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錆の聲  作者: 橘高 有紀
14/16

14 母子

 最初の異常は、「うあああ!」という甲高い悲鳴だった。

 何だ、と振り返った聖司の脇を影が通り過ぎた。ベッドで眠っていた母が猛然と友人に飛びかかったのだ。


「お前が、お前が私から誠一さんを取り上げるのね!? お前のせいで、お前のせいで!」


 やせ細った腕と指先のどこにそれほどの力があったのだろう。彼女は自身より大きな真崎を押し倒し、馬乗りになって首を絞めていた。突然の事態に聖司の頭は真っ白になった。今ある現実を飲み込めずにいる。いったい何が起こったのか――


「誠一さんはだれにも渡したりしないわ。誠一さんは私だけのものなのよ。だれも誠一さんに近づかないでえっ!」


 真崎が喘ぎながら、女を身体の上からどかせようと足掻いていた。最初は困惑していた真崎も、加減知らずな暴力に息を詰まらせる。ぎちぎちと女の細い指は喉へ食い込んでいくのだ。真崎のかすれた声が響いた。村木、と囁きほどの呼び声に、聖司はやっと母を止めにかかる。信じられない思いでいっぱいだった。だが、横から見た母の顔は鬼のような形相をしている。


「母さん……、母さん!」

 この状態の母は何をするかわからなかった。聖司と二人きりの場合は、聖司を罵ったりぶつのだが……第三者に我を失って掴みかかったのは初めてだ。見知らぬ他人の前ではいつだって大人しかったのに。


(どうして)

 とにかく二人を離さなければ。

 しかし――母を引きはがせない。力では聖司のほうが優っているのに、母の手はいっそう首を絞めにかかる。脇に両腕を差し入れて母を抑え込んだ聖司は、暴れる女に驚愕の目を向けた。

 体重自体はこんなにも軽いのだ。聖司が持ち上げようとすれば簡単に動く。なのに、この力はなんだろう! 手足を振り回す母のひじや腕が、聖司を強打する。


「放せ、放せ、放せえええ!」


 解放され咳きこんだ真崎は、奇声をあげる母親を睨みつける。口から泡を吐くようにして訳のわからないことを発し続ける母は、目をらんらんと光らせていた。押さえつけているのが聖司だと本当にわからないのか。暴れかたが一層激しくなる。


 騒ぎを嗅ぎつけてきた看護師は「何事ですか」と部屋をのぞいた途端、絶句した。そちらへ目を向けた聖司の顔を、母の肘が襲う。


「母さ……っ」

 聖司が母もろとも横倒しになったせいで、ベッドが動き、脇にあったテレビ台も揺れた。その拍子に持ってきたばかりのカップやはしが音をたてて落ちた。母の顔がそちらに向かう。


 ダメだ――と聖司は思った。母にアレを持たせちゃいけない。

 必死に母の服を引っ張った聖司だが、母の細い手はフォークをつかんだ。パスタを食べるときなんかに使う、先の鋭い大きなフォークだ。それが、振り返りざまに聖司の首筋を深くえぐる。あ、と動きを止めた瞬間には、武器を手にした母が聖司の腕をさらにその先端でえぐっていた。


「きゃああああ!」


 この悲鳴は看護師があげたものだった。あ、あ、あ、……と血の気を引かせた看護師は、ぺたん、とその場にしゃがみ込んだ。ここが、患者の少ない病棟なのが災いしたのか、あの悲鳴にもすぐにだれもやってこない。


 ぽた、ぽたぽた、と血があふれた。

 ぐしゃぐしゃの髪の隙間からのぞいた女の顔は、笑っていた。唇を奇妙につりあげ、なおも聖司へと拳を振り下ろす。その手には光るフォークがある。まさか、こんなものが凶器になるのか。看護師が身体を引きずるようにして、姿を消したのが見えた。応援を呼びにいったのだ。問題など起こしたくはなかったのに――そんな思いとは裏腹に、母の手はなおも振り下ろされた。激痛が聖司を襲う。


 殺されるのだろうか、と思った。このまま母に殺されるのだろうか、と。

 一瞬意識が遠のいた聖司が目を開けたとき、自分と母が引き離されたことを知った。巡らせた視界の中、母と真崎が組み合っている。その真崎の手が動いた。


 ダメだ!


