女神のいない世界で
「エピキュクルス・オンライン」の「始まりの丘」は、
まるで、春の陽光を受けた草木が芽吹くように、明るい喧騒に満ちていた。
サーバー危機が去り、「奇跡の一夜」と呼ばれるルナの降臨と
全プレイヤーの団結が伝説となって以来、この世界は新たなフェーズを迎えていた。
アントクイーンとの戦いがトレンド入りしネットで話題となり、誰もが詳細を知りたがっていた時。
ユニセックスモデルとして絶大な影響力を持ち、「バズの達人」と言われる萩原蓮が、
この一夜のことを、戦いに参加した当事者としてテレビで語ったのだ。
「あんなにわくわくしたことって、今までの人生でなかったですね。ええ、最高の経験でした」
さらに、美形の蓮が現実とは似ても似つかぬドワーフキャラで初心者としてゲーム内で遊んでいたエピソードも、ファンには興味深いエピソードとして話題となった。
「蓮があんなに夢中になるゲーム、私もやってみたい」
「そんなドラマチックな出来事、俺も体験してみたい」
と、新規プレイヤーが殺到し、
その中には「あの蓮とひょっとしたらゲーム内で遊べるかも」というプレイヤーも混じっていた。
閑散としていた初心者エリアは、元と変わらないか、それ以上の活気に包まれていた。
新たなプレイヤーたちが冒険の世界に飛び出し、それをベテランたちが優しく手を差し伸べる。
その光景は、ルナが最後に願った通りの、温かい世界だった。
ギルド「今夜も寝落ち団」も復活し、以前のように雑談で盛り上がっている。
「ルナ様降臨、まさに奇跡だったよねー! あれは伝説を作ったわ!」
「運営よりルナ様が有能説」
「おいおい、僕の頑張りも褒めてくれよ?」
喧騒から少し離れた、緑豊かな夜の高台。そらぽんとアストラは、始まりの丘で夜空を眺めながら向かい合っていた。
「すごいね、まるで別のゲームみたいだ」
そらぽんは、人々の喧騒で満ちる街の方を見つめながら呟いた。
愛らしい仕草は健在だが、その声には、以前にはなかった決意の響きが混じっている。
アストラは、そらぽんをじっと見つめ、静かに答えた。「うん。君のおかげだよ。ありがとう、空」
美月が初めて、ゲーム外の名前で彼を呼んだ。
そらぽんは、きゅっと唇を引き結び、意を決して顔を上げた。
声が震えて、出てこない。それでも。空は、なんとか声を絞り出して、美月に告げた。
「アストラ、美月。……私、そらぽんの中身は、男なんだ。朝野空、21歳。大学で、ごく普通の、男らしくない男」
ずっと避けてきた、でも逃げ続けることはできない告白だった。
美月が男に付きまとわれ、ストーカー被害を避けるために素性を隠した苦悩を知っているからこそ、
自分が男だと隠していることへの罪悪感は、空にとってはよりいっそう強かったから。
アストラは、無表情に一瞬の沈黙をくれた後、ふわりと優しく笑った。
「知ってたよ、空」
「え……?」
アストラは、何もかもお見通しだよ、というように微笑む。
「夜道で私を助けてくれたパーカーの人、空だったんでしょ? 格好良かったよ」
アストラはそらぽんの華奢な手に、自分のアバターの手を重ねた。
剣士の硬い手と、ヒーラーの柔らかな手が触れ合う。
「あのパーカーの人と、オフ会で会ったそらぽんの手、同じだったもの。だから、気付いたんだ」
「いや……、俺、意気地なしで、あの時も本当は逃げたかったくらいなんだ。だから、君にもずっと男だって言えなくて……」
アストラのアバターが、何かを考えるように少し首を傾げる。
「──本当の勇気を持つ方法って、二通りあるんだって」
アストラ──美月は語る。
「一つは、無謀な人が慎重さを身につけること。もう一つは、臆病な人が行動力を身につけること」
「自分だって怖いのに、私を助けようとしてくれた空は、後者の、本当の勇気を持った人だよ」
「それに私、美人なお姉さんとしてのそらぽんも大好きだよ?」
「男の人なのにあんなに綺麗なのって、それも立派な才能だと思う」
「ゲームの中でも、外でも。――性別とか、そんなことより、私はずっとあなたに助けられてきた」
「美月……」
空の声が震えた。
「俺、ずっと自分のこと嫌いだったけど……」
「うん」
美月は優しく微笑む。
「でも私は、そんな空が、好き」
空の目に涙が滲み、それなのに自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとう。……これからも、『そらぽん』だけじゃなく、本当の『空』として、一緒にいてくれる?」
アストラは一歩近づいた。
そして──。エモートで、「そらぽん」を、空を、抱きしめた。
「うん。私も、『アストラ』じゃなく、『ルナ』でもなく、『美月』として――あなたと一緒にいたい」
抱き合う二人のアバターの服を、優しい夜風が揺らす。
「ねえ、空。これから、リアルでも会いたいな。ゲームの中だけじゃなくて」
「うん、会いたい。美月と、もっと色んな話がしたい」
「デート、してね?」
空は、真っ赤になりながら頷いた。
「うん……喜んで」
星々が瞬く夜空の下。
二人は、新しい一歩を踏み出した。




