第一篇 しゅにら様の祠(一)
祠の中は空だった。
ミカサは片手をかけたまま、しばらく扉の奥を見つめていた。
彼の背後では、村人たちが息を潜めている。
誰も近付こうとはしない。
その祠は独立しておらず、拝殿の奥壁にぴたりと取り付けられていた。
「祟りじゃ……しゅにら様じゃ……」
ミカサの後ろに居た老人が震える声で言った。
しゅにら様というのは、この守部神社の御祭神の名前らしい。
――御祭神が祟る、というのはおかしくないか?
とはいえ、そんな言葉をあまり真に受けても仕方がない。
そう考えながら、ミカサは祠の内部へと指を伸ばす。
染みが、目についたのだ。
「ひっ……」
村人の誰のものとも知れぬ、短い悲鳴が漏れる。
指先に、ねっとりと赤黒い液体が絡みついた。
その匂いがミカサの鼻を刺す。
「ここには、確かに御神体があったのですね?」
誰も答えない。
それを言ってしまったら、恐ろしい想像が現実になってしまうのではないか。
そんな沈黙。
「その通りだよ、ミカサくん」
その沈黙を、唐突な声が破った。
拝殿の扉の向こう――夜空を背景にして。
カツカツと足音を立てながら、その人物はやってくる。
単衣の着物に短めの羽織、下はプリイツスカアト。
くたびれた外套を、肩に掛けるように羽織っている。
腰まで届くほどの長い髪は、緩やかなパアマネントをあてたかのように波打って。
「あなたは……」
「守部美優。さっき自己紹介したのに、忘れてしまったのかい?」
つば広の山高帽をくいと指で上げると、好奇心に満ちる大きな目が下半分だけ覗く。
――お前のようなヤツを、忘れるわけがあるか。
心中で毒づく。
そう――
名探偵というやつは、いつでも遅れてやって来るのだ。
*
「土足で入れる拝殿というのも、珍しいですね」
「寛容なのさ。村民たった二十五人の小さい村だからね。おっと――」
美優は帽子のつばを軽く下げる代わりに、わずか口の端を上げる。
闇に紛れて、その表情はすぐに視えなくなった。
「――今は二人減って、二十三人だったか」
拝殿の裏手、林へと続く細い道。
光といえば、建物の隙間から洩れる灯りくらいのものだった。
「ええと、守部さん」
「美優と呼んでくれたまえ、ミカサくん。駐在さん以外は、全員守部姓なのだから」
小さな村ではよくあること。
もちろん、全員が血のつながった親族というわけではない。
だが、少なくとも遠縁くらいにはあたるのだろう。
「守部さんなどと呼ばれた日には、近くに居る者まで振り向いてしまうよ」
くすくすと笑う。
この笑い声だけであれば、東京の女学生と言っても通用しそうだ。
ここ青梅市は東京ではあるが、彼女は学生という歳ではない。
「それで。君はこの事件、どう見ている」
「殺人事件ですね」
「そう。喜兵衛の爺さんが言うような、祟りなどではあり得ない。キミの答えは、半分だけ当たりだな」
「半分?」
前を歩く彼女は、そこで立ち止まった。
「これは――連続殺人事件なのだよ、ミカサくん」
ミカサはわずかに眉根を上げる。
「連続、と言うからには、二つの事件に関連性があると?」
「こんな狭い村で二人殺されたんだ。関連性が無いと考えるほうがおかしい」
「そりゃあ、まあ……」
美優はくるりと振り返った。
プリイツスカアトの裾が闇夜になびき、緩く癖のある長髪が遅れて回る。
「第一の事件を振り返ってみよう。被害者は守部利作、六十歳。村の自警団筆頭。粗暴な性格で、すぐに怒鳴って暴力を振るう」
「そんなヤツが居て、よく村が成り立つな」
言ってから「しまった」と思った。
