第一篇 しゅにら様の祠(六)
ミカサは、正面中央で膝を突く千鳥を見遣る。
「千鳥さん、怪我はありませんか?」
「はい、私は……。叔父さんがかばってくれたんです。だから……その……」
善二の肩口には血が滲んでいた。
村人に暴行を受けたのだろう。千鳥を庇おうとした結果だ。
「そうですか、あなたが……。善二さんはこの村の儀式に、ずっと反対だったのですね」
ミカサを村から追い出そうとしたのも――
これ以上誰かが巻き込まれないようにと、彼なりに必死であったのだ。
「そ、そうだ。この村は狂っている! しゅにらとかいう、わけの分からんものを神などと――」
「それは少し違います」
「え……?」
「まず、しゅにら様とは何なのかを説明したほうがよさそうですね」
ミカサはショルダアバッグから、和綴じの本を一冊、すっと取り出した。
当主・彦右衛門がその表紙に目をとめる。
「それは――」
「地上の奥殿で見つけました。守部神社の御祭神について記された古文書です」
淡々とペエジを捲りながら言う。
「まあ、古文書といっても文政十一年。およそ百二十年前程度のシロモノですがね」
本来ならば――
神聖な儀式への闖入者であるミカサは、たちどころに取り押さえられてもおかしくない場面。
だが、そうはならない。
第一の理由は、ミカサの隣に控える《しゅにら様》の存在。
たとえ守部美優が存命していたとしても、この異形の巫女を制圧するなど不可能であっただろう。
その巫女は、村人にとっては信仰の対象でもあり、恐るべき連続殺人事件の容疑者ですらある。
第二の理由は、ミカサが切り出した『御祭神』についての話題だ。
村の者たちはおしなべて信心深い。
そうでなければ、このような狂気の儀式を綿々と続けられるはずがあろうか。
ミカサの語るしゅにら様のルウツ。
村人たちはまるで、神事における説法を聴くかのように――
静まりかえり、その言葉に耳を傾け始めていた。
「守部仁久良主神……それが守部神社の御祭神の、正式名称です」
あちこちから息の漏れる音、小声でその名を復唱する音。
その中にあって、彦右衛門と喜兵衛だけは口を閉じたまま聴いている。
彼らだけは、その真名を元より知っているのだ。
「しゅぶ・にぐ・らす……が訛って《しゅにら様》になった。ここまではまあ、よくある話ですが――」
ぱらぱらと捲っていたた古文書をパタンと閉じて。
「この村以外では聞かない名ですし、恐らく海外から持ち込まれた信仰でしょうね」
それを聴いた喜兵衛が、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「な、何をぬかすか! 守部仁久良主神様はのう、こ、古事記にも記されとるんじゃぞっ!」
「それ、偽書だから燃やしたほうがいいですよ……。いや、貴重品かな?」
幻秘探訪録の編集部にでも持ち込んだら、喜んで買い取ってくれそうだ。
「そ……それで、その御神体が、しゅにら様なんですか?」
たまりかねたように、村人の一人が尋ねた。
信仰の対象を前にして、自然と敬語になってしまっている。
その言葉の内容からも分かる通り――
彼らは、『御祭神』と『御神体』を同一視しているのだ。
本来、祭神とは信仰の対象であり、御神体はその依代に過ぎない。
だがこの村では、御神体を『神そのもの』として崇めていた。
それは、いつからか。
古文書には記されていない。それはそうだ。
信仰の歪みが始まったのは、五年前なのだから。
ミカサは、その歪みの是正を試みる。
「彼女は、しゅにら様ではありませんよ」
「しゅにら様……では、ない?」
「言うなれば彼女は――《シミュラ様》ですかね」
「え? し、しみゅら……様?」
ざわざわと、波紋が広がっていく。
「名前が似ているだけで、しゅにら様とは全く別の存在です。当主さんはご存知ですよね?」
彦右衛門は、呆れ果てたような表情で。
「当然じゃ……。しゅにら様を供物になどするはずがなかろう。何を言っておるんじゃ」
