい顔だ。

「空がもっと明るければな。もう七時前だからうまく撮れたかわかんね。おまけに背景がこんなじゃなぁ。……でもフラッシュはちょっと」


 ぶつぶつ不満を口にする真崎の傍らで、七時、と聖司が顔色を変えた。真崎がそうだけど、と返事すると聖司は自分の鞄をひっつかんで踵を返した。真崎に返すはずだった封筒を手に持ったまま、である。後に続いた真崎が「おい」と大声を出している。それに構っていられなかった。「悪い、先帰る」と声を張り上げて階段を二段飛ばしで下りていく。予定外に時間を食ってしまったものだ。


 真崎も、急ぐ聖司を見て気付いたのだろう。引き留めようとせず、駅ビルを出るころにはすぐ後ろまで追い付いていた。

「写真、現像したら見せてやるから」

「いいって、別に」

「見せてやるから! それと、その写真」


 聖司の持つ封筒を指した真崎は、いつもの彼らしく言った。

「あんたに預けとくわ。いつか、返して」

「お前が持っていられないって言ったんじゃなかったのかよ」

 そんな風に返すと、にや、と笑った真崎がいた。だから頼んだ、とずうずうしく言い放つ。


 聖司が帰宅した時間は七時半を過ぎていた。真崎はこういった(しがらみ)がないせいで、帰宅時間まで聖司が制限されていると思いつかなかったのだろう。聖司自身も忘れていたのだから仕方がない。


 夜の帳が下りてきている時間なのに、たどり着いた家はやはり暗かった。無人の家屋のようだが人の気配はして、帰宅するたび憂鬱になる。玄関の鍵を開けて中に入った聖司は、身を固くした。そこに、母が立っていたのだ。


「母さん……」


 母は、家着であるワンピースに袖を通していた。奇麗な水色に花柄が裾を彩ったワンピースは、色褪せて汚れがこびりついている。手入れのしていないぼさぼさの長い髪が蠢いたのは、目の錯覚か。闇の深さを垣間見たようで、聖司は内心うめいた。先ほどまで真崎と一緒だっただけに、この落差に心がひるむ。


「誠一さん、こんな時間までどこへ行ってらしたの」

 普段の、ふわふわ浮いたような声ではなく、気迫のこもった声だった。少し微笑んでいたが、目の色がいつもと違う。


「ただいま、母さん」

 笑顔をはりつけた聖司がそう言ったけれど、母には届かない。聖司の腕をぎゅ、とつかんでくる。か細い指が腕に食い込んだ。い、と思わず聖司は声をあげた。加減のない強い力だった。いつもなら笑顔を崩さない聖司の顔がゆがむ。


「どこへ行ってらしたの、誠一さん。ずっとずっと待っていたのよ。連絡のひとつぐらい、くれたっていいでしょう? ねぇ、残業をするときは、飲みに行くときは、早めに電話をお願いしますって言ったはずよ。だってお夕飯をどうしたらいいかわからなくなるじゃない」

「母さん、俺は父さんじゃ、ない」


 青白くつやのない母の顔が聖司に向かってくる。父である誠一と思い込んでいる母は、聖司の唇に触れようとするのだ。たまらなくなった聖司は近づく母を引きはがした。だが母の力は凄まじく、聖司にすがりついてくる。目をらんらんと光らせて。


 両親は、幼い聖司の前では仲睦まじく見えた。キスも子どもの眼前でやってしまうような夫婦だった。明るい家庭で、笑顔があふれていたはずだった。母は微笑んで父をいつも出迎えていた。

 あの幸せが消えたのは、いつだったのだろう。この家に闇が漂うようになったのは。


「母さん、いい加減にしてください。俺のどこが父さんだって言うんですか。俺は聖司です。父さんじゃない」

「誠一さん、何を言っているの誠一さん」

「違う。父さんはもういない。父さんは三年前に死んだんだ! 俺は父さんじゃないっ!」


 悲鳴が上がった。耳の痛くなる悲鳴だった。母親が勢い込んで何かを並べ立てたが、聖司はそこまでちゃんと聞く気力がなかった。がくがく身体を揺さぶられても言い返すことさえできず、瞼を下ろした。身体中を引っ掻かれ、顔を何度も叩かれた。金切り声に頭がぼうっとなる。


 それに耐えて呼吸を整え、冷静であろうと聖司は自分を抑えた。母と同じ土台に立てば事態を悪化させるだけなのだ。聖司だけは落ち着いていなければならない。あんな風に反論してはいけなかった――


 ああ、制服の汚れは落ちるだろうか。転がったボタンも探して、後で付け替えないと。そんなことをぼんやり考えた。今は衣替えで、そろそろ夏服になるのだ。クリーニングへ出すにはちょうどよかったが、血だけは何とかしなければ。


 そして暴れる母を、ぎゅっと抱きしめた。引っかかれても噛みつかれても、根気よく腕を伸ばした。こうしてやることが一番だと三年間で学んだのだ。胸を上下させる母をなだめるには。


「母さん、俺はここにいるから。母さんを一人には、絶対にしないから」


 母の荒れた気息が妙に耳をついた。聖司は、母の高ぶりが収まるのを待って、もう一度同じ台詞を繰り返した。何度かそう言ってやれば、母は次第に聖司の肩に顔をうずめていく。嗚咽をこらえる声が、暗い玄関で響いた。母は身体をふるわせ、涙をぽたぽたと溢れさせるのだ。


「ほんとうに……」


 かすれた声で弱々しく確認する母に応じて、聖司は抱き締める力をこめた。制服は、赤いしみがいくつか出来上がっていた。


「はい。俺はここにいます。帰ってくるのが遅くなって、すみませんでした……」

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