(第六章 初恋のマドンナは今)
現役の時は、忙し過ぎて、リタイアしてからは、ゆっくり好きなことができると楽しみにしていた。実際、退職したら、やることがない。趣味もないし、一緒に遊ぶ仲間もいない。毎日テレビを見たり、コンピューターの前で株をしたりニュースを見たり。何日も誰とも話すことがない。食事も、朝はパン、昼は麺類(カップ麺が多い)、夜は近くのスーパーで半額シールのお弁当。コンビニのパンやお惣菜、レトルトパックのカレーやシチューも食べ尽くし、飽きてしまった。
そんな時、同窓会の案内があった。みんな定年を迎え、時間が出来て久しぶりに会いたいという声があがったのだと書いてあった。
神戸に帰っても泊まることができる実家はすでにない。両親が亡くなって処分してしまったからだ。しかし、久しぶりに育った街に帰ったら、何かがあるかもしれない。懐かしい人々は今どうしているのだろう?
すぐに、参加にマルをつけて返信した。それから泊まるホテルをネットで検索した。随分変わっているので、周辺情報を見るのが楽しみになった。昔の携帯を捜して、友人の電話番号にかけてみる。懐かしい声が、会わなかった何十年の空白の時間を埋めていく。
そして何人かが、もう他界している事実に、若くないのだと実感した。死はいつ自分にも降りかかるかもしれないことなのだと思い知らされた。
ただ、ひとつの楽しみは、高校時代憧れていた小林由美子が同窓会に来るということ。彼女も結婚しないで、キャリアウーマンとして、今も仕事をしているらしい。淡い初恋の思い出が胸をキュンと締め付ける。
美人で頭が良くて全校生徒の憧れの的だった。一度だけ、彼女を自転車の後ろに乗せて帰ったことがある。どうして、そのような幸せな展開になったのかは記憶がない。神戸は六甲山と海が近いせいで、高校から公園までは急な坂道になっていた。二人乗りの自転車は、ものすごいスピードでハンドルを取られそうになりながら、爽やかな風に乗って飛んでいるみたいだった。ブレーキをいっぱいかけながら下っていくと、海が真正面に見えてきた。夕暮れ時の空は、オレンジ色から紫に変わる間に色とりどりに風景を変える。その度に、小林は驚きの声を上げて喜んだ。僕たちは自転車から降りて、公園のベンチに腰掛け、しばらく黄昏時の海を眺めていた。あんな綺麗な海と空を慎吾は見たことがなかった。横にいる小林の顔を恥ずかしくて見ることも出来ない。
「松村君は東京の大学が第一志望なの?」と聞かれた。
「うん。小林は?成績優秀だから、推薦で関学に決まったらしいね。」と言うと、
「本当はね、東京に行きたかったんだけど、親が許してくれないものだから」
「箱入り娘の大事なお嬢様だものね。心配で一人暮らしなんてさせられないでしょ」
と言ったら、
「そうなんだよね。でも、大学に行ったら留学しようと思っているの。英語が好きだし、狭い世界で花嫁修業なんてやってられないからね。私はキャリアウーマンになって世界を駆け巡りたいのよ」
と言った。
「凄いね。ますます高嶺の花だね。」
と言ったら怒り出した。
「特別扱いしないでよ。みんな遠巻きで結構寂しいんだから」
と言った。
慎吾は意外な気がして、彼女の顔を見た。悲しそうな顔をしていたが、慎吾の視線に気づいて微笑した。夕方のオレンジ色の夕日に照らされて、小林の顔はキラキラ輝いて見えた。
慎吾は眩しげに目を細めた。そして、ほのかな恋心が芽生えたのだと思う。その日から、彼女の姿を知らず知らず追い求めていた。いつも笑顔の小林は慎吾の視線に気づくと、ちょっと顔を赤らめて会釈した。しかし、その時の慎吾は、小林を見つめるだけで何も出来なかった。まだ独身だと聞いて、何だか胸がドキドキした。




