第二篇 みぐぜんの轍(四)
石段を登り切った先に、神社はあった。
ただし、その姿は闇と木立に溶け込み、全貌は分からない。
安物の電球が申し訳程度に灯されているだけで、境内の端々まで照らし出すほどの力はない。
正面に建物はなく、踏み締めた土の感触がしばし続く。
どうやら、石段の延長線上には社殿は建っていないらしい。
夜目にも、境内のあちこちに石の塊が散らばっているのが見えた。
やがて、右手の奥に、拝殿の影が浮かび上がる。
――妙な場所に建ってるな。まるで、石の塊を避けてるみたいだ。
大きくはないが、人が十数人は入れそうな広さ。
簡素な造りに見えるのは、時代のせいか、それとも土地柄か。
「ここが中原神社だ。まあ、こんな時間じゃよく見えねえだろうけどな」
乙松はそう言いながら、境内を右手へと進んでいく。
ミカサもそのあとに続く。踏み固められた土の感触が足の裏に伝わる。
灯りは拝殿の軒先にひとつ、そして中からも電球の暖かな光が漏れている。
拝殿の扉は開け放たれており、内部にはいくつかの人影が見えた。
畳敷きの床に座布団が並べられ、壁際には神棚や古びた掛け軸がかかっている。
部屋の片隅には湯呑と茶瓶、それに酒瓶が置かれていた。
――拝殿で酒盛り?
神事の後なら分からないでもないが、今は夜中だ。
乙松が一歩中に踏み込むと、香ばしい煮物の匂いと、微かに酒の匂いが鼻をくすぐる。
その気配に気付いた年配の男が、のそりと顔を上げて言った。
「長い用足しじゃったの、乙松」
「ん? 誰だいその若えのは」
「村長の依頼でRAVの点検に来ました、配線屋のミカサといいます」
ミカサは入り口で靴を脱ぎ、乙松のあとに続いて中に入った。
「おお、あんたが配線屋か。あんたも飲むか」
「仕事中なんで、酒は遠慮しときます」
「そうかあ……まあなんか食え」
拝殿内の老人たちは、警戒するのが馬鹿らしくなるほどのくつろぎようであった。
もう飲んでも構わないのではないか? と、思わなくもないが。情報収集にはまたとない機会でもある。
ミカサの横であぐらをかいた乙松が口を挟む。
「おいおい、コイツを連れてきた理由を聞かねえのか」
「飲みに誘ったんだろ?」
「別にそれでもいんだけどよ。ほれ、コイツは機械の専門家だろ?」
「あっ!」
老人の一人が、何かを思い出したように短く声を上げた。
「配線屋。あれ、アレを見い」
「アレ?」
老人が指差すほうへと振り向くと、そこにあったのは――
「テ、テレヴィヂョン!?」
ミカサが驚くのも無理はない。
時価にして『ゼロ戦以上』という価格もさることながら。
GHQの実験放送、技術試験ですら予定は来年以降、つまり現時点ではただの箱。
そんなものが何故、この山奥の神社に在るというのか。
「話せばちいと長くなるんだけどよう」
乙松はそう切り出した。
中原村には定期的に行商車が訪れ、物資の売買や連絡を担っている。
乙松はその運転手と顔なじみで、物資の輸送ついでに「ちょっと都心まで乗っけてくれ」と頼むことがあるのだそうだ。
「それでよう、秋葉原に行った時に――」
「アキバであのテレヴィヂョンを? よくそんな金持ってましたね」
「ジャンク品とかで、格安だったんだよ。まあ、村の予算を結構つぎ込んだけどよ」
――こいつ、ロクでもないジジイだな!
