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001 英雄とその娘

 冒険者エルガーを取り巻く一帯は高山地帯で、テルドルの街から緩い坂道が蛇行しながら麓へと続いている。彼は木立を右手に、急斜面を左手に見ながら坂を下っていた。最中、彼はまるで自分が遭難しているかのように錯覚した。


「……はあ」


 彼は深いため息をついた。

 昨日の今頃は愛する妻子と共に食堂を切り盛りしていたというのにと、口から零しそうになるも、ぐっと堪える。自分が冒険に出ることが人々の安息につながる事を知っていたからだ


「ため息なんて俺らしくねえ! さ、気張っていくぞ」


彼は自分を奮い立たせるべくそう言うと頬を叩いた。彼は手加減というものを知らず、故に相当な痛みが彼の頬をひりつかせる。


「おおう……」


 自分で自分を痛めつけるとは何事だと、自嘲していると、パキッ! と、右手から音がした。


「――っ!」


 ハッと振り向くと、そこには白い体毛を持つ愛らしいウサギの姿があった。しかし冒険者である彼にとって、ウサギは立派なタンパク源であるため、自然と唾液が口内に滲んでいった。


「きゅ?」

「食われたくなければあっちに行け」


 蹴飛ばすフリをすると「きゅきゅ!」と丸い尻尾が木の陰に消えた。それでもなお、彼は視線を逸らさなかった。


 彼の眼前には、木立を空かして、蛇行していく坂道が見えた。すると木立を抜けてショートカットしたく思ってしまうが、エルガーはぐっと堪える。そうすることで脚を失った友人がいるからだ。


 急いては事をし損じる……急がば回れの精神だ。


 自分の分厚い胸に言い聞かせると、彼は正規の道程へと視線を戻した――その時だった。

 彼の鋭敏(えいびん)な聴覚は蚊の鳴くような小さな音を拾い上げたのだ。


「――ゥゥ……」

「っ……!」


 地を這うようなうめき声……それは禍々しい雰囲気を纏っており、彼の心に緊張を押しつけてくるのだった。しかし彼は屈することなく、自身の聴覚に全神経を集め、うめき声の出所を探った。その時、 パカパカ……ガラガラ……と馬車が進む音を捕らえたのだった。


 音のした方――木立の方に顔を向ける。木々の合間、横道をひとつ挟んだ向こうに小さく馬車が見える。2頭曳きの豪華なタイプだ。


 そうに認識した時、馬車の前の茂みが揺れる。その様子に危機感を募らせた彼は、急がば回れの精神を投げ捨て坂道から飛び出し、太い枝を足場にしてショートカットを試みた。


 枝から枝へ飛び移り、時には幹を蹴って距離を稼ぐ。道中カラスの巣を蹴ってしまうが、それを気にする猶予(ゆうよ)もない。景色がグングン流れていき、視界が一端ひらける――折り返してきた坂道だ。道が横切っているということは、もちろん足場はない。だが、このままで落下する彼ではなかった。


 前方に手を伸ばし、向かいの木の枝を掴む。それからサルがする如くに枝を渡り、馬車の至近に迫る。すると悍ましいの呻き声が強かに耳朶(じだ)を打つ。


「グルルウウウウウゥゥゥ……」


 うめき声を捕らえた瞬間、馬車の正面に大きな、大きなクマが現れた。

 上体の筋肉が異常に発達していて、広背筋がコブのように膨れ上がっている。その重みのため猫背になっている事に加え、左右で腕の太さが違っている。この個体は右腕の方が太かった。


「ふっ!」


 そんな怪物の後ろへ、エルガーは思いとどまる事などせずに、勢いよく飛び降りた。

 そうしてクマの後ろに着地すると、ズサッと靴底が砂を噛む音が静かな山林に響く。それは無論クマの耳にも届いており、のっそりと緊張を押しつけるような威圧感を持って振り返る


