第一篇 しゅにら様の祠(五)
溶けかけたソオダアイスを頬張りながら、ミカサは村道を歩いた。
甘ったるい味が口の中に広がる。こんな場面でも、味覚は正直だ。
袋の端から、透明な雫がぽたりと指先に落ちる。
駐在所の前に人影が見えた。加納だ。無事な姿に、少し肩の力が抜ける。
「配線屋? 今まで何処に。本官はてっきり、お前まで……」
声には安堵と苛立ちが入り混じっていた。
ミカサは、ソオダアイスの棒を口から抜きながら小さく答える。
「色々、ありましてね」
加納は目元をしかめ、辺りを見回した。
「村の者がどこにも居ないんだ。嫌な予感がして仕方ねえ」
風が吹く。鳥の鳴き声も、犬の吠え声も聞こえない。
駐在所のラヂオネット端末が、小さくノイズを吐いた。
依然として、繋がらないらしい。
「RAVで、通信が出来る場所までひとっぱしり行ってくる。外はサンドワアムがうろついてるかもしれねえし……村の中と外、どっちが危険なのか分かったもんじゃねえが、お前も来るか?」
「いえ、俺は残ります。事態は一刻を争う。国家地方警察の応援、すぐに来れますか?」
「それは……」
一瞬、加納の言葉が濁る。無理もない。
国警の応援部隊がこの山間に着くまで、どれだけ時間がかかるか。
村はほぼ――外界から孤立している。
「では、進駐軍に連絡してください」
その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに揺れた。
「進駐軍? あいつらが動くもんか。確かに大ごとではあるが、所詮は国内の殺人事件だぞ?」
「殺人事件なんかで進駐軍は動かない、その通りです。それでも連中が動く理由はある。それは殺人事件とも、しゅにら様とも無関係。この村で起こっていた、全く別の事件だ」
ミカサの言葉に返されるのは、訝しげな反応。
「は……? いったい何のことだよ、それは!」
「遺物案件」
はっとしたように、加納の動きが止まる。
「進駐軍には、《配線三笠》の名前を出してもらって構いませんよ」
「お前……いったい何者なんだ?」
*
守部神社の地下には、地上とは別の空気が流れている。
石組みの地下隠し拝殿は薄暗く、灯火の油が燻る匂いが染みついていた。
奥の壁には、ちょうど地上の祠と同じ位置に、同じかたちの祠が築かれている。
その扉には太い縄が一本、取っ手のような突起に何重にも巻きつけられていた。
拝殿内、中央に据えられた供物台。その上に、千鳥が跪いていた。
白装束。腕は後ろ手に縛られ、顔はまっすぐ前を向いている。
目を伏せることも、逃れることも許されていない。
村の者たちは、声を出さない。
老若男女、整列した者たちは、それぞれの定められた位置に立ち、動かず、瞬きさえ少なかった。
声が響くのは一人だけ。巻物を読み上げる老人の、湿った声だけが、空間の隅々まで染み渡っていく。
供物を囲む輪の中、年若い男がひとり、やや前に出た。
航平だった。
供物台の手前で木箱を開き、儀式用の刃物を両手で持ち上げる。
長布がほどかれ、鉈とも刀ともつかない異様な形状の刃が露わになる。
鈍い光が、刃の峰にだけわずかに宿った。
「始めよ」
当主・守部彦右衛門の声が、空気を断つ。
航平が、一歩、供物台へとにじり寄る。
刃を振りかぶろうとした、その刹那――
「やめろおっ!」
怒声とともに、男が飛び出す。
当主家次男・守部善二その人である。
航平の肩を突き飛ばし、その手から刃物を奪い取る。
布が裂けるような音がして、若者の身体が拝殿の床に叩きつけられた。
善二は、そのまま供物台の前に立ちはだかった。
刃を握りしめたまま、ゆっくりと周囲を見回す。
「誰も動くな!」
その命令に反し、一人の男が前へ出た。
村長・守部清一。
供物台と、刃を握る弟の間に立ちはだかる。
「やめろ、善二。お前は何をしている」
声は低く、だが震えていた。
「これは神事だ。何百年も続いてきた、正しい儀式だ。――それを、お前が勝手に止めるというのか」
善二は応えない。黙って兄を見据えていた。
「お前は、この村のことを何も知らない。ずっと、外にいたくせに。戻ったからといって、勝手な真似をする権利なんか、どこにもないぞ」
善二の手が、わずかに震えた。
だが、その刃は下がらない。
「それが、あんたの言葉か……あんたの娘を殺す儀式に、黙って従えというのか」
震える声。それは――怒りの声だった。
「何が神事だ! 何が伝統だ! あんたは自分の娘を台に乗せて、何も感じねえのか!」
清一は答えなかった。
言葉を呑み込んだのか、それとも返す言葉がないのか。
善二は千鳥の後ろにしゃがみ込む。
儀式用の剣で、その両腕を縛る縄を手際よく断ち切った。
「叔父さん……どうして?」
