007 悲劇
20年前のテルドル防衛戦において、前哨基地となった村がある。
セロンというその村は、テルドルから南へ2日ほど歩いた場所に位置しており、その歴史から、この国の最南端の集落となっている。村の南には当時築かれた防壁が未だに残っており、『平和の壁』と呼ばれ、名所と化していた。だが壁1枚で村が潤うはずもなく、セロン村の人々は狩りと林業を生業としていた。
そんなこの村にとって、北側の街道はテルドルに通じる唯一の道であり、産業の要であった。これが魔物に封鎖されてしまったとあっては、村が様々な方面で痛手を負うのは当然であり、迅速な対応が求められた。
この依頼に応じたのはヴァールがリーダーを務めるクランであり、彼らは街道状に居座る魔物を探しながら南進していた。
「…………いない」
テルドルを出て2日目。テントを撤収して数時間は歩いているが、件の魔物は未だ発見できないでいた。道程も七割方消化しており、このままではセロン村に着いてしまうかに思われた……とは言え、『街道上に魔物がいる』と報告が上がっている以上、それはありえないのだが。
「なあに。そう焦る必要はねえさ」
呑気な言葉とは裏腹に、ヴァールは険しい目で辺りを見回していた。
目的の魔物は街道状にいると言われているが、それ以外にも警戒すべきことがある。他の魔物と、獣たちだ。特に前者は初春頃から、第三級危険種(人間に対し攻撃的な魔物)に分類される魔物が増えているという事情もあり、街道を歩くだけでも危険なのだ。
フロイデもヴァールを見習い辺りを見回すが、フェアに指摘される。
「あまり気を張っていると疲れるでしょう。フロイデはターゲットにだけ集中してください」
「大丈夫だ、よ?」
冒険者学校を卒業して、冒険者になってから1年が経つ。それなりの経験も積んだし、体力も十分ついた。その自信が彼に反骨心を抱かせていた。
フェアの言葉を無視し、キョロキョロと辺りを見回していると、ヴァールの大きな手がフロイデの華奢な肩を掴み、その場に固定した。
「っと……なに?」
「フェアの言うとおりだ。見ろ」
鈍角的な顎で前方を指示す。
フロイデが振り向くと、20メートルほど前方に大きな穴があった。内部はすり鉢状になっていて、小石の一つが転がっていくと、砂の粒子が砂時計のようにさらさらと流れていった。
「……気付かなかった」
あのままでは穴に踏み込んでいただろう。そう実感すると、フロイデは恥ずかしくなって俯いた。そんな彼に、フェアが諭すように言う。
「周囲を警戒することも大切ですが、それで足下がお留守になってはいけません。器用さとは即ち余裕です。それは活動していく中で自然と身に付くモノなのですから、焦ってはなりませんよ?」
「…………ごめん」
「わかりゃ、いいんだ」
ヴァールは打ち切るように言うと、フェアに指示を飛ばす。
「奴さんがいるか、確かめてくれ」
「了解しました――アイス!」
フェアはロッド(金属製で、棹状の魔法杖)を頭上に掲げると、直径1メートルほどの大きな氷塊を作った。それを穴に放り込んだ次の瞬間、地面からグワッと、1対の鋏角がせり出してきた。それは太陽を讃えるかのように広がり――
ガギンッ!
