後篇-蒼魔の山
「こんな場所があったなんて」
玲莉が感嘆の声を上げた。
石切り場の近くにある穴は、入口こそ狭いものの、中はぽっかりと広い。吹き溜まりなのか、足元には落ち葉がふかふかに広がっていた。
孝浪がどかりと腰を下ろす。
「お前も休め」
「……はい」
少し離れて座ると、玲莉は入口付近に座りこむ駁靖の背を見やった。
「あいつの事は気にしなくて良い。用が済んだらこっちに来るさ」
孝浪が投げやりに言う。この二人は、仲が良いのか悪いのか良く分からない。
時々二人で話している時は親密そうなのに、こうして背中を向けあっている事もある。戦っている時は、初めて見るであろう玲莉の剣の型の範囲にはいらないように援護してくれたり、怖がりな駁靖が纏わり付くのを諫めてくれたりもする。
そう言えば――玲莉は渫輝を見て思った。
「孝浪さん。剣を、見せて貰えませんか?」
「俺の、か?」
玲莉は少し近づいて両手を差し出した。
彼の剣は、魔剣では無かったはずだ。ならば、あれだけの妖獣を切ってそのままというのは良くない。
刃の痛んだ剣は、使い手の負担にしかならないのだ。
「柊羅の者に見せる程の物でも無いんだが……」
片手で、ほいと言わんばかりに渡された剣の重さに、玲莉前によろめいた。重い……こんなもので戦っていたなんて。
それに長い。
鞘先を地面に付け、片膝を立てた上でやっと刀身を引き出す。
やはり、痛んでいる――
「この暗がりで、よく見えるな」
「……そうですか?」
暗いと言えばそうかもしれない、しかし、多少は岩の隙間から光が差し込んでいる。見えない程では無い、いや、普通に見える。
それよりも問題なのは……
「あの、この剣、抜いて貰えますか?」
重いし長いしで、鞘から剣が抜けない事だ。ぷっと噴出した孝浪に恨みがましい目線を送りつつ、抜かれた刀身を見詰める。
鍔の無い幅広の刀身には四本の縞が掘られ、重量も含めれば人ひとりばっさりと両断出来そうだ。
しかし、切ったのは鱗の堅い妖獣。
全体に細かい傷が入っている。
検分を終え、鞄から玉と青い布を取りだした玲莉に、入口を離れた駁靖が声を掛けた。
「その布は……」
「これは、祖父が知り合いから貰ったものだそうです」
「貰っただと?」
孝浪が顔を引き攣らせて言葉を零す。
その横に座った駁靖が、良い笑顔で言った。
「それ、私が術を仕込んだ物だよ」
その布で刀身を磨いていた玲莉の手が止まる。
術を……仕込んだ……?
「駁靖さん、霊師だったんですか!?」
「うん。じゃなきゃ、丸腰でこんな処来ないよね?」
「……」
玲莉は絶句した。霊師は言霊の力を借りて天変地異を起こす技を持つという人の事だ。
この国にもその家系は片手で数える程しか無い。手にある青い布は、握り締めると水分を含むという術が込められている。仕組みはさっぱり分からないが、飲み水以外になら使えると聞いた。
……というか、駁靖さんそんな事が出来るなら戦いに加勢してくれたって良かったんじゃない!?
ぱっと顔を上げた玲莉は、駁靖を睨んだ。
「私が加勢する事は出来ないよ」
玲莉が口を開く前に駁靖は言った。申し訳なさそうに微笑む琥珀の瞳が、ひたりと少女を捕える。
「その代わり、帰路は任せてくれていい」
「おい」
「え?」
孝浪と玲莉の声が重なる。ふざけた事言うなと駁靖の胸倉をつかむ孝浪が、すごい剣幕だ。
任せろって、一人で戦うという事だろうか。まさか……此処までの道のりだって、戦いなれた剣師二人でやっとだったのに。
それとも、実際見た事はないが霊師の力は天変地異に相応しいものなのだろうか。
「そういえば」
駁靖が孝浪をどうにか宥めて言った。
「玲莉は縁談を次から次へと蹴っているらしいね」
「はっ!?」
刀身を磨き始めたその手から、コロンと丸い石が転がり落ちる。それを拾った孝浪が、その話に乗って来た。
「何でも、隣国の皇子を振ったとか?」
「なにせ、この国の皇子も振っているしね?」
「えっ、えぇ!?」
話が大きくなり過ぎている。
そもそも、縁談相手の名前すらまともに見ていなかったのだ。玲莉は慌てて両手を振りながら弁明した。
「私は嫁ぐ気なんて無くて、来るものは全部お断りしただけなんですっ!」
「嫁ぐ気が無い?」
「はい、家族は嫁がせようと必死なのですが……」
「ねぇ玲莉、柊羅の三つの掟言えるよね?」
駁靖が溜息交じりに問ってきた。
当然言える。耳に蛸が出来る程聞かされて来たのだ。唇を引き締めて頷く玲莉に、孝浪がどういう事だという目線を送る。
「柊羅の掟は、部外者は普通知らない。私は当代柊羅に聞かされたから知っているだけだよ」
「おじい様に、聞いた?」
「そう。君のお爺様に聞かされた。どうしてもってね」
軽率では無いだろうか、掟を関係の無い人に言うなんて。
「何故です……?」
玲莉は縋る様に駁靖を見た。それは、帰らない祖父と何か関係のある話に聞えたのだ。その話を知っていたから、彼は三日目の夜、この森の入口に居たのではないか。
「当代柊羅の妻について、知っている事はある?」
琥珀の目を細めて、駁靖が問いを返す。おじい様の奥方は、娘――私の母を生んで直ぐに亡くなったと聞いている。面識もない。玲莉は首を横に振った。
「彼らは兄妹だったと聞いた」
玲莉は絶句した。停止した頭の中に柊羅の掟が浮かぶ。三夜開け帰無くは弔うべし、血を守り守る為に流すべからず……一族の外に血を分けるなと言ういう事?