「グルルル……」


 その顔は恐ろしく醜悪なものだった。


 まぶたは蜂に刺されたように剥れていて、半開きの口からは肉の挟まった牙が覗く。

 このクマは――魔物はその悍ましい外見と、凶暴さのため数多の畏怖を集めており、よく子供の教育に用いられたいた。


『良い子にしてないとカンプフベアに食べられちゃうよ』、と。


 だが大人であり、冒険者である彼は動じない。そればかりか、背中と左腰からロングソードを引き抜き、挑戦状を叩きつけるかのように吠えた。


「ダアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッッ!」


 カンプフベアというこの魔物は闘争心が非情に強く、同族間では正面に立って吠える事は決闘の合図とされているのだ。故に彼は激昂した。


「グルルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッッッッッ!」


 その残響が消えぬ間に右の豪腕が振るわれる。それは馬車を容易く潰せる程の力があったものの、巨体故の鈍足によって容易に(かわ)すことが出来た。


 後ろに飛んで回避したエルガーに、即座に裏拳が迫る。カンプフベアは広背筋が異常に発達しているが故に、その威力は極めて強く、樹木をなぎ倒すほどのものであった。


 しかしエルガーは冷静であった。


 ここが坂道であり、彼は魔物よりも高い位置にいる。必然的にその攻撃は下半身へと向かう事になると予測し、実行に移した。


「ふっ!」


 膝と胸が付くほどに脚を畳んで跳び上がると、その真下を豪腕が(よぎ)る。


 裏拳を振るった先にある坂道は、掠っていないにも関わらず、まるでシャベルで掘ったかのように抉れていた。それほどまでにカンプフベアの拳圧は凄まじいのだ。だがそれだけに勢いがある分、後隙が生まれてしまうのは必然であった。


 歴戦の冒険者である彼が、その隙を見逃すはずがなかった。


 彼は着地と同時に比較的未発達な左腕を狙いを定め、右足を前に、両手の剣を体の左に構える。それから腕の筋力だけではなく、左足の踏み込みから剣の重みまで、利用できるものを全部載せた力強い斬撃を放つ。その剣筋は鋭く、美しいと形容できるほどに正確なものだった。


「ダリヤアアアッ!」


 右手の剣が肉を裂き、左の剣が骨を断つ。彼が痛快な感触が感じると同時にカンプフベアは絶叫し、倒れるかのようにのしかかってくる。


「おっと!」


 エルガーは即座に前転し、のしかかりを避ける。するとカンプフベアと場所を入れ替える形になった。直後、ズシンと鉄球を落としたかのような重々しい音が響く。


「グオオオオ……!」


 彼がうめき声に振り返るとカンプフベアは倒れ、起き上がれないでいた。あれほどまでの巨体が片腕で――ましてや比較的未発達な左腕で持ち上げられるはずがなかった。


「ウグ、グオオ……」


起き上がろうと藻掻く姿の痛ましいこと。エルガーはこの魔物に対し、多少の憐憫(れんびん)を抱いていたがしかし、彼は冒険者。この魔物を仕留める使命を帯びてやって来たのだから、同情なんて抱くことは許されなかった。唯一して上げられる事と言えば、苦しませずに殺すことだろう。


「……許せ」


 エルガーは両の剣を振り上げ、右腕の時と同様にして魔物の首を落とした。


「ふう……」


 カンプフベアの死亡を確認すると、彼は剣を拭って鞘に収めた。それから頬に付いた返り血を袖で拭いながら馬車の方を見やる。


 そこでは御者はおろか、馬車馬さえもが放心していた。


「もう大丈夫だぞ」


 呼び掛けると彼は我に返った。


「…………はっ! あ、ありがとうございます。それでは……」


 御者はこの恐ろしい場所から一刻でも早く立ち去りたかった。エルガーもそれをわかっている為、礼節がどうのという浅ましい考えを抱かなかった。


 青い顔をした御者が会釈し、(くつわ)の向きを変えたその時、「お待ちください!」と、彼の思惑とは裏腹に主人が車内から飛び出してきた。


 主人は商人だった。羽振りが良く、貴族も()くやの壮麗(そうれい)な衣服に身を包んでいたがしかし、その顔は御者に負けず劣らず青ざめており、衣服にふさわしいだけの貫禄(かんろく)はなかった。