「おや、それがキミの素なのかい。そのほうがボクの好みだよ?」
「いえ、今のは違います……」
何も違わないのだが、今はまだ仕事中だ。
もっとも、ミカサの仕事は探偵助手などでは断じてない。
村長の車を修理するために、神保町からはるばる出張してきただけだ。
「利作は信心深い男だった。守部神社の神主でもある当主に、逆らったりはしないのさ」
「それなら納得です」
利作が数日前に殺されたというのに、国家地方警察の応援は未だ村を訪れない。
終末後――つまりあの《イイルディング》の後、警察官の不足は深刻な社会問題になっていた。
おまけに旧国道は壊滅状態、代わりに出来た荒野や砂漠は、危険な進化生物で溢れている。
ラヂオの害獣予報によれば、『明日の青梅市は晴れときどきサンドワアム』だそうで。
正式な捜査本部の設置は、まだまだ先になりそうだ。
事実上、守部村を担う法執行者は、村の駐在ただ一人という有り様だった。
「第二の事件。被害者は守部芳江、五十四歳。当主家の家事を仕切る口うるさい女将だな。この二つの事件の共通点は分かるかい?」
――知るかそんなもん。
村には今日来たばかりだ。
数日前に死んだという守部利作など、顔すら知らない。
被害者二人の共通点は、どちらも姓が守部。
などと言ったら、この名探偵はどんな顔をするだろうか。
「姓が守部、などと言ってくれるなよ?」
「どっちもやなヤツってことだな」
心の中を見透かされ、反射的に本音が出てしまった。
美優はこらえるようにくっくっと忍び笑いを漏らす。
「また半分正解だな。二人は誰かの恨みを買っていても、おかしくないような人物だ。もう半分は――実力者である、ということ」
「村の人間を仕切る。それも男女それぞれの顔役、ってことか」
「ボクが犯人なら、やはりこの二人を真っ先に殺すだろうね」
どういう意味だ。
それではまるで――
「犯人は、まだまだ殺す気なのさ。村人たちが警戒し始めれば殺人は難しい。だから、手強いほうから順に殺していく」
美優のように、論理で真相を追う者は少数派だった。
この村では既に――別の『犯人』が囁かれているのだ。
冷静な推理よりも、曖昧な恐怖のほうが人の心に深く染みつく。
ましてそれが、この地に古くから根付いたものなら、なおさら。
歩く御神体――
その噂は、ミカサが村に着いたときにはもう広まっていた。
もっとも、第一の殺人が起きたときに祠の中を確かめた者は誰もいない。
ただ……きい……きい……と、何かが軋むような音を聞いた者はいたという。
「お年寄り連中……特に喜兵衛の爺さんなんかは、ズレているからねえ。祟りだなんだと言うけど、村の人たちが神様に恨まれるようなことなんて、何もしてないはずだ。なのに、しゅにら様が消えたとか歩いたとか、果ては人を殺したとか言い出すんだよ」
――ん?
しゅにら様が消えた? 歩いた? 人を殺した?
それは祠の中にあったという、御神体のことではないのか。
だとすれば。
「御祭神がしゅにら様なのに、御神体もしゅにら様なのか?」
「おかしいかい? 神社の御祭神なんて千差万別だよ。御神体は『神霊を宿す器』とか、『神の依代』みたいなもの。名前が同じでも、指しているものが違うってこともある。前回の御神体だって、しゅにら様だったからね」
美優の言っていることは、間違ってはいない。
だが、ミカサが疑問の声を上げたのは、そういう意味ではないのだ。
――『祟りじゃ……しゅにら様じゃ……』
あのとき、喜兵衛という老人が言っていたのは――
――御祭神ではなく、消えた御神体の祟りってことか?