村人の視線が彦右衛門に集まった。
自分たちの当主が何を言ったのか、分からないというような顔で。
その中で、ひときわ驚いた顔をしているのは喜兵衛だった。
「村の人たちは大きな勘違いをしていました。それに、屋敷から滅多に外へ出ることのない当主さんは――村人たちの勘違いに、ずっと気付けないままだったんですね」
ミカサは溜息を吐いて。
「彼女は《終末存在》です」
明かされた御神体の正体に、再び場はざわめき出した。
「終末存在って、あれだろ……サンドワアムとかの」
「暴走したRAVとかもあるって話だけど……」
「でも、『それ』はどう見ても――」
ミカサがその言葉を継いだ。
「どう見ても人間、ですよね」
そう。
最初に見たときこそ――
赤黒い包帯や擦り切れた神事服、異形の両手足、真っ白な髪などを恐ろしく感じたのだが。
それらの要素を除けば、十五歳程度の小柄な少女でしかない。
表情は全く変化しないが、健康そうな顔色ですらある。
その声は、外見同様に瑞々しく可愛らしい。
平均年齢の高い守部村では耳にしない種類の声であり、千鳥のそれとも当然違う。
「彼女は――《模倣者》だ」
「もほう……しゃ?」
善二が、小さく「あっ」と声を漏らした。
終末帰りの彼は、その言葉をどこかで耳にしていたのだろう。
「終末以前の医学書にも散見される《クロオン人間》という概念。人の姿かたちをそのまま真似て作り上げた、そういう『型抜き』のような存在。いや、もっと精密に言うならば、肉体の『設計図』をこっそり拝借して、もうひとつ同じ肉体をこしらえた……そんな存在です」
村人たちに、語られる言葉の意味がしっかりと伝わったわけではない。
だが、その技術が神の創造にも等しいものであることだけは、彼らにも理解できた。
「だ、誰がそんなものを作った……!」
「終末存在を創った者ですか? そんなの誰も知りませんよ。それが分かっていれば、イイルディングなんて起きなかったのと違いますか?」
ここまで、まるで技術指導の教官のように、すらすらと語ってきた男。
そのミカサが、あっさりと説明を放棄した。
「イイルディングってのは、いったい何なんだ!」
「人類の終末とは、言葉で説明できるようなものではありません。それは、ただそこにある終焉です」
村人たちは押し黙った。
そんなことは、この時代の者なら誰でも分かり切っている。
イイルディングとは、どうしようも出来ないもの。ただそこにある終末。
そういうものなのだ。
「その……しみゅら様、か? そ、そんなに血塗れなのは……どうしてなんだ」
村人の一人が発した震える声。
それは心配する声というよりは、連続殺人事件――
その包帯が、これまで手に掛けられた四人の被害者の血を吸っているのではないか、という疑念。
「これは血ではありません。ATFです」
「エエティ……なんだって?」
「オオトマチック・トランスミッション・フルウド――潤滑用の、機械油です」
「あ、油ァ?」
「不純物が混ざったり、時間が経って劣化すると赤黒く濁る。乾いた血に見えないこともないですが……。まあ、国内だとほぼ手動ギヤ車しかないしな。誰も知らないのは無理もないか」
後半は独り言だったのか、口調に素が混じる。
「あ……。ちょっと待て配線屋。祠を最初に開けたのって――」
祠を最初に開けたのはミカサだ。
あのとき、指先にねっとりと絡みついた赤黒い液体。
見物していた者たちもそれを目撃している。
「ええ。最初から血でないことは分かってましたし、そうなると御神体の祟りなんかでもない。美優さんもそう言ってましたしね」
肩から力が抜けたように、村人たちは安堵の気配を見せる。
その中で喜兵衛だけは、神妙な表情を崩さない。
「しかし……なんで御神体に油なんか差してあったんだ……?」
「それは御神体の手足を見てもらえば分かりますよ。おい、シミュラ様」
まさか、この場で包帯を取るというのか。
村人たちの間に張りつめた空気が走る。