「いやはや……まさかカンプフベアに遭うとは…………死を覚悟した次第で……申し訳ありません。お礼の言葉も見つかりませんで」


 額にハンカチを当てがいながら謝るが、エルガーは鷹揚(おうよう)に微笑みかけた。


「礼なんていいさ。俺はギルドに頼まれてきただけだからな。それより、慌てて逃げようとしなかった御者を褒めてやれ」


 それは謙遜ではなく、事実であった。下手に動くことは捕食者を煽るにも等しい愚行である。仮に御者が馬を急かしていたならば、エルガーの助けも間に合わなかっただろう。


「……恐縮です」


 御者が脱帽する一方、主人は幾分生気を取り戻した様子で言う。


「そうですね。では後で褒美を取らせると致しましょう。あの、つかぬ事お伺いしますが、双剣にそのお手前……もしや貴方が【断罪】こと、エルガー・()()()()()()様で?」

「ああそうだ」


 短く堂々と答えると、商人は初めて明るい顔を見せた。


「おお! 命を拾ったばかりか、あの英雄にお会い出来るとは!」


 恥じらうことなく賞賛を受けるエルガーであったが、一部訂正が必要だった。彼は手を(かざ)して商人の口を塞ぐとこう言った。


「エルガー・()()()()()。それが今の俺だ」




テルドルで人気の食堂エーアステはただいま開店準備中だった。


 決して広くは無いホールの中、椅子は上げられていて、閑散としていた。

 そんなホールにはひとりの少女の姿があった。


 肩口まで伸ばしたあかね色を後頭部で結い上げ、ポニーテールにしており、それをぷらぷらと揺らしながら清掃作業をしていた。そんな彼女の、エメラルドのように澄んだ緑色をした瞳が、ふと、窓の向こうへと向けられた。


 窓枠に切り取られた景色はまるで動く絵画のようで、石畳の上を人や馬車が行き交う様はいつも変わらないようで、しかし日々、確かに変化している。


 その些細(ささい)な変化に気づく旅に、彼女は小さな幸福を感じるのだ。


 この日で言えば、お向かいさんのプランターに植えられたガーベラがツボミを付けていた。


 ガーベラという花は気品あふれる名前をしているのに加え、花弁もそれに相応に鮮やかで美しく、少女の心をときめかせた。


 あのツボミが花を咲かせた時、彼女と、ここで食事をする客たちもいっそう幸せな気持ちになれるはずだ。


 そんな素敵な想像を巡らせていると、厨房から母であり、この食堂の亭主でもあるシェーンという女性の凛とした声が響いてくる。


「リーベ、ボーッとしてないで掃除を済ませてちょうだい」

「あ、はーい」


 リーベ。それが少女の名だった。この国の言葉で愛を意味するその名を、彼女はなによりも愛していた。両親から呼んでもらえるたび、自分が愛されているのだという明るい気持ちが胸に起こり、胸をときめかせた。


 このときめきこそが少女の原動力であり、彼女は「よし」と、気持ちを引き締め、自らの任務である清掃へと望むのだった。


 そうして粗方終えた時、彼女はふと、入り口脇の壁に掛けられた1枚の絵画に目が留めた。

 それは20年前に起きた魔物の暴走――スタンピードと、それに立ち向かう冒険者たちの姿を描いたものだった。


 中央にはふたりの剣士と、ひとりの魔法使いが描かれている。

 彼らを背中から見る構図であり、画面の手前には他の戦士たちの背中や横顔が大きく描かれている。

 そして彼らの目先には種々様々な魔物たちの姿があった。


「…………」


 蜜蝋(みつろう)で磨かれた額縁には真鍮(しんちゅう)板が付けられていて、そこには『断罪の時』と、題名が彫られている。


 彼女はこの食堂に些か相応しくないその題名を、小さく呟いた。


「断罪の時……」


 呟きながらも、彼女の視線は中央の男性に吸い込まれていった。この人物は――


 カラン。


「ただいまー!」


 カウベルの音をかき消すように、生き生きとした声がホールに響き渡る。


 思わず耳を押さえながら振り返ると、そこにはリーベの父、エルガーの姿があった。


 彫りが深く、日に焼けた(たくま)しい顔。その尖った顎先にはヒゲを生やしていて、それが中年男らしい威厳を醸していた。193センチという長身と、衣服の上からでも分かる隆々とした肉体がその印象を裏付けている。