兄妹で婚姻なんて……兄……まさか。
「私、このまま縁談を断ると、兄様の……」
「だろうね」
玲莉は青褪めた。決して兄が嫌いという訳では無い。ただ、そういう対象には一生成り得ない存在だ。
「残念な事に、麗国は柊家の親近婚を容認している。成人まで君があの家に居たらどうなるか、分かるね?」
だからあれほど縁談を進められたのだ。母も兄も、祖父も、知っていたに違いない。
しかし、縁談を受ければ、玲莉の夢も潰えてしまう。鞘職人など、嫁入りして家事や育児に追われれば続ける事など出来ないものだ。
俯いた玲莉に、孝浪の呟きが落ちる。
「何故そこまでして、濃い血を残す必要がある?たかだか剣造師の家系で」
確かにそうだ。しかしその理由があるとするなら、あれかもしれない。
孝浪の方に顔を上げ、玲莉はそれを口にした。
「柊羅の剣は、皆この森の魔石から作られます。そして、この森の魔石は、剣造師の血を贖ってのみ加工できるんです」
脇に置いた渫輝に触れる。この剣一本の為に、先祖がどれほど血を流して叩き上げたことか。
青白く輝く半透明の刀身は、妖獣をいくら切っても刃零れ一つ作らない。そして、その鞘に施された装飾に混じる透明の石。そんな小さな石でさえ、加工するには血を要した。
玲莉の手は綺麗なままだ。
何故なら、血の儀式は成人の折に行われ、それが済まなければ血を贖っても加工するには至らない。今まで柊羅の鞘職人として、魔石を加工した事は一度も無かった。
「……私」
たとえ、この手が傷だらけになったとしても、玲莉は生き甲斐を見つけてしまった。兄と結ばれる事さえ飲めば……
「玲莉、君はそんなに職人への道を諦められないのかい?」
諦められない…味気ない鞘に宝石を散りばめて輝かせるその全てが――
駁靖は、藍の瞳が秘める輝きを見て、諦めの溜息を付いた。既に彼女は柊羅の職人だ。魔石に触れれば、忽ち魅入られるだろう。
あの老人の危惧は、下手をすれば彼女の成人と共に現実となるかもしれない。玲莉は、柊羅を両親に持つ。
血が濃過ぎるのだ……
「提案があるんだけれど」
駁靖は肩を竦めて呟いた。隣に座る孝浪が、ぎょっとなるが顔を上げたばかりの玲莉は気付かなかった。
「要は、嫁ぎ先でも仕事が続けられればいいんだろう?」
「……それは……」
「身分と財力のある夫を選べば良い」
玲莉は言葉に詰まった。それは、あまりに身勝手な話である。そんな玲莉を駁靖は笑った。
そして、その耳で揺れていた黄石の耳飾りを片方外して差し出してきた。
「良い相手が見つかるおまじない」
「え?」
玲莉はうっかりそれを貰った。
それで全てが終わった事を、彼女だけが気付かなかった。
洞穴に差し込む光が弱まり、夜の始まりを告げる。仮眠と簡単な食事を済ませて、一行は石切り場へと続く岩山を登り始めた。垂直に近い山肌は、所々が青く澄んだ石を含む。
この中腹に石切り場がある。
「ここで襲われたらどうするんだ」
「この山の近くには、妖獣は近寄りません」
孝浪が言うと、先頭を登る玲莉が答えた。慣れた手つきですいすい登る娘の下の駁靖が、この崖登りは何時来ても辛いねと愚痴る。更にその下で孝浪が、だから下で待てって言っただろうとぼやいて、聞いていた玲莉の口に笑みが広がる。
ここは安全な場所だ。
祖父が居るなら、ここしかない。
岩山を中ほど迄登り、踊り場の様な平らな場所に出た。石切り場の入口である。
「あの、お二人は此処でお待ち頂けますか?」
「大丈夫なのか?」
孝浪が駁靖を押し上げながら聞いてくる。
「私が共に行こう」
駁靖は玲莉の問いを無視して微笑んだ。
「中にも、入った事があるんだ。今更だろう?」
「まさか……」
「君の御爺様が入れてくれたよ。さぁ、行こうか」
玲莉の手を取った男は、確かに中に入った事があるのだろう。ここにも、血の結界が敷かれているのだ。
結界を越えようとしたところで、玲莉は足を止めた。
中から、声が聞こえる。呻くような……
「おじい様!!」
繋がれた手をそのままに、洞穴の奥へと走り出す。
薄らと青白い光に包まれる道を進むと、広い空間に出た。最奥は水晶の様に結晶化した魔石が地面の所々に生え、天井は高く見えない。