甲高い音を響かせて氷塊を破砕する。そして氷の破片は周囲に飛散し、溶けて地面に吸い込まれていった。
「うわ……」
フロイデが魔物の絶大な力に驚いていると、フェアが警告する。
「今回の相手は強力な鋏角と毒を持っています。ですので絶対に正面に立たないようにしてください」
「了解だ」
ヴァールが即答すると、フェアはフロイデを見る。
「フロイデ。危険を感じたら無理せず、後退してください。いいですね?」
「……わかった」
彼らは重荷となるリュックを捨て、身軽になる。それが開戦の合図となった。
「それでは――ガイア!」
フェアはロッドの穂先を地面に突き立てた。直後、穴の中心から土の柱が飛び出す。その先端には大きなアリジゴクがいて、巣穴から放り出されたそれは、空中で1回転してビタンと叩き付けられるように着地した。
「…………」
砂色の魔物を前に、フロイデは覚悟を迫られた。
昆虫特有の大きな腹は、まだら模様で、紐で縛ったハムみたいにデコボコしている。それにトゲのような体毛を生やしていて、まるでサボテンだ。腹との間に小さな胸と頭を挟んで鋏角が伸びている。その長さは2メートルにも及び、先端の尖りとは別に3対のトゲがある。捕らえた獲物にここから毒を注入するのだ。
「これが……」
「ええ。これがミラージュフライの幼体……ヘルゲートです」
「ヘルゲート……」
その名を呟くと狭い額に汗が滲み、喉が渇く。彼が唾をひねり出している中、ヴァールが低く、最後の確認をする。
「予定通りやるぞ。いいな?」
「はい」
「うん……!」
戦いが始まった。
ヴァールとフロイデは剣を抜き放つと散開し、ヘルゲートの両側に回る。すると大顎は大きな得物であるヴァールの方へ向けられた。その一方で大きな尻がフロイデに向けられる。
魔物と戦う時の鉄則。それは討伐を急がず、手脚を削いで安全確実に仕留めることだ。
それに従い、フロイデは尻ではなく、体側部にせり出した一際大きな脚を狙う。
ヴァールが時計回りに動き、注意を引いてくれているため、彼はそれに合わせてぐるりと回り込み、左脚を射程に捕らえる。
「っ!」
剣を振り上げ、左足から右足へ重心を移行するのに合せて剣を振るう。踏み込む力・筋力・剣の重さ・遠心力。これらが一体となった斬撃はヘルゲートの脚関節を半ばまで切断した。
淡黄色の血液が噴き出すと同時に、巨体が痛みに跳ね上がる。そうした反応は魔物にダメージを与えられたのを知る手がかりになる。そして魔物はダメージを負った直後に暴れる傾向にあるため、追撃を加えることなく距離を取る。
指導と経験で仕入れた情報は確かなもので、ヘルゲートは陸に揚げられた魚のように暴れた。その際、巨体が地面を叩き、立っているのに苦労する程度の震動を起こした。
「くっ……!」
フロイデが歯噛みする中、フェアが叫ぶ。
「離れてください!」
それを聞きつけると、不確かな足場を踏みしめ、無理して後ろに跳ぶ。
直後、ヘルゲートは地面に潜行した。すると地面には再び蟻地獄が展開され、その縁がフロイデを呑み込もうと迫ってくる。
「ちっ!」
全力で掛け、5メートルくらい距離を取ると、フェアが呪文を叫ぶ。
「ガイアッ!」
土柱によってまたもヘルゲートが打ち上げられると、今度は背中から落ちた。しかも自分で作った蟻地獄にすっぽりとハマり、無様に宙を蹴り続けている。
「今だ!」
ヴァールの指示で飛び出す。
フロイデの目前には先程斬り付けた左脚がある。次の一撃でこれを斬り落とすと、例によって距離を取った。
その間、チラリとヴァールの方を見ると、彼はなんと、たったの一撃で脚を切り落としていたのだ。彼の武器は大剣であり、その長大さと重量、それに仕手の恵まれた肉体から発揮される膂力も加われば、一刀の元に切断できても当然のように思える。
しかし、ヴァールの得物は鞘に収まらない都合で刃を落としているのだ。刃のない剣で堅牢な脚部を切断するのに、一体どんな妙技を用いているのか……フロイデには想像も付かなかった。
日頃の行いのせいで軽視しがちだが、剣士として、冒険者として、ヴァールは間違いなく尊敬できる人物であった。
脚の2本を失ったヘルゲートは藻掻き苦しんだ。その結果として本来の姿勢に戻れたが、前後の小さな脚をバタつかせるだけで、その場から動くことはなかった。
その様子をフロイデは不思議に思ったが、程なくして答えに突き当たる。
ヘルゲートは3対の脚を持っているが、体重の殆どは真ん中の1番大きな脚が担っていたのだ。それを失ったとあれば、もはや立ち上がれまい。
「よし……!」
(動けないなら今、ここで仕留める……!)