 その背中と左腰には剣がある。


 帯剣が認められているのは騎士と兵士と、そして冒険者だけであり、彼はその3つ目だった。


「もう、お父さんったら! 声が大きいよ!」


 叫び返すと彼は愉快そうに詫びられる。


「わりいわりい!」


 謝りつつもニコニコしていた彼は僅かにも反省していなかった。冒険から返ってきた時、いつも同様のやり取りをしているからだった。


「今帰ったぞ!」


 と言うと娘をひょいと抱き上げ、その分厚い唇をリーベの健康な頬に押しつけた。

 すると彼女はブチュっと押しつけられるその感触に背筋がゾクゾクした。だがヒゲのちくちくに比べれば、なんと言うことはなかった。


「痛い痛い! もお、やるならヒゲを剃ってからにしてよ!」

「なんだと! ヒゲとケガは男の勲章なんだぞ!」


 そんなやり取りをしていると厨房からシェーンががやって来た。


彼女はリーベにと同様にあかね色の髪と、エメラルドの瞳を持っていて、言わずもがな、リーベは母親似だった。


 母親らしい落ち着きと品格を併せ持つ彼女だが、夫を見ると、その瞳がほんのりと無邪気さが蘇る。彼女は微笑み、夫の帰宅を喜んだ。


「お帰りなさ――」


 言いかけたところで唇を押さえつけられる。キスは数秒に渡り、離れる頃には目元はとろけるように歪んでいた。


「……もう、リーベの前ですよ?」


 恥じらいつつも、満更でもなさそうだ。


「はは! 夫婦なんだし、こんくらい普通だろ?」


 愉快そうに笑っていたが、ふと感慨を滲ませ、真摯な瞳を妻に向ける。


「ただいま、シェーン」

「……お帰りなさい。エルガーさん」


 ふたりはじーっと見つめ合って、今度はどちらと無く顔を寄せ――


「こほん!」 


 娘が咳払いするとお母さんはハッと身を離した。

 背中を向け、そそくさと厨房へ逃げ込んでいく様は生娘のそれだった。


「もう……イチャイチャするならわたしのいないところでやってよ」

「はは、わりいわりい……」


 今度は確かな反省を窺わせた。


 そんな父親にため息をつきつつ、リーベは汗と砂埃に汚れた父親に指摘する。


「ここは食堂なんだから、汗だくでいられちゃ困るよ?」

「お、そうだな。んじゃ、俺は風呂屋に行ってくるわ」

「うん。ゆっくりしてきてね?」

「娘が働いてるのに呑気してられるかよ」


 そう言い残すとエルガーは武器をしまいに2階の住居へ向かった。


「……はあ」


 冒険から返ってきたばかりだというのに元気なものだと、リーベはため息をついた。


 それから絵画の中心に写る男性に目を向ける。


 魔物の軍勢を前にしてなお、雄壮と佇むこの男性。その背中と左腰には鞘があり、両手にはロングソードが握られていた。


 彼女はこの人物が自分の父であるという事に多少の疑心を抱いていた。






 準備を終える頃には既に行列ができていた。

 開店時間にはまだ早いけれども、お客さんを待たせるのも申し訳ない。そんな思いでリーベは厨房を覗き込んだ。そこではシェーンが料理をしていたが、彼女は手元に意識を置きながらも娘の声に耳を傾けた。


「ねえ、お客さん待ってるから開けちゃってもいい?」

「ええ。失礼の無いようにね」

「はーい」


 リーベは手鏡を取り出し、前髪を整えるとドアを開け、客を迎え入れる。


「いらっしゃいませ! エーアステへようこそ!」 


 並んでいたのは顔なじみばかりで、客と店員の関係でありながら、ご近所さんのような親しげな挨拶を交わしていった。

 狭い店内にはテーブルが6つしかない都合上、相席をしてもらうのが通例であったが、客たちは嫌な顔をせずに快く受け入れてくれた。


「リーベちゃん」


 ある客が彼女を呼んだ。それを受けてリーベは埃を立てないように、しかし迅速に向かう。そこには肉付きが良く健康そうな婦人とその夫がいた。


「こんにちはスーザンさん。ダルさん」

「はい、こんにちは」


 スーザンという女性は隣で手を(もてあそ)んでいた夫を小突く。


「ほら、アンタもむっつりしてないで、挨拶くらいしたらどうなんだ?」

「俺は単なる客だ」


 武器鍛冶として名高い彼は職人気質であり、人間関係にはとても淡泊であった。それとは裏腹に妻はフレンドリーだった。


「ごめんね? ウチの旦那は愛想がなくて。まったく、シェーンちゃんが羨ましいよ」


 そう答えるとスーザンさんは厨房の方へ――シェーンへ向けて手を振った。


 彼女とシェーンは……というよりも、彼ら夫妻とエーアステ一家はとても親しくしていたのだった。それは何故かというと、エルガーの剣も、シェーンが愛用するナイフも、全てはダルの作であったからだ。