青白い光に照らされた洞の中で、その半身を蒼く透き通らせて倒れ伏す老人が居た。
玲莉は息を呑む。
「何故、掟を守らなかった……玲莉」
絞り出すような声に、おじい様と震える声音が洩れた。
「戻りなさい。お前が来てしまっては……意味が無い……」
「おじい様、何故……」
崩れ落ちそうな玲莉の腕を、駁靖が掴む。
「座っては駄目だ」
何時になく厳しい表情を見上げていると、その顔がぐっと近づいた。完全に腰の抜けた玲莉を抱え上げ、駁靖は静かに言った。
「柊羅、貴方の危惧は現実となりそうだ……」
「来て……下さりましたか……」
じわじわ透けて蒼い石と変わる老人――当代柊羅が、苦痛に歪む顔を僅かに和ませた。
「もう良いのです……靖殿……それが、御眼鏡に適ったならば」
「あぁ、気に入ったよ……もう、儀式は終わったか」
「御覧の……通り、でございます……蒼魔は……眠るでしょう」
――蒼魔。それは、この国の伝説に登場する魔物の名。
玲莉は、何も言えずに祖父を見下ろす。彼が、完全に魔石となるのに三日。
掟は――この残酷な姿を隠す為のものだったのだ。
見てしまえば、きっとできない。身内の変わり果てた姿を材料に、剣を作り飾る事など。
肌色の首を青白い光が浸食していく。
それが透けて、地面が見えた。
「靖殿……玲莉を頼みますぞ……」
ピシリと音がする。
話をしていた老人の顔が、どんどん蒼みを帯びて透き通っていく。
「お……おじい様っ」
腕の中で玲莉は暴れた。
放したら駆け寄りそうで、駁靖は一層力を込める。
素手で触れれば、彼女も忽ち石の呪いに囚われるのだ。そういう血筋に生れついた娘を抱え、老人を見詰めて、静かに礼をする。
「行くよ……」
「いや、待ってっ!おじい様がっ!!」
騒ぐ玲莉を肩に担ぎ直し、出口に走った。昨夜より欠けた月の浮かぶ夜闇の中、若干顔色の悪い孝浪が無言で出迎えた。
声が聞こえたかと、駁靖は自嘲した。心積もりがあったとは言え、知人の最期にあまりにも軽薄だ。
むしろ、安堵さえしている。これで、暫くは贄が要らないという事実に。
柊家の次の贄は彼女の母だ。
「孝浪、彼女を頼める?」
無言で頷くのを見て、駁靖は玲莉を解放した。一瞬孝浪が焦る。
彼も、老人の言葉を理解したのだろう。
そして、その場に座り込む玲莉も、戻ってはならない事を分かっている。誰を守る為に、先祖がそうしてきたか。
蒼魔を封じる血筋。
やがてここで散る運命に気付いてしまったのだ。
「玲莉、行くぞ」
孝浪が片腕に玲莉を抱え上げる。彼女は何も言わなかった。その目の様に青褪めた顔で、後ろの闇を見詰めるばかりだ。
なんと声をかければいいのかと、孝浪は肩を落とした。生き生きと剣を振るい、祖父の無事を信じていた娘に突き付けられた現実は、あまりに重い。
その昔居た蒼魔という女怪。
大妖にして近寄る者は人も獣も食い殺されて森は病み、瘴気が立ち込めていたという。そんな呪われた地に、ある時、柊燕という旅の霊師が訪れた。
彼は蒼魔を封じ、見事その地を救った。
昔話だ。有名な……
しかし、蓋を開ければ事実は綺麗事では済まされない。封じの術は不完全だったのだ。
でなければ、その子孫が命を賭して封印を維持し続けねばならない、と言う事にはならないはず。
「孝浪、落とすなよ?」
駁靖が振り返る。既に笑みの浮いたその顔を、孝浪睨みつけた。
「当然だ」
ふわりと体が宙に浮く。遥か北方の大山、雹麗峯に住まう風龍の加護を受けた霊師の家系。空を占有し、やがてこの国をも統べた麗家。その三男は、最も霊術にすぐれ、兄二人を差し置いて皇太子の位を持つ。
孝浪が腕に抱く娘は、蒼魔を封じる血を持ち、風龍の加護を受けた霊師を生むのだ。次期王妃として、逃れようのない未来を背負わされた事にすら、気付いていないだろう。
それすら見越したのか。
王妃として慌ただしく生き、職人としての自分を忘れよと。
「おじい様……」
玲莉が小さく呟く。
必ず、仇をお取りしますと。
そのしっかりとした声音は、何も諦めてはいなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
基本、読み専門なのであまり書きませんが、年1回くらいは頑張る所存です…