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月流華  作者: 秀月
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中編-森の中で

 ……ごめんなさい、兄様。


 静かな部屋の中で、すくっと立ち上がった玲莉は腰帯を一気に解く。体に纏わり付く深衣を脱ぎ捨てて何時もの袍を着込み、華奢な革靴も脱ぎ捨てる。


 脛まで隠す皮と金属で出来た丈夫なものに履き替えて、それを固定するように上から布を巻いた。髪は左右に結われたままだが、簪を抜けば十分質素になる。


 仕上げに、隠しておいた鞄と剣を背負えば、準備は整った。


 その青い鞘に収まった長剣『渫輝さらき』は、柊の血を引く女にしか扱えない魔剣だ。母から受け継ぎ、今やその剣の為の型を完璧に習得した玲莉に怖いものは無い。


「兄様、一夜あれば十分です」


 開け放った裏山に向かう窓の縁に足をかけ、小さく言った。満面の月に藍の髪が優雅に煌めく。


 玲莉は祖父が生きている事を疑わなかった。あの祖父が、妖獣に後れを取る姿など、夢にも想像できなかったのだ。


 だから、掟を破った。それが、残されたものの為にあるものだとも知らずに。



 人気の無い回廊を抜け、裏門から静かに抜け出すと、そのまま闇に乗じて、裏山を越える。


 その先に広がるのは、黒曜の森だ。柊一族の土地であるが、強い魔力が満ちて入る者を拒み、そこに居た獣を獰猛な化け物へ変えてしまった。


 山々が懐に抱くように、ぽっかりとそこだけ青黒い木が生い茂り、半日も歩けば森の反対側に出られたが妖獣が跋扈する為にそれもままならない魔の森である。


 今では、柊羅の血を引く者にしか踏み入る事ができない結界が覆われて、他者の立ち入りを拒んでいた。三日帰らないというのは、三日あっても戻れない深手を負った、そういう意味が含まれる。


 何故戻らないのと、胸の奥で泣き叫ぶ自分を宥める様に、玲莉は深く息を吸った。眼下に広がる森は静かで、初秋の空気はひんやりと身体を満たす。


 焦りは禁物だ。


 向かう黒曜の森には、鳥型の妖獣が多く生息する。しかし、妖獣とはいえ鳥は鳥、夜目は効かないのだ。よって足を踏み入れるなら夜がいい。


「すみません、柊羅の者ですが……」


 玲莉は森番の詰め所に一応顔を出す事にした。年老いた夫婦が住むそこは、木と漆喰で作られた簡素な家でもある。


 入森帳にある祖父が残した入りの記録をさりげなく確認し、その下に自らの名を記す。出た記録が無いのは、詰め所によらなかった事も考えられるが……祖父はまだ森に居ると玲莉は確信を持った。


 几帳面な祖父が、出た証を残さぬはずが無い。


「森へ入ります」

「お気を付けてね」


 掟を知らない森番は、優しい声で送り出してくれた。その声に頷き返して詰め所を出る。


 玲莉はそのまま、驚きで立ち止まった。


 丸く明るい月を背景に、人影が近づいてくる。ここは妖獣の住む危険な森の端、関係者以外はそもそも近寄りさえしない。


 一瞬、連れ戻しに来た兄かと思ったが、その青年が纏う凛とした空気はあまりにも兄とは掛け離れていた。


 恐ろしく整った顔は少し痩せて、襟足が見える長さで切り揃えた短い黄朽葉色の髪が顔に濃い影を作る。長身で……黄石の耳飾りが霞むくらい、綺麗な琥珀色の瞳。


「お嬢さん、森へ?」

「……あ」


 近づいて着た青年に声をかけられ、完全に物色していた玲莉は慌てて目を伏せた。職業病なのか、玲莉には綺麗な物をじっと観察してしまう悪癖があった。


「そうですが……あの、貴方は?」

「国の官吏なんだけど、森番が中に入れてくれなくってね」


 玲莉は失礼にならない程度に顔を向けて、青年に言った。短いと思った髪は首の後ろで括られて背中へ流されている。髪の長い男は、その殆どが貴族である。あまり失礼な扱いは出来ない。


