13 病院
総合病院へ踏み入ると、世界が変わったように思えるのはいつものことだった。まず感じるのは臭いだ。外とは違う消毒薬の臭いと、老人たちの臭い。独特の雰囲気は肌にはりつき、外との気温差すら馴染めない。ロビーは忙しなく行きかう病院関係者でごった返していて、午前中に比べたらマシとはいえ、胸がやきもきする。
制服姿の二人は、聖司の母が入院する大部屋に足を踏み入れて、部屋を間違えたかと瞬いた。奥のベッドにいるはずの母がいなかったのだ。いっせいに見知らぬおばあさんたちの目が二人に集中する。あわてて聖司は戸口にあるプレートを確かめた。
だがそこに村木の名前はない。通りがかった看護師に尋ねると、
「村木さんはねぇ、大部屋が落ち着けないとおっしゃったので今朝から個室へ移動しましたよ。部屋は537号室で、第二病棟です」
二人は顔を見合わせた。聖司の顔が曇っていく。真崎は個室のが楽じゃん、と笑った。
たしかに暴れる可能性のある母が個室なのは、都合がよかった。だが、個室へ移動するまでの経緯で病院へ迷惑をかけなかったか、少し不安だ。目が覚めたとき、見知らぬ場所でパニックを起こしたせいではないか。
「あの、何か問題があったのですか」
「人の気配がダメなようで……。慣れない環境がストレスになってらっしゃったようですね。今はちょうど空きがありましたからそちらへ移られたんです」
では、と行ってしまった看護師の態度は普通だったが、聖司は気になって後ろを振り返ってしまう。だが、別の病室へ入ったのか、その姿はもう見えなかった。母が今朝までいた病室からは、笑い声がする。おしゃべりな入院患者と一緒の状況が耐えられなかったのかもしれない。
(たしかに母さんは、もうずっと人目も気にしていた)
隣近所とのコミュニケーションも、挨拶以上のことはできずにいる。
(その挨拶さえ避けている状態だもんな)
「それで、今日は病院行ったら終わり?」
考えに沈む聖司の肩を、真崎が叩く。
「あ、と……いや、警察へも行かないと。母さんが行くべきなんだろうけど、こんなだからとりあえず俺が。診断書の提出とかあるし、現場検証に立ち会うからその日取りとか聞いてないし、示談交渉わかんないし。……最悪裁判沙汰らしいって聞いたけど」
言いながら、こちらの都合で入院先の病院が切り替わった場合、その費用はどうなるんだろう、と聖司は考え、暗澹となる。
「え、裁判? 本当に?」
「まだ事故の状況を詳しく聞いてないけど、状況次第じゃこっちにも落ち度があるかもしれないから。でも通報してくれた目撃者がいるし、起訴にまでいかないんじゃないかな。……今は、母さんの状態次第」
「大怪我はしてないんだよな。あと歩行者と車でも揉めるんだ?」
「足の捻挫と、鞭打ちはあるかも。それ以上はまだ俺も聞いてない。……歩行者でも信号無視なら過失ありって判断されるんじゃないか。その場合、こっちにも請求が来るかもしれない」
そうなると気が重くなる。自殺、という言葉も聖司の脳裏をちらつく。
「――そういや、そっち部活は休み?」
「うん。今はコンクールとかイベントも特にないし」
写真部の活動はそう頻繁ではなく、普段は特に作業もせず終わることも多いようだ。のんびりした部なのだろう。
いいな、と無意識に思った自分に聖司は戸惑う。中学の部活は途中で辞めざるを得ない状況に陥ってしまったし、高校では当然のごとく帰宅部である。辞めた陸上に戻りたいと思っていた時期も、確かにあった。だけど今さら走っても、もう目も当てられないはずだ。みっともない自分を受け入れることもできずにいる。それならいっそこのまま走らないほうがいいのかもしれない。いや、陸上じゃなくても何か――
「おい、ここだぞ」
真崎に呼び止められるまで進んでいた聖司は、我に返った。どこまで行くんだよと真崎に叩かれて、笑って言葉を濁す。今さら普通に憧れていた、などと言える訳がなかったからだ。
母の病室は個室で、人通りの少ない通路にあった。突き当りの部屋である。
キィという音をたてて扉は開いた。母は今、眠っているらしい。寝ていると真崎に伝えると、彼は廊下で待つことにしたようだ。了解した聖司は持ってきた荷物を備え付けのロッカーに持ち込み、すぐに必要なはしやスプーンにフォーク、カップを取りだしていく。タオル類はロッカーではなくベッド脇の古びた棚へ並べた。高額の入っていない小さな財布は、引き出しにしまう。
六畳ほどの、質素な部屋だった。元は白かっただろう壁は陽に焼けて黄ばみ、ところどころシミがあった。洗面台に鏡があって、水しぶきのせいか点々とした汚れが目立つ。南側の窓は天井まで大きく切り取られていて、外の光を十分に取り込んでくれる。それが少しだけあいていた。新鮮な空気に誘われた聖司は、もっと風通しを良くしたくて窓辺へ寄った。だが、ガチンという音に阻まれる。窓は、手のひらほどの幅までしか開かないようにされているのだ。
どうして、と考えを巡らせるとすぐに気付いた。これは――患者を自殺させないための処置だ。誤ってでも、故意でも転落されたら困るという病院側の意思を感じ、怖気が走る。唇を噛みしめた聖司はカーテンをざっと引いた。初夏の生あたたかな風が頬をなでていく。
「母さん……」
錆びたパイプいすを広げ、座った聖司は母を見つめる。こんな人だっただろうか、と思った。やつれた頬と血色の悪い張りのない肌と、くまの浮いた目元や、口元にはしわがあった。ばさばさの長い髪は艶が失われ、白い色が混ざっている。
聖司の覚えている母は、もっと生き生きとしておしゃれを楽しむ女性らしい人だった。ふんわりと微笑む明るい人だったのに。
母がずいぶん歳を取ったように思えた。年齢から言えばまだ四十代のはずなのに、十歳も上に見えて辛くなる。
昨日は点滴をしていた。今は針を肌に刺していない状態で眠っている。聖司がこれだけ動いていても気づかないほど深い眠りなのか。声をかけようとしてためらってしまう。
自殺という言葉が、重く腹の底に響く。
再びキィと音がして真崎が顔をのぞかせた。短気であるため待つことに飽きたのだ。先ほどは遠慮したくせに意味がない。苦笑いを浮かべて奴は入ってきた。
「いや、なんか知らないおばあちゃんにジロジロ見られて居心地悪くてさ。やっぱ場違いじゃねぇの、なんて。あ、えっと……時間がかかるようなら、下のコンビニ寄って病院出てよっかなーって」
何を今さら、と聖司が呆れたときだ。ベッドで眠っていたはずの母が動いた。最初は瞼をうっすらと開けただけだった。聖司の声に反応して、そのかさかさした唇を動かした。誠一さん、と力なく。
けれど、聖司はそれに気づかず真崎と笑い合った。珍しそうに病室に入った真崎のカーテンを開こうとする姿が、ゆっくりと起き上った母の目に描かれる。
「なぁ、この窓途中までしか開かねぇんだけど――」
その台詞の途中、狂気をちらつかせた聖司の母が、真崎に襲いかかった。