008 英雄の血脈
スーザンの訃報がもたらされてから一夜が明けた。
今日は平常どおりに営業することとなったわけだが、客足は目に見えて減っていた。僅かな客たちはみんな鬱々とした面持ちで、ホールにはいつもとはほど遠い、絡みつくような空気が充満していた。
「リーベちゃんも危ないところだったんでしょ?」
常連の婦人が言うと同時に、方々から視線が集まるのをリーベは感じた。
「あの――」
「運が良かったわね? あの坊やと一緒じゃなかったら、今頃――」
「おい」
エルガーの険しい声が婦人を黙らせた。同時に、リーベに向けられていた視線の数々が散っていく。客を脅すなど言語道断だが、リーベは救われた気がした。
しかし脅された側はそうはいかない。お父さんを――街の英雄を怒らせてしまった恐怖と動揺、そして羞恥とに縮こまっている姿は見るに堪えず、リーベは何事も無かった風に尋ねる。
「ご注文をお伺いします」
「そ、そうね。じゃあこれと、これで」
娘がオーダーを取る一方、エルガーは厨房から様子を見ていたシェーンに呼ばれた。向かった先に叱責が待っていることを、リーベはよく知っていた。
あの婦人の後にも好奇心をに任せてものを言う客が何人も現われ、リーベは不快な思いをさせられた。 それでも看板娘としての笑顔を忘れず、ランチタイムを凌ぎきった。そんな彼女の肩には疲労感がのしかかるのだった。
店内の清掃を終え、世間的には遅めの昼食を取っても気分は相変わらずだった。
それは一緒にホールで働いていたエルガーも同様で……いや、口止めの為に脅すことを禁じられたことで、彼女以上に不満をため込んでいた。
父がカツカツと乱暴に食器を扱いながら食事をする様子に、リーベは父がこんなに怒ったのはいつ以来だろうかと、記憶を探っていた。
その一方、当人は憤然と鼻を鳴らす。
「まったく、不謹慎な連中ばっかりだな」
「気持ちは分かりますが、お客さんを威圧するなんて言語道断ですよ?」
シェーンの理性的な言葉にエルガーは瞑目して答える。
「ああ……悪かったよ」
しかし食器の扱いは相変わらずだった。
剣呑な空気が変わることなく、息苦しいままに昼食を終えた。
普段であれば憩いのひとときとなっていたのだが、今日に限ってはそうもいかず、リーベは胸をモヤモヤさせたまま仕事に戻ることになった。
シェーンと共にディナーの仕込みをしていると、ホールの方からカウベルの音が聞こえて来た。続いてエルガーの、若干機嫌の良い声が厨房に響いてくる。
「お、ディアンじゃねえか」
ホールの掃除をしていた父が来訪者の名を呼ぶと、リーベとシェーンは目を見合わせた。
今は準備中というのもあるが、なにより昼夜逆転の生活を送っているディアンが昼間に訪ねてくるのが珍しかったのだ。不思議に思っていると、エルガーも同様の疑問を口にした。
「商談を終えたばかりなんだよ。それより、妙な噂を聞いてな。リーベはいるか?」
「ああ――リーベ。ちょっと来い」
彼女は母に目配せをするとホールに出た。
そこには確かにディアンがいた。年相応に皺の目立つ顔は険しいが、リーベを一目見た途端、微かに和らいだ。
「お前が魔物に襲われたと聞いてな。無事なら結構だ」
「心配してくれて、ありがとうございます。でも、もう1週間くらい前のことですよ?」
「ワシは引きこもりだからな。情報が古いんだよ」
「威張って言うことか」
エルガーがツッコむとリーベは笑った。そうする間にディアンは曰くありげな目で彼女を見ていた。
「それとだ。お前が冒険者になるって噂も聞いたが、それはどうなんだ?」
シェーンを気遣い、ディアンが声を潜めて問い掛ける。
その言葉を聞いた途端、リーベはスーザンが生前に発した言葉が思い出した。
『リーベちゃんも冒険者になるんかい?』
(わたしが冒険者になる?)
