第一篇 しゅにら様の祠(三)
「殺された? それは、どいういう――」
「分かりません、私には何も……。でも、きっとそうなんです」
「自殺、ではないんですね?」
「自殺……? はい、イスミはそんなことしません。絶対に」
もっと詳しく聞くべきだろうか。
しかし、震えている千鳥を見るとそこまでする気にもなれない。
どうせ加納が戸籍簿から死因を突き止めてくれる。
詳しい話は、その後に必要ならすればいい。
有力容疑者に関しても、何も言わないほうがいいだろう。
同じ村の人間だし、若い彼女に聞かせるには酷と思われる。
特に……善二は彼女の叔父だ。
「配線屋さんは、これからどうするつもりなんですか? やっぱり、玄蔵さんに聞き込みを?」
――まずいな。
最有力容疑者であるイスミの保護者。
玄蔵への聞き込みをする際、千鳥に付いて来られるのは問題だ。
「いや……玄蔵さんにイスミさんのことを聞くのは酷だろうから、そんなことはしません」
「そ、そうですか? そうですよね、それがいいです」
彼女もどこかほっとしたように、同意してくれた。
「じゃあ。今日はもう遅くなってしまいますが、明日はどうしましょう?」
――ぐいぐい来るな?
美優といい、守部の血筋なのだろうか。
適当にあしらっておくのが得策だ。
「そうですね……祠でも調べてみようかと思います」
「消えた御神体ですね。分かりました! それじゃあ、また明日に」
下駄の音をコツコツと響かせて、千鳥は去っていく。
その背中を見送りながら、ミカサは小さく呟いた。
「……結局、付いて来るのか」
となれば、明日は本当に神社に行くしかない。
祟りなんてあるはずもないのだが。
*
翌朝のラヂオ青梅・害獣予報は、相変わらずサンドワアム注意報だった。
「……家に帰る、という選択肢は俺には与えられないのか」
当主家の表座敷での朝食。
昨日と同じように、いや、昨日よりもさらに静かに進む。
千鳥も同席していた。
一瞬だけ視線が合うと、彼女は小さく頷いた。
逃げられない。
朝食を終え、当主家の玄関を出る頃には、空はすっかり晴れ渡っていた。
だが、地面はまだどこか濡れていた。夜半に露が降りたのだろう。
空は明るくとも、湿った空気と、遠くで風に揺れる木々の音が、不穏な気配を引きずっている。
「配線屋さんは、祟りとか信じたりします?」
並んで歩く千鳥は、控えめな足取りでついてくる。
「今回の件に関しては、信じませんね」
「この村にはなくても、祟りはあると?」
神社まではそれほど遠くない。
村の中心に近く、木立に囲まれたその場所は、日が昇ってもなお、どこか薄暗い。
「祟りなんか見たこともありませんが。終末存在なんてもんが、あるくらいですからね」
「終末存在って、サンドワアムみたいな……ああいうの、ですよね?」
「そうです」
鳥居をくぐり、わずかな石段を上がると、拝殿が現れる。
拝殿の戸を手をかけて横に引くと、きい、と控えめな音を立てて開いた。
中はひんやりとしている。
木の床板はところどころ擦り減り、柱には煤のような汚れが浮かんでいた。
「正直に言うと私、サンドワアムなんてクマやイノシシと変わらないというか……それはまあ、大きさは全然違うし、危険だということは分かりますけど」
「実体があるし、動物の一種にしか見えないから、祟りのように不思議な存在とは思えないってことですよね。まあ、その感覚は正しいですよ。モンスタアとゴオストの違いといいますか……」
奥の祠も、一昨日と変わらずそこにあった。
中は空っぽだった。最初に開けたときと同じく、何もない。
あるのは赤黒い染みだけだ。
ミカサは静かに息をつき、視線を祠の横へと移した。
そこに、もうひとつの扉がある。格子戸ではない、施錠された板戸。
「……これは?」
「奥殿です」
千鳥が小さく答える。
「神様をお祀りする道具や、古い記録を納めてある場所で……普段は誰も入りません」
神聖な場所。
だからこそ、誰も調べようとしなかったのだろう。
しかし、ミカサの思考はそこで立ち止まらなかった。
――御神体を隠すのは大変だと、美優は言っていたな。
祠の中が空であるなら、中身の御神体をどこかに移した者がいる。
では、どこに?
