第二篇 みぐぜんの轍(九)
「そいつぁ、ワシらが呼んだのよ。重五郎の研究成果を――ありがたく『説法』してもらうためにな」
乙松が誰にともなくそう言った。
御館様の澄江とて、氏子総代補と複数の長老衆の総意ともなれば、軽々しく扱う訳にもいかぬ。
ミカサは靴を脱ぐと、ひとり拝殿の中へと進んだ。
「本日、中原神社の例祭にお招き頂いたのは、中原村の起こりについて、皆さんの前で語らせてもらうためです」
澄江は険しい顔を崩さず、長老たちは興味深げにその言葉へと耳を傾ける。
村長の正信だけが事態を呑み込めず、額に冷や汗を浮かべていた。
「延宝四年丙辰、すなわち西暦一六七六年。信州、長野県の人々が武蔵のこの地に流れ着きました。木を伐り、土地を拓いて社を建て、この場所に住み着いた。神籬を立て、八州の神々を祀り、村の名を『中原』と定めます」
ミカサの読み上げたそれは、神社の敷地にある石碑の一つに刻まれた文言を、現代語に訳したものだった。
ここまでは誰もが理解できた。
だが、最後の部分に至って、長老たちは顔を見合わせ首を傾げる。
「ちょい待て、配線屋。そこは中原じゃなくて中原じゃろ?」
長老の一人が、訝しむようにミカサへ問いかける。
「いいえ、『なかはら』で合っています。『ながら』という読み方は、長い歳月のなかで訛り、変化したものでしょう。この村の歴史が、それほどまでに古いという証左でもあります」
長老たちは「ほお」とか「へえ」などと、感心したように声を漏らした。
「訛りによる変化は、村の名前や皆さんの名字だけではありません。それは、御祭神のお名前にも現れています」
「みぐぜん様の名前か?」
「ああ、言われてみりゃあ、変わった読みだものな」
ミカサは頷きつつ、その言葉に応える。
「石碑のひとつには、ひときわ大きな文字で『巳御』と彫られているのを、ご存知かと思います。残念ながら、そのあとの文字は欠けて読めませんが――『みごぜん』という呼び名が訛って『みぐぜん』になったのか、あるいは仏式の供え物である霊供膳と混同されたのかもしれません。そんなところでしょう」
乙松はそれを聴いて不思議そうに言う。
「仏教と混ざってるってえのか? 神道なのに?」
「乙松。おめえだって、普段からホトケとか後生とか言ってるじゃろ?」
「神仏習合っつってな。お江戸の頃からそういうもんなのよ」
「神仏習合そのものは奈良の昔からありましたが、庶民の生活に深く入り込んだのは、やはり江戸以降でしょうね」
そう補足しつつ、ミカサは話を次の段階へと移行させる。
「みぐぜん様は蛇神――すなわち水神とされていますが、その根拠となるのは石碑に、大きく刻まれた『巳』の文字でしょう。これは十二支の蛇を表す文字ですからね」
すうっと視線を走らせ、全員と目を合わせた。
「ここまで、宜しいですか」
「巳が蛇だってことぐれえ、ワシだって知ってるぜ?」
「乙松が知ってるなら、安心じゃのう」
そう言って長老たちは笑う。
「さて。この数日、村ではいくつかの不幸な事故が起きました。その中で何度か、『みぐぜん様の祟り』という言葉を耳にしています。ですがそれは、みぐぜん様という御祭神の神性を、根本から取り違えた誤解に他なりません」
空気が、一瞬にして冷え込んだ。
「御祭神が、水源を荒らす者に怒りを覚え、祟りを齎す……。みぐぜん様の神格を正しく捉えるならば、そんな発想は生まれようもないのです」
静まり返る中、沈黙を破ったのは澄江だった。
「何を言うのです。蛇神とはすなわち水神。あなた自身がそう言ったではありませんか。この地の水源を守護するのが《みぐぜん様》。余所者が知った風な口を利くものではありません」
その声の震えは、果たして怒りによるものか。それとも。
「そうですか……しかし――」
ミカサは、ゆっくりと拝殿の奥に視線を移した。
全員の目が、その動きに引き寄せられる。
「あの御神体の姿を見ても、果たしてそう言えますか?」
澄江の顔に、明らかな動揺が走る。
それは、誰の目にも見て取れた。
長老たちはその反応に、にわかに疑念を抱き、互いに視線を交わす。
「あなたはまさか、御神体を盗み見たのですか? それは神への冒涜です」
