第88話 驟雨
海の王様こと藤堂視点
俺は、黒幡日本支部長であり、黒幡総帥の唯一の身内と言われている青井陽二の持つ雰囲気が、ゆらりと不気味に変わるのをみた。
本能でわかった。
こいつら透子と死ぬ気だ。
俺は俺の初めての人間としての心をくれた透子を思う。
この甘くその癖、夜も眠れないくらいの平穏とほど遠いこの心。
これが心というものなら、何と普通に生きている人間はこんなもの抱えて、はた目には普通に生きている。
何と驚嘆にあたいし、称賛にあたいすることか!
切ったはったと修羅の道を歩いてきたつもりの自分より、よほどすごい。
俺は愛しい女の行く末を思う。
透子がこの男らと共に逝きたいというのなら、俺は静かに見守ろう。
だが、透子に一つもその気配はない。
ならば捨てたこの命、無事に透子を外に逃がす。
俺は透子に「逃げろ。」そう言って青井から決して目をそらさずに背後にかばった。
だが、透子は何故だ、と問いただした。
その瞬間わかった。
透子の心のありようが。
ああ、この男達もお前の中にいるのか。
俺は絶望と共に、けれど、その心には今は俺もいる、と甘い痛みとともに思った。
その後の展開で、俺はあの雰囲気が消えたことがわかった。
透子が泣いている。
ああ、俺の初めての唯一。
泣くな、泣かないでくれ、お前が泣くと、胸が変な風になる。
ああ、これが泣きたくなるという感情なのか、誰も気付かれない内に、俺はそっと涙をぬぐった。
俺は透子に言い聞かせていた。
俺がいなくなった後の為に。
団子状になった男達は俺にすっと視線をよこし、去ね、と視線で言った。
今の俺にできる事は、とても簡単だった。
俺は青井さんにすっと頭を下げて、なぐり合ったせいで痛む腹を手でおさえ、料亭を静かに出た。
事務所に帰って、お嬢の部屋に急いでいく。
お嬢は俺を待っていた。
半分まともな時のお嬢だった。
お嬢は決してそれを透子には見せなかったし、悟らせなかった。
「私の透子ちゃんは笑ってる?」
そうベッドに腰をかけ、その骨ばかりのガリガリの足をぶらぶらさせて俺に聞いた。
「はい、笑っているでしょう。」
「良かったわ。ねえ、痛い?」
俺に聞いてくるので、「ええ、ひどく。」と俺は答えた。
殴り合いをしている途中で、あの男らは気付いていた。
だから早く去れ、と目で言われた。
お嬢はピョンと飛びおりると、殴り合いでボロボロになった俺のスーツの上着を開けて、ワイシャツ越しに俺の腹を押す。
俺が息をつめると、
「おんなじね。ママが流した血の色だわ。」
そう言って自分の掌についた血を眺める。
「どっちにするか、相談しようと思ったんだけど、決めたわ。私ね。」
そう言って痩せすぎて、目が大きく飛び出たように見える顔をほころばせる。
「お好きなように。透子が、透子が少しでも苦しまないように、哀しまないようにするには、これしかないですから。」
俺とお嬢は、透子の言う、この海の底の部屋をゆっくり見合わす。
「ここは私達だけの部屋よ。誰にもおかさせはしないわ。」
「ええ、俺も同感です。ここには俺とお嬢と、透子だけの愛しい部屋です。」
「誰にも、誰にも邪魔はさせないわ!」
お嬢が初めてみるようなギラギラした目で虚空をにらむ。
「ええ、邪魔など、俺達以外の異物などいりません。」
2人で見つめあって笑う。
それを第3者が見たならば、その鬼気迫る様子に髪の毛を逆立てるほどおののかせただろう。
しかし二人は歌うように言う。
「この海の底は綺麗ね。幸せだわ。」
「ええ、これが幸せ、って奴なんですね。」
そろそろかすんできた目で、もう一度この海の底の部屋を見渡す。
愛しい透子の声が聞こえる。
・・・・ここって、海の王様と人魚姫と、悪い魔女の為の部屋ね。・・・・
ああ、そうだ、俺達だけの愛しい魔女よ。