『あのエルガーさんの娘なんだ。アンタにも才能があるはずだよ』
(そんなの……あるはずがない)
リーベがヘラクレーエと対峙したとき、彼女は高揚をしていた。それは英雄の血が騒ぐとか、そんな大それたものではなく、未知との遭遇を無警戒に楽しんでいただけなのだ。未知の事柄に対し、真っ先に警戒を抱けない。そんな人間が冒険者の素質を持っているなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
彼女は酷く内省的な気分になりながらも答える。
「…………なれません」
すると彼女の目を見据えていた瞳が、不健康に白いまぶたによって隠される。
「そうか」
「ディアン、お前……」
「邪魔したな」
そう言い残して彼は去って行った。
カウベルの残響が耳鳴りのようにリーベの頭に響く。彼女は内からこみ上げてくる煩雑な感情から逃れるべく、厨房へ足を向ける。スイングドアに手を掛けたとき、エルガーがいつまでも友人が去っていったたドアを見つめているのに気付いた。
「お父さん?」
「ん、ああ。わりい、ボーッとしてた」
「そう? 何でもないならいいや」
そう言い残して彼女は仕事に戻った。
昼と夜で客の顔ぶれが変わるものだが、彼らの関心がスーザンの死にあることは変わらなかった。給仕をしているとどうしてもその話が聞こえてしまうもので、彼女の心には人々の恐怖と悲嘆とが蜘蛛の糸のように嫌らしく絡みついていく。
「…………」
看板娘として暗い顔はできない。
だから笑顔を繕うも、とあるお客さんの会話を耳にした時、それは解けてしまった。
「はあ……街中に魔物が出るなんてな」
「安全なとこなんて、何処にもないってことだろ」
「エルガーさんも引退しちまったし、もうこの街もお終いなんだな」
その会話はこの街に垂れ込める憂愁を、何よりも雄弁に言い当てていたのだった。
それから1週間というもの同様の会話を何度も小耳に挟んだ。
英雄であるエルガーが引退した矢先、2度も魔物の襲撃を受け、ついには犠牲者が出た。人々が不安に感じ、それを言葉に出してしまうのは誰にも責められたことではない。
だがそれを耳にするたび、リーベの胸にはある疑問が大きく膨れ上がっていった。
(……もしもお父さんが引退していなかったら、みんながここまで落ち込むことはなかったのかな?)
スーザンが『リーベちゃんも冒険者になるのかい?』と聞いてきたのも、彼女が冒険者になるというウワサが起こるのも、全ては英雄不在の不安を解消するためだったのではないか。
そう考えた時、リーベはある考えに至った。
(みんなの希望になれるのは……)
「…………」
「どうしたリーベ?」
打ち明けたら父がどんな反応をするのか、リーベには想像も付かなかった。だが何れにせよ、ひとりで悩んでいたところで始まらない。だからまず、言うだけ言ってみようと思った。
「ね、ねえ……お父さん」
「なんだ?」
「ちょっとだけ、良い?」
娘が言うと、父は僅かに表情を引き攣らせた。その様子からして、これから自分が何を言おうとしてるのか察しているのだろう。リーベはそう思ったがしかし、やるべきことは変わらないのだ。
(お父さんがどう反応するかわからないけど、でも、みんなのために頑張らなくちゃ!)
そう胸に決めたリーベは父を伴って屋根裏部屋にやって来た。ここなら母に聞かれる心配がないからだ。
「それで、どうした?」
エルガーは腰に手を当て、鷹揚な振る舞いを見せた。
「うん、あのね…………わたし――」
言いかけた時、彼女は声が鉛のように重くなるのを感じた。
これから口にする言葉が、家族の幸せも何もを破壊してしまうかのように思われたからだ。
自制心と良心とに苛まれながらも……それでもリーベの意思は変わらなかった。
「……わたし、冒険者になりたいの」
娘がそう口にしたとき、エルガーはただただ深い溜め息をついた。
広い天井を巡る梁を見上げながら「……そうか」と零す。
「……お前は俺の子だ。いつかそう言い出す日がくるんじゃないかと思っていた」
「お父さん…………ごめんなさい」
「怒ってるわけじゃねえ。ただの親父の、冴えない感想さ」
力ない笑みを浮かべると腕を組み、壁に背を凭せる。
「……それで。どうしてそう思った?」
「お客さんが……みんなが不安になってるから。お父さんの……英雄の娘のわたしになら、みんなの笑顔を取り戻せると思ったの」
言葉にする内に自信が萎んでいき、言い終わったころには深く俯いてしまう。
だが、言うだけのことは言った。あとは父がどんな言葉を口にするか、傾聴するだけだ。
「お父さん……?」
顔を上げると、父は真剣な顔をしていた。
「……リーベ。お前の考えは立派だと思う。だがそれは、自己犠牲が過ぎるんじゃねえか?」
「それは……」
「お前が冒険者にならずとも、時間が解決してくれるだろう。違うか?」
「……そうかもしれないけど、でも……!」
