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赤の約束

 それはすぐに消えてしまった。突然現れ、突然いなくなった、彼女のようだった。

 何故人は、こんな儚いものにしがみついているのか。手放してしまえば楽になれるのに。

 そんなもの持たずに生きるほうが、ずっと気楽なのに。

 僕は、誰よりもそれを知っているはずなのに。


 * * *


 実に平凡な家だった。

 うちは街の小さなケーキ屋で、僕はそこの一人息子だった。両親は晩婚であったから、僕との別れは早かった。とはいえ病気や怪我ではなく、老衰で眠るように息を引き取ったから、幸せだったと思う。

 必然的に、僕はケーキ屋を継ぐこととなった。細かい作業は嫌いではなかったし、両親との思い出の場所という意味でも、僕はこの店が大好きだった。僕もここで両親のように幸せな家庭を築き、愛する人と最期まで暮らせればいいと思っていた。

 そんな、ある日のことだった。

 彼女は僕の目の前に現れた。桜色のワンピースは泥にまみれ、白い顔はボロボロの布切れで隠し、店の前で俯いていた。開店準備をしていたから、早朝だったと思う。

「……あの、大丈夫、ですか」

 客には見えなかった。かと言って、乞食などにも見えなかった。僕がおそるおそる声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げる。薄く開かれた目が、視界に入ってきて――僕は息を呑んだ。

 真紅の瞳が、じっと僕を見つめた。ルビーのよう、なんて安っぽい言葉で形容したくはないけれど、本当にルビーでできているかのようだった。

 肩より少し長いくらいの髪が風に揺れた。布を被っていたので気付かなかったが、彼女の髪は雪のように真っ白だった。触れたら消えてしまうのではないかと思った。

 そして、日よけのためだと思っていた布は、この瞳と髪を隠すためのものだと悟った。それは、つまり。

「入って」

 僕が大きく扉を開くと、彼女は周りをきょろきょろと見回してから、滑り込むように店に入ってきた。

「……ありがとう」

 それが、僕が初めて聞いた彼女の声だった。まだ自分がどうなるか分からないのに、僕が本当にいいやつかなんて分からないのに、そう言った。


 赤い瞳は、鬼の瞳。

 昔も今も変わらない。人は自分と違うものを認められない。海を越えれば、黒い瞳や浅黒い肌、逆に白い肌の人間もいるらしい。それは最近なんとか定着してきた事実だ。貿易を生業とする知り合いなんかは、実際に会ったこともあるという。

 だったら、赤い瞳の人間がいてもいいじゃないか。

 少しずつ医学が発達してきて、赤い瞳や白い髪の人間は、遺伝子の突然変異で生まれることが分かってきた。それでも、差別はなくならない。直接危害を加えることは少なくなったけれど、のけ者にされる。それは田舎の小さな村では致命的だった。

 だから、彼女は逃げ出してきた。瞳と髪を隠して、夜闇に乗じて。

「大変だったね」

 朝食にと思って焼いていたパンケーキと温かいミルクを出してやると、彼女はまた「ありがとう」と言った。その「ありがとう」が僕の心に突き刺さる。

 彼女は僕なんかよりよっぽどいい人だった。酷い扱いをされていたのだろうに、まだ人に感謝を伝えることを知っている。些細な動作からも、彼女の優しさが見て取れる。素直で、純粋で、素敵な人だと思った。僕の貧弱なボキャブラリーでは、この表現が精一杯だ。

 シャワーを浴びさせると、彼女は見違えた。雪のようだと思った髪は白銀に輝き、ルビーの瞳は丸く大きく、白すぎるほどの肌は人形のようだった。作り物じみていたけど、僕は彼女の温かさを知っている。別に彼女が綺麗になったから心が変わったとかではないけれど、しかしこのときから僕は彼女のことが好きだったんだと思う。

 それから、行くあてもない彼女は、店の手伝いをしてくれるようになった。表に出るのは抵抗があるらしく、いつも裏で細々とした作業をしてくれている。この街も、まだ彼女を受け入れてくれるほど大人であるかどうかは分からない。僕も、しばらくはこのままでいいと思っていた。

 昔、母が使っていた部屋を彼女に与えた。僕は父が使っていた部屋で暮らしていた。店の二階が住居になっている。そう広くはない。僕たちがお互いを異性として見るのに、時間はかからなかった。

「なんだか、昔みたいだ」

「昔?」

 初めは口数の少ない彼女だったけれど、今では普通に喋ってくれる。優しい声で、発する言葉も優しくて、くさいけど、天使のようだった。真っ白な髪も、彼女の清廉さを表しているかのようで好きだった。

「父さんも母さんも何年か前に死んだ。でも、僕たちはとても幸せで、僕もまた幸せな家族を作りたいと思ってた。今、僕はとても幸せで、昔みたいだと思ったんだ」

 そう言って微笑むと、彼女も笑った。

「君は今、幸せ?」

「えぇ、おかげさまで。ありがとう」


 彼女が来てから何度目かの夏だった。そろそろ秋の足音が聞こえてきてもおかしくないはずなのに、まだまだ暑い日が続いていた。そんなある日、彼女がぽつりと言った。

「ねぇ、子供、好き?」

 いつもの雑談かと思い、僕は小さく頷いた。彼女は滅多に外に出ないので、窓からの景色のことをよく話す。この辺は子供が多いので、何か面白いものでも見たのかと思った。

「好きだよ。どうして?」

 答えると、彼女は至極嬉しそうに微笑んだ。初めて見るような笑顔に、胸がときめく。

「子供ができたの!」

 嬉しかった。子供ができたこともそうだけど、それ以上に、彼女がこんなに幸せそうに笑えることが。ボロボロの彼女を出迎えたときには想像もできなかった。僕が彼女を幸せにした。それがとてつもなく嬉しかった。