現生では、俺は力ではあの男達にかなわなかった。
例え透子が何を言っても、透子に入り込んだ俺達を許すなんて思っちゃいない。
いずれ、ほとぼりが冷めた頃に待っているのは、事故死か病死か。
俺達は唯一の透子を悲しませるのは嫌だったし、愛しさあまって、なんて事で透子に何かあるのが、その可能性だけが恐ろしかった。
対価は透子への許し、それを思って俺は出かける前に、昔の武士の懇願の一つでもある陰腹を切った。
4、5時間は持つくらいに、腹を横にかっさばいて、厳重にさらしをまいて出た。
けれどあの殴り合いで思いの外ダメージが深まったみたいだ。
お嬢を俺の手で、と思って気がはっていたが、お嬢がやることにしたと言っていた。
俺はかすむ目で透子を思い浮かべる。
不思議な事に、本当にここは昏い深海の海の底になったみたいだ。
体が重い。
けれど目に映るこの部屋は昏い青い海の中みたいで、本当に綺麗だ。
ああ、俺達の魔女は現生のまま。
だけどこの海の底で俺とお嬢で、ゆっくりゆっくり待つとしよう。
昏い幽冥の中、お前を待って、お前が来たのなら、今度は2度と離れたりしない、放すものか。
愛してる、愛してる、こんな簡単な言葉のなんと素晴らしいことか。
あの男とは、男達とは今度は負けはしない。
ああ、透子、ここでこの海の底でお前を待つのは、何と甘い事か。
「愛してる。」
藤堂がかすかな声で「愛してる」と言って死んだ。
私は藤堂の頭を撫でてやった。
そうしてから用意していた包丁でめったざしにし、その致命傷を隠す。
この包丁は藤堂がここで陰腹を切っていったもの。
私は時々、藤堂がいうまともなお嬢になると、たまらなく苦しくて苦しくて、色のないその世界が怖くて怖くて、本当につらかった。
そこに透子ちゃんがあらわれた。
私にはこの子もまた、私と同じまともじゃないコだとわかった。
初めは勝手にしてればいい、と思った。
いつからだろう?ああ、あの時紙風船で遊んだ時だ。
あの紙風船だけ、はじめてまともに色がついた状態で見えた。
その鮮やかな色にめまいを覚えた。
白黒のみの私の世界に、はじめて色を持ち込んだ透子ちゃん。
それからは透子ちゃんの触るものにのみ色が見えた。
あやしくからまる透子ちゃんと藤堂、私はその藤堂の背中一面に掘られている極彩色の入れ墨の虎に喜び、私に触れる透子ちゃんの洋服の色に感嘆した。
けれど、それもままならないらしい。
力関係で、1000に一つも透子ちゃんといられる未来はないらしい。
きっとそのうち殺されると藤堂に淡々と説明を受けて、死ぬのは今さらどうでもいいけど、透子ちゃんが泣くのは嫌だ、と答えた。
透子ちゃんをなるべく苦しませないように消えるには、これが一番いい、となった。
万が一にも透子ちゃんに塁が及ばぬように。
本当は場合によっては、藤堂は透子ちゃんを何とか場をだまして連れてくると言っていた。
最悪連れてこれない場合、先に二人で逝くかもしれない、とも。
藤堂一人で帰ってきて、透子ちゃんは笑っている、そう言った。
ならばいい、笑っているのならいい。
私は視界の隅でうごめく、床から見える手だけウネウネ動くものや、黒いかたまりなどに目をやる。
そしてまた、血だらけの藤堂の周囲も。
藤堂の周りは真っ黒の闇の塊のよう。
さすが藤堂だ。
藤堂には言った事はないが、私は異形の姿を物心ついたころからみていた。
それとも、私は元々おかしかったのか?
それでもいい、現に自分は見ている、それでいい。
私もまた自分に刃をおしつける。
幽冥の世では、思いこそが力と思うのも一興。
私と藤堂でこの部屋を守ろう、私達だけの部屋を。
そうして力をたくわえて、今度こそいつか・・・・。
私は最後、透子ちゃん泣かないでね、と思いながら意識がとだえた。
またあそぼ・・・・。