「やるぞフロイデ!」
「うん!」
ふたりは大きな腹部に飛びつくと、それぞれ渾身の一撃を叩き込む。
「ドリャア!」
「やッ!」
ふたりの斬撃は大小の切り傷を作った。とりわけヴァールの一撃は強烈で、魔物の内臓に深刻な傷を負わせた。
それからもふたりの猛攻は続き、フロイデが四度目の斬撃を繰り出した時、ヘルゲートは一際大きく痙攣し、沈黙した。
斬撃を浴びせ続けた腹部からは、淡黄色の体液が止めどなく溢れ、地面を浸していく。
「…………」
命を奪った罪を思い知るこの瞬間、フロイデは心が傷まないではいられなかった。しかし、相手は魔物だ。畏怖する事はあれど、憐憫を抱く事などありはしない。そのように自分に言い聞かせると剣に付着した血液を拭い、鞘に収めた。
ヘルゲートの死骸をギルドに預けたが、これで一件落着とはいかない。魔物が一体だけとは限らないからだ。だから一行はそのままセロン村へと向かった。
道中に異常はなく、無事、セロン村に到着した。
「ほっ……よかった…………」
フロイデの口からは自然と安堵の言葉が口に上る。それは誰に向けたものでもなかったが、フェアに「そうですね」と同意されると恥ずかしくなった。
「しっかし、街道を塞がれるなんて、この村の連中も災難だな」
ヴァールが言うと、嗄れた声が割り込んでくる。
「全くだ」
実感の籠もった言葉と共にやって来たのは線の細い老人で、その風格からして村長であるのは想像に難くない。彼はシワだらけの手を杖の頭に置いて一息つくと、安堵を浮かべて尋ねる。
「その様子から察するに、あの魔物はもういないんだろう?」
「もちろんだ。もう通って大丈夫だぞ」
報告を耳にした途端、村長は深い溜め息をついた。
「……それは良かった。ワシらもいい加減、肉は飽きたもんでな」
テルドルと行き来できなかった間、彼らは主に狩りで獲った獣の肉を食べて凌いでいた。
「そんなら俺らが貰ってやっても良いぜ?」
「うんうん……!」
(リーベちゃんちで食べたみたいな、美味しいお肉が食べたい!)
「干し肉なら好きなだけ喰わせてやってもいいぞ?」
その言葉を聞いてふたりはがっくしと肩を落とした。
堅いビスケットと並び、冒険者が食べたくない物ランキングの1位に君臨する食品。それが干し肉だ。
「どうも失礼致しました」
大小ふたりを他所にフェアが詫びると、村長はケタケタと笑った。
「はは! こいつが食い意地を張ってるのはいつものことだろう」
その気さくさから、フロイデはヴァールとフェアが村長と面識があることに気付いた。
「ところで、その坊やは?」
「坊やじゃない……!」
フロイデが頬を膨らまして反論すると、またケタケタと笑う。
(まったく……会う人会う人がぼくを子供扱いするんだから困る)
「こちらは最近弟子にとったのですが――」
会話の最中、フロイデは村の北西に断崖を見つけた。全体として灰色の岩壁であったが、一部分だけ丸く土色になっている。それを不自然に思っていると、直後、それはパラパラと崩れ落ち、横穴が顕れる。
そしてそこからは大きなカラスが飛び立った。
「あ、あれ!」
指し示すと3人が振り返る。
「ん? なんかあったかの?」
村長が不思議そうな声を発する一方、冒険者ふたりは察した。
ヘラクレーエという魔物は抱卵期に入ると、断崖に穴を掘り、そこにメスを閉じ込める習性があるのだ。その際泥で蓋をするのだ。その情報から類推するにあの横穴は間違いなくヘラクレーエの巣で、テルドルからの距離を考えれば、リーベを襲った個体のつがいである可能性が高い。
フロイデがそう分析する中、村長が不思議そうに首を傾げる。
「おい、一体どうしたというんだ?」
「ん? ああ、何でもねえよ」
ヴァールは適当に誤魔化すと「余計な事は言うな」と弟子の耳の上で囁いた。
ヘラクレーエは基本的に人を襲わない魔物だが、この前テルドルで人を襲ったばかりだ。それに加え、抱卵期を終えて凶暴化している可能性が、そういった理屈の問題ではない。
魔物が近くにいると知っては安心できるはずがない。彼らに余計な心配を掛けさせないためにも、そういった情報は伏せておくものなのだ。
冒険者は人々の心情に寄り添わなければならない。フロイデはまたひとつ、勉強したのだった。
「またのご来店、お待ちしています!」