御神体が歩いて人を殺す……という話なのだから、確かにそのほうが筋は通る。
御神体のしゅにら様は、御祭神とは別物扱いなのか、それとも同一視されているのか。
それで解釈は変わってくるが。
――いや、いかんいかん。
これは殺人事件だ。信仰の仕組みは別に関係ない。
「御神体が消えた理由は分かるかい?」
「迷信深い連中の目を逸らすために、真犯人が祟りをでっち上げた」
「うん、今度は――全部正解だ」
ミカサが村に来たのは村長宅、つまりは当主家の車の修理を請け負ったからだった。
その夜、招かれた食事会のあとで第二の事件が発生した。
村の空気が変わったのは、まさにその頃からだ。
歩く御神体の噂が静かに広まり、祠の前には妙な緊張感が漂いはじめた。
とはいえ、誰もが本気で祟りを信じているわけではない。
ただ、わざわざ祠を開けて確かめようとする者もいなかった。
興味と恐れが拮抗し、誰もが一歩を踏み出せずにいる――そんな空気だった。
結局、余所者であるミカサが、その役目を担わされることになる。
「そして、あの祠の中には――何も、なかった」
「犯人が隠したんですかね?」
「あの御神体を? それはなかなか大変そうだなあ。だからこそ効果的なのかもしれないが」
御神体というのは、そんなに大きいのだろうか。
古びた神像――あるいは、土偶のようなものを想像していた。
しかし村人の怯え方を思い出すに、それでは少し物足りない気もする。
いや、まさか……髪が伸びると噂される市松人形のようなものを、信仰の対象として祀っていたとか?
ミカサは内心でその想像を振り払い、軽く首を横に振った。
「さて。次は、容疑者たちの洗い出しといこうか」
探偵は、山高帽のつばを人差し指で持ち上げる。
「まずはキミだ、ミカサくん」
「俺かよ」
「キミは最初の事件では村に居なかった。でも犯人が複数――模倣犯ということもあり得る」
「じゃあ、あなたはどうなんですか」
「死亡推定時刻が分からないからねえ。……となると、ボクもアリバイを証明できない。これは困った」
美優は楽しげに笑った。
「真面目に言ってます?」
「あからさまに怪しい容疑者は、三人かな」
帽子のつばを軽く指でなぞりながら、彼女は言う。
「一人目、守部喜兵衛、七十三歳。無職。祟り説を広めている張本人。でっち上げとしては、ちょっとわざとらしすぎるかもしれない。でも、怪人二十面相やルパンじゃあるまいし。現実の殺人犯なんて、そんなに頭がいいとは限らないんじゃないかな?」
フィクションの中から出てきたような探偵のくせに、美優は『現実の殺人犯のリアリティ』について語り始めた。
「ただ、あの爺さんは五年前も同じようなことを言っていたからね。だから――」
「単にそういう人だった、とも考えられます」
当時の御神体も『歩いた』とされていたのだろうか。
美優も特に反論するつもりはないのか、うんうんと二度頷いてから次の話に移る。
「二人目、守部善二、四十二歳。金持ち喧嘩せず――だが、当主家の人間はみな怪しくないかと言えば、そうとも言いきれない。中でも、次男の善二だけは別だ。復員後しばらくしてからの二年前、食うに困って村に戻ってきた。そんな経歴ゆえに、兄である村長とは特に折り合いが悪い」
ミカサは当主家に泊まる予定だったので、善二とは既に顔を合わせている。
確かに、印象は良くなかった。
「十二歳で村を離れ、進学後は逓信省に就職。《イイルディング》では旧軍に所属し、最近になって帰郷したという流れだ」
「物凄いエリイトだな……」
エリイト転落人生ここに極まれリ、というような経歴。
だが、この時代には珍しくもない。あの逓信省ですら既に解体寸前なのだから。
「三人目、守部玄蔵、五十二歳。元は旧軍の技術者だったが、イイルディングの最中――今から五年前に除隊して村へ戻ってきた。その際、イスミという終末孤児を引き取り、共に連れ帰っている」
「旧軍の……技術者」
「そっちは別に重要じゃない。終末孤児のほうだ。イスミは……まあ、見ようによっては可哀想な子だったからね。あの子の存在が、村人との間に軋轢を生んでいた可能性はある。《終末帰り》ってのは、どこでも摩擦の種になるものさ」
イイルディングの頃。徴兵という制度は存在こそしていたが、あまり広くは適用されていなかった。
