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錆の聲  作者: 橘高 有紀
15/16

15 痕

「おばさんの調子どう」

 試験明けに学校へ出た日の下校間際、真崎はいつものようにやってきて、挨拶もそこそこにそう切り出してきた。期末試験結果も予想通りだった聖司は、帰り支度の手を止め淡い微笑を返した。


「一昨日、退院した」

 あの事件が起きてから一月近くが過ぎた。聖司の負った傷も、うっすらと痕を残して回復するほどの時間が経っていた。


 聖司の母は転院することになったが(流血騒動になれば当然か)、転院先ではあんなふうに取り乱すこともなかった。聖司の知る限り自分をなくすこともなく、動きはゆっくりだが常人と変わらない生活をしている。


 それでも転院した当初は食事を受け付けず、ベッドから降りられない日が続いた。吐き気と眩暈で立ち上がれないのだ。身体を省みずに暴れた母は、捻挫していた足を悪化させ、またむち打ちによる痛みも併発し、退院できるまで一月近くかかった。事故の影響も思わぬところで出たものだ。もともと身体の強い人ではない。


 真崎は聖司の内情を知る数少ない友人だ。退院と聞いて複雑そうな顔をしている。そういえば、真崎はここのところずっと表情が晴れない。よろこんでくれることを期待していた聖司は、自分が勝手にはしゃいでいるのかと口を閉じた。

 真崎は試験結果でも悪かったのだろうか。

 何か悩みでもあるのか。


 カーテンが風で大きくふくらみ、聖司はふと外を眺めた。すっかり夏日だ。気持ちの良い晴天である。階下では生徒たちが騒ぎながら帰宅していく姿があった。教室からもクラスメイトの姿が消えていく。


「あの、さ。俺、お前に黙ってたことがあるんだけど」


 事件のあった日、聖司の母が自殺を図ろうとしたことを真崎は打ち明けた。スタッフの目を盗んで病室を飛び出し、廊下の窓に突進したらしい。裸足のまま、聖司の血が付いた衣服のまま、指先に赤を残したまま、窓枠に手をかけた。当然窓は途中までしか開かないのだが、それを激しく叩いたという。真崎が捕まえて引きずりおろしたようだ。


『冗っ談じゃねぇ! 村木がどんな思いであんたを支えてきたのか、わかってんのか。あいつがどれだけ自分を犠牲にしてきたのかを知ってんのかよ! どうして自分の息子を見てやらねぇんだ。あいつは身体張ってあんたを守ってきたのに!』


 ばつが悪そうにそう教えてくれた真崎は、母はそのとき泣いていたと告げた。

 死なせて、死なせて、死なせてぇ! と繰り返したという。


『私なんかいたら、ダメなのよ! お願いだから死なせて。放して』

『あんた、それを村木の前で言えんのか。これ以上あいつを追い詰めんのか。あいつは――、あいつは、ひとりになっちゃダメなんだよ! そんなこともわかんねえのか! あんたしか、あいつの家族はいないのに!』


 母親として責任がある、と真崎は叩きつけたのだ。

 母は身体を震わせ、とめどなく涙をあふれさせたのだろう。そんな映像が聖司の脳内で再生された。それは聖司が傷の手当てを受けに行っている間のできごとだ。

 その告白を今頃聞いて、思わず聖司は天井を仰いだ。学校の薄汚れたライトが目に入る。胸を落ち着かせるように、大きく息を吸い込んだ。


「それなら知ってる、先生に聞いたから。お前が母さん説得してくれたんだって」

「いや、説得っていうか……言いたいことぶちまけたっつーか……その……俺も頭に血が上ってて」

「ごめんな」

「なにが」

「巻き込んだ」


 気まずそうに真崎はちろりと聖司をうかがい、突如「あははははっ!」と笑った。

「俺の場合、巻き込まれにいった気がするけど。謝られても困るって!」

 ばんばんと背中を聖司は叩かれた。笑みを広げる真崎は照れたのか。つられて聖司も口角なんて上げてみたが、こちらは苦笑に近い。


「つーか、黙っててこっちこそごめん。出しゃばり過ぎたってのか、俺が関わらなきゃあんなことならなかったのに。ずっと気になってたんだ」

 そんなことない、と聖司は心の内で呟いていた。


 聖司はあのとき、死んでも構わなかった。逆上した母に殺されるならそれも仕方がないと、諦めていた。一人になるよりはマシで、このしがらみから解放されることを一瞬でも望んでいたのだ。