最後の客を送り出したリーベの胸には達成感がこみ上げてくるが、すぐさま疲労の奔流に呑まれ、結局、疲れたという感想しか残らなかった。
「はあ……疲れた」
溜め息と共に笑顔を解き、表の札を『準備中』に替えた。そのまま店内に戻ろうとしたが、溌剌とした声に呼び止められる。
「あら、リーベちゃん。随分お疲れみたいね」
振返ると、そこには武器屋のスーザン婦人がいた。
「はい……お店が賑わうのは嬉しいですけど、忙しい日が続くのも困ったものです」
笑顔を繕いながらも、今は勘弁して欲しいと思いつつ答える。
「ははは! そりゃ、贅沢な悩みだねえ!」
全くもってその通りだった。
「まったく、あんたって子は働きもんだねえ。あたしがリーベちゃんくらいの頃なんて、遊び呆けてたよ」
「ほんとうですか?」
「やぁだ! 世辞に決まってんだろ? あははは!」
裏表のない彼女らしいユーモアに、リーベはつい、笑ってしまう。華奢な肩をひくつかせていると、スーザンはポケットを漁った。
「そうだ、リーベちゃんに良いものあげる」
「良いもの?」
ちょいちょいと手招きをされ、歩み寄ると一口で飲み込めそうな小さな包みを握らされた。
「なんだと思う?」
「……飴、ですか?」
「違う違う! これはチョコレートだよ」
「ええ⁉」
チョコレート――通称チョコは外国名産のお菓子であり、国内ではごく僅かしか流通してない高級品だ。それが今、自分の手の中にある。その事実にリーベは驚愕させられた。
「こ、こんな高級品。貰っちゃっていいんですか?」
「いいよいいよ! リーベちゃんはいつも頑張ってるからね」
そう言うとスーザンはずいと顔を寄せ、ひそひそと言う。
「数がないからひとつしかあげられないよ。エルガーさんに見つからないうちに食っちまいな」「あ、ありがとうございます。でも、これからお昼なので。お仕事が終わったときの楽しみに取っておきます」
「なんだい! アンタまさか、ショートケーキのイチゴは最後まで取っておくタイプかい?」
「はい。最後の楽しみなんで」
「かーっ! これだから最近の若いのは! あたしゃ、一番最初に食べるどころか、旦那の分まで奪ってやるさ」
「え、ひどい……」
「やぁねっ! 冗談にきまってるだろ? あははは!」
ケタケタと笑いながらスーザンは去って行った。
その青空のような果てのない快活さに、リーベは幾らか元気が湧いてきた。
彼女の背を見送ると、チョコをエプロンのポケットに収め、大きく伸びをする。
「ん~~っ……! ふう。よし、午後も頑張ろ!」
今夜はチョコが待っているのだと思えば、どんなに忙しくても乗り切れそうな気がした。
ディナータイムも忙しいが、リーベはチョコを励みに頑張っていた。
「トマト煮とキノコサラダで頼むよ」
オーダーをメモしつつ、「他にご注文はございますか」と、言いかけた時だった。
カウベルが鳴らないほどに早く、乱暴にドアが押し開けられた。それに店内にいた誰もがハッと振り返ると、そこには顔を真っ青にしたバートがいた。
ホールで一緒に働いていたエルガーが険しい顔で尋ねる。
「おいバート。どうした、そんな慌て――」
「ぶ、武器屋の……スーザンさんが…………はあ……」
その言葉になにか恐ろしいものを感じたエルガーは彼の口を塞ぎ、娘に命じる。
「! 落ち着け。奥で聞くから――リーベ、水を持っきてくれ」
「わ、わかった」
(スーザンさんに何が? まさか強盗にでも襲われたんじゃ……)
そんな不安に恐々としながらも、水を持って奥へ――
「スーザンさんが…………スーザンさんがヘラクレーエに攫われたんです!」
「………………え」
グラスを落とした。
グラスが割れた。
グラスが割れた音が響いた。
グラスの水が足を濡らした。
リーベの視界が揺らぐ。揺らぎ続ける。視界だけではない。意識が……彼女の心そのものが激しく揺さぶられていく。
(スーザンさんが魔物に……)
「うそ…………」
(スーザンさんが攫われた。ヘラクレーエに……あの大きなカラスに攫われた。理由は考えるまでもなく、エサにする為だ。こんな夜中じゃ、救助隊も動けないし……もうダメだ)
「う、うう……!」
(なんで、なんでスーザンさんが襲われなくちゃならないの? あんなに優しくて、楽しい人だったのに……どうして!)