「この森は、柊羅一族の者以外は入る事ができません」

「国王の許しがあれば、入れるだろう?」


 青年が懐から木の札を差し出し、見せてくる。赤々と押された印は御璽ぎょじだろうが、玲莉に見分ける事はできなかった。


 急いでいるのに、困った。


 苦笑を浮かべて青年を見上げる。彼も、整った顔に苦笑を浮かべた。


「これがあれば、入れるという話しなんだけれど」

「森番は、なんと?」

「柊羅の者の許可を得よと」


 ……どうやら、面倒事を丸投げされたらしい。


 木札を手に、玲莉は考え込んだ。

 大体、入って何をすると言うのか。


 身分のある官吏がしかも夜に……俯く玲莉のおとがいに、青年の細い指がかかった。


「……藍の目……お嬢さん、柊羅の者か」


 上向かされた玲莉は、琥珀のような瞳に間近で見つめられる。切れ長の目が細まり、青年のその綺麗な顔に笑みが広がったところで、やっと我に返った。


「わぁっ!?」


 間抜けな声を出して仰け反った玲莉の顎は、すんなり解放された。


「なら話が早いね」


 青年は、木札を持つ玲莉の手を、素早く掴み引き寄せる。華奢な少女の体は、すっぽりと男の腕に包まれた。


「私を供にしておくれ」

「は……はぁ?!」


 暴れる隙もなく抱きしめられた玲莉は、耳元で囁かれて真っ赤になった。吐息がかかり、くすぐったくて首を窄める。


 血族以外に抱擁された事など無い。しかも相手は見知らぬ男。


 これは未婚の、いや、成人前の娘にしていいものではないと、玲莉はわたわた暴れながら思った。


 そもそもこの男は、森に入りたかったらしい。ここで小娘に手を出す必要が……思い至った玲莉は悲鳴を何とか堪えた。


 こんな処で叫んだら、森が騒ぐ。兄だって気付くだろうし、中の妖獣も敏感になるだろう。


 だが、手籠めにされるなど真っ平御免だ。


「は……放してください」


 全然突っ張れていない腕で男の胸板を押してみる。声は、情けない程に上擦った。


 身を強張らせた娘が自分の意図を理解したとみて、琥珀の瞳を細めた青年が再度問う。


「森に、入れてくれるかい?」


 意地が悪いと思いながら、赤く色づく娘の頬に唇を寄せた。初心な少女はびくりと震えあがり、あっさりと陥落して言った。


「い……一緒に森に入れてあげますから……放してくださぃ……」




 残念なことに、駁靖はくせいと名乗った青年は丸腰だった。だが、それを理由に置いて行こうという話題を玲莉は持ちだせない。相手は、目的の為なら未成年の娘にすら手を出そうとした頭の可笑しい官吏である。


 背中の太刀が渫輝で無ければ、間違いなく玲莉は抜いていた。


 対人戦の経験は少ないが、丸腰の相手を牽制するくらいの腕はある。しかし、渫輝は魔剣。人の腕など、かすりさえすれば苦も無く落とす。


 本当に貞操の危機に陥ったら抜くけど――


 玲莉は座った目を駁靖に向けた。


 黄石の耳飾りを揺らし、何、とでも言いたげな笑顔が憎い。


「森の結界を越えます」


 左手を差し出して言うと、彼は微笑んだままその手を掴んだ。


「頼むよ」

「俺も一緒に頼むわ」


 誰かが玲莉の右手を掴んだ。


「えっ?!」


 既に踏み出した一歩を堪える事が出来ず、玲莉は結界を超える。そのまま、見知らぬ二人の男を魔の森へと入れてしまった。


 こんな失敗は今までなかったのに。


孝浪こうらんじゃないか」


 森の結界を越えて、真っ先に駁靖はくせいが声を上げた。


「お知り合い……なのですか?」

「麗国軍右翼の将軍だよ」


 フンと鼻を鳴らして無造作に黒い前髪を書き上げた孝浪は、翡翠色の目を吊り上げて駁靖に掴みかかった。


「丸腰でこの森に入ろうなんて、どういう了見だ?!」

「……君が来たなら、別に良いだろう?」


 駁靖はにっこり笑顔で答えた。


 これは、火に油を注いだ。


 玲莉は軽く眩暈を覚えながら、歩み出す。彼らに構っている暇が惜しい。


「ちょっと待て」


 聞こえない振りを決め込み、どんどん前に進む。森の中に入れたのだから、後はもう妖魔の餌になるなりなんなり勝手にやってほしい。森から出る分には、柊羅の血は不要なのだ。


「……何の声だい?」

「近いな、妖獣か」


 だが、聞き捨てならない言葉が聞こえ、玲莉は振り返った。


「声……?」

「今は聞こえんが……近いかもしれん」


 孝浪が腰の剣を抜き放つ。太い長剣だが、それは柊羅の手ではないと玲莉は職業病の様に観察した。


「耳鳴りのような鋭い音が短く三つ。思い当たる妖魔は何?」


 棒立ちの駁靖が、声を落とした。


女焉じょえんですっ!!」


 背負った剣を素早く抜きながら、玲莉は答えた。


「声が三つなら、六体とお考えください」


 刹那、後ろの茂みから緑毛の生えた蛇の頭が飛び出した。玲莉は振り向きざまに剣を揮う。長い藍の髪が中に踊り、一瞬にして女焉の首を一つ落とした。間髪を入れず、右に迫る首に残光が舞う。