この奥殿ほど、うってつけの場所が他にあるだろうか。
「やっぱり、そこが怪しいですよね」
千鳥がぽつりと口にする。
「……開けます?」
「え?」
「鍵、持ってきました」
袖の奥から、千鳥は小さな鍵束を取り出してみせた。
鍵が錆びついた錠に差し込まれ、鈍い音とともに扉が開く。
明かりのない奥殿の中は、目を凝らしても端の方までは見渡せなかった。
古びた棚が並び、壁際にはいくつかの神具や文書箱が置かれている。
だがここには、大きなものがない。
確かに、文書棚などはそれなりに場所を取るが、あれは祠に入るような形状ではない。
あの狭い祠の中に納められ、且つ一人で持ち運ぶのが困難なもの。
そういった、『ちょうどいい大きさの何か』が、見当たらない。
「千鳥さんは、祠の中身が何だったのか知ってますか?」
「人形だそうです」
「人形?」
それはやはりあれか。
髪が伸びると噂されるような、あの手のアレなのだろうか。
「実物大で、物凄く精巧な出来らしいですよ。真っ白な髪で」
「あー……」
――そりゃあ皆怖がるわけだ。
正直、そんなものは動かなくても怖い。
やはり、この奥殿の中には見当たらないようだが。
人間大の物体が、棚の陰や帳の裏にでも隠されていないだろうか。
そう考え、壁際へと進む。
棚の裏を覗こうとしたミカサは、不意に目に入った一冊の表紙に目を留めた。
――『守部……』
そう記された最初の二文字は読み取れたが、そのあとの文字は擦れていて判別できない。
かろうじて末尾には『……主神縁起』とある。
守部神社の御祭神に関する古文書のようだ。紙焼けのように黄ばみ、分厚く綴じられている。
その場でさっと読み終えられるような代物ではなかった。
ミカサはそれを棚から抜き取って手に取りながら、ぽつりと呟く。
「そもそも、しゅにら様ってのは何なんでしょうね?」
「しゅにら様は、しゅにら様としか……」
問いかけに、隣から返ってきた声は拍子抜けするほど素朴だった。
千鳥は目を伏せるように笑っている。
幼い頃から当たり前のように祀られてきた存在。
村人にとっては、そんな扱いが普通なのかもしれない。
「この本、借りたらマズい……ですよね?」
「絶対バレないと思いますけど。後で渡してくれれば、こっそり戻しておきますし」
当主家のお許しが出た――ということにして、使い込まれた革製のショルダアバッグに古文書を滑り込ませる。
消えた御神体は、犯人を特定する手掛かりになり得る。
守部神社の信仰を辿ることで隠し場所に心当たりが浮かぶのなら、それだけでも収穫だ。
そんな都合よくいくことは、流石に無いかもしれないが。
「それ、事件の手掛かりになるんですか?」
「いやまさか。でもちょっと気になるんですよね、この神社の御祭神。地縛霊じゃあるまいし、神社で祟りなんて」
「あら、でも。天神信仰とかがありますよ。ほら、道真公の」
ミカサは、やや低い声で答える。
「御祭神が祟る――というのは、例外中の例外です。確かに天神信仰なんかは有名ですけど、あれは『怒らせてしまった神様を鎮める』という信仰のかたちなんです。神の祟りというのは、本来の信仰が歪んでしまったサインだ。神様に恨まれても仕方がないことを、人の側がやったってことです」
「…………それは、確かにそうかもしれませんね」
千鳥は、神妙な顔で頷いた。
神社を出て鳥居をくぐると、隣を歩く千鳥が問いかけた。
「次はどうします? やっぱり聞き込みですか?」
「さっきの本を読みます。時間かかりそうだし、捜査はお休みですね」
「そ、そうですか……。うん、それがいいですね。ゆっくり休んで下さい」
参道を出たところで千鳥と別れた。
そこそこに厚みのある古文書だ。読むのに多少は時間がかかるのも確かだが。
ちょうどいい口実が、転がり込んできたものだ。
これで落ち着いて聞き込みができる。
――まずは、駐在所だな。
「ないぞ。戸籍簿に、イスミなんて奴はいない」
「えっ?」
「五年前に死亡届けもない。それで、駐在所に来た村の者に聞いてみたんだがな……」
加納は戸棚から書類を取り出し、もう一度確認する。
口調は落ち着いているが、視線は僅かに鋭さを帯びていた。
「イスミのことは知っていたし、死んだのも確からしい。でも何事もなく共同墓地に埋葬されたから、単なる病死か何かじゃないのかって言ってたな」
ごく僅かな期間しか村にいなかったため、戸籍の登録そのものがされていなかったのだろう。
五年前はイイルディングの真っ最中だ。
村も混乱の最中にあり、住民票や出生記録といった概念は、終末の霧の中に沈んでいたのかもしれない。
「加納さん……」
「ん?」
「共同墓地の場所と、それから――守部玄蔵の家を教えてください」
ミカサの問いに、加納は一瞬黙り込んだ。
眉をわずかに寄せて煙草の火を指先で揉み消すと、無言で腰の拳銃ホルスタアを軽く叩いた。
「……じゃあ、案内するよ。ついでに、墓の場所も一緒に見とこう」
「いいんですか?」
「あんた一人で行かせるほうが後で面倒だ。そもそも、本官もちょっと気になってたんだ。そのイスミの墓、本当にあるのかってな」
村の外れ、森の縁にある共同墓地までは、当主家の裏を回るように進む。
獣道にも等しい小径を進むと、やがて小高い丘の斜面に、墓石が不規則に並んだ一角が見えてきた。
「ここが村の共同墓地だ。名前が彫ってあるのは、最近のもんだけだが」
加納が低く呟いた。
雑草の伸びた中を、ふたりは並んで歩いていく。土はまだわずかに湿っており、靴の裏に柔らかな抵抗を感じさせる。
丘の一段高くなったあたりに、人影が見えた。
細身の男が、ひとつの墓の前にじっと立っている。
守部 航平。
村の男性としては最年少で、唯一の二十代。一昨日の食事会で顔は合わせたが、特に話はしていなかった。
もし、イスミの死因が痴情のもつれによるものであれば。
年齢の近かった彼は、容疑者と考えられなくもない。
「あれ? 駐在さんに……配線屋さん? 珍しいところで会いますね」
「ああ。ちと墓を探しててな」
ミカサは口を開かず、軽く会釈だけしておいた。
――誰の墓参りに来てるんだ?