「…………なんで」
途方もない悲しみと苦しみにリーベはダンクをギュッと抱きしめる。そうして感情の奔流を凌いでいると、いつかエルガーが言っていたことを思い出す。
『残されたメスが獰猛化するかもしんねえな』
(そうだ。わたしがあの魔物を――つがいを倒したからいけなかったんだ。カラスは賢い。倒すまでしなくても逃げたはずだ……いや、実際、逃げようとしていたんだ。でも、わたしが魔法で撃ち墜としたんだ)
「……わたしのせいだ…………!」
魔物と戦っていた時、彼女は昂揚していた。魔物と戦うという未知を、楽しんでいたのだ。 その結果がこれだ。親しい人を殺しておきながら、自分はおめおめと生きている。そんな自分が嫌で嫌で仕方なかった。自己嫌悪に苛まれていたその時――
ゴンゴン!
乱暴気味にドアが叩かれる。
しかし彼女はとても人に会える心持ちではなかった。ダンクの腹に顔を埋め、誰かが去るのを待つがしかし、気配が動くことなかった。
「リーベ、起きてるか?」
エルガーの声だった。
「…………」
(いやだ……今は一人にして…………)
そう訴えるように沈黙を貫くと、ガチャリと音を立ててドアが開かれる。すると廊下からひんやりとした空気が流れ込んできて、彼女のスカートの裾からはみ出た脚を冷やした。
「飯の用意ができたぞ」
ダンクから顔を離し、横目で見やる。そこではエルガーがドアに背を凭せていて、淡然とした瞳で彼女を見下ろしている。
「……ひとりにして」
「断る」
彼は短く答えると深い溜め息をつき、諭すような、落ち着いた声を発する。
「お前のことだ。自分がヘラクレーエを倒すのに加担したことを悔やんでるんだろ?」
「…………」
「スーザンを襲ったのがアレのつがいだってことは、時期的に考えて間違いない」
「じゃあやっぱり、わたしが……!」
「違う。前も言ったが、それは結果論に過ぎないんだ。魔物が街に侵入したとき、冒険者は迅速にこれを排除しなければならない。そういう決まりがある。フロイデはそれに準じただけだし、それに手を貸したお前も、魔法使いの心得と……なにより自分の良心に従って行動しただけだ。それを咎めていいヤツなんていねえよ。もちろん、お前自身もな」
「……うう…………」
それからしばらく、お互いに言葉を発しないでいた。
澱んだ空気の中、彼女のすすり泣く声だけが響く。その虚しい音の連なりは彼女を一層、惨めな思いに突き落としていった。辛くなって再びダンクに顔を埋めた時、エルガーが言う。
「下に行くぞ」
そう言って彼は歩み寄る。
「シェーンが待ってる。だから行こう。な?」
「いや……」
逃れるようにダンクを強く抱きしめると、彼は静かに言う。
「リーベ……人の不幸を悲しめるのは優しさだが、それに人を巻き込むな。シェーンだって不安になってるし、その上、お前が引きこもちまったらどうなる?」
父の言いたい事は理解出来た。しかし、現状ではとても応じられなかった。
「……ごめんなさい」
どうにか声を絞り出すと、エルガーは深い溜め息をついた。
「……腹減っても知んねえからな?」
そう言い残して娘から離れていくと、ドアの前でピタリと止まった。
「……それと、明日は臨時休業だとよ。だから、今はゆっくり休め」
その言葉を最後に、エルガーは今度こそ娘の部屋を出て行った。
遠のいていく彼の足音に申し訳なさが募るが、リーベは今、自分のことで手一杯だった。
気が付けば、朝だった。しかし鳥の声は聞こえず、代わりにパタパタと雨が降る音が響いている。僅かに湿気った空気を胸に取り込むと、彼女はなんだか物悲しい気分になってきた。
「……スーザンさん」
呟くと、それに呼応するかのようにお腹が間抜けな音を立てた。
「………………最低だ」
親しい人が亡くなったというのに、自分はなんて呑気なのだろう。
そんな自己嫌悪に苛まれていると、ノックする音が響く。コンコンという、温かくて優しい音だ。