いくら可愛らしい少女とはいえ、その異形の手足を直接目にする勇気はない。
思わず目を背けようとした者もいる中――
シミュラ様は微動だにしなかった。
「おい……シミュラ様?」
ミカサはもう一度名を読んだ。
シミュラ様はミカサをちらりと一瞥する。
表情は全く変わらないのだが、何か不満を表明しているようにも見える。
やがて彼女はあきらめたように一歩進むと、両腕を前方に突き出した。
その瞬間、包帯がひとりでに解けていく。
いや、解けるというより、まるで物質そのものが分解されるように。
布片ははらはらと地面へ舞い落ちた。
それだけでも異様な光景だったが、肝心なのは包帯の中身。
それは、人間の腕とは似ても似つかない構造だった。
金属の骨に関節を組み合わせたような、まるでショベルカアの腕。
指の一節一節にまで、精密な軸受と配線が走っている。
例えるなら、鋼鉄で編んだ蜘蛛の脚のようだった。
ひと目で人工と分かるのに、どこか生きている印象すらある。
包帯は両腕のみならず、両足のそれも完全に除去されたようだ。
破れほつれた巫女服の隙間からは、同様に機械の脚が覗いている。
「な、なんだありゃ……! く、車の部品をつなげたんか……?」
「いや、もっとこう……鉄でできた虫みてえな……」
それを聞いたミカサは。
「はて……?」
村人たちの反応が予想と違ったのか、小首を傾げる。
「おかしいな? あなた方はイスミさんの機械義肢を見ているはずなんですが」
膝を突いたままの千鳥が、小さく肩を震わせる気配がした。
「イスミぃ? いや、あれとは全然違うぞ?」
「というより、なんでそこでイスミの名前が出るんじゃ?」
「イスミの腕は、もっと普通の形というか」
無表情のシミュラ様が、その言葉にぴくりと反応して口を開く。
「その腕ってもしかして――」
突如、シミュラ様の腕の表面が粉のようにさらさらと崩れていく。
だが、腕そのものまでが崩れ落ちることはなく。
数瞬後には、細身で滑らかな義肢へと変貌した。
「――こんな腕ですかい」
村人たちは、不可思議な現象そのものよりも、現われた腕に気を取られ。
「そ、それじゃ!」
「イスミと同じ腕だ!」
――いや、今なんで語尾を変えて喋った?
ミカサだけが全く別の感想を抱いていた。
それが小泉八雲の『貉』の模倣であったのかどうかは、模倣者シミュラ様のみぞ知る。
「しっかし、今のはどういう仕組みなんじゃ」
首を捻る村人たちに対し、再び説明を始める。
「ナノマシンリム。極小機械の集合体で、ご覧の通り形も変わります。この義肢に整備は必要ありません。もっとも、それが判明したのはイイルディングも末期の頃の話。中途で除隊した玄蔵さんは知らなかったのでしょう。だから、必要もないのに油を差していた」
玄蔵という名が出た瞬間、場の空気がわずかにざわめいた。
「油なんか差しても、体外に染み出してきてしまうんですよ。だから包帯で覆った。邪魔なオイルと包帯のせいで、本来無音に近いはずのナノマシン義肢は音を立てるわけです。キイ……キイ……ってね」
包帯が解けた後のシミュラ様からは、確かに先ほどまでの音がしない。
「油を差していたのは、玄蔵じゃったのか……」
「イスミもよく、汚れた包帯しとったのう」
「なあ……なら、イスミももしかして――」
その流れを受けて、ミカサが静かに肯定する。
「そうです。あなた方がイスミと呼ぶ五年前の『歩く御神体』。彼女――いや、彼なのか? ともかく俺はそれを知りませんが、このシミュラ様と同じ終末存在であったことはまず間違いないでしょう」
「なんでそれが、しゅにら様ってことにされちまったんじゃ? 名前が似ているから勘違いしたとかか?」
「恐らくそんなところでしょうが……。真澄さんならもう少し、詳しくご存知なのではないですか?」
真澄は噂話を好み、村の中では情報通として知られている。
納得したような視線が、真澄へと集中した。
「芳江さんが言い出したのよう」
