16 縁
「あ、そうだ。お前、山口のこと知ってる?」
にまぁと真崎が笑った。目じりに愉悦をひそませ、
「保健の岸田とデキてるって話!」
は? と聖司の口がぽかんと開く。唖然としている聖司に「マジらしいぞ」と友人は声を潜めた。そういえば、くたくたのTシャツやスニーカーだった山口が、最近ワイシャツに革靴のこざっぱりとした格好になっていた。元々まるい雰囲気をしていたが、笑顔も増えた気がする。恋人ができたためだろうか?
「ほら、お前ぶっ倒れたじゃん。あれがきっかけなんだってさ。お前のこと相談いってるうちに仲良くなったらしい」
「はあぁ? 誰に聞いたんだよ、そんなこと。初耳なんだけど」
「だってお前、噂きく奴じゃねーじゃん。それに言ってたのは岸田部長だし。岸田センセの妹だもんよ、ただの噂じゃねぇよ」
「え。妹って、写真部のあの先輩?」
写真部部長は保健の岸田先生の妹、と頭の中でぐるぐる回った。言われてみれば、顔立ちや声、口調が似ている。
「あれ? 言ってなかったっけ」
「名前初めて知ったんだけど」
部長、とばかり呼ばれているせいだ。聖司とは直接関わりがないので、名前を知らなくても問題がなかった。当然名札も確認していない。
「あ、部長ぉ!」
窓から身を乗り出した真崎がぶんぶんと手を振った。大勢の生徒の流れにあって、小柄な写真部部長が「おー」と鞄を持つ手を振り返している。にこっと聖司にも笑顔を向けたあと、荷物も少なく女友達としゃべりながら歩いていく。その姿は小柄になった岸田先生というイメージにピッタリあてはまる。
「それで、真崎は部長と付き合わないんだ?」
「は? 本気で言ってんの、それ」
軽い気持ちで尋ねたのに、かなりぎょっとされて聖司は鼻白んだ。
「本気も何も、こまめに会いに来てるしさ。辞めるって言ってたお前のことかなり気にしていたし」
真崎はあんぐりと口をあけ、ため息をこぼす。
「部長ダメっすよ。こいつ全然わかってない。なぁんか俺と勘違いしてるし」
真崎の言わんとしていることが、聖司にも理解できた。それこそ衝撃的な事実でもって。
「……冗談じゃなく?」
「お前以外だれがいるんだよ。俺にかこつけて会いに来てたんだっていい加減気づかねぇ? だって部長、お前しか見てねぇじゃん。さっきもいい笑顔だったでしょー?」
部員である真崎にちょっかいかけに来ている部長ではなかったのか。聖司へ会いに来ていたのだろうか。彼女は真崎とぽんぽん言い合っていたのに。
「部長、お前のこと強く引き止めてたよな」
「そりゃあ写真部はぁ、部員ギリギリだしこれ以上減ったら潰れるかもだし。大体あの人、俺の写真他のはボロカスに言うくせに、お前の奴だけ褒めるんだぜ? しかもこないだ撮った奴なんか笑ってたしさ、ひったくられかけたんだって」
避難したらもう目の敵みたいに言われてさぁ、とげんなり真崎が手すりにもたれかかる。また思わぬところで話が繋がるものである。しかし、避難先であの写真は破られてしまったので、聖司は視線を泳がせるしかない。心なしか頬があつかった。誰かに好意を寄せられたのは、久しぶりだったのだ。
真崎がにやにやと意地悪く笑った。
「意外だった?」
「べつに……なんか、見えてなかったなって」
真崎との繋がりから、世界は広がっていった。まわり全部が敵だと思い込み、目を背けてきた過去に苦笑する。あの暗く狭い檻は、内側から破壊されてしまったのだ。そこから出てみれば、なんと呆気ない。縁がないと諦めていたものへと続く『何か』がある。
「全然見えてなかったんだなって気づいた」
しかし「ごめんなさい」と謝る母を思い出して、聖司は緩んでいた表情を引き締めた。まだまだ時間が必要なのだと知っている。母の時間は、やっと三年前から動き出した。
一度砕けたものは、完全に元通りになることはない。しかし生きている。傍にいられる。正気でいてくれて、心底安堵もできる。聖司自身も含めてきっと、前向きに考えられる。
「もうお前さ、『聖司』なんだろ」
真崎が唐突に言った。
「『誠一さん』じゃなくて、『聖司』なんだろ」
聖司は何か言おうとして、結局何も言えなくて頷くにとどめた。自分は聖司だ。いくらがんばったところで父にはなれない。その事実がすとんと胸に落ちた。
「な、今日これから俺ん家来ねぇ? うち花とかハーブ売ってるしさ。適当に選んで持って帰ったら絶対喜ばれるって」
こないだも丁度いいから寄ってけって誘ったのに、お前来ないしぃ。語尾を延ばして真崎がぶうたれる。
「え? 花屋?」
「そう、花屋。言ってなかった?」
「聞いてない。もう、そういうのばっかだな! あとお前んとこ寄ったら、何だかんだと引きとめられそうだろ。ゲームしようとかご飯食べろとかって、そうじゃなくって……花贈るって母の日みたく?」
「花束はハードル高いよなー。でもほら、さっき言った退院祝いにちょうどいいじゃん。鉢植えも扱ってるし、お前んとこ玄関今何もないし、おばさんああいうの好きならいいんじゃねぇ? 何なら安くできると思うけど」
「えええええ」
青空に、聖司の声が吸い込まれていった。
明日から、夏休みが始まるのだ。
その日の夕方、花やハーブの苗をいくつか持たされた聖司が、からりと玄関をあけた。照れくささを隠すために、平静を装うとして失敗した顔で。
「母さん。これ、退院祝いに……」
開口一番そう玄関で響かせて、聖司はその場で唖然となった。顔を覗かせた母は、腰ほどもある髪をばっさりと切った姿で静かに微笑んだのだ。そういえば、昨夜働きに出たいと言っていた。まだ早くない? 無理してない? と聖司は難色を示したのだが……一瞬、昔の母が戻ってきたようで息を呑んでいた。壊れてしまう前の、父がいたころの、聖司が子供のころの、母が。
伸ばしっぱなしで手入れされていない髪や、青白い肌と着古したワンピースではなかった。
あごの辺りで切りそろえられた髪には艶があり、夏用の上品なカットソーがふわりと揺れている。薄く化粧をした顔も久しぶりに見た。
「ありがとう。たくさんあるのね」
立ち尽くした聖司の手から、植物の入ったレジ袋をぎこちなく母が受け取る。その薬指には、頑なに嵌められていた指輪が外されていた。母は、狂ったものじゃない少し寂しそうな笑みを浮かべた。聖司の言いたい様々なことを察し、応えるようなものだった。
傷跡は、決して消えない。
だけど、まだ動ける。
こうして、歩き出せる。
一人きりではなく、家族として支えあっていけるから。
「おかえりなさい、聖司」
「――ただいま」
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