「どうぞ」
入ってきたのはシェーンだった。
白い肌はいつも以上に白く、緑の瞳は儚げに潤んでいる。その様子から満足に睡眠を取れていないことがわかった。そんな彼女は憔悴した印象を助長するかのように、緩慢な動作で歩み寄る。
「調子はどうかしら?」
「うん……まあ…………」
答え倦ねていると、母は察してくれたようだ。
「そう……でも、ご飯を食べないと、気が滅入ってしまうわよ?」
母は気を遣ってくれていた。
その事実にリーベはいい加減、元気を出さないとという気になった……いや、心情なんて関係なくて、昨日は単に疲れていただけなのかもしれない。だがいずれにせよ、今彼女がするべきことは、昨日の非礼を詫び、いつもの生活に戻ることだけだった。
「お母さん……昨日はその、ごめんなさい……」
「リーベ……謝らないで」
シェーンはそっと娘を抱きしめた。娘はその温もりに身を委ねていると涙腺が緩み、涙が溢れてくる。
「……ごめんなさい……お母さんの気持ちも考えないで…………!」
「良いのよ……辛かったんでしょう」
その言葉と共にトントンと優しく背中を叩かれると、リーベが抑えていた感情が急速に膨れ上がっていく。
スーザンは良き隣人だった。快活で裏表がなく、接していて非常に清々しい気持ちになれる人だった。商売の面でも、刃物関連のことでよく世話になっていた。エーアステがここまで繁盛しているのも、彼女の力添えがあったからに他ならない。
そう。エーアステ一家にとって、スーザンは良き隣人であり、友であり、相棒でもあったのだ。
そんな彼女はもういない。一生会えないのだ。
「う……うわああああん!」
しばらくして落ち着くと、リーベは身に着けたままだったエプロンをベッドに脱ぎ捨て、お母さんと共にホールに下りた。
多数の席で椅子が上がっている中、ただひとつだけ、椅子が下りていた。その変わりに食事が用意されていたのだが、何故かふたり分しかない。
「あれ? お父さんは?」
座りながら問い掛けると、シェーンは苦々しい顔をした。
「……ギルドに行ったわよ」
「ギルド? こんな朝から?」
「今日は臨時休業だから起こさなかったけど、もうお昼過ぎよ」
「え?」
壁に掛けられた時計を見やると、短針が右側へ傾きつつあった。
「…………」
情けない事実にリーベは自分がイヤになった。もしここにシェーンがいなければ、自分の頭をポカポカ殴っていたことだろう。
「それってやっぱり……」
気を取り直して問い掛ける。
「ええ……短い間に2度も魔物が来たでしょ? だから騎士団と共同で、今の態勢を見直すから知恵を借りたいって」
シェーンは妻としては夫にギルドと関わって欲しくなかったのだが、それがみんなのためになるならと、我慢していた。リーベはそれと自分を比較して、昨日の自分がどれだけ身勝手だったか思い知った。だがいつまでもクヨクヨはしていられず、気を改めた。
「それより、冷めないうちにいただきましょ?」
「……うん。そうだね――いただきます」
ふたりだけの昼食は物寂しく、ひっそりと静まり返った食堂には食器の打つかる音と、雨が街路を叩く音だけが虚しく響いていた。
食事が終わるとシェーンは『今日はゆっくりしてて良いわよ』と言った。しかしリーベは何かをしていないとまた落ち込んでしまいそうで、彼女は母と共に鍛冶を行うことにした。
幸い時間はたっぷりとある。だから普段できないところまで徹底的に掃除してやろうとおもうのだった。
掃除をやるときは上からやるのが鉄則であり、2階以上を任されたリーベは屋根裏部屋から取りかかることにした。
以前は魔物の素材が散乱していた屋根裏部屋だが、今や綺麗に片付いている――もっとも、エルガーが捨てがたい品はいくつか残っているが。
彼は片付けはしたが掃除はしていなくて、あちこちにホコリが積もっている。
これはやりがいがありそうだとリーベは袖を捲った。