 そうした親交があるが故に、リーベはダルが無愛想であることに何の不満も抱かなかった。


「いえ。お待たせしてすみません。ご注文をお伺いします」

「いつもので頼むよ」

「はい。『鶏のグレントマト煮』と『ザクザクバゲット』ですね」


 トマト煮はエーアステの看板メニューで、バゲットと組み合わせ特に人気だった。


 それを裏付けるかの如く、周囲からは「同じの!」と手を上げる人が続出した。


「はーい! ありがとうございます!」


 開店直後というのはオーダーが重なる為、大変であるのだが、常連の人々は同じ注文をすることによって、料理人に掛かる負担を軽くなるよう、気を遣ってくれるのだった。


 このお店は愛されている。


 リーベがそう実感する瞬間だった。







「美味しかったよ。また来るね」

「ありがとうございます! またのご来店をお待ちしております!」


 最後のお客さんを見送ると濡れた毛布を被ったみたいに疲労がのし掛かってくる。


 溜め息をつきつつ、表の札を『準備中』に変えたその時、「もし」と男性の声がした。


「はい?」


(お客さんかな? だとしても、今はお迎えできないんだけどな……)


 リーベはそう考えていたが、どうやら違うらしい。


 男性は背広を纏い、立派な髭を蓄えた紳士で、リーベの目には、貴族か商会の会長と言った風に写った。見慣れない人物に首を傾げると彼は丁重に用件を述べる。


「お仕事中に失礼致します。こちらがエルガー・エーアステ様のお宅だとお聞きしたのですが」

「ああ……ごめんなさい。生憎お父さんは不在で――お急ぎですか?」

「いえ。急用という程ではございません。実はわたくし、ここへやって来る道中で魔物に襲われまして。危ないところをエーアステ様に助けて頂いたのです」

「そうでしたか……ご無事で何よりです」


 もしエルガーの助けが遅れたら彼は亡くなっていたのだと思うと、リーベはゾッとさせられた。それは彼も同様で、滲んだ汗をハンカチの角で吸い取っている。 


「お礼をと思って伺った次第なのですが、不在とあれば仕方がありません。わたくしは急用を控えておりまして、不躾(ぶしつけ)ですが、お嬢様の方からお伝え頂けますでしょうか?」

「分かりました。……父もきっと喜ぶはずです」


 素直な言葉に彼は微笑んだ。


「いやはや……立派な娘さんをお持ちのようで! あの、コレはせめてものお礼として……」


 そう言ってこぶし大の革袋を差し出される。微かにジャラリと、硬貨が擦れる音がした。


「そんな! お父さんもギルドの方から報酬を頂いていますので――」

「そうとおっしゃらずに! 救われるに甘んじるは商人の恥ですので!」


 動揺している隙に、半ば強引に金を渡されてしまった。その重みはそのまま、感謝の重さなのだろう。


 同様の事が過去にも数度あった。エルガーに助けられたという人々は皆、深い感謝を示していた。リーベはそのたびに、自分の父が大人物なのだと思わされてきた。同時に、いつも見ている父の姿が、ほんの一面でしかないのだと、わからされるのだった。


