第二篇 みぐぜんの轍(八)
日も暮れかけた駐車場をひとり、ミカサは歩いている。
やがて、聞き慣れないエンジン音が闇夜から響いてきた。
「どうやら、餌にかかったか」
エンジン音の方角から視線を切らずに、オオタ号の位置まで後ずさる。
山頂へと続く獣道が姿を現したのは二つのヘッドライト。
逆光により、その車体の形は判然としない。
車体はミカサに真っ直ぐライトを向けた。
オオタ号のドアを開けようとする。が、動かない。
運転席の足元が微かに沈んでいるようにも見えた。
「や、やられた! 捜査にかまけている間に、車に細工をされるとは」
謎のRAVは、猛然と加速を開始した。
そこへ――
新たなライトの光が、そのRAVを横から照らす。
山肌に沿う茂みの陰から、真紅色の車体が飛び出した。
直列8気筒エンジンを吹かしつつ、現われたのは《ヒュドラ》。
謎のRAVの進路に、ヒュドラは鋭く割り込んだ。
激突させてでも止める気だ。
形勢不利と見たか、謎のRAVは急旋回。凄まじいグリップ力で、衝突を寸前で回避した。
ヒュドラは標的を外れ、ミカサの目の前でタイヤを鳴らして止まる。
「ミカ! 乗ってください!」
助手席の扉が開けられ、トゥエルブの声が闇を裂く。
謎のRAVは既に、峠道へと飛び出そうとしていた。
「追いますよ! それにしてもあの車、とんでもない運動性能です!」
「あれは旧陸軍の九五式四輪駆動、《しろがね四起》だ! 悪路じゃ勝ち目はないぞ!」
峠道に逃げたのは不幸中の幸い。
舗装道路なら、ヒュドラにも勝ちの目がある。
「あの車なら、普通のRAVが通れないような山道も踏破できる。道理で見つからないわけだ……」
木々の隙間に通れそうな箇所があっても、RAVでは走れそうにないとなれば見落として当然だった。
恐らくそうした場所のどこかに、九五式は隠されていたのだ。
直線の上り坂で、ヒュドラは九五式との距離をぐんぐん縮めていく。
だが、つづら折りのカアブに差し掛かっても敵は速度を緩めず、強引に曲がっていった。
それを追うヒュドラは、前輪を滑らせて車体が大きく外側にぶれる。
「きゃっ!?」
「無茶すんな! グリップは向こうが上だ!」
曲がり切った先は再び直線が続く。
「ここで追い付きます!」
トゥエルブの宣言通り、距離はみるみる縮まり相手を追い越さんとする――そのとき。
九五式は突如ハンドルを切り、道端の木柵をなぎ倒して、斜面を真っ直ぐ駆け上がった。
つづら折りの曲線を無視し、ひとつ上の折り返し道へ抜けようというのか。
「おいおい……マジかよ」
道なき道を登る九五式はバックミラアの中でみるみる小さくなった。
舗装路を走るヒュドラは、その間もなお、きっちり道順をなぞるしかない。
つづら折りを曲がりきったとき、九五式は既に――峠道の頂点へと差し掛かっていた。
「取り逃がしたか……」
ヒュドラがその頂点を折り返したとき、九五式の姿は何処にも見えなくなっていた。
「いいえ、まだです!」
トゥエルブの声に、あきらめの色はない。
「Raised All-terrain Vehicleはあらゆる地形に対応した終末の騎馬。あの九五式が上りをショートカットするというなら、ヒュドラはその逆を行きます!」
「え? いや、普通に無理だし。おい待てやめろ――」
トゥエルブはハンドルを大きく切り、ヒュドラを道路脇へと逸らす。
木柵を突き破り、斜面を一気に下り始めた。
視界の隅に、事故車が映る。
――あれは。
ひとつ下の折り返し道へ抜けたとき、何故か水道局のラビットサンが、引っくり返って炎上しているのが見えた。
しかし、とても心配する余裕など無い。
一歩間違えればヒュドラもああなる。
「源義経は、断崖絶壁をも騎馬で下ったとされています。これぞ、一ノ谷・逆落とし!」
「日本史の前に常識を勉強しろ!」
トゥエルブは更にアクセルを吹かし、次の木柵をも突き破った。
未舗装路を急降下する先に、目標の車――九五式の姿がある。
ヒュドラは、ついにその前に出た。
