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錆の聲  作者: 橘高 有紀
10/16

10 一人

 病院へ到着後、すぐに母の病室へと聖司たちは案内された。もうすべては終わっていたのだ。

 あのときと同じく廊下で、母の無事を祈らずともよかった。四人部屋の右奥のベッドに母はいた。頭や身体のあちこちに包帯を巻き、絆創膏を貼られていた。息をのむ聖司の後ろから、すぐに担当医師が姿を見せる。医師は軽い脳震盪であることと、打撲と擦り傷があること、検査入院が必要なことを聖司に伝えた。


 ぺこりと礼をした聖司は、ベッドに横たわる母の隣で気が抜けたように腰をおろした。ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した後、そうっと痩せ細った手に触れる。点滴の刺さった白い腕は血管が浮き出ていて、見るからに頼りない。それをぎゅ、と握りしめた。


「よかった」

 そう呟いたはずなのに、声になっていなかった。目に涙が浮かび、聖司は歯を食いしばる。無事な姿を確認して、初めてぐらつく自分に気づいたせいだ。すぐに立ち上がると無理やり笑顔を貼り付け、聖司は頭を下げた。


「先生、付き添ってくださってありがとうございました」

「不安があれば遠慮なく言っていいんだぞ。俺でよかったら相談にいくらでも乗るから」

「はい。だけど……今は大丈夫です。入院の手続きも準備もできます。ご迷惑をおかけしました」


 事実、母の入院はこれが最初ではなかった。父と叔母が事故にあってしばらくたったころ、精神を病んで立ち上がれなくなったことがある。そのときは他県に住む祖母に出向いてもらったが、もう聖司は十六だ。自分のことは自分でできるようになっていた。家事など、最近では母の代わりにほとんどを聖司が請け負っている。


「あ、すいません、ご家族の方ですね。ここに入院について必要なものが書いてありますので、準備をお願いしたいのですが……。それと、いくつかお尋ねしたいことがあるので、こちらへ来てもらっても構いませんか」

 やってきた看護師が、山口に話しかけた。聖司は口角をあげて自分が村木だと名乗り、山口は担任の教師であると告げる。そして、看護師のあとに付いていく。村木、と山口が引きとめたが、聖司は「平気です」と答えた。その頃には、常の自分をすでに取り戻していた。


 連絡先と家族構成、母の体質やアレルギー、飲んでいる薬について質問を受けた聖司は、同時に母が精神を病んでいることも伝えた。薬の時点で予想をしていただろう看護師は、難しい顔をする。言いにくそうに伝えられた言葉は、聖司が予期していたものだった。


「うちで手に負えないようなら、転院の可能性もあるんで、考えておいてくださいね。その、暴れたりするようなら、だけど」

 はい、と目を伏せて聖司はうなずく。前にもあったのだ。母は時々見境なく暴れる。普通の病院ではそこまで面倒を見てもらえない。だが、精神科があり入院を受け入れてくれる病院は遠く、私立であるため金がかさんだ。仕方がない、とわかっているけれど……。


「それとね、事故の話なんだけど……言いにくいんだけどお母さん、もしかしたら――」


 母の入院の支度をするために帰宅したのは、ずいぶん遅くなってからだった。揃えなければいけないものが、いくつかあるのだ。重たい足取りで戻った聖司が見たのは、玄関先でしゃがみ込んでいる真崎の姿だ。聖司に気づいて、腰を浮かせる。


「おばさん、事故にあったって……」

 恐らく先に学校へ戻った山口から聞き出したのだろう。真崎は、事故の知らせを聞いたばかりの聖司のように、顔色が悪い。


「うん。軽い打撲や擦り傷に脳震盪だって。様子見と検査のために三、四日入院が必要だって言われた。すぐ戻ってこれると思う」


 深く息を吐き出して、ずるずると真崎は再度腰を落とした。

「……よかったあ」


 その心底ほっとした姿に、聖司のほうが少し泣きたくなった。静まっていた感情が再び熱を帯びて胸の内を駆け巡る。真崎は、学校が終わった直後からここで待っていてくれたに違いない。いつ戻るともしれない聖司と会うためだけに。


