005 脅威を思う
暗がりの中、ランプの明かりにダンクの瞳が煌めく。今まで留守番をしていた彼はくりくりの瞳をジーっと飼い主に向け、構ってもらいたがっていた。
「ただいま、ダンク」
いつも通り挨拶をしたその時、リーベはふと思った。
(もしかしたら……もう2度とダンクに会えなかったのかも……)
そう思うとなんだか恐ろしくなってきて、リーベは汚れた格好であるにも関わらず、愛犬をギュッと抱きしめた。小さな体に対し大きな頭に鼻先を埋め、その存在を確かめている内、恐怖が再び胸に起こった。
着替えを終え、ホールに下りて来ると、温かく仄かな酸味を纏った良い匂いがした。
「あ、トマト煮だ!」
「あら、わかっちゃった?」
厨房でトマトソースを煮込んでいたシェーンが言う。
「今日はヴァールさんたちもいらしているからね。特別よ?」
「やったあ!」
歓喜した途端、彼女の腹がぐううう……と鳴った。すると配膳を進めていたエルガーが大きな声で笑う。
「ははは! 喜ぶのも程々にしとかねえと、ぶっ倒れちまうぞ?」
「うう……そ、それより! おじさんたちまだ帰って来てないのに、出しちゃって大丈夫なの?」
「ん? ああ、俺の勘だとそろそろ帰って来る頃合いだな――ほら、ウワサをすれば」
「え?」
リーベが振り返ったその時、ドアに嵌められたガラスに黒く染まった。直後、カランとカウベルが鳴り響き、ヴァールが大きな体をねじ込むように入ってくる。
「ただいまー!」
重低音が店内に木霊し、リーベはまるで太鼓の中にいるように感じた。
「おかえりなさい。今日はトマト煮だって」
「なに⁉ こりゃツイてるぜ!」
ジュルリと舌なめずりする彼の脇をすり抜け、フェアとフロイデがやって来る。
「ただいま戻りました」
「…………た、ただいま?」
「おかえりなさい。もう手続きは終わったんですか?」
「ええ」
フェアは柔和に笑むが、直後、心配そうに目尻を落とした。
「先程は聞きそびれてしまいましたが、お怪我はありませんでしたか?」
「あ、はい。わたしは大丈夫です」
「それは良かった」
彼が安堵の息をつく傍ら、リーベは命の恩人に尋ねる。
「フロイデさんこそ、大丈夫でしたか?」
「う、うん。かすり傷だけだった」
彼女はフロイデが坂から転げ落ちて、捻挫とかをしているんじゃないかと心配していたが、それはまったく杞憂だった。ホッと胸を撫で下ろしていると、厨房の方からお父さんの声がする。
「リーベ、お前も手伝ってくれ」
今日は6人もいて、品数も多いのだ。ひとりでは配膳に苦労するだろう。そう思ったリーベは父の応援に応じる。
「あ、はーい。それじゃ、席に着いて待っててください」
そう言うと、フロイデが1歩、歩み出る。
「ぼ、ぼくも手伝う……よ?」
「ありがとうございます。でも、フロイデさんはお客さんなので」
そう答えると、彼は残念そうに、そして恥ずかしそう俯いた。
その様子にリーベは悪いことをした気分になったが、メリハリは大事だ。
「それじゃ、失礼します」
リーベはつい接客時の口調になってしまった。
(職業病かな?)