真澄の第一声は、第二の事件の被害者である芳江の名だった。
「玄蔵さんが、当主家にイスミちゃんを連れてきたときのことなのよね。お屋敷の台所やってた芳江さんが聞いたのよ。しゅにら様を千鳥ちゃんの代わりに供物にするって、そんな相談を聞いたって言ってたわ」
供物台の上に膝を突く千鳥は、小刻みに肩を震わせていた。
真澄は、村の秘事である儀式の内容に踏み込むようなことまでべらべらと喋っている。
部外者のミカサも聴いているのだが、今さら気にもしていないのだろう。
「その噂が広まって、イスミさんはしゅにら様と同一視されるようになった。そういうことですか?」
「あの頃はまだ半信半疑の人も多かったわあ。でもねえ……。つい最近になって、利作さんが言ってたのよお」
第一の事件の被害者、利作の名が浮上した。
微かなざわめき。
――ここで、芳江に続いて利作の名前が出てくるのか。
だが、それに深い意味は無い。
人口たった二十五人の村。
第一と第二の被害者が、歪みの発端と一致したのは偶然でしかない。
それに発端は玄蔵ともいえるし、噂を広めたであろう真澄ともいえるのだ。
「玄蔵さんが進駐軍と話してるの、利作さんが聞いたのよお。『ああ、今度の御神体もしゅにら様になるな』って――そんなふうに言ってたんだって」
偶然の立ち聞き。重なる誤解。
半信半疑の噂を補強する形で御神体はしゅにら様となり。
そして、その影響は過去のイスミにまで波及し――
御祭神と御神体を同一視するという歪みが、ここに完成した。
「それって、結局は両方とも聞き間違いだったというこっちゃろ?」
村人たちは、確認するかのようにミカサに視線を向けた。
そう。
しゅにら様の真名が守部仁久良主神であるように。
あるのだ。
シミュラ様にも真の名が。
「イイルディング・シミュラクラム・エミュレエタ」
ミカサはその名を告げた。
「今となっては、玄蔵さんがその正式名称を果たして呼んでいたのか、略して『シミュラ』と呼んでいたのか。それとも……ふざけて『しゅにら様』と呼んでいたのか。真相は分かりません」
「玄蔵はちいとおかしな奴じゃったが、流石に神様の名で遊ぶようなバチ当たりはせんじゃろ」
「それはどうでしょうね。シミュラ様の正式な略称は別にあります」
村人たちは顔を見合わせる。
技術者である玄蔵が、わざわざ本来とは別の略称で呼んでいた以上、そこに遊びの意図がなかったとは言い切れない。
「正式名称の頭文字はY.S.E.――その略称は《イイス》」
小声で略称を繰り返す者がぽつぽつと。
何かに気付いたように。
「《イイス》だから《イスミ》、とは何とも安直ですが。終末存在の『通称』とはそんなものです」
その名の由来を初めて知った千鳥が、顔を上げる。
「イイルディング中期に新種の終末存在として発見されたイイスは、眠ったまま目覚めない個体もあれば、能力のほとんどを喪失した個体もあります。ここに居るシミュラ様は前者であり、イスミさんは後者だったんでしょうね。仮に本来の力であれば――」
ミカサは一度、言葉を切って。
「――あなた方が、イスミさんを食べることなど不可能だったのですから」
地下拝殿の中は、水を打ったように静まり返っている。
当主の彦右衛門が、一歩前に出た。
「ミカサ君といったの。なるほど、君の話はよく分かった。村の者たちの誤解を正してくれたことにも、当主として礼を言わせてもらおう。それで――」
儀式の長は、おごそかな声でミカサに問う。
「――君は、千鳥が供物にされるのを止めに来たのかね? 御神体を返却するならそれでも構わんが、『それ』を解体するのは村の者には無理そうじゃ。君が請け負ってくれるなら手を打つが、どうじゃ」
ミカサは長めの息を吐いた。
「もうよしましょう。間もなくこの村には進駐軍がやって来ます。ここで罪を重ねても後々不利になるだけですよ」
「清一が君に車の修理を依頼したのは、そもそも進駐軍の紹介じゃったな。だが、進駐軍が用も無くこんな村に来ることはない。そして、国警が儂を捕まえることもまた、無い」
