05 吐露
真崎は促されて、ライターに火をつけた。封筒をふるえる手で持っていこうとする。ゆらゆらと動く小さな火が乗り移れば、封筒ごと写真は全て炭となる。手元には跡形も残らない。ごくん、と真崎の喉が上下する。
「そうだ。写真やめるならカメラも壊せばいい。もういらないだろう?」
真崎の置かれた鞄を聖司がちらりと見た。真崎の顔が強張る。
「ここにあるんなら、やってやろうか」
真崎がフェンスを鳴らして飛び降りてきた。だが、聖司のほうが鞄に近い。コンクリートに叩きつければ、鞄の中にあるカメラは間違いなく壊れるだろう。聖司が腕を伸ばす。そこへ、真崎が掴みかかってきた。
「やめろ! 触るな!」
我武者羅な一撃をよけた聖司を、真崎が怒りの形相で見下ろした。拳を振りかざす真崎を目で捉えた聖司は、避けざまに鞄をとる。そのまま右手を頭上高く持ち上げ、鞄を勢いよく振り下ろす――
屋上に響いたがしゃん、という音は、鞄をコンクリートにぶつけた音ではなかった。真崎に飛びつかれた聖司がフェンスにぶつかったのだ。息をつめた聖司が首をひねって、どこにもぶつけなかった鞄の無事を確かめる。まだ真崎のバッグは聖司がぶらんぶらんと右手にぶら下げたままだった。
「っぶな……」
ふー、と息をついた聖司の頬に拳がめり込んだ。バッグを引っ手繰った真崎は、憤りも露に聖司を睨む。犬のように、身体全身で怒っているのだ。ゆらりと立った聖司は、真崎の興奮した面立ちに薄い笑みを向ける。
夕日が聖司を染めるなか、落ちたライターをゆっくりと拾った。それをぽん、と放り投げてはキャッチする。
「簡単なものじゃないんだろ。割り切れないから他人に委ねるんだ」
一歩、一歩と前へ踏み出せば、真崎の憤りを強く感じた。近づけば近づくほど、何かが身を焦がすようだ。
聖司と違って、真崎は心に闇を溜め込めない。だからその闇を持て余し、苦しんでいた。その葛藤が聖司には手に取るようにわかった。真崎は、自分とは違う。腹に何かを抱えられる奴ではない。
「関係ないっていうけど、俺にだって多少の罪悪感がある。説明ぐらいあったっていいだろ。写真、持ってきたんだから。なんでやめようって思ったわけ?」
真崎はそれまでの怒気を抑え込んで、フェンスにずりずりともたれた。ぎゅ、とすがりつくよう鞄を抱きかかえている。やはりそこにカメラがあるのだろう。
熟れた夕日は、空の彼方へと姿を消そうとしていた。
あの日、あのことがあってから聖司のことを少し調べたのだ、と真崎はポツリポツリと口を割った。聖司の自宅の近所で少し話を聞けば、お節介な隣人たちはどっとしゃべったのだろう。
結果、真崎は知ったのだ。聖司が滅多に笑わない理由も、一人を好む理由も、あの雰囲気の原因も、察してしまったのだろう。自分のした行いに良心が痛んで、写真を撮るという行為に嫌悪がわいたのかもしれない。
「人の傷掘り起こしてまで撮りたいって、俺、どっか変なんじゃねぇのって。ましてや、触れちゃいけない傷なんて誰にだってあるんだ。なのに、そんなこと考えもしなかった……今までずっと」
少し考えたらわかりそうなことなのに、ちっとも頭になかったんだ。
そう告白する真崎は、ずっと俯いている。聖司は、その隣で変わりゆく空を見ていた。あれほど世界を彩っていた茜は群青にちぎられてしまって、そろそろ本格的な夜が訪れる。ちらりと真崎を見れば、シミの残った冷たい床で背中を丸めていた。
「小学校のころ、授業でカメラ渡されたんだ。好きなものを選んで、みんな一枚ずつ撮ってこいって課題な。表現力を磨くとか何とか……普通の写真じゃなくって工夫して撮れって指示でさ。下から仰いだ階段とか、汚れた模様とか、まぁ何でも良かったんだけど。
俺が撮ったのは、池の泡だった。次々空気の浮かんでくるイメージが面白くて撮ったんだけど、誰も理解してくれなかったし、俺自身イメージ通り全然撮れなかった。こんなものが撮りたかったはずじゃなかったのにって」
それ以来、真崎は普通に何かを撮れなくなった。自分の見ているものをより顕著にするため、試行錯誤するようになったらしい。どう工夫したら自分の持つイメージに近づくか、カメラやその技術を研究し、やっと何かをつかめた気がしたのだ、と彼はポツポツ口にする。
