白のひとりごと
その人はわたしのお母さんでも、お父さんでも、お姉さんでも、お兄さんでもない。だけど、わたしの記憶があるころ――いわゆる、物心ついたころには、一緒にいた。いつのことだったか、もう覚えていない。わたしはその人に、こう言った。
「あなたは、わたしの、何? 何て呼ぶのが、正しい?」
「正しい、なんてないよ。母でも父でも姉でも兄でもないんだ。君の好きなように呼ぶのが正しい」
「じゃあ、先生」
「そんなに立派なものじゃあない」
わたしが覚えたばかりの言葉を使って見せると、その人は笑った。自分が先生と呼ばれるのが、よっぽどおかしかったらしい。
結局、わたしはその人の正しい呼び方を今も知らない。
わたしにはたぶん、家族がいない。その人とわたしには血の繋がりがないらしい。わたしの親は事故か病気で死んだのか。それとも、わたしは捨て子なのか。その人は何も教えてくれなかったけど、わたしも特に知りたいとは思わなかった。わたしは今のままで十分幸せだ。
わたしはその人をユキと呼んだ。何と呼べばいいかを訊いても、何でもいいとしか言わないし、名前を訊いても、教えてくれない。「私の名前は外つ国のものだから馴染みがない」と言われた。馴染みなんてなくても、わたしは本当の名前を呼びたかったのに。その話をしたのは冬のある日で、わたしは窓の向こうに白いものを見て、その人をユキと名付けた。
はじめてその名前を口にしたとき、ユキは「良い名だ」と言って微笑んだ。安直だと叱られるかと思っていたから、余計に嬉しかった。
わたしは街のケーキ屋さんが好き。ユキの次に、ケーキ屋さんのお兄ちゃんが好き。わたしが四つのとき、お兄ちゃんは家にチラシを持ってきた。美味しそうなケーキの写真が載っていて、私ははじめて、ユキにわがままを言った。ユキは珍しく、難しい顔をしていた。それでも、わたしが何回もお願いすれば、ケーキ屋さんへ連れて行ってくれた。
ケーキ屋さんに入って、はじめてお兄ちゃんと目が合ったとき、お兄ちゃんはわたしを不思議な目で見た。今までに向けられたことのない目だったから、何て言ったらいいのか分からない。でも、それも一瞬で、わたしが一歩踏み出すと、嬉しそうにパァッと笑った。
お兄ちゃんとユキのはじめての会話も覚えている。わたしが並んだケーキを見て、ユキを呼んだときだ。
「ユキさんというんですか?」
「えぇ、この子が付けてくれました」
「……偽名?」
「偽名だなんて」
そう言って笑いあうふたりは「はじめまして」には見えなかった。でも、「仲良し」でもない。今思えば少し不思議だったけど、わたしは色とりどりのケーキに夢中だった。
わたしも、お兄ちゃんとは「はじめまして」に思えなかったのは、なんでだろう? チラシを持ってきてくれたからかな?
ケーキ屋さんに行った日の夜、夢を見た。ケーキ屋さんのお兄ちゃんと、知らない女の人が、わたしを抱いて笑ってた。そのことをユキに話したら、お父さんとお母さんが欲しいのかって訊かれた。欲しくないわけじゃなかったけど、わたしはユキがいればそれでよかったし、ユキがあんまり悲しそうな顔をするから、
「わたしにはユキがいるから、いいの」
って言った。ユキが幸せそうに笑って、わたしも嬉しくなった。
その人はわたしのお母さんでも、お父さんでも、お姉さんでも、お兄さんでもない。だけど、わたしの誰よりも大切な人。