前篇-おじい様を探しに行きます
そういえば、ここに登録して1年経ちます。
何かした方が良いかなって…?
三日戻らなければ探さない。
祖父は、話のついでとばかりにそう言った。子どもの頃から幾度も聞かされてきた、一族の掟である。
「……おじい様?」
何故、今更そんな事を言うのか。
剣の鞘に装飾を施しながら、玲莉は思った。
暮れかけの日が射し込む工房。辺りは橙色に染まり、長く伸びた祖父の影が手元を暗くする。胸に広がった疑問を問おうと顔を上げれば、目の前に迫る節くれ立った大きな手。思わず首を竦めれば、迷わず頭に乗ったそれに俯かされる。
硬くて大きな職人の手だ。
「玲莉、早く縁談をお受けしなさい」
「はっ!?」
いきなり話題を変えられ、玲莉は間の抜けた声を出した。先程感じた重い空気が霧散するも、彼女は目の前の話題に食い付いた。それは最近家族からも煩く言われる、悩みの種である。
「嫌です。私は柊羅の職人になるんですっ!」
作業中の手を止めて、ぐりぐりと頭を撫でる祖父の手を剥がしにかかる。
何時も否、そう話すのに家族は誰も取り合わない。剣造師を代々生業する柊の家生まれ、女だからと刀身を作る事は許されなかったものの、玲莉はその鞘作りの道に進んだ。
その腕前は、昨年遂に柊羅の一人として工房を持つまでのものになったのだ。玲莉は十六歳。成人まであと二年あり、結婚など更にその彼方。しかし、そう思うのは彼女だけである。
「我ら一族は守る為に守り、守る故に子孫を残さねばならない……早く曾孫が見たいものだ」
嫌がる玲莉を豪快に笑いながら、重い手が離れていく。
難が去り、乱れた髪を撫で付けていると、後ろ手を振る祖父が、工房を後にする姿が見えた。夕日に消えゆく黒い背中は大きく、筒袖からは太く筋肉質な腕が覗く。
悠然として岩の如しと称される当代柊羅は、沈痛な眼差しを孫娘に見せる事無く足を森へ向けた。玲莉は、それが最後の姿になるとは思いもしなかったから、聞きそびれ、見逃したのだ。
三日の掟、祖父の表情を――
柊羅と呼ばれる魔剣職人の集団は、麗国建王時代より前から存在していると言われる。一様に整った容姿と藍色の瞳を持ち、貴族階級並の扱いを受けるも政治には一切干渉しない。
そんな彼らは、都の外れにある藍永宮――何代か前の当代柊羅が国王より下賜された離宮――に引き籠って生活していた。そこは、家と呼ぶには豪華で広すぎ、何ヵ所かの工房と住み込み弟子の部屋、僅かな使用人が暮らしても空き部屋の方が多い。
贅を凝らした欄間を見上げて、玲莉は溜息を付いた。
「はぁ、ここまでか……」
手元にある短剣の鞘は、外面装飾の段階に達している。そこからが十八番であるが、祖父の言葉が耳に残っている為に集中力を欠いていた。
昔から思っていたのだ。
一晩で往復できる森に、三日籠る意味は何かと。そして、三日戻らなければ、どうして探してはいけないのか。助けを必要としている、と考える事を否定するかのような掟だった。
すっかり闇に包まれた工房で、作業台を照らす蝋燭が揺れる。玲莉は、手の中の小石を見た。
澄んだ蒼い石の欠片は、薄闇の中でも青白く発光しているのが分かる。これが、魔剣の素材。柊羅の守る秘石である。
祖父の向かった森でしか採掘出来ず、柊の血を引く成人にしか加工する術が無い。未だ玲莉には、研磨する事さえ出来ない代物であった。
「玲莉、まだここに居たのか」
「……兄様」
燭台を手に現れた兄は、澄んだ藍の瞳を細めて微笑んだ。女性的な美貌の彼は、そんな顔とは似ても似つかない逞しい躯体を長衣の下に隠している。歩み寄る足音がしないのも、剣師としての習慣が染みついた為だろう。
最近は、魔石採掘に兄ばかりが駆り出されていた。
「また、それと睨めっこかい?」
指先で弄んでいた魔石を見咎められて、玲莉はバツが悪くて顔を背けた。これさえ加工が出来れば、誰もが認める柊羅の一員となれるのだ。
「かしなさい」
だが、背後から伸びた兄の手がそれを取り上げる。そのまま石は元あった小箱に落とされた。カチンと堅そうな音がする。
「さぁ、夕餉だ。戻るよ」
手を引かれ、玲莉は渋々工房の明りを落とした。
涼しくなった風が、唯一の明りを揺らめかす。兄の燭台を見ながら、胸の内の靄を吐きだすように玲莉は呟いた。
「おじい様が森へ行かれました」
「あぁ、ようやっと行く気になったらしい……」
静かな兄の声が落ちてくる。繋がれた手は左。兄は何時も無傷の利き手で触れてくる。
手を引かれなくとも迷う歳ではないが、玲莉は時々こうした子供扱いをしてくる兄が嫌いでは無かった。
「おじい様は朝に帰るかしら」
「そうだね、三日までには戻るだろうさ」
また、三日……玲莉は眉を顰めた。何故、朝と言って安心させてくれないの?