「いいえ、そんなことはしていません。あの御神体が一体なんなのか。たとえ布越しでもひと目見れば分かることです」
その言葉に、澄江の肩がびくりと震えた。
皆の視線の先には、この例祭の日に限り奥殿から出される御神体が、静かに鎮座している。
白布で丁重に覆われてはいるものの、前後が反り返った細長い輪郭だけは、誰の目にもはっきりと浮かび上がっていた。
ミカサはゆっくりと、その御神体へ歩み寄る。
「お館さんは、当然あの御神体をご覧になったことがあるのでしょう? 布を換えるには、誰かが触れねばならないはずです」
「私は神主――当然の務めです。しかし、それが他の者に見られてよい理由にはならない……」
「御神体、年々の祈に供し、御姿を仰ぐを常とす。これは村の守り、曇りなき証なり」
ミカサが静かに読み上げた言葉に、長老の一人が「ああ」と声を上げる。
「それなら知っちょるぞ。神社の前に立っとる石碑の文じゃろ?」
「そうです。これは『御神体は毎年の祈りの際に供えられ、その御姿を仰ぎ見ることが常とされている。それは、この村を守る清らかな証なのである』と、読むことができます。つまりこの御神体は、本来見せるものなんです」
澄江が即座に異を唱えた。
「そんなもの、どうとでも読めるではありませんか! 言葉なんて、都合よく解釈すればいくらでも――誰がそれを正しい意味だと証明できるのです!」
ミカサは同意するように頷いてみせた。
「まあ、おっしゃる通りですね。言葉なんて解釈次第。けれどもう一つ、そう判断する材料がある」
そこで一拍置き、御神体の方を見遣る。
「あの布の下にあるものが答えです。あれは『見てはならない』ような御神体ではない。むしろ、かつての人々がその姿を仰ぎ見るべきものとして据えていた。そう考える方が、石碑の記述とも、歴史的な整合性とも合致します」
澄江は言葉に詰まった。
「皆さんはどうですか? 祟りの在る無し、神社の由来。どちらも特に知りたくないというのであれば、これ以上はやめておきますが」
「い、いえ! 祟りがあるかどうかは大事です。村の者たちを安心させてやらねばなりません!」
そう叫ぶのは村長の正信。
彼の立場からしても筋の通った意見であり、場の空気にわずかな波紋を投げかけた。
「御館様。こいつは若えけど、筋の通った男だ。ワシも御神体を今さら見るのはちぃと恐れ多いが。正直に言やあ、死ぬ前にいっぺんくらい見ときたいって気持ちもある」
乙松のその言葉に、長老たちは誰も反対する気配を見せない。
「では、失礼して――」
「あっ――!」
澄江が止めようと声を上げるよりも早く、布は音もなく払われた。
「これが――みぐぜん様の御神体です」
そこに在ったのは、両端を反り返らせた細長い――
「これは……『弓』? 蛇ではなく、弓?」
長老の一人が、思わずそうつぶやいた。
澄江は、その言葉を遮るように捲し立てる。
「弓が御神体であることの、どこが不自然なのですか。破魔矢や破魔弓は、古来より邪を祓う神具として崇められてきました。形が細長く、しなやかで、時に蛇をも想起させる。故に、縄や弓を神と見なす信仰は各地に存在します。布を掛けるのは、穢れを避けるため。それを余所者が見透かしたように言うなど! 軽率にも程がある!」
言葉を重ねるうちに、澄江はいつしか興奮の熱に押され、本来の威圧的な調子を取り戻していた。
あまりの剣幕に、正信は思わず身をすくめ、長老たちも所在なさげに視線を逸らす。
それに対し、ミカサは――
「まあ、間違ってはいません。俺もこの弓の正体を知らなければ、お館さんと同じように思ったでしょう」
「弓の……正体?」
澄江は、「何を言っているのだ」というような顔をする。
「これは――『巴御前の弓』です」
皆、その言葉の意味を即座には理解できなかった。
「と……、巴御前!?」
「あの、平安時代の……?」
「義経の愛人?」
「義仲じゃろ……」
澄江は何かに気付いたように、小さく「あっ」と息を呑んだ。
その顔は、みるみるうちに青ざめていく。
「先も申し上げた通り、この村の起こりは十七世紀。長野県からやって来たこの村のご先祖、中原――いえ、巴御前の子孫を称する中原の一族は、川沿いに村を開くとともに、この山の頂に神社を建てたのです」
「わ、わしらが巴御前の子孫?」