が、体勢を立て直そうとした一瞬の隙に、横をすり抜けられる。
再び前を譲る形となった。
「もう逃げられませんよ!」
直角に車体を振ったヒュドラが今まさに飛び出そうとした――そのとき。
サイドミラアに映った影を見て、ミカサの顔から血の気が引いた。
そこに現れたのは。終末の魔王を思わせる、巨大な角のシルエット。
西多摩郡の終末存在にして、峠の最速覇者。その名は――
「《ヤマヌカシカ》だ! 端に寄せろ、トゥエルブ!」
その名を聞いた瞬間、トゥエルブは慌ててステアリングを切った。
車体が路肩に寄ったと同時、巨大な質量が猛然とその横を掠めていく。
ヤマヌカシカは前方を走る九五式との距離を瞬く間に詰めると、次のつづら折りでその車体を木柵ごと吹き飛ばす。
跳躍したヤマヌカシカは、向かい側の断崖へと着地し、悠然と去って行った。
九五式は、奈落の底へと姿を消した。
「運転席はもぬけの殻でした……」
崖下まで調査に行ったトゥエルブは、戻ってきてからそう報告した。
ミカサは黙って考え込んでいる。
「常人なら落ちた時点で死んでいます。やっぱりサブジゲイトが運転していたんでしょうか?」
「サブジゲイトなら、あたしの隣で寝てますけど」
峠道から、突然の声が掛かる。
草履の音をぺたぺたと鳴らしながら現われたのは、巫女服を着たP.Y.S.E.の少女。
何やら、虫籠のようなものを手に提げている。
「ヤエコか。いつから居た?」
「『どうせなら金髪がいいな』、の辺りから」
「昨日から居たんならそう言えよ!?」
「お邪魔かと思いまして。ピースは人類の判断に干渉しません」
ヤエコは生身の右手と機械の左手を持ち上げて、ダブル・ブイサインを決めた。
*
一晩が明けた。
今日は一年に一度、中原神社の例祭の日だ。
拝殿の中には、この日だけ奥殿から出される御神体の姿がある。
その姿は真っ白な布で覆われ、直視は許されていない。
だが、前後が反り返った細長い輪郭は、蛇の形状を連想させた。
蛇神――《みぐぜん様》に相応しき、御姿である。
拝殿に集まったのは、神主でもある御館様こと中原澄江。
その息子であり、村長でもある中原正信。
氏子の総代補、中原乙松。
他、村を代表する長老七名。以上十名が列を成していた。
今まさに神事が始まろうとした、そのとき――
拝殿の扉が、ガラリと開け放たれた。
扉を押し開けたのはミカサである。
左右には、終末の遺物たる二人の模倣者。
更にその後ろには、駐在の加納が控えていた。
「神事の最中に、余所者風情が土足で踏み込むとは何事か! これは神に対する冒涜であり、村の伝統を踏みにじる無礼だ。直ちに立ち去らねば、《みぐぜん様》の神罰が下るぞ!」
威厳に満ちた声で、車椅子の上から澄江が大喝する。
ミカサはよく通る声で、こう返した。
「ナノマシンに寄生された生物は、確かに高い運動能力を発揮します。もっとも宿主のほうはそれに耐えられず、持続的に能力を発揮することは無理なのですが。早く除去しなければ、命に関わりますよ」
村の絶対的支配者たる、澄江の表情が凍り付いた。
彼女は、改めて男の姿を見る。
進駐軍の払い下げ、アメリカ製の安物作業服――M43型ジャケット。
胸には《配線三笠》の屋号が、無造作に縫い付けられている。
髪型は、近頃流行りのリイゼント。
だが。撫でつけていたはずの黒髪はいつしかポマアドの粘着を失い、明王の火焔光背の如く、逆巻く熱気に舞い上がっていた。
「いったい……何なのですか、あなたは」
ミカサは跳ね上がった髪を、両手で抑えつけるように後ろへと流す。
「終末時代と、今の時代を繋ぐワイヤア稼業――ただの、配線屋です」
《逆落とし走法》――
終末後のある地方で、山間を駆け下る術として流行した。
これは「あらゆる地形を走る」というRAVへの過信と誤解のもとに
生まれたもので、結果として数多の車両が谷底へ転がったという。
なお現在は、交通法規により禁止されている。
――扶栄堂書店刊『幻秘探訪録』連載「終末峠バトル最速伝説」
第四回《世界チキンレース大全》より