出会い
森は夕暮れに染まり、木々の影が長く伸びていた。
リリアはいつものように森を歩いていた。
鳥たちが枝から枝へと飛び移り、兎が足元を駆け抜ける。
彼女は小さな声で彼らに挨拶をしながら、森の奥へと進んでいった。
その日、森の空気はどこか張り詰めていた。
風が止み、鳥の歌も途絶え、獣たちが姿を隠す。
リリアは胸の奥に不安を覚えた。
森が静まり返るとき、それは何か大きな存在が近づいている証だった。
やがて、彼女は倒木の影に横たわる巨大な影を見つけた。
近づくと、それが竜であることに気づいた。
竜は翼を折り畳み、鱗は傷つき、血が地面を染めていた。
鋭い爪が土を掻き、苦しげな息が森に響く。
リリアは一瞬、足を止めた。
竜は人間にとって恐怖の象徴だ。
村人たちなら悲鳴を上げて逃げ去っただろう。
だが彼女は逃げなかった。
竜の瞳が苦痛に揺れているのを見て、胸が締め付けられた。
「大丈夫。怖くないわ」
リリアは静かに囁き、竜に近づいた。
竜は牙を剥き、低く唸った。
だがリリアは怯えず、ゆっくりと手を伸ばした。
彼女の瞳は恐れを知らず、ただ優しさを湛えていた。
竜はその瞳を見つめ、次第に唸りを止めた。
リリアは竜の傷を確かめ、布を取り出して血を拭った。
彼女の手は小さく、か弱い。
だがその手は温かく、竜の痛みを和らげるようだった。
「痛いでしょう。でも、もうすぐ楽になるわ」
彼女はそう言いながら、森の薬草を摘み、傷口に当てた。
竜は苦しげに息を吐きながらも、彼女の手を拒まなかった。
むしろ、その温もりに身を委ねるように瞳を閉じた。
森の動物たちが集まってきた。
鳥が枝から見守り、兎が足元に寄り添い、鹿が静かに立ち尽くす。
彼らは竜を恐れず、リリアの行いを支えるように集まった。
まるで森全体が彼女の優しさに応えているかのようだった。
リリアは竜の傷を包み終えると、静かに微笑んだ。
「もう大丈夫。少し休めば、きっと飛べるようになる」
竜は彼女を見つめ、低く鳴いた。
その声は感謝のように響き、森に広がった。
リリアはその声を理解した。
竜は彼女に心を開いたのだ。
やがて竜は翼を広げ、ゆっくりと立ち上がった。
まだ傷は癒えていないが、飛べるほどには回復していた。
竜はリリアを見つめ、深く頭を下げた。
その仕草は、人間が想像する竜の姿とは違っていた。
威厳ではなく、感謝の表れだった。
リリアは驚きながらも、静かに頷いた。
竜は翼を広げ、夜空へ舞い上がった。
彼女の小さな姿を見下ろしながら、一度だけ咆哮を響かせた。
その咆哮は恐怖ではなく、誓いのように澄んでいた。
その竜は竜王の眷属だった。
竜王は城でその声を聞き、眉をひそめた。
眷属が人間に助けられるなど、あり得ないことだった。
竜王は興味を抱いた。
どんな人間が竜を恐れず、傷を癒したのか。
「人間が竜を救うなど……面白い」
竜王は低く呟き、翼を広げた。
彼の心に、久しく忘れていた好奇心が芽生えていた。
リリアは森に残り、竜の飛び去った空を見上げていた。
彼女の胸には温かさが残っていた。
竜が彼女を恐れず、心を開いたこと。
それは彼女にとって初めての奇跡だった。
竜王は城の高みに座し、眷属の竜が伝えてきた記憶を見ていた。
竜族は言葉を持たぬが、心を通わせる術を持つ。
傷を癒された竜は、その温もりを竜王に伝えた。
人間の少女が恐れずに近づき、優しさをもって手を差し伸べたこと。
その小さな手が痛みを和らげ、心を静めたこと。
竜王はその記憶を受け取り、深い驚きを覚えた。
「人間が竜を恐れぬ……」
竜王は低く呟いた。
その声は広間に響き、炎が揺れた。
千年の時を生きてきた彼にとって、人間は常に恐怖に震える存在だった。
