スコーンを盗む伯爵夫人が可愛いので今日も僕は負けてしまう
「――あだっ!?」
心地良い眠りが突如遮られティモシー・コリエルは声をあげる。
「――痛っぁ……」
寝ぼけまなこを擦りながらティモシーは身を起こす。
痛みは鼻の上からだ。
一体何が――って、なるほど。
隣で眠る妻、ミア――いや、ミア・コリエルの右手がティモシーの口元に乗せられていた。
要するに寝ぼけたミアの裏拳がティモシーの鼻に思い切りぶつかったわけだ。
――ったく、本当に迷惑なんだから。
ティモシーが穏やかに微笑みながらミアの頬を撫でる。
ベッドの上でされるキスでも抱擁でもない細やかな愛情表現――ティモシーの細やかな習慣だった。
何年も続く――。
「じゃ、まぁ……」
心底本気で思っていると十分に伝わるミアの重い寝言。
え? 邪魔って――ひどすぎない?
最愛の妻の言葉にティモシーは思わず苦笑いをしながら呟くのだった。
「――君、本当に変わったね」
***
「え? 私寝ぼけながらそんな酷いことしちゃったの!?」
朝食の最中ミアは思わず声をあげる。
逆に寝ぼけてなかったら流石にショックだよ。
「あぁ。おまけに髪の毛撫でていたら、邪魔なんて言ってきたよ」
「あー、それは何となく記憶にあるかも」
「記憶にあるのか」
「うん。気持ち良く寝ているのになんか違和感あったんだもん。何というか本当に鬱陶しかったというか」
――そんな風に思われていたのか。
ティモシーは思わず落胆する。
長年の習慣だが常にこんな事を思われていたんだろうか?
「あー、あのさ。別に嫌じゃないよ? 今日だけたまたまそう思ったというか。それくらい今日は気持ち良く寝ていたの」
「本当?」
「本当よ。と言うか、今更本心を隠したりしない――よっと」
そう言いながらミアはティモシーの皿からスコーンが奪われた。
「ちょ……何してるの」
「え? だって、私これ好きだし」
当然のように言うミアに対して背後にいた年老いた侍女がわざとらしい咳払いをする。
「――奥様。何度もお伝えしたと思いますが伯爵夫人として相応しい振る舞いを」
そう。
ティモシーはまだ年若いが伯爵だった。
とはいえ、こうして妻にさえ朝食を奪われるほど権力は小さかったけれど。
「いいじゃん。家族しかいないんだから」
「私も含め侍女が三人ほど控えております」
「私にとっては家族だもん」
あっ、ヤバ……。
ティモシーは恐る恐る自分の乳母でもあった女性を見つめた。
ミアの教育係も務めた彼女は――。
「……ミア。何度も教えたけれど普段から立ち居振る舞いに気をつけなければいけないの」
意外なほど穏やかに笑った。
いつもなら口うるさい説教が入るはずなのに――。
「はいはい。公務では気をつけます」
「ちょっ――また取らないでよ! 僕のがなくなるだろ」
「ティモシー様。あなたは夫として妻を諫める立場であるのですから、もっとどっしりと構えてください」
「えっ、僕には注意するの?」
あまりにも理不尽な言い様に睨みつけると彼女は肩を竦めてばかり――子供のように笑うミアを無視して。
……まったく。
いつの間にか日常となってしまった光景にティモシーは脱力するばかりだった。
「――本当に君、変わったね」
「でしょ?」
呟かれた言葉にミアはくすくすと笑うばかりだった。
***
「ティモシー様。失礼します」
部屋の扉が開いて年老いた侍女が入って来る。
「どうした?」
「ミア様のことです」
「何かあったのか?」
「はい。実は……」
「今は二人だ。普通に話せ」
ティモシーの言葉に侍女は辺りをちらりと見回した後に頷いた。
「あの子。昨日は眠れなかったみたい」
「そんな馬鹿な。昨夜も僕がベッドに入る頃には既に眠っていたぞ」
「寝ていませんよ。寝ていた振りをしていただけ」
「あいつに演技なんて出来ないだろう?」
侍女はこれ見よがしに大きなため息をつく。
彼女が心底呆れた時のサイン――そんなに変なこと言ったかな?