「それでは。失礼致します」


 彼は会釈をすると、通りの向かいに停めてあった馬車へと向った。


「あ!」


 結局受け取ってしまったが、今更どうしようもないと、彼女はひとまず母に渡す事に決めた。

 ずっしりと重たい革袋を手に厨房へ向かうと、そこにはランチタイムを凌ぎ、ホッと一息つくシェーンの姿があった。


「お母さん、これ……」


 袋を差し出すとシェーンはギョッと目を剥いた。


「だ、誰に貰ったの」

「商人って言ってた。テルドルに来る途中でお父さんに助けて貰ったんだって」

「そう……困ったわ……」


 悩ましく溜め息をつきながら頬に手を添える。


「リーベ。お父さんはギルドからちゃんと報酬を貰ってるんだから、お気持ちだけを頂戴しないとダメでしょ?」

「断ったよ! だけど、断り切れなくて……」


 言葉が消え入ると、ふたりは困り果ててうなった。


 しばらくすると、シェーンは割り切り、丁重な手つきで袋を受け取った。


「仕方ないわね。もしかしたらまたいらっしゃるかもしれないし、それまでは預かっておきましょう」

「うん……その、ごめんなさい」

「良いのよ。それだけお気持ちが強かったという事なのだから」


 励ましの言葉を口にしながらも、その顔には夫を誇る気持ちが隠せていなかった。


「それよりお父さんったら、やけに遅いわね?」

「確かに……また誰かと話し込んでるんじゃない?」


 主婦と冒険者は話し好き、というのは通説だ。


「私はお昼の用意をしておくから。リーベはお父さんを呼んできてちょうだい」

「うん、わかった」


 エプロン畳み、カウンターに置いてからリーベは外へ繰り出した。

 






 この街、テルドルは高山地帯に築かれた街で、豊富な石材を生かした建築が盛んだ。お陰で嵐に負けない頑丈な家が建ち並ぶものの、石造りであるために無骨な印象を与えてしまっていた。それ故に、エーアステのお向かいさんみたく、家を花で彩る人が一定数いるのだ。


 リーベは岩山のような光景を横目に歩いていると、前方に知り合いの冒険者が見えた。


 スキンヘッドで、強面の男性。彼は頭頂に陽光を煌めかせながら駆け寄ってくると、存外高い声で呼び掛けてくる。


「ああ、リーベちゃん! ちょうど良いところに!」

「こんにちは、バートさん。そんなに急いでどうかしましたか?」

「それがね、エルガーさんとボリスが我慢比べしてたんだけど、ふたりとものぼせちゃって」

「ええ⁉」


 挨拶も()()()に風呂屋へ急行する。


 青空の下、広場には出店や露店が所狭しと並び、主婦や休暇中の冒険者で賑わっている。その中には仕事をさぼって間食をする衛兵の姿も。その怠慢さに呆れつつもふたりは広場の喧噪から外れ、風呂屋の方へ向かった。


街に点在する風呂屋は決まって横長の建物で、その前には利用者が涼しむためにベンチがいくつか据えられていた。その内の2台には真っ赤な顔をした男たちが横たわっていた。


「お父さん!」

「お……リーベか。ちょうど良いところに」


 エルガーは言うなり「あー」と大口を開けた。


「もう、仕方ないんだから!」


 リーベは腰に付けたホルダーからワンド(短い魔法杖)を取り出し、先端の(たま)を父の口内へ向け、念じる。するとチョロチョロと水が出てきて、エルガーの火照りきった口内を湿らせる。


「ごくごく……ぷは! 風呂上がりは娘の出した水に限るぜ!」


 妙な言葉に衆目が集まる。


「もおーっ! 変な言い方しないでよ!」

「そのまんま言っただけだろ?」

「それが変だって言ってるの!」 


 言い合っていると周囲からクスクスと笑う声がした。

 その声にリーベが羞恥を抱く一方、向こうのベンチでエルガーと我慢比べしていた冒険者ボリス声をあげる。


「リーベちゃん、俺にも水をくれ~」

「あげません!」






 

 父を連れての帰り道、リーベは不機嫌に鼻を鳴らした。 


「まったく……お父さんのせいで恥かいちゃったよ!」

「な~いい加減、機嫌直してくれよ」

「いーや!」


 先へ先へとつま先を繰り出すも、視界の隅から父がいなくなることはなかった。連れ帰ってくることが当初の目的であるのだから何も間違ってはいない。むしろどうして振り払おうとしているのか、もはや彼女自身にも分からなくなっていた。


 だが、冒険者を父に持つ彼女にとって、父親は身近でありながら遠い存在だった。それだけに父が離れずそばにいてくれるのはとても心地よかった。


「……ふふ」

「なにニヤけてんだ?」

「ニヤけてない!」


 コツコツ靴を慣らしているとエーアステに――彼女らの家に着いた。リーベはドアの前に立ち止まり、数瞬の間を経てドアノブに手を掛けた。その時、彼女の胸に温かい気持ちが弾けた。