 それからの日々は、毎日がとても楽しくて、温かくて、幸せだった。秋が来て、冬が過ぎ、春になるころには、彼女はずっと二階にいるようになった。というより、僕が二階にいるように言った。彼女は心配しすぎだと笑ったが、いくら心配してもしたりないほどだ。

 僕は知り合いのツテで口の堅い、頼れる医者を探し、彼女を任せた。梅雨のころには生まれるだろうと言われた。名前はどうしようとか、服や家具を揃えないととか、彼女は毎日のように語った。不安なんて微塵も感じさせなかった。

 ――いや、僕が気付いていなかっただけなのか。

 雨が多くなった。待ちわびていた、梅雨が来た。

 ある夜、彼女は僕の部屋にやってきて、ベッドに腰掛けた。庇にぶつかる雨の音がポツンポツンと切なく響く。

「どうしたの? 眠れないの?」

 僕が身体を起こすと、彼女は首を横に振った。

「ううん。言っておきたいことがあって」

 彼女は珍しくナーバスだった。やっぱり不安なのだろうかと、今更思った。

「もしも生まれてきた子が私のような容姿をしていたら、殺してほしいの」

「……え」

 僕は己の耳を疑った。殺す、と言ったのだろうか。彼女が。いつも優しい言葉しか発しなかった彼女が。

「君のような容姿って」

「髪は染めたらなんとかなるから、いいかな。でも、赤い瞳は誤魔化せないから」

「……そんな」

「その子が私みたいに幸せになれるか分からないでしょ? 私たちだってその子より長く生きることはできないし」

 僕は誰と喋っているのだろう。彼女はこんなにネガティブで、残酷な人だっただろうか。

「この瞳は、呪われてるの。絶対、いっぱい苦しむの」

 そう呟いた彼女は、まるで初めて出会ったときのように、暗い顔をしていた。


 * * *


 結局、生まれてきた子は僕と同じ紺碧の瞳をしていた。

「だから、あの子は、生きていてもいいんだ」

 僕は誰もいなくなった部屋で呟いた。母が、そして彼女が使っていた部屋。

 ――彼女は、子供の命と引換のように、自分の命を捨てた。

 捨てたくて捨てたんじゃないのは分かってるけど、少しくらい恨んだって許されるだろう?

 名前は? 洋服は? 家具は? 誰に尋ねていいのかも分からない。思えば、彼女に僕しかいなかったように、僕にも彼女しかいなかった。忘れていた。自分がひとりだったなんて。

「本当に、この子は生きていてもいいの?」

 彼女は、幸せになれないから殺してと言った。苦しむから殺してと言った。彼女がいなくなった今、この子を幸せにするのは僕の役目だ。

 僕に、そんなことができるのだろうか。

 外ではまたポツポツと雨が降り出していた。


 僕には、この子を幸せにしてやることはできないと思った。だから、僕は子供を捨てた。

 深夜に店の前に寝かせた。誰かに拾ってもらえればそれでもいいし、死んでしまっても――

 だから、次の朝、まだ子供が店先に残っていたときは、どうしようかと思った。

 いっそ僕の手で――そう考えた自分に、ハッと息を呑んだ。こんなことを考える自分が恐ろしくて、こんな自分に育てられるなんて子供が可哀想で、僕はもう何もなかったことにして店に戻ろうとした。そのときだった。

 ガッと肩を掴まれて、引き止められる。知らない人だった。その人はじっと僕の瞳を覗き込んだあと、震える声で呟いた。

『この子は……君の子では、ないのか』

 僕はその問いに小さく頷き、逃げるように店に戻った。

 おそらく、その人が連れて帰ったのであろう。昼に見てみると、子供はいなくなっていた。


 * * *


 あれから何年経っただろうか。ある日、街へ買い出しに出かけたとき、僕はあの人を見つけてしまった。

 顔は、そんなにはっきりと覚えているわけじゃなかった。でも、間違いなくあの人だ。五つにもならないほどの小さな少女を連れていた。大きな瞳は、僕と同じ、紺碧。

 別に未練なんてなかったはずなのに、僕は無意識にふたりを追いかけていた。少女も、少女を連れるあの人も幸せそうだった。なんだ、これで良かったのではないだろうか。

 そう考えていたはずなのに、僕は少女に近付きたいと思ってしまった。店の宣伝と称して、あの人の家を訪ねた。このためだけに作ったチラシを渡すと、幸か不幸か、少女が興味を持ったらしい。渋々という感じで、あの人は店にやってきた。

 わずかに言葉を交わしたが、少女とのことには触れなかった。僕がもう忘れていると思っているのか、気付いていないと思っているのか、僕には分からない。

 いつしか、ふたりはすっかり常連になっていた。少女は僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだ。

 ――幸せだった。

 少女との繋がりが絶たれないことが幸せで、逆にそれが僕を苦しめもした。僕から絶とうとしたくせに、なんと厚かましい。

 僕は今でも、少女に「お父さん」と呼ばれることを夢見ている。彼女とともに、少女を育てることを夢見ている。そんなことは絶対にないと分かっているのに。

 少女は何も知らずに僕を好いてくれている。それが優しくて、冷たい。

 もう、全て忘れられたらいいのに。彼女との日々も、そのときに語った夢も、少女のことも。

 それでも、僕はそれにすがらずにはいられなかった。これからも苦しむことは分かっていたけれど、それが僕の幸せであり、罰であると思った。

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