 真崎の飛んだ手のひらは、聖司の母に当たらなかった。代わりに受けた聖司の身体が吹っ飛ばされた。とっさに割って入ったせいで、受け身も取れないままベッドに背中を打ちつける。


「なっ!? どうして――どうして庇うんだよ。誠一さんってお前のこと言ってんだぞ。たった一人の息子を、よりにもよって父親と重ねてんだぞ。お前、それでいいのかよっ!?」


 聖司はその返答よりも、「誠一さん、誠一さん」と繰り返している母へ這うように近づいた。止める真崎を振り切って、狂気に蝕まれている母だけを見つめた。首筋や腕を、赤い色が滴り落ちる。それを拭う余裕もない。

「邪魔をするな! 私から誠一さんを奪うくせに」と聖司に向かって女は遮二無二武器を振り回す。それが顔や胸を裂いても、聖司はかまわず母を抱き寄せた。


「母さん、やめてください」

 女は障害物を無視し、血走った目で真崎だけを睨みつけた。

 我を失った彼女は、聖司を振り切ろうと力押しで進む。だが聖司は決して放さなかった。

「お母さん!」


 力をこめて抱きしめた聖司は、その耳元で訴えた。

 もつれる母の長い髪に顔をうずめて、歯をくいしばって。


「バカかお前は! 何やってんだよ!」

 真崎は女から銀食器を取り上げようと腕をつかむ。だが、節の目立つ指はかたく、一本一本をはがすしかない。


「……何だ?」


 現れた第三者が、扉口でぽかんと立っている。開けっ放しの扉から、何だなんだ、とざわめきが伝わってきたことにやっと真崎が気づいた。血のついたフォークを何とかもぎとり「来るな!」と叫ぶ。鋭い叫びに躊躇した老人たちを、そのまま彼は部屋の外へ押し出した。危険だから入らないで、と言いながら。


 懸命に振り返る真崎からは、聖司を助けたいのに助けられないもどかしさが伝わってくる。それに応じるため聖司はわずかに笑みを作った。真崎に感謝の気持ちでいっぱいだった。同時に、巻き込んですまないと罪悪感も抱く。

 こんなことになるぐらいなら、必要以上に近づかなければよかった。こんなところまで付いてこさせなければよかった――


 背中をかく母の指先が、傷口をえぐる。聖司は引きつる声を絞った。抱きしめる母の肩口に顔をうずめながら、何度も母を呼んだ。だけど、母は止まらない。意味不明な叫び声をあげ、今も抜け出そうともがいている。


「お前さえいなければ誠一さんは私を見てくれる。私を一人にしないわ! 誠一さんを誑かしたお前さえ消えれば……! ――放せ、放して! 放してぇぇ!」


 耳元の喚き声にかき消されながら、聖司は呟いていた。


「……父さんなんか、もういないのに」


 その声が、母に届いたとは聖司は思えなかった。こうなった母には、淡々と同じセリフを繰り返さなければならなかったからだ。感情を受け止めてなだめるべきなのだ。辛かったね、悲しかったねと同情できれば尚良い。

 しかし、かまわなかった。言いたかったのだ。


「いつまであの人が必要なんだよ。俺を残して逝こうとするほど、どうしてあんな奴が大事なの」


 傍にいて支えてきたのは俺なのに。

「俺を一人にしないでよ……。俺の存在を……消さないで」


 お母さん……、と聖司は小さな声で、母にしか聞こえない声で、繰り返した。

 それしかもう頭になかったのだ。


 聖司を引っかく腕が、ふと止まった。動きを止めた女の赤い目が、きょろりと自身を抱きしめる少年へ向かう。そのとき、バタバタと看護師や医師たちが雪崩れこんできた。訳がわからぬまま、数人に母は取り押さえられた。彼女は長い髪を振り乱し、青白い顔のままぶつぶつと呟いている。


「……誠一さん……ちがう、誠一さん、じゃ、ない……。あの子はちがう。誠一さんは、どこ? 誠一さんは……」

 鬼気迫る形相をしていた母は、拘束するまでもなく、だらんと両腕を下ろしていた。茫然と虚空を見つめているのだ。その頬に涙が一筋伝った。


「……聖司」


 聖司は、自分の耳を疑った。

 胸を突く思いで母を見て、歯を食いしばる。こくんと顎を引いたのを、母は見てくれただろうか。父ではなく、自分を見てくれたのだろうか。だが、その確認をできないまま母子は離れ離れにされた。

 聖司は傷の手当が必要だった。

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