放送が無い以上、故障品かニセモノかの区別すらつかない。
本当にただの箱なのではないか、とミカサは訝しんた。
「最初は村のモンが神社に殺到したんだけどよ。何も映らねえのよ、これが」
そう言うや乙松も、他の老人たちも大笑いを始めた。
笑い事で済むことなのだろうか。
こんなジジイが村の重鎮とあっては、村長の正信もさぞ胃が痛かろう。
「でな、俺も流石に正信に悪いと思ったからよ。もっかい秋葉原に行ってな」
「返品交渉でもしたんですか」
「テレヴィヂョンが映るようになる機械、ってのを買ってきたのよ」
「誰だよアンタに買い出しを担当させてんのは」
詐欺師ならもう少しマシな売り文句を並べるだろうが。
ゴミ屑を適当なキャッチコピイで売るのはアキバ闇市のお家芸ともいえる。
どうせ専門家は騙せないし、一般人は機械に明るくない。
それで成り立ってしまうのだ。
「言われてんぞお、乙松」
「地が出てんぞ、配線屋。そっちのほうが面白えな」
「で? どれがそのインチキ機械なんです?」
乙松が顎をしゃくると、一人の老人がテレヴィヂョンの周辺をごそごそと漁っている。
そこには神社の祭具だけでなく、雑多な荷物や資料らしきものまで山積みだった。
神聖な場所というより、もはやただの寄合所だが。
これもまた、神社の在り様ともいえるだろう。
「インチキかどうかは、これを見てから言ってみな」
老人はニヤリと笑って、テレヴィヂョンのスイッチを入れた。
そこに映し出されたのは――
モノクロ静止画の、人類拠点・秋葉原の風景だった。
「これは……」
ミカサは立ち上がると、テレヴィヂョンの前まで進む。
老人が操作しているのは、ラヂオネットからの受信デエタをテエプに録音する、ラヂオと録音機の複合機種だった。
だが、ただの複合機に画像を出力する機能などあるはずはない。
――『人類拠点・秋葉原では、ラヂオネットで画像デエタを送信する実験を……』
この村に来る途中で聞いたラヂオのニュウス。
これが、その受像機なのか?
「どうよ、配線屋」
「正直、驚きました。この機械は俺の専門外です。特に手伝えることはないと思いますが」
「それがそうでもねえのさ。今映したのは最初から入ってたモンだが、他の画像はどうやって入手すると思う?」
「アキバの実験放送があると聞きましたが、それ以外は……」
ミカサが考え込むと、乙松は口の端を持ち上げて言う。
「海賊放送だ」
「あ……」
この時代、公共放送だけではとても情報を賄いきれない。
違法ラヂオ放送は、もはや必要悪として黙認されているフシすらある。
雑多な素人の電波かと思いきや、中には旧軍の技術者や遺物研究家らしき者が開設したチャンネルもあり、国内は玉石混交の電波無法地帯と化していた。
「画像デエタの送信まで行っているチャンネルがある、と?」
「そうだ。予告では今夜十二時、極秘画像のデエタが配信される」
「極秘――画像?」
「おい」
乙松が声を掛けると、老人が受像機を操作する。
ガアガア、ピイという音がしばらく鳴り続け、やがてテレヴィヂョンの画面には秋葉原に代わって次の画像が映し出された。
「こ、これは……」
「どうだ、配線屋。ワシらがここに集まっている理由が分かったか」
「あんたらが、しょうもないエロジジイの集まりだってことはよく分かったよ」
ミカサは映し出された違法画像に、長い溜息を吐いた。
「そう言うなよ、この肝心なときにラヂオの調子がおかしいんだ。後生だから、お前のクルマのラヂオ、使わせてくれ」
それがミカサが呼ばれた理由らしい。
あと後生は仏教なのだが、そんなことを気にする者はあまりいない。
そういえば、ラヂオの調子が悪いのは《遺物案件》ではなかったか。
「構いませんけど。ついでに明日からラヂオ不調の原因も調べるんで、捜査に協力してもらえます?」
「お、おお! 本当か!」
「いやあ、村長もいい業者を呼んでくれたもんだな」
「よし、さっそく受像機を下まで運ぼうかの」
老人たち――どうやら彼らは皆、中原村の有力者である長老たちのようであるが、ともあれ彼らと共に、深夜の駐車場へと向かうことになった。
「文化の発展に、色気は欠かせねえんだよ」
石段を下りながら、乙松は言った。
「江戸の頃からそうだ。春画が売れたおかげで、木版の彩りも進化した。紙芝居だって夜はオトナ向けのがあったし、戦地への慰問袋にだって色気は必須だったんだ。つまりはな、文明ってのは見たいもんに引っぱられて進化すんのさ。だからこの受像機も、今に驚くほど進化するぜ」
段々と、妙な持論を展開し始める。
「一理ありますけど、拝殿で酒盛りをする理由にはなってませんよね」
「みぐぜん様は蛇神だぜ? 蛇神といえばウワバミだろうが」
乙松はそう言って笑い声を上げた。
「それによう。重五郎と進之介も、今日の画像を楽しみにしてたんだ。きっちり拝んで、送り出してやらにゃあな」
そうだ。その二人は、今朝に死体で発見されている。
神道の葬儀は神社で行うわけではないが、これが彼らなりの見送りなのだろう。
拝む、というのが、何に対してなのか知れたものではないが。
――ん?