「んしょっと」
移動できるものは部屋から出すと桶に水を張った。はたきでホコリを落としてから、固く絞ったモップで拭き上げていく。
「…………」
掃除とは黙々とこなすものであり、それに従って掃除を進めていたわけだが……やはりというべきか、一人である事を実感すると途端に悲しくなってくる。
「……スーザンさん…………」
テルドルの中央区にある冒険者ギルド・テルドル支部。その一室では冒険者ギルドと騎士団の重役が顔をつきあわせて、今回の事件について話し合っている。その中ではエルガーは一般人に過ぎないのだが、例によって冒険者代表として顔を出していた。
重役たちは煙が好きで、会議室にはもうもうと紫煙が立ち籠めており、誰かが言葉を発する度にくるくると逆巻くのが見える。こんな不健康な環境では、良い話し合いなど出来るわけがない。
それを証明するかのように会議は紛糾し、責任の押し付け合いへと発展していた。
「…………」
エルガーは辟易しつつも、ひとまず腰を据えて耳を傾けていた。
「そもそも! テルドルの近郊に魔物の巣があることを黙認していたからこんな事になったんだ! この怠慢について、どう責任を取るつもりだ!」
騎士団長が唾をまき散らしながら言うと、ギルドマスターが反論する。
「冒険者はただ魔物を倒す職業じゃない! 人間界と自然界。互いが両立できるように最低限、手を加えねばならないのだ! 盗人の巣を取り除くのとはワケが違う!」
「定義に固執するあまり目先の脅威を見逃し、結果被害者が出た。これを怠慢と呼ばずになんと言う!」
「曲解はよしていただこうか! 第一、街の中を護るのは騎士団の務めではないのか? 貴殿の配下らが警邏を怠っていたから魔物の襲来に気づけなかったのだ!」
「それは侮辱か! 精強なる我が騎士団において、怠惰な者などひとりたりともおらんわ!」
そうだそうだ、と同意する声が上がる。
「短期間に2度も襲撃をされておきながらどの口が言う!」
ギルド側からも同様だった。
……残念だが、これがテルドルの守護者たちの現状だ。
互いに落ち度を認めず……トップの未熟な性質が組織全体の病理となり、今になって表に出てきたのだ。だから遅かれ早かれ、いずれはこうなったんだ。
エルガーはフロイデのお陰で娘を喪わずに済んだが……それを実感すると『もしかしたらリーベもいなくなっていたのかもしれない』という可能性に思いが至り、怒りが湧いてきた。
(リーベの為に……街のみんなのために。そしてなにより、犠牲になったスーザンの為に、言うべきことは全部言ってやる!)
「黙れ!」
テーブルを殴り付けると卓上に並んだ4つのグラスが一斉に倒れる。
隣に並んでいるギルドの役員たちは慌てて膝を拭いだしたが、彼はそれを許さない。立ち上がり、自分に注目を集める――そして、街の人間の意思を伝えるために怒鳴りつける。
「お前ら! 俺たちは今、なんのために会議をしてるんだ!」
ギルドマスターに目を向けると、まごつきながら答える。
「それは……事件の要因となった事柄を洗い出すためで……」
「どうなんだ、騎士団長さんよ?」
「お、同じく……」
「そうか……俺にはどうも、無様に責任を押しつけ合ってる様にしか見えねえんだが? そこら辺、どうなんだよ?」
そう問い掛けると、一座はむっつりと押し黙った。
「ふざけんな! 俺らが護るべきはなんだ! 椅子か!」
返事はない。その事実が腹立たしいが、一周回って落ち着いてきた。
「……違うだろ? 俺らが護るべきはテルドルに住むヤツら全員だ。立場は違っても目的は同じはず。それなのになんで、こんな大事なときに手を取り合えねえんだよ」
彼は一同を見回した。
重役たちは叱られた子供みたいに憮然と俯いている。
それが情けなくて……スーザンに申し訳なくて…………エルガーは怒りも通り越して悲しくなった。目頭が熱くなり、顔を背けると、その胸の内を零す。