「山頂に神社? ここじゃなくてか」
「ええ、山頂です」
ミカサはそれ以上の説明を避けるように、あっさりと話を切り上げる。
「さて。そうして山頂に建てられた中原神社の御祭神。その正式な御名は、『巴御前大権現』といいます」
その名を聞いた長老たちは、しばし黙し、顔を見合わせる。
「こんなこと言うのはバチ当たりかもしらんが、巴御前大権現って、なんだか大仰な名前じゃのう……」
「それは、当時の流行によるものですよ」
補足するように、名前の由来を語る。
「徳川家康に『東照大権現』の神号が贈られたのが元和三年。これは西暦一六一七年です。その後、各地で『何々大権現』という呼び名が広まりました。将軍家に関係のない土地でも、あやかってそう呼ぶようになったんです」
その説明に納得したのか、長老たちのあいだからわずかに頷く声が漏れる。
「また、巴御前という人物は、『平家物語』や『源平盛衰記』などに古くから登場しますが――彼女が理想の女武者として広く親しまれるようになったのは、江戸初期のことです。十七世紀の前半には、講談や草双紙に取り上げられるようになり、その後、芝居や浄瑠璃にも登場するようになりました」
そして、次のように言葉を結ぶ。
「いずれも、一六七六年に村のご先祖が中原を名乗り、巴御前を御祭神として神社を建立した理由に、繋がる話と考えられるでしょう」
乙松が疑問の声を上げる。
「その中原ってえ名前は、どっから出てきたんだ?」
「巴御前は樋口兼光か中原兼遠の娘とされています。諸説ありますが、この村のご先祖は『源平盛衰記』の説を採ったのでしょうね」
長老たちがざわついた。
「それじゃあ、巴御前の子孫ちゅうのは、ただの『自称』ということかいな?」
「そこは気にするほどのことでもありません。始まりなどそんなものです。現代まで教えが残っているということが、重要ではありませんか?」
続けて、溜息の漏れる音。
「っちゅうことは、弓もニセモンなんじゃなあ……」
「そらそうだべ。御神体っちゅうのは、どこの神社にも行き渡るように誂えるもんやろ」
「国宝級のモンがその辺の神社にあるほうがおかしいわな」
それらの意見に補足の言葉を述べる。
「真贋など些細な問題です。たとえ写しであっても百年信仰を集めれば、それはもう『本物』なんですよ」
長老たちがざわざわと話し合いを始める中、澄江は押し黙ったまま息を殺していた。
「そして、誕生から百数十年が経った頃――恐らくは一八三〇年前後。この村を、ある悲劇が襲います」
唐突な話の転換に、長老たちの注目が集まった。
「当時の記録上、この辺りで大きな地震は確認されていません。ですが、山頂にあった中原神社は、地滑りによって――『今、皆さんが居るこの場所』にまで落ちてきたのです」
再びのざわめき。
「建物も記録も失われ、残されたのは、傷ついた石碑群だけ。そして、過去の由来や伝統を覚えていた人々も、一八三三年から始まった『天保の大飢饉』によって、命を落としたのか、あるいは村を去ったのか……とにかく、居なくなってしまったのでしょう」
悲劇は、次のように締め括られる。
「こうして口伝は途絶え、巴御前の信仰は一度、村から姿を消したのです」
拝殿が静まり返る中、やがて乙松が口を開く。
「じゃあ……。みぐぜん様ってえのは、最近になって新しく出来た信仰なのか?」
「どちらとも言えるでしょうね。『巳御』と彫られた石碑。蛇を表す『巳』の文字。全ては、そこから始まった誤解なのですから」
長老の一人が、突然「あっ」と声を上げた。
「わしらが『巳』の字だと思っとったやつ! ありゃあ『巴』の字が削れて、そう見えるようになっとったんか!」
一同は、口々に驚きの声を上げた。
「そうです。『巴御前大権現』は、天保の大飢饉をきっかけに『巳御前大権現』として誤って伝えられ、やがて『みぐぜん大権現』へと訛り、変化していきます。そして明治元年、神仏分離令以降の廃仏毀釈により――『大権現』の名も外されて、単体の『みぐぜん』となりました」
皆、その成り行きを黙って聴き入っていた。
「今では《みぐぜん様》と呼ばれていますが、そもそも『御前』の語にすでに敬意が込められています。なので、『様』を重ねる必要はありません。こうした呼び方の変化もまた、本来の意味が忘れられてしまった証拠のひとつでしょうか」