「すまない、千鳥。私はずっとこの村から逃げていた。私が地上までの道を開ける。お前は逃げろ。駐在か配線屋を頼れ」
「どうして……なんで……今さらそんなこと言われたって!」
瞬間――
背後から振り下ろされた衝撃が、善二の肩を砕いた。
短く息が漏れる。視界が揺れる。
腕から剣がこぼれ落ち、石の床を跳ねる。
背後に立ったのは航平だった。
彼の手には、金属製の灯火台の脚が握られている。
「甘いんですよ、善二さん」
そして、ゆっくりと歩み出た当主・彦右衛門が口を開く。
「やはり。お前には無理じゃったな、善二」
感情のない声だった。
父親の声ではなかった。
それは『儀式の長』として、役割を損なった者へ下す冷ややかな裁定だった。
善二のまわりに、ゆっくりと、村人たちが歩を詰めてくる。
無言で、整然と。まるで、ひとつの生き物のように――音も無く。
きい……
音も無い――はずの空間で、不意に、何かが軋んだ。
きい……
それは古びた戸車が、忘れられた蔵の扉を引きずるような音。
きい……
誰ともなく、拝殿の奥へ視線が向かう。千鳥も、釣られるように振り返った。
きい……きい……
それは、拝殿の奥壁にぴたりと取り付けられた――
祠の中から聴こえてくる。
扉の突起には太い縄が何重にも巻きつけられ、動かぬように縛り止められていた。
「しゅ……しゅにら様の祠――」
恐怖に震える声でそう告げたのは、守部喜兵衛。
あの縄を掛けたのは、喜兵衛だった。
御神体が『出入りする』と本気で信じていたらしい。
祠の左右には巻き付ける場所もなく、ただ突起に縛ってあるだけ。
外すのは簡単。ただし――
祠の中からは、絶対に開けられない。
ぎしぃ……
木製の扉が軋む音、続けて――
どん…… どん……
内側から扉を叩くような音。
喜兵衛は知っている。
縄を掛けたとき、祠の中は空だった。
みしぃ……
続く音が何なのか、最初は誰にも分からなかった。
みちぃ…… みちっ……
それは、祠を封じる太縄の繊維が――
ひとつ、またひとつと弾け飛ぶ音だった。
だが――
縄がすべて切れるよりも先に。
扉のほうが、内側から破砕された。
破片が周囲にぶち撒けられ、風が吹いたような音が拝殿を撫でた。
太縄はその勢いに巻き込まれ、宙を舞いながら散り落ちた。
裂けた祠の奥、闇の底から――
白……いや、赤黒い染みに侵された包帯が浮かび上がる。
その包帯に包まれた腕は、人の形をしていなかった。
節くれ立ち、異様に太く歪んだその腕。
その異形の腕は、神事服――いわゆる巫女服の袖から生えている。
袖は先端から裂け、擦り切れて。
更に、その上に載る頭。
長い――真っ白な髪に覆い隠されている。
きい…… きい……
耳障りな音を立て、ずるずると地を這うように――
それは、祠の奥から這い出てきた。
「うわあああぁああぁぁっ!」
「ひいいいぃぃぃいいっ!」
「祟りじゃあああぁぁぁああ!」
村民たちは大恐慌に見舞われた。
異形の巫女は、ほんの数歩だけ進み立ち止まる。
そして、ゆっくりと振り返った。
その視線は――
開け放たれた祠。
まるで黄泉の底にでも通じていそうな、闇へと向けられた。
その祠の前には。
いつの間にか、一人の人影が立っている。
「これでいいんですか? ミカサ」
「ああ、ご苦労だったな」
異形の巫女が、きいきいと音を立てながら道を開ける。
ミカサは一歩、前に出た。
巫女は、その横にぴたりと控える。
まるで、御祭神しゅにら様に仕える巫女――
否、御神体しゅにら様そのもの。
村人たちは、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
「お……お前は配線屋!」
「な、なぜ貴様が……しゅにら様を従えているんだ!」
しゅにら様にすっかり目を奪われていた村人たちは、改めて男の姿を見る。
進駐軍の払い下げ、アメリカ製の安物作業服――M43型ジャケット。
胸には《配線三笠》の屋号が縫い付けられている。
髪型は、近頃流行りのリイゼント。
だが、撫でつけていたはずの黒髪は――ポマアドの粘りを振り切って跳ね上がり、怒髪天を衝くように逆立っていた。
「お、お前はいったい――」
跳ね上がった髪を、両手で抑えつけるように後ろへと流す。
「終末時代と、今の時代を繋ぐワイヤア稼業――ただの、配線屋です」
《進駐軍》――
イールディング後の復興支援協定に基づき進駐した軍隊です。
配電や通信、道路の整備などを通じて、生活の再建を助けています。
地元の皆様との協力により、作業は円滑に進められています。
各支隊の連絡所まで、お気軽にお声がけください。
――GHQ SUPPORT HQ / Public Liaison Div.
Inform.Doc.PX-2「復興協力の手引き(郡域版)」