当主の顔色には、焦りなど微塵も無い。
流石は守部の神主といったところか。
「進駐軍が動く理由は、まさにこのシミュラ様ですよ。動かないはずの《遺物》を民間に払い下げたのに、動いて騒ぎを起こしているんですからね。国際問題というやつです」
彦右衛門の眉がぴくりと動いた。
「いいですか? 終末のイイルディングから終末後、すなわちポスト・イイルデッドに時代が移ると共に、終末存在もその名を《遺物》へと変化させたのです。未だ混乱が続く国内で、この遺物に対処できる組織は進駐軍のみ。それが――《遺物案件》だ」
当主と話をしているというのに、村人たちはざわついている。
迷っているのだ。
ミカサの狙いは時代錯誤な人身供犠を止めさせることであり、彦右衛門が逮捕されようがされまいが、そんなことはどうでもいい。
――恐らく、この妖怪みたいなジジイを説得するのは無理だ。
ならば。
「仕方ねえな……少し、荒療治が必要か」
誰にも聞こえぬよう独りごちると、ミカサもまた一歩前に出る。
「千鳥さん。あなたは危険な祭礼に巻き込まないようにと、俺に薬を盛ったのですよね?」
それは、唐突なひと言。
今まで全く会話に参加していなかった千鳥に対し、彦右衛門を無視する形でミカサは切り出した。
「は、はい……。他に思い付かなくて。本当に……ごめんなさい」
動揺しつつも、供物台の上から肯定の言葉が返される。
しかし。
「残念ですが、それは――余計な気遣いというものなんですよ」
「え?」
「何故ならこの守部村には。無関係な人間を傷つけようとする、悪人なんてひとりも居ないのですからね」
「……………………は?」
ミカサは口の端を吊り上げると、これまでほとんど見せることのなかった笑みを――
凶悪な笑みをその顔に浮かべた。
「だってそうでしょう? 御祭神と一体化する儀式は神聖なものだ。外からどう見えるかはさておき。村の人たちにとって、それは悪事でもなんでもないのですから」
「そ、そんな……! 本気で言ってるんですか、配線屋さん!」
見下すように千鳥を見ていた目は、再び彦右衛門へと向けられる。
「当主さん、あなたはどう思われますか」
「無論、君の言う通りじゃ。祭礼の是非を決めるのは神であり、法などではないわ」
彦右衛門の声は老いにより多少の震えはあるものの、力強く言った。
そしてミカサの視線は、新たな標的へと移動する。
「なら――喜兵衛さん。あなたはどうなんですか」
「わ、わしぁあ……」
喜兵衛も震え声だった。しかしそれは老いではなく、恐怖から来るものだった。
「守部仁久良主神には麦饅頭を以て供ふるを正しとす。然るに近年、童児を祭儀の供物と為す風習、漸く村中に流行す」
ミカサの読み上げるそれは、古文書に記された一節だ。
「喜兵衛さん。あなただけは、ずっとおかしいと思っていたんでしょう。本来なら、神と同じ供物を食べることで一体化するのがこの儀式。もっとも供物とは、人ではなくマンジュウを捧げるのが本来の正しい作法だったようですが。いずれにせよ、神そのものを食べるのはおかしい、と。だから、祟りがあると恐れていた」
喜兵衛はその言葉を否定しない。
「神様に捧げるんは『村の子』のはずじゃろうが……。それが、いつの間にやら『神様そのもの』を喰うてしもうたと思っとった……。そげなもん、祟らんほうがおかしかろうが……」
「あなたが五年前、実際に食べたイスミさんの正体はシミュラ様であり、しゅにら様ではなかったわけですが――しゅにら様だと信じて食べたという、その事実は消えません」
真実は、残酷にその罪を問い詰める。
「……さよう、そげなことよ……信仰ちゅうもんは、外じゃなく、心の在りようで決まるもんじゃけえな……――ゆえに、祟りもまた消えはせんのじゃ……」
村人たちのざわめきが、いっそう強まった。
未遂とはいえ、村人は《しゅにら様》を食べたのだと思っていた。
その場合は――どうなるというのか?