「お前らよりも……俺の娘の方が責任感じてるよ」
その言葉に一同がハッと振り返る。その全ての瞳が純朴な煌めきを帯びていた。
エルガーはそこに望みを見出して問う。
「…………もう一度聞く。俺たちは今、なんのために会議をしてるんだ?」
その問い掛けに誰もが立ち上がり、こう言った。
「市民を護るためです!」
掃除を終える頃には夕方になっていて、リーベとシェーンは夕食を作りながらエルガーの帰りを待っていた。
「お父さん、遅いね……」
「ええ。お昼も食べてないでしょうし、きっとお腹を空かせているわ」
「会議中、グウグウお腹鳴らしてたりして」
リーベが冗談を言うとシェーンはくすりと笑った。
「代わりにお水でお腹をいっぱいにしてるかもしれないわね?」
「はは! してそう!」
厨房が賑わう中、そカランとカウベルが鳴る。
「ただいまー!」
エルガーのやけに元気な声がホールに満ちる。
「おかえりなさい」
呼び掛けると、彫りの深い顔がカウンター越しに厨房を覗き込んでくる。
「お、リーベ。母ちゃんの手伝いとは関心だな」
「ふふ、お父さんったら。わたしはいつもお手伝いしてるよ?」
「はは! そうだったな!」
短く笑うと、エルガーは意味深長な目線を妻に向ける。
「……そんで、今日はなんだ?」
「今晩はビーフシチューにしようと思います」
「お、久しぶりじゃねえか! こりゃ、食い出があるぜ!」
エルガーは何時にも増して元気だった。それが空元気であるのは、鈍いリーベにもすぐにわかった。
風呂屋から帰ってきて、表の戸を施錠するとエルガーは改まって言う。
「ちょっといいか?」
ランプに照らされたその顔は険しく歪んでいて、これからどんな言葉が発せられるか、リーベには容易に想像ができた。
それはまるで猶予を与えるかのようで、気付くとリーベは拳を握りしめて備えていた。
「……隠していても仕方ない。明日になれば自然と耳に入るだろうからな。今のうち言っておく」
悔しげに前置きを挟むとエルガーは告げる。
「今日の夕方、スーザンが遺体になって帰ってきた。遺体は酷くやられてて、遺族にさえ見せられない状態だった」
「……そう、なんだ」
(スーザンさん……ちょっと前まで、あんなに元気だったのに…………)
リーベが煩悶としていると、エルガーは続ける。
「ウワサするヤツも出てくるだろうが、そういう手合いは相手にしないことだ。いいな?」
「はい……」
「…………うん、わかった」
そう応じるとリーベは自室に下がった。
そっとドアを閉めた途端、糸が切れたように力が抜けた。
「…………」
脱力しつつも、どうにかベッドに辿り着くと倒れるように身を横たえる。
(やっぱり、スーザンさんは死んじゃったんだ……)
実感は湧かないが、父が言うのだから間違いはない。間違いは、ないのだ。
「うう……」
視界が滲む中、彼女は目の前に今朝、脱ぎ捨てたエプロンがあるのに気付いた。そのポケットは口がたるんでいて内部には昨日もらったチョコレートが見えた。
彼女はそれに手を伸ばすと頭上に掲げ、しばし見つめていた。赤色のオシャレな包装紙に包まれたそれは薄闇の中、ランプの明かりを受けて星のように煌めいている。
「…………」
むくりと身を起こし、包装紙を解く。
中から現れたチョコレートは円柱形で、上部にはブランドのものと思しき紋章が浮かんでいる。まるで封蝋のようだが、これは歴としたお菓子なのだ。
「……スーザンさん…………いただきます……!」
リーベはチョコを頬張る。
スプーンのような滑らかな舌触りのそれは、舌に乗せた瞬間からバターのように溶け始める。あめ玉のように長時間滞在してくれるワケではなく、ほろ苦くも甘い、独特の味を舌に焼き付けて消えてしまった。
「……すごく…………すごく、美味しかったです。ごちそうさまでした」
リーベは包装紙の皺を伸ばし、丁寧に折りたたんで小物入れに収めた。