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錆の聲  作者: 橘高 有紀
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02 秘密

 聖司が案内したのは自宅だった。からからと音を立てて開かれる小さな門戸をくぐる。夕暮れ時だというのに明かりの差さない家だった。一歩踏み込むと、全身に闇が絡み付いてくるようだ。広々とした玄関から無言で靴を脱いで、聖司は上がった。おい、と話しかけてくる真崎にちらと目配せして、二人は板張りの廊下を進む。


 その突き当りで、「誠一さん、誠一さんなの」という甲高い女の声が響いた。聖司が「ただいま、母さん」と返す。真崎が、顔を強張らせた。奥へ進もうとする聖司の肩をつかんで引きとめようとしてくる。それを、空虚な笑みで聖司は拒んだ。行かないほうがいいと表情で訴えてくる真崎へ「ここにいろ」と小さく伝え、闇がわだかまる先へ向かう。ガチャリとドアノブを回す音が響く。


「どこへ行っていたの。私を一人にしないでって言っているでしょう。今日は美弥もいないのよ、あなたまでいなくなったら私はどうしたらいいの」

「ごめん、母さん。遅くなってしまって」

「誠一さん、聖司までいないのよ。あの子ったら隠れんぼでもしているのかしら。ご飯よって言っても出てこないの。探しているのに……困った子よね、ねえ誠一さん」

「母さん、聖司は俺です。ここにいます」

「うそよ。聖司はそんなに大きくないわ。誠一さんどうしてそんなことを言うの」


 廊下に残った真崎にはこの状態がどう映るだろう。しがみついてくる母親の伸びた爪が、聖司の腕にぎりぎりと食い込む。苦痛を面に出さず、聖司は再度「俺は聖司です。父さんじゃない」とつぶやいた。すると今度は耳の痛くなる悲鳴が響く。

「誠一さんだって言ったでしょう! あなたは誠一さんで、聖司じゃないわ!」


 床に叩きつけられたのはグラスだった。聖司に向かって、感情に囚われた母が襲い掛かってくる。顔をぶたれても、聖司は何も反論しない。

「どうして、どうして! 誠一さんはどこ。美弥は! あの子が壊したのよ。私の誠一さんは、どこなの!?」


 父親は母の妹の美弥と駆け落ちの途中、事故に巻き込まれて他界したのだった。離婚を頑として認めなかった母は、失ったものの大きさにショックを受けたのだろう。三年が過ぎた今でも現実を受け入れられない。時折過去に戻り、父と聖司を重ねるのだ。


 母は暴れるだけ暴れて、やがて静かになった。もともと身体の弱い性質だ。彼女の意識はすぐに沈んでいく。


 かわいそうな人だった。何かにすがらないと生きていけない人だった。

 元の静寂に包まれた家内で、カタンと音がした。ボタンの引きちぎられたシャツを着たまま、聖司は戸口に立った真崎へ微笑んだ。真崎は室内の惨状と、聖司の足にすがって倒れる母親に呆然としている。血の気の引いた顔は信じられない、と書いていた。


 無言で聖司は部屋の片づけを始めた。母が暴れても構わないようにした部屋である。壊れて困るものはなく、刃物も置いていない。重たいテーブルと、爪でかいてぼろぼろのソファがあるのみだった。食器棚やサイドボード、テレビ、装飾品等は移動させてあった。壁や床にその跡が見える。ここはリビングだったのだ。家族の団欒に用意されたはずの部屋だった。


 母を寝室に連れて戻れば、すっかり暗くなった玄関口で真崎が頭を抱えてしゃがみこんでいた。聖司の唇がうっすらと弧を描く。

「写真、撮るか? こういうのを探してたんだろう?」

 がば、と立ち上がった真崎は着替えていない聖司をにらみつけた。顔面が蒼白だった。

「だからお前、いつもああなんだな」


 聖司の身体のあちこちにある引っかかれた爪の跡は、すべて母親がつけたものだった。引きちぎられたシャツから見えた胸の辺りにも、五本の爪あとがくっきり見えている。何度もぶたれたであろう頰は、赤く腫れていた。


「……撮れるかよ」

「『俺』を壊したかったんだろう」

「こういう意味じゃなかった!」


 聖司は微笑を浮かべたまま、自分の気まぐれを悟った気がした。聖司こそが、真崎を壊してみたかったのかもしれなかった。光のなかで生きる彼が闇を覗いたとき、どう反応をするのか知りたかった。そのために今まで隠してきた絶対の秘密を、暴露したのだ。あの写真の聖司は、虚像に過ぎないのだと思い知らしめるために。


「俺、ホントはそういう根本に触れたくないから、こんな表面ばっかの写真、撮ってきたのかな」

 持っていた封筒をばさりと真崎は放り投げた。彼の作品が散らばる。

「誰だって見たいようにしか見ないんだ。俺もそうだ。自分の見たいことだけフレームに収めてきた。伝わらないんじゃ意味がない。そうだろ? 勝手な解釈されたって迷惑なんだよ! だから――俺は人間が撮れない。俺の写真に『本当』があるなんて思えない……」


 ぐちゃぐちゃと頭をかき回した真崎は、ため息交じりで言った。

「あんたに惹かれたのは、触れたら壊れそうな印象が気になったからだった。脆い何かを感じていたんだ。案外……俺の目も捨てたもんじゃないのかもな」

 落とした写真の中から一枚を拾うと、真崎は破り捨てた。聖司の姿が写ったものだった。

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