反論しようにも言葉が見当たらない。それを見かねたエルガーは諭すように言う。
「お前の気持ちを否定したいわけじゃない。ただ、俺は親として、お前の身を案じてんだ」
エルガーは壁に掛けてあったカンプフベアの毛皮を撫でる。
「冒険者になるってことは、ケガをする事もあるし、死ぬことだってある。お前にはそれを受け入れるだけの覚悟があるのか?」
「それは――」
答えようとしたが、空気が喉元で固まってしまったかのようで、声にならなかった。
結果沈黙していると、エルガーはその大きな温かい手を娘の頭に置いた。
「街を護り、元気付けよう考えられるのはすげえことだよ。尊敬するし、誇りに思う。だが、そのためには覚悟が必要だ。どんな困難にも挫けないで、どんな恐怖にも果敢に挑めるだけの覚悟がな。それができたならまた来い」
そう言い残すと父はひとり、ホールに下りていった。
「…………」
取り残されたリーベは空回った使命感に若干の羞恥を覚えつつも、お父さんが撫でていたカンプフベアの毛皮に目を向ける。
毛皮は腕のものであり、その不気味な姿がありのままに保存されていた。それを見上げた彼女は、自分の腹囲の倍はあるその太い腕が猛然と振るわれる様を想像する。
「ううっ!」
怖くて思わず震え上がると、反射的に目を背けた。怯えた彼女は自分の左胸に手を当て、どくんどくんと早鐘を打つのを数えながら深呼吸し、落ち着いてきたころに再度、見上げた。
「…………」
こんな強い魔物と戦うとなれば命の保証はない。そんなの、考えるまでもなかったがしかし、彼女の想像はそこまで至っていなかった。
考えが浅かったことは認めざるをえないが、教え諭された今なお、自分の決断が正しいという確信は変わらずにある。
「……少し、考えよう」
そう決めると、彼女は仕事に戻った。
その夜、例によってリーベはダンクとおしゃべりをしていた。
「ねえ。わたしが冒険者になったとして、やっていけると思う?」
「…………」
無言の返事は諭すかのようで、彼女はいつになく内省的になれた。
冒険者になるということは、人の生活を護るため、魔物と戦うということ。
魔物と戦うということは、命のやり取りをするということ。
命のやり取りをするということは、死ぬこともあるということ。
死ぬこともあるということは、家族を悲しませるということ。
自分は果たしてこれらの悲劇を受け入れられるのだろうか? そう自問するも答えは無かった。
『わたしは大丈夫』という希望が如何に脆弱かは、日常の最中でスーザンが殺されたことが証明している。日常の埒外においてなお、そんな儚い希望を抱けるとしたら、その人物はよほどの愚か者だ。
さすがのリーベも、その程度の危機感は持っているつもりだった。
「……ケガをする事もあるし、死ぬことだってある…………」
父はそう言っていた。
それは想像に容易いことだし、実際に冒険者の引退理由の約5割が負傷、3割が死亡と言われているくらいだ。仮に彼女がものすごい才能を持っていたとしても、死傷率の悪魔からは逃れることはできないのだ。
「でも……」
客たちの怯えた顔を思い出す。
いつもは幸せな笑顔を見せてくれていたのに、今日は陰々滅々と食事を進めているのだ。
エルガーは時間が解決してくれると言っていたけれど、それは誰もが恐怖から目を背け、笑顔を繕っているだけではないのだろうか?
心からの安らぐためには希望が必要だ。
その希望は今までであれば【断罪】のエルガーという英雄の存在だったのだ。
家があるから風雨に晒されずに済むというのと同じで、英雄が頑張ってくれているから魔物に怯える必要がないと考えるのは、とても人間的だろう。
だがエルガーが引退してしまった以上、その希望は潰えてしまったのだ。ヴァールとフェアも優秀な冒険者だと聞いていたが、師匠の英雄性は引き継げていないように思える。
随分と上からな評であるがしかし、テルドルの現状を見れば一目瞭然だろう。
その要因として考えられるのは、彼らがたちが日頃王都で活動しているからだろうか?
否。エルガーも他の地方に派出していた事があった。だがその期間中、妻であるシェーンを除いては誰も不安を露わにしていなかった。
だから活動の場所や程度は関係ないと思われた。
(じゃあ何が大事なの?)
希望の象徴であることだけが英雄の資質であるならば、それを継承するのに必要なのは力や信念ではない。単純に血脈なのだ。だから『エルガーさんの娘が冒険者になる~』なんてウワサが起こるのだ。
「やっぱり……わたしにしかできないことなんだ…………!」
そう追認するとリーベはダンクをギュッと抱きしめる。
思考は堂々巡りし、冒険者になる覚悟について、再び考えさせられた。
使命感を抱いて尚、自分が死ぬか、大きなケガをする場面を思い描くと胃が痛くなる。
「うう……こわいよ、ダンク…………」
彼の胸に顔を埋めてしまった。
つまり彼女には、冒険者になる覚悟が足りていないと言う事だった。