 真崎が助けてくれなければ、生きることを手放していただろう。突き飛ばされ、一瞬気を失った聖司が痛みとともに瞼をあげたとき、目に入ったのは母を止める真崎の姿だ。


 母の病室まで案内したことを後悔していたのに、助けに入ってくれたことがうれしかった。逃げ出されても文句の言える立場ではなかった。罵られても受け止めなければならなかった。

 そんな人間が傍にいてくれていることが、どれだけ気持ちを救ってくれただろう。


「それでおばさん家帰ってどう? 落ち着いてる?」

「……どうかな」

 衝動的な自虐がおさまれば、母は日がなぼんやりと虚空を見つめて入院中を過ごしてきた。今でも発作のように涙をぽとぽとこぼしたり、夜に眠れなかったりするらしい、と看護師や担当医師から聞いている。


 退院し帰宅した母は、玄関で顔面を蒼白にさせていた。リビングや以前使っていた自室へは、足を踏み入れることができなかった。あの場所は母の狂気がつまっている。


 ごめんね、と母は震える声で聖司に謝った。家を見渡せばあちこちで目に付く傷痕は、母の心を責め立てたのだろうか。聖司はそんなことないと首をふったが、やはり彼女はごめんね、と繰り返すことをやめなかった。ごめんね、ごめんなさい、ごめんなさい、聖司……という声が、まだ耳朶に残っている。


 そんなことを思い出して、聖司がぽつりと漏らした。

「どうしたらいいんだろうって、ちょっと思う」

「へ? どうしたらって?」


 聖司を見るたび、母は壊れそうな笑顔をしてくれる。気を使わないでいいよ、と言えば、母は「そうね、ごめんなさい」とやはり謝るのだ。正気に戻ってくれた母は、今でも心が傷ついたままだ。ごめんなさい、と謝らずにいられないのかもしれない。不意に泣き崩れてしまうのだ。


「どう話したらいいかわからない。どうしたらいいか、わからなくなる」


 あんなふうに自分に対して怯える母など、聖司は見ていたくなかった。ましてや頭など下げないで欲しかった。あれをされるたび胸が痛む。何かがきしんでいく。母が退院して、母が戻って、喜んでいたはずなのに。


 機械的に接することもできず、コミュニケーションのとりかたがわからない。互いの距離感もつかめない。母にどう接することが正解かわからない。


「おばさんと、話すこと?」

「例えば、お前んとこだとどう」

「うち? うちはぁ、店手伝えー、風呂入れー? ご飯ーとか、犬の散歩行ってーとか、制服汚すなとか、さっさと着替えろとか、ごろごろするなとか、食器下げろとか」


 指折り例を挙げるが、まったく参考にならない。

 沈黙する聖司に、真崎はにぃっと笑みを浮かべている。


「気まずいなら食事中はテレビ付けるとかさ」

「うち、テレビ今ないんだけど」

「え、マジで? じゃあラジオは? 音楽流すと気ぃ紛れるし」

「ラジオ……はどこにしまったんだったか」

「なぁ、前々から思ってたけどお前普段どうやって過ごしてんの?」


 不思議そうに指摘され、聖司は狼狽した。家事をして、風呂に入って、勉強か図書館で借りた本を読んで、寝るだけである。すると、深々とため息をこぼされた。なるほどなぁ、という呟きが一層聖司を困惑させた。


「なんかお前がそうなるの、わかる気がしたわ」

「そうってなに」

「べつに。あ、じゃあさ、退院祝いでもしとく?」

「それで何話すんだよ」

「話しやすい雰囲気とか気分転換」


 聖司が唇を結んで「だから雰囲気作ってどうするんだよ」と考え込んだとき、視界の端で担任の姿をとらえた。なんだかんだと心配してくれる担任は、母の退院を知って「よかったな」とうなずいてくれた一人だ。その彼が、浮足立ったようすで駐車場へと歩いて行く。何か、いいことでもあったのか。

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