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青の秘密

 窓を開けた少女の頬を、冷たい風が撫でた。この時期にしては冷たすぎるそれは、昨夜遅くまで降った雨のせいだろう。

 まさにバケツをひっくり返したような天の大号泣で、あっちにもこっちにも大きな水溜まりができている。時折顔を出す太陽の光が、きらきらと輝いていた。

 視線を下ろせば、瑠璃紺の紫陽花が少女を見上げている。

「見て! 綺麗な青! 綺麗!」

 少女はぱちぱちと手を叩いて、部屋の奥の私を振り返る。久しぶりの晴れ間に、気分が高揚しているのだろう。

「そうだな。せっかくの天気だし、散歩にでも行こうか」

「うん!」

 少女の笑顔が輝く。太陽の光がここまで反射してきたのかと錯覚するほどだった。

 空色のワンピースを翻して、少女は玄関へと駆けていく。扉のすぐ側に立つ私の横を小さな影が通り抜けたとき、ふわりと甘い香りが漂った。

(すっかり、匂いが染み付いてる)

 ちくりと、針で触れたような痛みが胸を走った。


 早く早くと急かす少女に手を引かれ、さっきの窓辺へ歩みを進める。

「見て! 青!」

 部屋から見たときと同じような感想を、少女は繰り返した。家の壁に沿うように咲いた紫陽花の隣を、子犬のように駆ける。パチャパチャと跳ねる泥が少女のワンピースを曇らせようとしていた。見かねた私は、延々と走り回る小さな体を、ひょいと抱き上げた。

「服が汚れるから、街までこのままで歩こう」

「うん!」

 少女はいつだって元気に「うん」と言うだけだった。返事だけ、なんてことはない。よく言うことを聞く良い子だ。

 でも、私にはそれがもどかしかった。


 * * *


 街に辿り着くや否や、少女は降ろしてとせがんだ。

 そうして地を蹴るその小さな足が、輝く瞳が、どこに向かっているのか。どこを向いているのか。私は知っている。

 知っているから、何も言えない。


 少女は捨て子だった。

 街の小さなケーキ屋の前でたった一枚のタオルにくるまれて、泣くことすらできずに、そこにいた。

 本当に生まれたばかりだったのだと思う。ちょうど今くらいの梅雨の時期だった。庇のおかげで雨粒からは逃れられていたものの、けして過ごしやすい季節ではなかった。あと少し見つかるのが遅かったら、事切れていたかもしれない。

 そんな少女を発見したのは、そのケーキ屋の店主だった。タオルに埋もれた小さな命を視界に入れるなり、彼はハッと息を飲んだ。それは自分の店の前に赤ん坊がいることへの驚きではなかった。私は、赤ん坊と店主には何らかの関係があるのだと悟った。

 それなら、大丈夫だ。彼があの赤ん坊を助けるだろう。そう思って私は踵を返そうとした。そのときだった。

 店主は、赤ん坊を再び濡れた地面へ寝かせたのだ。私は己の目を疑った。と同時に、走り出していた。自分でも驚くほどの速さで赤ん坊を抱き上げると、店内へ戻ろうとしていた店主の肩を掴んだ。

 紺碧の瞳が私を捉えた。それはまるで磨きぬかれた宝石のようで、それがあまりにも美しくて、私は一瞬、言葉を失った。いや、それだけじゃない。私は店主の若さにも驚いた。遠目からは分からなかったが、店主はまだ二十にも届かない若い青年だった。

『この子は……君の子では、ないのか』

 途切れ途切れに私は言った。一瞬のためらいのあと、青年は長い睫毛を伏せて頷いた。今思えば、それは肯定ではなかったのかもしれない。

 青年は私の腕を振り切って、店内へと駆け込んでいった。


 死ぬまで忘れることはないであろう出会いに、私がすっかり思いを馳せている間に、少女はある建物へと足を踏み入れようとしていた。空色のワンピースが、ひらりと扉に吸い込まれていくのが目に入る。部屋で嗅いだのと同じ、甘い匂いが鼻を掠めた。

 ここは私と少女が出会った、件のケーキ屋だ。


 * * *


「お兄ちゃん! おはよう!」

 少女が青年へ声をかける。カウンター越しに青年も微笑んだ。

「おはよう。久しぶりだね」

 落ち着いた、優しい声音。柔らかな笑顔。職業柄、服や髪から漂う甘い香り。

 全部、私が持っていないものばかりだ。

「やぁ。久しぶり」

「君は雨でも来るだろうに、何が久しぶりだ」

 青年が声を上げて笑った。私もつられて微笑んだ。


 カウンターには、一房の紫陽花が生けられていた。家の周りに咲いていたの以上に、鮮やかな瑠璃紺。

「梅雨だね」

「そうだね」

 青年はいつものように、店員としてカウンターに立ちながら。私は反対側で、カウンターにもたれかかりながら。少女は店の隅に備え付けられたベンチに腰掛けながら。

 ゆったりとした時間が流れていく。ぽつりぽつりと言葉を交わして、どれくらい経っただろうか。

 青年といると、不思議と落ち着く。少女との出会いのあと、自分からこの店に近付くことはなかったが、青年のほうは違ったのだ。

 ある日、どうやって知ったのか、私の家を訪ねてきた。そのころ、少女は五つになろうとしていた。

 すっかり自我の芽生えた少女が、優しそうな青年に懐くのに、そう時間はかからなかった。いや、彼は実際に優しい。あの梅雨の日が、本当にあったことなのかと疑わしくなるほどに。

 日が高くなってきた。店内がじわりじわりと蒸し暑くなってくる。

「夕方には、また降りそうだね」

「夜まで持ちこたえてもらいたいんだけどね」

 その会話が合図だというように、私も青年も動き出した。ぴょこんとベンチから飛び降りた少女の手を引いて、店を出る。青年も、片手で扉を押さえながら、もう片方の手を振った。

「またね、お兄ちゃん!」

「また、次の晴れの日にね」

 少女も、大きく腕を振った。

「こら、ちゃんと前を向いて歩きなさい」

「うん!」

 そう言って私を見つめる丸い瞳は、綺麗な紺碧をしていた。


 * * *


 その日の夜。食事と入浴を済ませると、少女はさっさとベッドに潜ってしまった。しかし眠る気はないらしく、毛布の中から私に声をかける。

「次の晴れの日はいつかなぁ」

「さぁ、いつだろうね」

 ふと窓辺を見ると、手の平ほどのてるてる坊主がぶら下がっていた。そのすぐ下には、ケーキ屋のカウンターと同じように、紫陽花が生けてある。

「また、お兄ちゃんにお花持っていくの!」

 今日のも、少女が持っていったものだったのだろうか。そういえば、心なし色が濃かったかもしれない。

「お兄ちゃん、大好きなんだな」

「うん! 好き!」

 夜の部屋に、少女の笑顔が太陽のように輝いていた。その輝きは、私には眩しすぎると、思った。


『なんて美しくて、なんて冷たい人』

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