今回の事故が何者かによる轢き逃げであった場合、それはダム工事への反対を表明するためのもの。それが元々の話ではなかったか。
ダム調査員の津田は警告のため、ダム賛成派の進之介は粛清のため。そうなるとダム反対派である重五郎の死は不可解、というのが正信の意見だ。
――だが、聞いた感じでは。
こんな馬鹿げた催し物に参加するほど、重五郎と進之介の距離は近かった?
ダム賛成派と反対派がいがみ合っているなど、正信の取り越し苦労ということもあり得るのではないか。
無論、この場に居る者たちだけでは判断できないが、少なくともここに居るのは村の幹部である長老たちだ。
――少し、聞きづらい話題だな。
焦りは禁物だ。
今、乙松たちに機嫌を損ねてもらっては困る。
一行は駐車場まで下り、オオタ号の周りに集まった。
受像機を助手席に運び込むと、車載ラヂオと配線で繋ぐ。
指定周波数に合わせると、ザアザアというノイズ音だけが響く。
「そろそろじゃな……」
長老の一人が言ったのを合図とするかのように、音声が切り替わる。
ガアガア、ピイといった感じのデエタ送信音が深夜の駐車場に流れ出した。
しばらくの時間が過ぎた。
いや、それはわずか数分程度なのかもしれなかったが。
「長いな……」
「長いのう」
「いつもこんなもんじゃぞ?」
「いつもは拝殿で酒飲んでごろごろしちょるからの。駐車場で待っとると長く感じるわい」
真理だ。ミカサもしんどくなってきた。
ひとり運転席でくつろぐのも気後れしたので、長老たちと地面にあぐらをかいている。
「今回はどんな画像かのう……」
「ワシはこう、おしとやかな感じが、な」
「俺は……どうせなら金髪がいいな」
「ハイカラな趣味してんな、配線屋」
「あ、進駐軍の姉ちゃん連れてるって聞いたけど、それでか」
「それは違います」
即答で否定した。
やがて送信音が終わり、駐車場に沈黙が戻る。
漸くダウンロオドが完了したのだ。
皆は無言で頷き合うと、受像機を神社へと運び上げた。
拝殿に戻ると、長老の一人が受像機をテレヴィヂョンに繋げてスイッチを入れる。
再びガガピイ音が響き渡った。
画像デエタの再構築が始まったのだ。
画面の上方から、モノクロの静止画が徐々に形成されていく。
人物の頭頂部と思しき、髪の毛の一部が表示される。
「おおっ」
「来たか!」
「黒髪じゃ。残念だったな配線屋」
「その話は忘れてください……」
深夜に馬鹿げたことをしていたせいで、テンションがおかしなことになっていたようだ。
「ん~……?」
人物画像は、その眉毛すら映すことなく、その場でぴたりと再構築を停止した。
「……………………」
いくら待っても何も起こらない。
どうやら、デエタ受信に失敗したらしい。
長老たちも、ミカサも、その場で力尽きた。
そして、朝まで泥のように眠った。
*
「起きてください、クモ渡り」
「あー……?」
薄目を開けると、蒼い双眸がこちらを覗き込んでいる。
意識が徐々に鮮明になる。
「トゥエルブか、よくここが分かったな」
「髪の毛にナノマシンを――あ、いえ。なんでもありません」
「今、答えを全部言ったよな?」
一気に目が覚めた。
なんてことをしてくれるんだ、この女は。
上体を起こすと、長老たちはすでに全員起きているようだった。
年寄りは朝が早い。
一人は今も拝殿内に残って掃除をしている。
「おお、起きたか配線屋。それが例の金髪か?」
「例の?」
トゥエルブの疑問に慌てて釘を刺す。
「なんでもない、気にするな」
P.Y.S.E.の機械義肢を初めて見た者はたいてい驚くが、その恒例の儀式はミカサが寝ている間に済ませてしまったのかもしれない。