「…………」

「どうした?」


 父が顔を覗き込んで来るも、娘は顔を背ける。


「ううん。なんでもないの」


 そう答えると、大きな手のひらが頭に乗った。


「……そうか。なら、帰ろうぜ?」

「…………うん」


 彼女はドアを開いた。


 今は準備中でホールはガランとしているが、テーブルのひとつには3人分の食事が用意されていた。その脇には配膳を進める母、シェーンの姿があった。彼女はふたりに気付くとにっこりと笑みを浮かべ、出迎えた。


「あら、おかえりなさい」

「ただいま」


 父と娘。ふたりの声が重なった。







 今日の昼食はトマト煮とサラダと丸パンだった。


「お、今日はトマト煮か!」


 好物が食卓に並び、エルガーは頬を(ほころ)ばせた。


 彼らは日頃、余り物とか、傷んできた食材ばかりを消費している。だから看板メニューであるトマト煮が食卓に出るのはとても稀なのだ。


「今日はお父さんが頑張ってくれたものね」

「そういえば、お父さんが冒険に出るのも久しぶりだよね」


 エルガーは冒険者業を引退しているがしかし、時折、冒険者活動をすることがあった。今回の冒険は前回から実に2ヶ月ぶりのことだった。


「ねえ、今日は何と戦ったの?」

 リーベがパンを千切りながら尋ねると、エルガーは口に運び掛けたスプーンを下ろし、しばし黙考すると答えた。

「ん? ああ……ラウドブロイラーだ」


 ラウドブロイラーとは、ニワトリを二回りほど大きくしたような魔物だった。その名の通り大声で叫ぶのが特徴で、これをもって外敵を凌いでいるのだった。


 しかしリーベは食堂の娘として、ラウドブロイラー魔物としてではなく、食材として注目してしまう。

 その身は大きく、それでいてニワトリより味が良い。家畜化はされていないが、一体から沢山肉がとれるためにそれほど値段も張らないという素晴らしい食材なのだ。


「ねえ、ラウドブロイラーってどのくらいうるさいの?」

「そうだな……森が震えるくらいか?」

「そんなに⁉」


 リーベはあんなになぜラウドブロイラーを家畜にしないのだろうと常々思っていたが、その疑問が今日、解決されたのであった。


 彼女が得心する一方、シェーンが別の話題を呈する。


「あの、さっき商人の方があなたを尋ねていらして、お金を置いていったんですよ」

「商人……アイツか。礼はいいって言ったんだがな」


 エルガーは困って頭を掻いた。


「それで、また来るっていってたのか?」 


 お母さんがわたしに目を向ける。


「ううん。急用があるからって……ああ、あと、よろしく伝えてくれって」

「そうか……リーベ。俺はギルドから貰うもん貰ってんだから――」

「それは私の方からも言いましたよ」

「そうか」


 他の冒険者なら『貰えるもんは貰っとけ!』って言いそうなものだが、エルガーは違った。

 そのことにリーベは、商人が深く感謝してくれているのは、父の誠実さに感服しているからなのではないかと、分析した。


「…………」


 不思議に思って見つめていると、エルガーがニヤリと笑んで娘に顔を寄せた。


「どうしたリーベ? 俺に惚れちまったか?」

「違うよ!」

(まったく、しょうがない人!)







昼食を摂るとエルガーは仮眠を取るべく寝室へと引き下がっていった。一方でシェーンはディナーの仕込みを、そしてリーベは店内の掃除をした。


「掃除終わったよ?」


 以前はは亭主であるシェーンによるチェックがあったが、最近では無くなった。それは信頼の証であり、リーベは報告するたびに誇らしい気持ちになった。


「それじゃ、こっちにいらっしゃい」


 シェーンがリーベを厨房に手招く。それに応じて厨房に回る。

 彼女はこの家の娘であるからして、将来的にはこの食堂を継ぐのだ。その為の修業として、数年前から仕込みを手伝いつつ、料理を教わっていたのだった。


「グレントマトの湯むきをするから、お湯を沸かしておいて」

「わかった」


 鍋を軽く洗い、かまどに置く。


 それからワンドを取り出し、魔法で水を張り、(たきぎ)に火を点ける。このように魔法は調理において重要な役割を持つ。故にリーベは料理人修業の一貫として魔法を身につけたのだった……もっとも、世の主婦は大抵使えるものだが。