「おばさんとはもう話せたんだ?」

「いや、俺が出たときはまだ眠ってたから」


 門戸を開けようとして、聖司は眉をひそめる。鍵は、かかっていなかった。


「どうかしたか」

 いや、と返事をしながら門をくぐり、二人は息を詰めた。夕陽の照らす玄関アプローチは、泥棒でもやってきたような荒らされぶりだった。置いてあった観葉植物が鉢植えごとすべて倒されていたのだ。土や葉が散らばっている。鉢を割られたものもあった。根がむき出しになり、葉はむしられていた。


 この緑は、母が大切に世話していたものだった。

 植物を育てるのが好きな母へ、父がプレゼントしたものばかりが並んでいたのだ。


「……何だこれ」

 荒らされた玄関アプローチを不審げに真崎が見渡す。聖司は答えず、やはり鍵の掛かっていない玄関戸を引いた。家の中で母が暴れることはままあった。だけど、これは母らしくない気がした。

 母は泣きじゃくって暴れるが、その場所と時間を決めているような節があったのだ。聖司に自分を止めて貰いたいと思っているからか、聖司がいるから暴れたくなるのかは不明だが、これはそのパターンを外れていた。


 しんと静まりかえった暗い屋内を、慎重に聖司は進んだ。順にライトを点灯させ、家中をチェックして回る。人の気配はしない。床板のしなる音が響く。奥にある母のために片付けたリビングは凄惨たる有様だった。


 引き裂かれたソファはスプリングや綿が露出していた。重いテーブルが倒れ、椅子は力任せに床へ叩きつけたのか壊されている。カーテンは土で汚れ、裂けていた。恐らく、窓際にあった観葉植物をぶつけたのだ。一部窓ガラスが破損していた。ソファの綿や鉢植えの破片に紛れ、奥へ片付けたグラスや食器も割られていた。当然壁紙やフローリングも傷だらけである。


 棒立ちしている聖司の脇にやってきた真崎も、部屋の有様にあんぐりと口を開けた。

「なぁ、これって泥棒なんじゃ」

「……いや。泥棒は、ここまで執拗に壊し尽くさない」

「じゃ、嫌がらせとか」

「それもないと思う。心当たりなら……あるから」

 

 聖司はリビングへふらりと踏み出した。頭の奥が重くしびれ、取り戻したはずの平静にぴしりとヒビが入る。

 母の仕業に違いなかった。この荒れ果てた室内は、何らかの感情が渦巻いている。その叫び声が今にも聞こえてきそうだ。


 しかし、許容範囲だ。多少度が過ぎていてもこの程度であれば何とかなる。元々傷つけられた部屋でもあるのだ。

 

 その中央に散らばっているもの以外は。


 部屋の中央で膝をついて、一枚一枚それを手に取った。

 ――母が気に入っていたはずの、真崎の写真を。


「……お前を撮った奴だけ、引き裂かれてんのな」

 傍らで聖司と同じく膝を折った真崎が指摘する。その言葉通り聖司の写ったあの写真だけ、ぐちゃぐちゃになって破られていた。だけど他の写真だって指紋がべったり付着し、足で踏まれたのか何かが上に乗ったのか、汚れがひどい。


「……ごめん」

「なにが」

「写真、ちゃんと返すって約束したのに」

「いいよ、それは」


「よくない、だろ!?」


 聖司はかき集めた写真を、真崎に押しつけた。自分が預かっていたせいで、こうなってしまった写真を。


「大切なものだって言った。そうと知って受け取ったんだ。お前がもっと怒ったって俺は何も言い返せないはずだったんだ。いいよって、そんなもんじゃないだろ!?」

「――いいんだよ」

 写真を確認する真崎を、聖司は睨む。


「いいんだ。お前に預けたときから、その可能性は考えていたし、弁当の時から予感はしてた。これは口実に過ぎなかったんだから」

 口実、と台詞をなぞる聖司に、真崎は自分の写真を見つめてうなずき返す。

「写真は、そりゃ残念だけど……。破られるとまでは予想していなかったけど、ネガは無事だし。こんなものよりさ、お前平気なわけ?」


 聖司の青白い顔を、真崎が覗きこんだ。同じことをタクシーの中で、病院で、何度も山口に訊かれたはずだった。そのつど甘えられない、寄りかかれない、と聖司は心を律してきた。なのに、真崎の言葉は冗談みたいに胸をつく。


「何で、そんな冷静でいようとすんだよ。隠すんだよ。ほんとは怖かったんじゃないのか。写真なんかそれこそどうでもいいだろ」

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