「あのね。女は誰でも演技をするの。特に大好きな男の前で」
「大好きな男の前ではか」
「ティモシー。ちゃんと聞きなさい。今はニヤニヤする場面じゃない」
「確かに普段の態度とは大違いだな」
「……もう立派な伯爵になったって言うのにお説教してほしいの?」
本気で怒っている。
ちゃんと聞かなきゃダメか。
「あの子ね。昨日は眠れなかったの。ぼうっとして中庭に立って――私が起きるまでずっと」
「君が起きるまで? それじゃ、まだ空は暗いじゃないか」
「ええ。一体いつから起きていたのか、私にも分からない」
ティモシーは思わず黙り込んだ。
もしかして朝のあの寝相はあまり眠れなかったからか?
――いや、寝相は寝相か。
「ティモシー。あなたは笑顔を作りながら相手の腹を探り決して出し抜かれない素晴らしい伯爵となった。かつてのお父様と同じようにね。だけど、一番身近な人の心を見通すことが出来ないようじゃあなたは夫として失格よ」
「……夫としてか」
「私達の主としては満点でもね。だからこれは侍女としてじゃなく人生の先輩としてはっきり言うけれど、もっと妻の心労にしっかり気づいてあげなさい――本当に変わったねの一言で終わらせるなんて馬鹿みたいなことはやめなさい」
何も言い返せずに視線を落とす――すると。
「まぁ、あの子は本当に変わったと私も思うけれどね」
視線をあげると生まれた歳に等しい付き合いの侍女は呆れ笑いをしていた。
「とても上手く隠している。偉そうなことを言っている私も今日まで確信を持てなかったほどにね」
丁寧な一礼をして侍女は部屋を後にした。
***
『君の名前は?』
その一言がティモシー・コリエルとミアの出会いだった。
摘発された奴隷商人の最後の商品。
他の商品はもうどこにもなかった。
物陰で震えるミアは差し出されたティモシーの手を取ることさえも出来なかった。
獣のように喉を鳴らして威嚇しティモシーの僅かな動きにビクリと震えるばかり。
だからこそティモシーは手を差し出し続けた――彼女が掴んでくれるまで。
*
『えっ。ずっと起きてたの!?』
ミアを連れ帰った翌朝、ティモシーは思わずミアに叫んでいた。
びくりと震えるミアにティモシーは慌てて告げる。
『ごめん! 怒っているわけじゃなくて――驚いちゃって』
連れ帰った後もティモシーから離れようとしなかったミアのため急遽用意された簡易ベッド。
彼女はそこに身を横たえることはおろか腰を掛けたりもせず、ずっとその隣で立ち続けていたのだ。
『眠って良かったんだよ。と言うか、眠ってもらうために用意したんだから――』
呆れた言葉にミアは慌てだし震えながら謝罪を続ける――息一つ、動き一つにも気を抜けない日々を過ごして来たんだ。
そう理解したティモシーはそれからしばらくは同じベッドで寝るようになった。
居心地悪そうな彼女が寝息を立てるまで待ち、穏やかな呼吸を確認してからようやく眠る。
そんな生活が随分と続いた――ミアが一人で眠るようになれるまで。
**
『これは……』
呆然として呟くティモシーの前でミアは首を小刻みに横へ振った。
『隠していたみたいですね――少しずつ』
ようやく一人で過ごすようになったミアの部屋から出てきた大量のスコーンに侍女は頭を抱える。
『そんな風にこっそり隠しているからお腹も空くんです。まったく。そんな事なんてしなくても大丈夫なのに』
涙を流して謝るミアに侍女は気まずそうに目を逸らす。
当然ながら怒っているのではない――呆れているだけだ。
侍女と目が合ったティモシーは頷いてミアへ言う。