「氷水も用意しとく?」

「あ、お願い」

 ボウルを用意して、魔法で氷と水を出す。

「それじゃ、トマト20個を湯むきしておいて」


 料理の勉強に奮闘する内、ディナータイムまであと1時間を切った。するとシェーンは娘を労い、休息を言い渡す。


「お疲れ様。開店まで一休みしていて」

「ううん。わたしも手伝うよ」

「ありがと。でも、もうやれる事は殆どないから」

「そう? じゃあ、休憩入るね」


リーベと厨房を出たその時、居住区に通じるドアからエルガーが現れた。


 彼は寝癖を立てていて、頬には腕で枕をした跡がある。寝起きなのは誰の目にも明らかであるが、目はシャキッとしていて、眠気を微塵も感じさせない。その奇妙な姿が可笑しく、彼女は小さく笑いながら問い掛ける。


「ふふ、おはよう。もう寝なくていいの?」

「ああ。たったの半日だったからな。そんなに疲れてねえんだ」

「へえ……」


 彼は早朝も早朝、まだ日も昇らないような時間に出ていったのだ。その上で魔物と戦っているのだ。にも拘わらずこの元気さ。リーベは父の体力に感心させられてばかりだった。


 と、その時、ゴンゴンと、ノッカーが鳴った。


「誰だろう?」


 リーベはドア脇の窓から外を覗いた。そこには昼間見たのと同じに馬車が見えた。


(あの商人さんだ)


 彼女は応対しようとドアノブに手を伸ばすが、「俺が出る」と父に先を越された。彼がドアを開けた時、リーベはチラリと商人の姿を捕らえた。


エルガーは傍聴(ぼうちょう)を嫌ってドアを閉めたが、隣の窓が開いている為、ふたりの会話は筒抜けだった。


「おや……お休み中にでしたか?」

「ちょうど今起きたとこさ」

「そうでしたか……お察しの事と存じますが、伺いましたのは一言、お礼を申したいからでございます」

「ああ。リーベから聞いてるさ」

「おお、美しいお名前で。いやはや、そのお名前に相応しい立派なご令嬢でございました」

「俺の娘だからな」

「ふふ。お嬢様に言伝をお願い致しましたが……やはりどうしてもわたくしの口から一言、お礼を申しておきたかったのです。度重なる訪問、失礼致しました」

「いいや。そんなに感謝して貰えるなら、冒険者冥利に尽きるってもんだ」

「恐縮でございます……何分、蜻蛉(とんぼ)返りする予定でございまして、護衛を雇っても随伴できないと判断したのでございます。ですがまさか……こんな時に限ってカンプフベアに遭遇するだなんて――」

「か、カンプフベア⁉」


 恐ろしい名前にリーベは思わず叫んでしまった。ハッと口下を覆うがしかし、彼女の動揺は周囲に響き渡っていた。その証拠に外では会話が止まり、厨房からはシェーンが青い顔を覗かせていた。


「……失敬」

「……いや。だが、気の緩んだときに限って災難に遭うものさ」

「ご高説、痛み入ります」


 その時、ドアを開けてエルガーが顔を覗かせる。


「リーベ。アレを持ってこい」

「あ、うん……」


 お礼に頂いたお金を父に手渡すと、彼女そのまま外に残った。

 夕焼けの下、商人は彼女を見ると丁重に会釈をした。リーベが恐る恐る返す一方で、エルガーは商人に金を差し出した。


「カンプフベアが出たんだ。森の魔物は気が立ってるに違いねえ。今からでも遅くねえから、ギルドに行って冒険者を雇うことだ」


 商人は恥じ入るように目を瞑ると、粛然と金銭の返還を受けた。


「……承知いたしました。命をお助けくださったばかりか、ご忠言まで頂いて……もはや、感謝の言葉もございません。お言葉に従い、早急(さっきゅう)に護衛を雇おうと思います」

「ああ。道中、気を付けてな」

「お、お気を付けて……」

「はい。それでは、失礼致します」


 商人が馬車に戻ると、真新しい衣装に身を包んだ御者が整然と主人を出迎えるのだった。

 


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― 新着の感想 ―
こんばんは。 非常に拝読しやすく、するするとお話を追うことができました。やはり小説というのは、こうでなければ(笑) 場面ごとに変わる雰囲気や空気感のようなものが巧みに描写され、読み応えのある作品である…
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