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錆の聲  作者: 橘高 有紀
11/16

11 聖司

 真崎の言葉は図星だった。動揺が聖司を襲う。

 真崎はリビングだった部屋をぐるりと見渡し、自嘲気味に口角をあげてため息をつく。


「お前見てるとさ、時々痛々しいよ。大丈夫です平気です、そう言うけど。俺には何もかんも背負って潰されてるように見える。お前、マジに平気だって言える? 戻ってきたときなんか真っ青で、今にもぶっ倒れそうだったんだからな」


 同じことを聖司は真崎に対して思ったが、実は全く逆だったのか。

 こんなとき反射的に弧を描く聖司の唇は、半端な部分で止まっていた。今さらながら手が震えている。何でもない、自分は大丈夫だ。そう言い聞かせて耐えてきたはずだった。なのに、どうして今さら心が震えるのだろうか。


「頼むから……無理すんなよぉ」

 真崎が案じているのは母ではない。聖司だ。

 何か言い返そうとして口を開いたが、結局言葉にならなかった。



 心はね、軽くなるよ

 だれかがいるだけで全然違ったりするよ



 弱音をだれかにぶつけないと前へ歩き出せないほど、弱い人間ではなかった。あの事件から、聖司は一人で踏ん張ってきたのだ。浮気してさっさと逝ってしまった父を恨み、どうしようもなく弱い母を疎んじたが、だれの手も借りずここまでやってきた。

 同年代の少年たちは絶対にやりそうにない、料理や掃除、洗濯、買い出しをこなしてきた。一人ででも何とかやってこれたのだ。


 しかし、母の死を感じただけで、目の前が黒く塗りつぶされた。足下から崩れていくような恐ろしさに戸惑いを隠せなかった。この世界で祖母を除けば、身内はだれもいなくなるのか。自分はこの歳で孤独になるのか。

 うそだ、と叫びたくなった。うそだ、うそだ、と何も考えず、幼い子どものように喚きたくなった。


 そうしなかったのは聖司が理性的であったからか。常に物事を突き放して見るもう一人の自分が存在するため、表面上ではひどく落ち着いていられた。病院に向かう間、そろりそろりと恐怖は背中を這っていたけれど。


「母さんは、自殺かもしれないって言われたんだ……」

 聖司はすっかり暗くなったのにもかかわらず、傍にいてくれる真崎にそう口を切った。発した声は予想外に消え入りそうで、深く息を吸い込む。


「たぶん、発作的に暴れるだけ暴れて外へ出たんだろう。学校へ来ようとしたのかも」

 何で、と尋ねる真崎へ、事故現場が聖司の通学路であったことを伝えた。


「あの人が通っている病院は逆方向だから。買い物へ出たとか、そういうんじゃないと思う。母さんをはねた人は、あの人が飛び出したと証言したんだ。元々……周りが見えてないところあったし、外へ出るときはいつも同行してたんだけど。……偶然の事故だと、思っていたのに……」


 自殺かもしれない。


 その可能性が聖司の心に重くのしかかる。母の無事に安堵し、感じた恐怖を打ち消した直後に、それは針のように冷たく突き刺さった。


「もし、その原因が俺だったら、どうしたらいい」


 誠一さん、と父と息子を混同する母に、この引き裂かれた写真はどう映ったのだろう。不器用な笑顔の『誠一さん』が、自分以外のだれかに笑いかけている姿が、母を衝動的な死に走らせた原因だとしたら。


「俺は、だれよりも母さんの傍にいたのに」


 今なら、壊れてしまった母の気持ちがよくわかる。

 喚いて、泣いて、酒に溺れて、自分自身を追い詰めて、嫌なことすべてから目をそらし、記憶に蓋をした。傷ついた衝撃で立ち上がれなくなり、ろくに食事や会話ができない時期もあった。突然叫びだすことや、泣き出すこと、意味不明なことを口走ることもあった。


 そんな母が、荷物のように疎ましかった。中学生だった息子より逃避へ意識を傾けた母を、内心で軽蔑した。機械的に面倒を見て、家族なのだから仕方がないと諦めながら、顔に笑みを刻んできた。生活するだけなら、父の保険や年金があるためどうにかなった。いや、どうにかしてきたのだ。 

 人への執着を遮断して、この人には育ててもらった恩があると割り切って。

 

 置いていかないで。一人にしないで。

 怖いの。お願い、傍にいて。怖いの!

 あの懇願の意味を、はじめて理解した。一人になるのが怖い、今だからこそ。


「俺が、あの人を追い詰めた……!」

「落ちつけよ! おばさんは死んでないし、大したケガもない。それで全部だ。――村木のせいじゃない」

 聖司は感情がむき出しになった目を、真崎に向けた。突き刺すようで触れたとたん崩れそうな脆い目を。


「だから背負い込みすぎるんだって言ったんだ。あんたがおばさんを支えてきた。それを忘れんなよ。俺だったらできないから言ってるんだ。いいな? 俺だったら抱えきれない」


 だけど、と言いながら聖司はひりつく喉をしぼる。

「俺が……俺がもっとちゃんとしていたら、こんなことには――」


 村木、と真崎が聖司を呼んだ。びくんとおびえた眼差しを向けた聖司は、そこで辛そうな笑みを見る。

「お前のせいじゃない。お前はよくやってる。よく頑張ってるよ! 頼むからそんな風に考えんな。お前が辛いと、俺まで、痛い」


 箍が外れた。堰を切ったように感情の波が流出する。

(そうだ。痛い。……痛い)


 ここで甘えたら真崎まで巻き込むと理解していて、止められなかった。背負い込みすぎると真崎は言う。しかし聖司にはコレ以外に一人で立ち上がる術がなかった。張り詰めて、突き放すしか知らなかった。


 もし、もっと早い時期に真崎と出会っていて、痛みを共感してくれたなら、早々に楽になれただろうか。頑張っている、よく支えていると肯定して貰えたら違っただろうか。

 保健の岸田先生の言っていた意味はこれだったのか。


 一人で泣けない己の弱さを初めて知った。

 もっと頼ってくれていいよ。そう差しのべられた手が、ずっとずっと聖司は怖かったのだ。


 聖司の感情の高ぶりが収まったころ、背中を貸してくれた真崎は、自分も目を赤く腫らしながら少し笑った。もらい泣きしていたのだろうか。勘に頼ってすんなり迷路も抜け出しそうな、聖司とは正反対の真崎が。それとも真崎だから他人の痛みに敏感なのか。


「いつかとは逆だよな。腹の中にためたもん吐き出したら、結構楽になるんだってあのとき知ったんだ。あのさ、本当に俺は役に立たないけど。写真撮るしか能がないけど、今はなんかホッとしてる」

「お前は写真、やめるわけがない」

「どうして言い切れんだよ。あのときは本気だったんですけどぉ」

「写真見たらそういうの伝わるだろ」

 きょとんとなった真崎が歯を見せた。子どものような満面の笑顔だ。


 ひとしきり笑いあうと、無性にさっぱりしていた。そうだ、真崎と一悶着あった日も、母のことがなければ気持ちは晴れやかだったのだ。帰宅時間が遅れたことへの罪悪はちっとも感じなかった。それ以上に真崎の鬱屈をとけたことが嬉しかった。きっと母はそんな聖司を見て、不安を募らせたのだろうが。


 明日、おばさんのとこ行くなら俺も覗くから。

 帰り際、真崎はそう言った。

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