『隠さなくても大丈夫だよ。取り上げたりしないから。ただ腐っちゃうからね。次からは別の場所に置いておこう』
『はい。ごめんなさい……』
しっかりと返事を――いや、声を出してくれるようになったのはこの頃だ。
それまでは本当に喋れないのではないかと疑う者さえいるほどにミアは何も喋らなかった。
――もう、十年以上も前のことだ。
***
「ミア」
「どしたの?」
ティモシーの呼びかけにミアはいつものように返事をする。
――記憶を疑ってしまうほどに彼女は別人だ。
「寝る前に一戦しないか?」
「チェス? いいね。いつもみたいにコテンパンにしてあげる」
「今日は勝つさ」
実際、ティモシーは昔からミアに一度も勝てたことはない。
きっと、それは彼女が心を開いてから学んだものの一つだからだろう。
――つまり、ミアは一切の遠慮をしない。
「チェックメイト」
「……うっ」
あっさりと詰む。
「もっ、もう一回……」
「はいはい。今日は何回戦になるかしらね」
詰む。
詰む。
また詰む。
きっと、もうミアは飽きているだろうに彼女は何も言わない。
「変わらないな」
「あなたの弱さが?」
「そうじゃないさ」
昼間にした侍女との会話が思い出される。
女は誰でも演技をする――特に大好きな男の前では。
淀みなく動いていたミアの手が止まる。
「――聞いたのですか?」
少しだけ震えた声に、敬語。
ティモシーは盤面に目が釘付けになりそうだった――あまりにも申し訳なくて。
しかし、ここでミアの方を向かなければ何も変わらない。
視線が重なる。
――良かった。ちゃんとこっちを見てくれている。
「あぁ」
「申し訳ありません」
「謝る必要はないさ」
「ですが……」
「責められるべきは僕の方だ。君の心に気づけなかった」
ルークが落ちた。
取るに足らないポーンであっさりと。
「君が幸せであると疑いさえしてなかった」
「そんな! ――私は幸せです!」
「あぁ。だが、演技は必要だった」
「――っ」
ナイトがポーンを阻もうとした。
しかし、騎士の型破りな動きは今この瞬間ではちぐはぐなだけだ。
「許してくれ」
「いいえ……私が悪いんです。幸せを受け入れるのが怖い、私が」
「君は変わらないな」
「……許してください」
「いいんだ。ゆっくりと静かに変わっていこう」
ポーンが最奥に至る。
取るに足らない駒が――全てを支配する駒へと変わった。
「だから、僕のことも許してくれ」
「……はい」
「『はい』?」
「――っ。うん!」
笑う妻の表情にティモシーもまた微笑む。
「それでいい――じゃ、チェックメイト」
「――は!?」
直前の雰囲気はどこへやら。
ミアは目を白黒させながら盤面とティモシーを何度も往復した。
「よし。それじゃ、今日はもうおしまいだ」
「えっ!? いや! それはないでしょ!?」
「悪いが僕も疲れてるんだよ」
「いやいやいやいや! 伯爵様! それは流石にずるいって!」
「油断した君が悪い」
「いやいやいや! 良い話してたからじゃん! えっ!? もしかして嵌められた!?」
「良い話はしていたよ」
「ちょっ――」
肩を掴んで子供染みた事を言う最愛の妻を見つめながらティモシーは微笑む。
「ミア」
「あっ、もう一戦してくれる?」
「少しずつ変わっていけばいい――今日のチェスの勝敗みたいにね」
「いやいやいや! え!? 本当にこれで寝るつもり!?」
伯爵夫人ミア・コリエルの声が夜の屋敷に響き渡る。
彼女の幼い頃を知る使用人達はその声を聞きくすくすと笑うばかりだった。