「どうした?今日は元気が無いね」
兄が柔らかい声で聞いてくる。微笑むその顔も、仕草も何時もと変わらない。なのに、玲莉の胸はざわめいた。
「……疲れたのかも」
苦笑を浮かべて兄を見上げると、母に良く似た兄の顔に困った笑みが浮かぶ。
「こんな時間まで籠るからだ。今夜は早く休みなさい」
「うん……」
息が詰まるような気がした。
再び顔を伏せた玲莉は、何かを問おうと顔を上げる。仰ぎ見た兄は、蝋燭が照らす影の濃い顔を前へと向けていた。何時もと変わらないように見えるのに、なにか苦痛に耐えるようにも見える。
何故だろう。まるでこれは、胸騒ぎだ――
何も言えぬまま、玲莉は一人欠けた食卓に付き、早々と部屋に辞した。
その夜は、望月に向かう空の明りが西に傾き、星が薄れる頃まで眠る事が出来なかった。
晴れた翌朝。
何時も通り目覚めたが、ろくに眠れなかった為に顔色が悪く、日も浅い中から工房を追われて部屋へと帰されてしまった。祖父の姿を確認出来なかったと思い立ち、部屋から出ようとしたところに、扉が開く。
「起きていたのかい」
作業用の袍に身を包んだ兄が、苦笑を浮かべて入って来きた。その左手が、迷わず玲莉の腕を掴む。
「休むように言っただろう」
反論を許さない笑顔で言われ、ろくな抵抗も出来ないまま寝台へと乗せられた。
「おじい様は……」
「人よりも、自分の心配をなさい。そんな顔色では、皆が気にする」
取り付く島が無い。魔剣作りの工房は、危険も十分に含んでいた。言い返せずにだんまりと布団を被った為なのか、玲莉が目を覚ましたのは半日後、翌日の早朝だった。
薄闇に包まれる誰ひとり居ない回廊を歩き、工房へ向かう足は重い。鍛冶場に煙が上がっていない。それは、まだ祖父が戻らない証であった。
玲莉の覚悟は、その瞬間決していた。
だから、三日目の深夜、祖父の知らせを聞いた娘は、澄んだ藍の瞳を見開き、やがて力無く俯いたのだ。あの夕暮れからずっと、心に引っかかっていた憂いは、遂に現実のものとなってしまった。
しゃんと伸びた背、恰幅の良い体から繰り出される剣圧は凄まじい。鍛錬を頼む度、何度も弾き飛ばされては笑われた。
良く笑う人だった……
おじい様、どうして帰らないの?
たまたま帰って来なかったという言葉が口から出せず、胸の中に重く溜まる。
伏せた玲莉の表情は、青黒い前髪の落とす影で推量る事しか出来ないが、決して明るいものではないだろう。
望まれない知らせを彼女に告げた兄は、萎れた妹を腕に抱き寄せ諭すように語る。
「……お爺様は守る為に、守るものへなられたのだ……」
華奢な妹は、身動ぎすらしない。時が止まったように、ただ腕の中に収まっていた。祖父を一番慕っていたのだから、無理も無いだろう。
だが駄目なのだ。森での死は柊一族の定め。それを受け入れながら我々は栄えてきた。
その犠牲は、一族において必要なもの。
「今宵は三日目。お爺様は……帰られなかった……」
黙ったままの玲莉に、彼はもう一度その知らせを呟いた。自分にも言い聞かせるように。受け入れなばならない、現実を。
「おじい様……」
泣きそうな声で妹が言う。普段着る簡素な袍では無く、珍しく淡い色の深衣を着たには訳がある。
その方が弱って見えるだろうから……っ!
玲莉の瞳に強い色が浮かぶ。それを兄には見せない様に俯いたまま、震える声で呟いた。
「……信じられません……こんな……」
「玲莉……」
「……一人にして下さい」
「しかし……」
やんわりと兄を押し、腕から逃れた玲莉は背を向ける。今夜は髪を結い上げて女らしい服を着た。女性に甘く、妹には更に甘い兄だから、ここまでやれば十分だろう。
あと一押しで兄を丸め込めると確信した玲莉は、泣き崩れるように座り込んだ。結い上げられた長い髪の一房が首筋から肩へと滑り、白い項が顕わになる。
「兄様、一人にして下さいませ……誰にも見られたくありません……こんな姿を……」
「玲莉、柊の剣造師は……普通には死ねぬ……」
だから、お前には早くこの家を出て欲しい。続きが言えずに口を閉ざした兄が、静かに部屋から歩み去る。
彼は、戸口で振り向きざまに妹を見た。月明かりが照らす部屋に座り込む妹は、何時の間にか少女の域を出ようとする僅かな色香を漂わせ、儚く消えてしまいそうに見えた。
早く、嫁に出さねば、と強く思う。
婿養子の父は、次代の柊羅にはなれない。つまり祖父の亡き後、家長は自分と言う事になる。玲莉は知らない――祖父の妻が誰だったのかを。
眩暈を覚えた頭を押さえ、彼は何事も無かったかのように静かな声で告げた。
「今夜は静かに休むといい……お前がそう望むなら……人払いをしておこう」
扉の閉まった音が、カタンと部屋に響いた。