食卓の上にはトマト煮を筆頭にエーアステ自慢の品々が並んでいて、昼食の時と同様にヴァールとフロイデがものすごい勢いで飛びつく。
「がつがつ……!」
「もっもっ……!」
ふたりが一心不乱に掻き込むのを横目に、リーベはフェアに尋ねる。
「あの、なんで魔物が街に出たんですか?」
彼女の問い掛けを受け、エルガーが食べる手を止め、弟子に目を向ける。問うのフェアはというとシェーンに目配せし、『仕事の話しをして良いか』と確認してから答える。
「エサを取りに来たのでしょう」
人を襲ったのだから当然の答えと言えるが、リーベはどうにも腑に落ちない。
「カラスが狩りをするんですか?」
「ええ。姿はカラスに似ていますが、あれは魔物であって、似て非なる存在です。それに、あの巨体を維持するとなると、狩りで大物を仕留めるほうが効率的なんです」
「あ、そっか……」
(魔物って意外と奥が深いんだな)
リーベが感心する一方で、エルガーが疑問を呈する。
「だがアイツは人里を襲うようなヤツじゃねえだろ?」
「ええ。ですがこの時期は抱卵期ですので」
「抱卵期……なるほど、そういうことか」
抱卵期とは親鳥が卵を温める期間であり、卵を温めるメスが活動出来ない期間でもある。だからその間オスの鳥はメスの分まで食料を集めようとするために必死なのだ。
「そっか……巣は?」
「報告によると、近郊の断崖にて営巣している様子が観測されています」
フェアが予定を読み上げる秘書みたいに淡々と答えていく傍らで、口下にトマトソースをべったり付けたフロイデが補足する。
「……お腹に泥、ついてた」
孫弟子の言葉にエルガーは得心した様子を見せる。
ヘラクレーエは断崖に横穴を掘り、そこにメスを隠して抱卵させるのだ。その間、オスは餌を必死に集めるため、フロイデの言葉は先の報告を裏付ける形になった。
「なるほどな……だがそうなると、残されたメスが獰猛化するかもしんねえな」
エルガーはスプーンを置き、腕を組んで呻り出す。それは彼が熟考するときの癖なのだ。
そうして話が難解になっていき、リーベはついて行けなくなった。
手持ち無沙汰になってトマト煮を食べ進めていると、母が上辺だけの笑みを貼り付けているのに気付く。その笑みの裏に『食事中にお仕事の話はほどほどにしてください』と書いてあった。
それに気付いてしまった以上、話題を変えないといけない。しかしどう言ったものかと、リーベが考え倦ねていると、ヴァールが口を挟む。
「師匠、アンタはもう引退してるんだから、考えたって仕方ねえだろ?」
言い方は乱暴だったが、その分、明快だった。
「あ、ああ……そうだったな…………」
それまで難しそうな顔をしていたエルガーは考えることを放棄すると、トマト煮を1口食べた。するとほっこりした顔になって、その様子に妻子は穏やかな気持ちになるのだった。
一同が食後のお茶を愉しみながら他愛もないやり取りをしていると、時計が八時を告げた。
「あ、もうこんな時間か……んしょっと」
ヴァールが大きな体を持ち上げると、重量から解放された椅子が小さく軋んだ。
「えー、もう帰っちゃうの!」
「ガキは寝る時間だぞ?」
「ケチ~……それに、まだ冒険のお話を聞いてないよ」
「んなもん、別に今日じゃなくても良いだろ?」
その言葉にリーベは、『今日のおじさんはなんだか冷たい。機嫌でも悪いのだろうか?』と疑った。
「そうよリーベ。あまりヴァールさんを困らせないの」
シェーンの言葉に「え~」と漏らすと、エルガーが言う。
「そうだぞ。それにヴァールらは街に来たばかりなんだ。疲れも溜まってるだろうよ」
その言葉を肯定するように、フロイデが小さく欠伸をする。
「……くぁ~…………」
「ふふ、彼はもう限界のようです。それにリーベさんはお仕事が控えているでしょう?」
フェアに言われて思い出した。
明日は食堂の営業日なのだ。燥いでばかりはいられない。
楽しい一時から一転、日常を突きつけられてリーベは仕事が嫌というわけではないが憂鬱になった。
「はは! 明日はきっと、街の連中がうじゃうじゃくるぞ!」
ヴァールの言うとおり、平和な街に生きる人々は刺激に飢えている。
今頃、襲われたのがリーベだと知れ渡っているし、事のあらましを聞きだそうと人々が押し寄せて来るのは火を見るより明らかだ。