竜を見れば逃げ、竜王を見れば祈り、竜の影を見れば災厄と叫ぶ。
だが、その少女は違った。
彼女は恐れず、竜を助けた。
竜王の胸に、久しく忘れていた感情が芽生えた。
好奇心。
期待。
そして、微かな喜び。
彼は翼を広げ、夜空へ舞い上がった。
眷属の竜が導いた場所へ向かうために。
森は静まり返っていた。
リリアは竜を見送った後、倒木に腰を下ろし、夜空を見上げていた。
星々が瞬き、月が森を照らす。
彼女の胸には温かさが残っていた。
竜が彼女を恐れず、心を開いたこと。
その時、風が強く吹き、木々がざわめいた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、獣たちが森の奥へ走り去る。
リリアは顔を上げた。
空に巨大な影が広がっていた。
翼は山を覆い、鱗は月光を反射し、瞳は蒼く輝いていた。
竜王だった。
リリアは息を呑んだ。
彼女は逃げれなかった。
竜王の瞳が彼女を見つめているのを感じ、胸が震えた。
恐怖ではなく、圧倒的な存在感に心が揺さぶられたのだ。
竜王は地に降り立ち、森を震わせた。翼が折り畳まれ、巨体が影を落とす。
リリアは小さな体でその影に包まれながら、真っ直ぐに竜王を見上げた。
「……人間よ」
竜王の声は低く、山を震わせるようだった。
だがその声には怒りも威圧もなかった。
むしろ、興味と優しさが混じっていた。
リリアは震える声で答えた。
「はい……」
竜王は彼女を見下ろし、瞳を細めた。
「我が眷属を助けたのは、お前か」
リリアは頷いた。
「傷ついていたから……放っておけなかったのです」
竜王はしばし沈黙した。
彼の瞳は彼女の小さな体を見つめ、その心を探るように揺れていた。
お互いに何も言えない時間が続いた。
「人間よ。お前は我を恐れぬのか」
意を決して竜王は問いかけた。
リリアは少し考え、静かに答えた。
「……怖いです。でも、それ以上に、あなたも傷つくことがあるのだと思うと……放っておけません」
その言葉に竜王の胸が震えた。
千年の孤独の中で、誰も彼をそう見たことはなかった。
人間は彼を恐れ、竜は彼を敬い、誰も彼の心を見ようとはしなかった。
だが、この小さな少女は違った。
彼を「傷つく存在」として見たのだ。
竜王は低く笑った。
その笑いは山を揺らすほどの響きだったが、怒りではなく喜びだった。
「面白い。人間よ、お前は我を恐れず、我を見つめる。気に入った」
リリアは驚き、目を見開いた。
竜王の瞳は蒼く輝き、彼女を真っ直ぐに見つめていた。
「我は竜王。千年の孤独を背負う者だ。だが、お前のような人間に会うのは初めてだ」
竜王は翼を広げ、夜空を覆った。
「人間よ。お前の名は何だ」
リリアは震えながら答えた。
「リリア……です」
竜王はその名を繰り返した。
「リリア……良い名だ。覚えておこう」
その瞬間、リリアの胸に温かさが広がった。
竜王が彼女の名を呼んだこと。
それは彼女にとって、初めて人間以外に認められた証だった。
竜王は彼女を見つめ、静かに言った。
「我はまた来る。お前と話すためにな」
そう言うと、竜王は翼を広げ、夜空へ舞い上がった。
月光を浴びながら、彼の姿は星々の間に消えていった。
リリアはその場に立ち尽くし、夜空を見上げた。
胸は震えていたが、恐怖ではなかった。
竜王の瞳に映った自分を思い出し、心が温かくなった。
「竜王さま……」
彼女は小さく呟いた。
その声は夜空に溶け、星々に届いた。
竜王と人間の少女。
だがその出会いは、竜王の心に光を灯し、リリアの心に希望を与えた。
森は再び静けさを取り戻した。
だがその静けさは、もう以前のものではなかった。