「……っても、俺の本当に見ているものなんか伝わらない。イメージなんか表現しきれない。だから俺の写真は、人を拒絶する」
うつむいた真崎の唇が、少しだけ弧を描いた。
「前に一度、部長に注意されたことがあったよ。人は俺のものじゃないし、俺は人を撮るの向いていないって」
モノを撮るように、真崎は人をフレームにおさめていた。聖司は、見せてもらった写真を思い出す。自分の写った一枚を除けば、すべて人は写真の『オプション』だった。どれも冷たくて、無機質な印象を受けた。真崎が撮りたかったものは、人物個人ではない。
だから彼には、人が撮れない。
「でも、俺は人を撮りたいって無性に思うときがあって。モノじゃ満足できないときがあって、だけどそれが隠したいものまでほじくり返すようなエゴ丸出しじゃ――」
「デリカシーでもモラルでも、考え込めるんならあるってことだろ」
真崎は、指の隙間からそおっと聖司をうかがった。聖司より身体がでかいくせに、真崎は仕草がいちいち子どもっぽい。
「おばさんって、その……あの事件から」
「そうだよ」
「じゃああんたは、あれをずっと一人でなんとかしようとしてたわけ」
「何とか、なんてことはない。傍にいるだけだから」
「傍にいるだけだとしても!」
聖司のあまり感情の表れない顔が、何を言い出すんだ、と問うように真崎を見つめる。真崎は一瞬たじろいで、黒ずんだコンクリートへ視線を向けた。
「傍にいるだけだとしても、お前一人でどうこうするのは……無理なんじゃねぇの」
「もう三年になるんだ。慣れたよ」
心配してくれているとわかったが、聖司は何も言う気になれなかった。話したところで、変わることなどないからだ。
もう三年になるのだ。
聖司が近場にしか出かけないのも、それが原因だった。何かあったら、すぐ駆けつけられる距離にいること。帰宅時間を調節できること。遅くなりすぎないこと……。気軽に一人で時間をつぶせるものがちょうどいい。だから、毎週末は図書館にいたのだ。たまに映画を見に駅前をうろつくが、決まって一人だ。
それが最近は一人じゃなかった。人の気配が身近で奇妙な感覚だった。
誰かが傍にいることはこういうことだっただろうか、と思い出すには充分すぎる時間だ。それが途切れた空白の鮮やかさに戸惑うほどである。
真崎は眉をつりあげた。
「そんな簡単に言えるものか。あんなの、俺だったら耐えられねぇって」
「どうしてお前が怒るんだよ」
「別に怒ってんじゃねぇけどぉ……」
「あの人のことはどうしようもないんだから、気に病む必要はないよ。うちが特殊なだけ」
この一言を言いたいがために二週間やきもきしていた聖司は、小さく息を吐いた。これ以上村木家の事情に真崎が首を突っ込む必要はない。あの闇は、この男には関係ないモノなのだから。
「うちについては、俺が引きずり込んだのだから数えなくていいってこと。俺は、何とも思っちゃいない。――部長が言ってたぞ、男も女も見境なく口説くんだって?」
目の端で聖司が笑ってやると、真崎もやっと笑みを見せた。多少苦いものが混じっていたが、聖司の知る真崎の表情だ。
「人を節操無しみたいに言うんだからなぁ、あの人は。イメージが浮かんだら、それを追いかけたくなるのが普通ってもんだろ。人間、欲求のかたまりみたいなもんなんだからさあ」
「あんたの場合、それが写真ってことか」
「別に、だれかに誉められたいわけじゃないぞ。これはただの自己満足で自己表現に過ぎないんだ。何か一つ知るとどんどん試したくなるだろ。あれと同じ」
ぎゅっと抱きしめていた鞄をあさった真崎は、カメラを取り出した。傷ついていないか、と聖司が怖々たずねた。大丈夫だ、と真崎がそっとカメラをなでる。その眼差しだけで大切にしているのだ、と伝わってきた。
「壊すって言いながらどこにも当ててねぇもん。壊れるはずねぇよ。――それより撮っていい?」
「撮る気失せたんじゃなかったのかよ」
「今、撮りたい気分なんだ」
「だから節操無しだって言われるんじゃなかったっけ?」
「そうかもだけど! 今、あんたすっげぇイイ顔してんの、わかんないかなあ」