まさか、とは思うが。
「駐在さんがお墓参り? 誰のお墓を探してるんです?」
「五年前に亡くなった、イスミさんだ」
――さあ、どう出る?
航平は、加納からすうっと視線を外すと――足元の墓へと目を落とした。
「イスミの墓なら、これですけど」
思わず横目で加納を見た。一瞬視線が交差する。
考えることは同じか。
「名前は……無いんだな」
「合同墓ですからね、これ」
複数人の遺骨を、ひとつに納めた墓石。
「合同の墓ってわけか。みんな同じ苗字でも、無縁仏とか出るんだなあ……」
加納は素朴な感想を言った。無縁仏は仏教なのだが。
だが神社しかない村でも、そんな違いを気にする者はあまりいない。
そういうものなのだ。
「この村では、昔から孤児を引き取ることもよくあったみたいですからね。イスミもその一人だったわけですし」
臆することなく、加納は更に踏み込んだことを聞く。
「航平君にとって、イスミって子は特別だったのか?」
「……え? 違いますよ、来るのはこの時期だけです。だって今日はイスミの――」
航平の目がかすかに揺れた。
「――命日ですから」
玄蔵の家へと聞き込みに向かう道すがら、ミカサがぽつりと口を開く。
「さっきの合祀墓なんですが」
「ゴウシボ? ああ、合同の墓な。それが?」
「孤児を引き取ることがよくあったそうなのに、村には守部姓しか居ない。どういうことなんですかね」
「そりゃあお前、養子になりゃ姓も変わるだろ。結局は皆、守部になるってことさ」
「なら、あの墓に埋葬されているのは――」
「おい……配線屋!」
突如、加納が声を荒げて前方を指差した。
その先を視線で追う。そこには、一軒の民家。
門扉の様子がおかしい。
どこかで見た気がする。
既視感。
あの――
赤黒い文字――
――『しゅにら』
「ありゃあ、玄蔵の家だぞ!」
門扉はあっさりと開いた。
玄関も鍵など掛かっていない。
――美優のときと同じだ。
加納が靴を脱ぐ暇も惜しんで踏み込み、ミカサもそれに続いた。
中は静まり返っている。
畳の上には埃がうっすらと積もっており、生活感は乏しい。
廊下の突き当たり、半開きになった障子の隙間から、古い電気スタンドの灯りが見えた。
その部屋の中央、作業机の前に男がいた。
男は椅子に座ったまま、机に突っ伏している。
「おい……玄蔵さん?」
加納が呼びかけても、応えはない。
机の上にはインク瓶が倒れ、黒々とした染みが広がっていた。
背中に――血の滲んだ裂傷。
ミカサが数歩近づいた瞬間、視界が引き裂かれるような違和感が走った。
男の首筋。
そこに、白木の棒が突き刺さっている。
幣束――
その白い紙垂が、赤く染まって微かに揺れていた。
儀式のように。あるいは――晒しもののように。
第四の事件。
被害者は守部玄蔵、五十二歳。
元、旧軍の技術者――そして、イスミの保護者。
守部………主神には麦饅頭を以て供ふるを正しとす。
然るに近年、……を祭儀の……と為す風習、漸く村中に流行す。
……たる者は、年未だ二十に至らざるをもって適ふべし。
此れ元の祭祀に非ず。神意の可否、神職すら測り難し。
――『守部………主神縁起』(文政十一年/守部神社神職筆録)