「美優さんは生前、この事件は祟りなどではないと、言い切っていましたよ。つまり彼女は――《しゅにら様》を食べることに全く抵抗がなかったのです。そんな者が、《守部仁久良主神》を崇めていたと言えるのでしょうか?」
話を聞く村人たちは、あることを恐れている。
それは祟りなどではない。
その恐怖は今、決壊寸前であった。
ミカサの視線が、じっと村人たちを見据える。
「あなた方は、信仰そのものを間違えている。儀式の是非はさておき――この中で《守部仁久良主神》を本当に崇めていたと言える者が、果たしてどれほどいますか。崇敬者と呼べるのは、喜兵衛さんと当主さんくらいなものでしょうね」
今――
断罪される者とされない者。
その狭間にワイヤアが掛けられた。
すなわち、儀式そのものを否定する千鳥と善二。
逆に、信仰心を持つ喜兵衛と彦右衛門。
以上四名。
ワイヤアの向こう側に取り残された『供物』は――
残る、十六名の村人たちだった。
「信仰心を伴わない人身供犠。つまるところ、あなた方はただの――」
わずかに間を空け、審判は下される。
「――《人殺し》で、《人喰い》だ」
断罪の言葉が降り落ちた瞬間それは起きた。誰かが叫んだわけではない、誰かが斬られたわけでもない。ただその言葉、人殺しで、人喰いだ。その響きが耳ではなく心臓に刻まれたのだ。最初に膝をついたのは航平だった。地を這うように四つん這いになり両手両膝を地面に押しつけたまま胃の奥からこみ上げるものを抑えきれずに嗚咽と共に汚物を吐き出した。それでも彼は言葉を発しない。言葉を出せば自分の罪を認めてしまいそうで。あるいは神罰として舌を裂かれるような気がして。ひとり、またひとり。拝殿に膝を落とす者が続いた。呻く者。目を見開いて泡を吹く者。自分の口元を、血が滲むほどに噛み締める者。拝殿の灯りが揺らぐたび誰かの影が終末の光景のように壁に伸びた。誰の目にも明らかだった。彼らはいま信仰を失ったのではない。信仰の本質を今になって見てしまったのだ。祟りは神からもたらされたものではなかった。それは信じた者自身の内部から膨れ上がる罰だったのだ。まるで御神体の視線に心の底を焼かれているかのように。守部仁久良主神。かつて麦饅頭を供えられた、ただの神名に過ぎなかったその存在がいまやこの地を支配する呪いとして立ち上がっていた。それを真に否定した者が生き延び、また、それを真に信じた者も生き延び、名を、名だけを信じた者はいま、終末とつながるワイヤアの火花に精神を焼かれていた。
千鳥も、善二も、喜兵衛も、彦右衛門も。
村人たちが正気を手放していくその光景を、ただ呆然と眺めるより他になかった。
そして――終末と今を繋ぐ配線屋は、村人たちにこう語り掛ける。
「ご理解頂けましたか? これが――人類の終末です」
《Yielding Simulacrum Emulator(Y.S.E.)》――
イールディング中期において初確認された新種の終末存在。
高い自己修復性を備え、サンドワーム種を上回る戦闘値を記録。
稼働個体は危険度S級とされる一方、未稼働状態で発見される例も多い。
未起動体の研究利用も検討されている。
――U.S. ARMY TECHNICAL FILE 9820-A
(イールディング期・米軍対終末存在調査資料より)