(……明日は忙しくなりそう)
「はあ……」
リーベが深々と溜め息をつく中、ヴァールは「うじゃうじゃ~」と愉快そうにはやし立てた。
「まったく、仕方のない人です」
相方の大人げなさにフェアは溜め息をつくと、表情を改め、エーアステ一家を見回す。
「せっかくの団欒の日にお邪魔してしまい、どうもすいません」
「いいえ。賑やかな休日になってよかったですよ。ねえ、お父さん?」
「ああ。それにそんな畏まった挨拶するような間柄でもねえだろ?」
すると彼はくすりと、上品に笑んだ。
「ふふ、それもそうですね」
「フロイデくんも、またいつでもいらっしゃいね?」
「う、うん……」
彼は例の仕草ではにかんだ。
「それでは、私たちはこれで失礼致します」
「……ば、バイバイ」
「良い夢見ろよ!」
口々に別れを告げると冒険者3人は宿に帰って行った。
彼らは魔物の状勢が安定するまではテルドルにいるという話だが、お互いに仕事がある以上、会える機会など、あって3回くらいだろう。そう思うとリーベは寂しくなってくるが、これ以上憂鬱になってたまるかと持ち直した。
大きく伸びをすると、リーベは提案する。
「お風呂行こ」
「その前に片付けをしないとね」
母に言われてテーブルを見る。そこには生活感漂う皿の海が広がっていた。
「うわ……」
「なあに、3人でやれば終わるさ」
エルガーはそう言ってリーベの背中を叩いた。
「ほら、俺は皿洗い。お前は皿拭きだ。いくぞ」
「は~い……」
彼が厨房へ歩みを進める中、シェーンがくすっと笑うのがホールに響いた。
リーベは日課の全てを消化し、あとは眠るだけとなった。
ようやく迎えた癒やしの一時を1秒でも長く堪能するべく、彼女は素速くパジャマに着替え、ベッドに飛び込んだ。そうして親友ダンクを胸に抱き込み、ランプの明かりを消す。
暗闇の中、彼女はダンクの頭頂の匂いを嗅ぎながら、一緒に夢の世界へと旅立とうとした。しかし待てども待てども眠気が来ない。それに、妙に落ち着かない。
このざわめきの正体はなにか。
そう考えた時、真っ先に思い当たったのはあの魔物のことだ。
紺色の巨体に、釘を巨大化したようなくちばしを持つカラスの魔物。
あんなのが街の中に現れ、しかも自分が襲われるなんて……
エルガーは時々、『街中だから安全とはかぎらねえんだぞ』と言っていたが、それは脅しでも何でもなかったのだ。
「…………」
リーベはあの恐ろしい魔物の姿を思い起こす。
カラスがぴょこぴょこ移動している姿は街中でも見られるけれど、アレはそれと比較にならないまでに大きく凄まじい。たった1度の跳躍で4メートルほど移動していた。
(アリから見た人間もこんな感じなのかな?)
『クアアアッ!』
カラス特有の哀愁を感じさせる鳴き声であったが、反面、獲物としての自覚を植え付けられるような悍ましい響きを持っていた。
「うう……!」
ぞわりと悪寒が走る。
あんな恐ろしい存在を相手に大立ち回りできるなんてと、リーベはフロイデを見直した。
彼は『倒したい魔物がいる』と語っていたが、そのために身につけたものが今日、彼女の前で発揮されたのだ。
その事実にリーベは深く感心していると、ふと疑問に思った。
(……フロイデさんは倒したい魔物がいるって言っていたけれど、冒険者はみんな、大きな目的のために戦ってるのかな?)
あんな恐ろしい目に遭うのだ。誰もが相応の目的を掲げているに違いない。そう考えて今まで出会った冒険者たちのことを思い出すも、彼らの動機など聞いたことがなかった。
だから想像することしか出来ないのだが、彼女の平凡な想像力では金や名誉のためとしか思い浮かばなかった。
「……お父さんはどうなんだろう?」
思えば今まで聞いたことがなかった。聞く機会なんていくらでもあっただろうに、どうして知らないでいたのだろうかと彼女は不思議がった。
「うーん……」
思考を深めようとダンクに顔を埋めると、木を細工して作った鼻先にゴリっとなった。
(いたた……)
「ダンクはどう思う?」
「…………」
「わからないか……わたしもわからないんだ」
父がどうして冒険者になったのか、気になって仕方ないが、ダンクと知恵を出し合っても答えは出てこない。こうなっては悩んでいても仕方ない。
そう結論づけた時、彼女の頭はぼやけてきて、程なくして眠りに落ちた。