いつの間にかナノマシンを仕込まれていたらしい頭髪を気にしつつ、拝殿から境内へと出る。
トゥエルブは義足を変形させながら、手も使わずに軍靴を履いた。器用な真似をする。
振り返って神社を見渡した。昨日は夜も遅かったため、はっきりと見るのはこれが初めてだ。
「築百年……くらいか?」
数歩戻ると、その様式をじっくり観察する。
「木鼻の渦、左右で形が違うな。非対称彫刻……江戸後期の作か。屋根の勾配が緩い。銅板じゃない、あれは桧皮……いや、こけら葺かもしれん。蟇股に唐草文様。文様自体は江戸中期以降だが、線が太い。これは地方での流行が、少し遅れた例かな。柱間を詰めてるが、全体に作りがこなれている。天保の終わり頃……いや、もう少し下るか。釘は使っていない。が、材料の選び方や彫りの仕上げを見るに、天保から幕末の間ではあるだろうな」
ミカサがぶつぶつとつぶやく横で、トゥエルブも建物を凝視する。
「構造材の表層酸化層厚、含水率の収縮傾向、リグニンの分解率、虫孔の侵入深度、および紫外線劣化痕の角度分布を屋根および柱材からスキャン完了。全体として、天然乾燥木材に見られる約百年前後の経年パターンと一致。記録に残る建築物の劣化履歴と照合した結果、推定築年、一八四〇年代中盤が最有力です」
「お、おう……」
何を言っているのか全く分からなかったが、「だいたい合ってる」ということらしい。
拝殿を背にして、境内の中央を見渡した。
敷地の中央に石碑群が立っている。
夜中は石の塊にしか見えなかったが、どれにも文字が彫ってあるようだ。
昨日から、妙だとは思っていた。
石段から上ってきたとき、中央に見えたのがあの石碑群。
拝殿は右手奥に寄っており、境内の構えとしては不自然な印象を受ける。
石碑群は整然とはほど遠く、乱雑に立てられていた。
傾いたもの、苔に覆われたものもある。
もとは別の場所にあったのか、それとも最初からこの配置だったのか――判断はつかない。
「まるで石碑を避けて、建てたみたいだな」
「石碑のほうが、神社より古いってことですか?」
トゥエルブの素朴な問いが、しっくりと嵌まる。
「だよな……。そういうことだ」
石碑に向けて歩く。トゥエルブが後に続いた。
ひとつの石碑に彫られている文字は、そう多くない。
すぐに読み終わるが、ところどころ欠けていて、全体の判読が難しい。
他の石碑を見回っても、いずれも似たような状態だった。
石碑のひとつには、ひときわ大きな文字で『巳御』と彫られている。
巳とは蛇を表す文字であり、恐らくこれが御祭神の《みぐぜん様》を表す文字なのだろう。
この石碑は特に損壊が激しく、以降の文字を読むことは叶わなかった。
「何が起きたら、石碑の文字がこんなに削れるんだ?」
「スキャンだと原因特定までは難しいですね……」
なんとなく気にはなるが。
この石碑は、轢死事故とも遺物案件とも無関係だ。
あまり道草を食うわけにもいかない。
「ところでクモ渡り。遺物案件、私からも追加報酬を多少は用意できますが」
「そうなのか? 気前がいいな」
トゥエルブのほうを向くと、ふいと視線を逸らされた。
「オオタ号の車載ラジオから、軽度成人指定の画像ダウンロード履歴を確認済みです。別途供給が可能ですが……要請されます?」
「俺のプライバシイはどうなってんの!?」
延寶四年丙辰之春、信州之民、流轉於武藏之……
木を伐り、地を拓き、社を建てて此地に居す。
神籬を立て、八州の神を祀り、村名を中原と號……
(以下、石碑破損により判読不能)
――中原神社旧碑「社鎮始記」