「体は一つ、首は二つです。必ず首を落として下さい!」

「わかった」


 見事な剣捌きで二つの首を落とした娘が、孝浪に向かって言うなり森の奥へと走り出した。迷いも無駄も無い剣筋に圧倒される間もなく、左右の森が僅かに揺れ、遠ざかる。


「娘を追ったのか!?」


 大人の顔より大きな妖獣の首を跨ぎ越し、孝浪は玲莉の華奢な背を見やった。


「孝浪、一体くらいは落としてみせよ?」


 戦う気も無い丸腰の駁靖が、面白そうに微笑んで言う。


「当然だっ!」


 孝浪はすぐさま玲莉を追った。


 少し走った先は開けた草地で、舞うように剣を振るう娘を見つける。重さを感じさせない細身の刀身が、青白い光を纏って閃き、剣舞でもするかのような優雅さだ。


 彼女の背後の森が揺れている。


「後ろだ!!」


 叫びながら孝浪は突進した。


 一瞬交わった藍の瞳が強い光を宿して振り向く。青白い残光が弧を描き、女焉を迎え撃った。


 孝浪は背を向けた彼女に隙ありと襲いかかる、目の前の女焉の首を真横から叩き落として踵を返し、娘の真横を抜け出た頭に剣を突き立てた。


 耳鳴りのような断末魔は一瞬。玲莉に首を落とされ、それもすぐに肉塊と化した。


「……ありがとうございます」

「いや、大した役には立っていない……これで全部か?」

「女焉の声は、女には聞き難いの」


 安心したような声音の娘が、少し息を乱して孝浪の返答を待つ。


「もう声はしない……」


 孝浪は剣を鞘へ収めた。


「なら、早くこの場を離れま……」


 言いかけた玲莉が固まる。


「駁靖……お前……」


 妖魔の気配は追えるのに、どうして人に対して無防備なのだろうか。孝浪の疑問は、すっぽり抱きすくめられている玲莉には届かない。


「柊羅の名刀『渫輝さらき』とはね」

「駁靖、彼女を離してやれ」

「僕には抱きつく権利があるよ。怖かったんだ。守ってくれてありがとう、玲莉?」


 訳が分からないという表情が、ありかりと娘に浮かぶ。恐らく彼女は、コイツの表の顔を知らないのだろう。


「駁靖、貴重な戦力に必要以上の疲労を与えるな」


 だが、ちょっとは助けてやらんでも無いと孝浪は考えて駁靖を注意した。


「孝浪焼いた?」


 背後の駁靖が笑う気配がする。それにゾクりとして玲莉は疑問符を浮かべた。笑っている人が怖いなんて、失礼過ぎる。


 しかし、しっかりと首と腹にまわった兄より細い腕を振りほどけず、それが更に混乱に拍車をかけた。


 その黒い笑みを見たら、抱きすくめた娘が失神するぞと孝浪は呆れる。良くない事を考えている時以外にも、奴は得体の知れない笑みを浮かべて煙に巻くのが得意な男だ。


「勝手にしろ」


 背を向けて歩きだす孝浪に、玲莉は絶望し、駁靖は軽く追い打ちをかけた。


「道、そっちじゃないよ」

「なんで知っているんだ?」

「来た事あるからね」


 へらっと笑う駁靖に隙ありと、孝浪は素早くきびを返して玲莉を引っ張った。


「おやおや」


 肩を竦める緊張感の無い駁靖の腕から逃れた玲莉は、孝浪に小声で言った。


「もう、こんな人置いて行きましょう……」




 結果として、玲莉達は森で朝を迎える事になった。


 妖獣が多すぎる。

 未だかつて無い状況に、森の異変を感じる。


「玲莉、昼間も妖獣が?」

「……出ます。昼の方が多いかと」


 流石に疲れた声が出た。


「二人とも動きっぱなしだ、昼は休んでまた夜に動こう」


 駁靖が提案する。尤もな意見だが、そもそも安心して身を隠せる場所があるのだろうか。


 玲莉の不安をよそに、彼は森を分け入っていく。祖父が万が一、帰路で深手を負ったなら、道を外れない方が良い。


 けれど、傷を負ったなら、祖父は岩山に戻るはず……


「あ、あの駁靖……さん」

「呼び捨てにして良いと言っただろう?」


 微笑むその顔に疲労は見えない。

 戦っていないので当然である。


「この先に小さい洞穴があるんだ。そこで昼をやり過ごそう」

「えっ?!」


 驚きの声をあげた玲莉に、駁靖は懐かしむように微笑んで言った。


「この森に入るのは久しぶりなんだ。穴が塞がっていたら許しておくれよ」

「でも……」


 言い淀む玲莉に、後ろを守る孝浪がその背を押して言う。


「お前の祖父は森には居ないだろう。どこかに隠れてなくては、やり過ごせん」


 尤もだ。


 この異常な森に、祖父が居るとすれば一か所しか思いつかない。そう自分を納得させるしかない。


 どのみち、昼の森は不利なのだ。



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