誰ともなく、こう言い出した。
「じゃあ、わしらが祟りじゃと思っとったのは……」
「全部、勘違いか?」
「そう。みぐぜん様は水神でも蛇神でもありません。したがって、ダム工事計画に祟るようなことはないんです。かつての巴御前大権現は、『流浪の民』であった中原家がこの地に根を下ろすために祀ったもの。神が移動を否定するなら、最初からこの場所に村は出来なかった。つまり――村を引っ越すことにさえ、みぐぜん様が祟る理由などないのです」
その言葉を聞いた正信は、ふっと気の抜けたような顔をした。
「言うまでもないことですが――」
ミカサはやや声を低くする。
「この話は『祟りがあるかどうか』についであって。立ち退きに応じるかどうかは、それぞれの人が決めることです」
「ああ、そうじゃな。それはそうじゃ」
「あんたが言いたいのは、ダムの是非やのうて――『祟りを言い訳にして、神様のせいにするな』っちゅうこっちゃろ、配線屋」
そのとき、澄江が顔を上げて言い放つ。
「祟りは無い? なら、これまで終末存在に殺された者たちはどうなんです。あれが祟りでなくて、なんだと言うんですか!」
「シカの仕業ばかりではありませんよ。終末後に亡くなられた方々の何人か――あるいはほとんどかもしれませんが、RAVに撥ねられたことが原因です」
澄江は、尚も引かずに言葉を重ねる。
「暴走RAV、という終末存在があると聞き及びます。それが神罰として、遣わされたとは考えられませんか?」
「あれはただの車――道具です。終末存在ではありません」
ミカサは道具という言葉を繰り返すように述べる。
「道具を使うのは人です。道具に罪はありません」
長老たちも、正信も、その言葉に固唾を呑んでいる。
何が真相であるのか。
皆、薄々は気付いている。
駐在の加納までもが、この場所に来ているのだ。
そして――いつも車椅子を押しているはずの、ミズチの姿が無い。
確信に至らない理由。
それは――『脚が不自由な澄江は、車の運転が出来ないはず』という一点のみ。
「さて。あなたが真に蛇神を崇めていたというなら、それもまたひとつの信仰の形」
今――
「先も申し上げたように、始まりのきっかけなど何でもいいのです。みぐぜん信仰は八十年以上も続いた立派な信仰と言えるでしょう。大事なのは心の在り様。それを踏まえた上で」
断罪の是非を問う、ワイヤアが掛けられようとしている。
「あなたを突き動かすものは、中原村という御殿の『領主の座』を守りたいという、その執着などではないと、そう言えるのか――」
そして、最後の質問が投げ掛けられる。
「――あなたは、《みぐぜん様》にご自身の潔白を誓えますか?」
澄江は、ぶるぶると震える腕に力を込めた。
腰を浮かせ、前へ。
一歩、前へと進む。
「立った……」
「御館様が、立った!」
だがすぐに膝を突いて。
「うああああぁぁ……」
中原澄江は、その場で泣き崩れた。
ざらざらと。
ざらざらと粉のような物体が、澄江の着物から外へと染み出しこぼれ落ちる。
「サブジゲイトの同期切れを確認。ナノマシン、拾遺します」
拝殿に上がってきたヤエコはそう言って、手にした虫籠をぽんと床に置いた。
粉は畳の上を滑るようにして、籠の中へと吸い込まれていく。
その一部始終を、トゥエルブは驚きの表情で見つめていた。
「ナノマシンの排出――これは、暴走RAVの最期と同じ……?」
「サブジゲイトが背中を押すのは、破滅に歩み寄る者だけ。お館さんはもう、駒ではなくなった」
蛇の呪いは、ここに断たれた。
それを見届けたミカサは、その場を立ち去るべく背を向ける。
すれ違うように、加納が拝殿へと踏み込んできた。
終末と今を繋ぐ配線屋は、最後にちらりと澄江を一瞥して。
「どうやら――人類の終末は見ずに済んだようですね」
《ラヂオ局の幽霊テエプ・ふたたび》――
都内某局にて、局内整理中に未登録の磁気テエプが発見された。
再生中、機器に異常が発生し、数秒後に音声が流れた。
前例と異なり、今度の声はこう呟いていたという。
『ここがいい――やっと、見つけた』
――扶栄堂書店刊『幻秘探訪録』連載「終末ラヂオ怪録」
第六夜《帰還者の声紋》より