雑多な素人を集めて叩き上げる、というような発想自体が、既に時代遅れだったのだ。
復員、帰郷した者――《終末帰り》が、故郷とうまく折り合えないというのは、よくある話だった。
「この村で、終末帰りの人間は?」
「善二と玄蔵だけだ」
なるほど、それで有力容疑者か。
「そろそろ遅くなってきた。続きは明日話そう。キミは当主の家に泊まるんだったね。善二も居るとはいえ、あそこなら他より安全だろう」
「美優さんは、一人でも大丈夫ですか? 俺が犯人なら、あなたを真っ先に殺しますが」
「それは光栄だな。あと、やっとボクの名前を呼んでくれたね?」
星明かりの下で、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ボクはバリツの心得があるんだ。喧嘩ならこの村じゃ一番強い。心配は無用だよ」
美優は歩き出すと、ミカサとすれ違うようにして拝殿のほうへと去っていく。
「それじゃ、お休み。ミカサくん」
*
翌朝。目覚めたミカサは、進駐軍の払い下げ品である安物の作業服に袖を通した。
色褪せたM43型ジャケットに、ヘリンボン織の作業ズボン。
ポマアドを指先にとり、近頃流行りのリイゼントヘアに挑戦する。
固い黒髪は、時折り反抗するように跳ね上がるが本人は気付いていない。
昨夜の食事会とは打って変わり、当主家の表座敷でとる朝食はひどく静かだった。
そこへ、慌ただしげな足音を響かせて現れたのは守部清一。
守部村の村長にして、当主彦右衛門の嫡男である。
着流しの帯を片手で押さえ、寝不足の顔には焦りと苛立ちが混ざっている。
「ミカサ君。ゆうべ、美優と最後に話していたのは君だったね?」
「ええ。あの後は自宅に帰ると言ってましたから、多分そうです」
「すまないが、一緒に来てもらえないか」
当主家を出て、朝霧の中を二人で歩く。
空は薄く曇っており、湿気を帯びた空気に、どこか不穏な気配が混じっていた。
道端の草が踏まれたまま乾いておらず、あたりにはまだ人の気配はない。
その静けさが、不自然に感じられるほどだった。
やがて、美優の家が見えてきた。
門の前には、駐在の加納が立っている。
家の中に呼びかけているようだ。
「美優さん? おーい、加納です。開けてください」
声を張る加納の後ろで、ミカサはふと門扉に目をやった。
木製の門に、何か――赤黒い染みのようなものが塗りつけられている。
視線の高さ、ちょうど目立つ位置だ。
――『しゅにら』
そんな文字が書かれていたかもしれない。
だが、加納の立ち位置のせいでよく見えなかった。
そして――鼻を刺す、あの匂い。
ミカサはわずかに眉をひそめる。
加納の腰には、アメリカ製の大ぶりな回転式拳銃がぶら下がっていた。
コルト・ニュウサアビス。
終末後に進駐軍から警察へと払い下げられたものだという。
「加納さん、美優さんは?」
「おう、配線屋か。全然返事がねえな」
駐在の加納忠夫とは、昨日挨拶を済ませている。
どうやらミカサの名前は忘れたらしい。
機械修理などを生業とする、《配線屋》という職業名で呼ばれた。
「加納さん、何かあってからじゃ遅い。すぐ踏み込みませんか?」
「そうだな……確かにあんたの言う通りだ」
その返事を聞いたミカサは、即座に門を開けようと手を伸ばす。
鍵は――かかっていなかった。
玄関も同様に開いていた。
呼びかけても返事はない。家の中は静まり返っている。
どこかに人の気配があるはずだ――そう思いながら進む。
床の間に面した客間の襖が、半ばだけ開いていた。
そこに、美優は居た。
仰向けの姿勢。着物の胸元には鮮やかな血がにじんでいる。
その胸に――ひときわ異様なものが突き立ててあった。
白木の棒に紙垂を挟んだ、簡素な神具。
神職が使う『幣束』である。
まるで儀式のように、美優の身体に突き立てられて――
着物の背から血が染み出している。背中にも刺し傷があるのだろう。
彼女は背を一度刺されたあと仰向けに倒れ、さらに胸を貫かれているのだ。
ミカサはその場に立ち尽くした。
視界の中で――血を吸って紅に染まった紙垂が、わずかに揺れている。
第三の事件。
被害者は守部美優、二十八歳。
職業――探偵。
《守部村連続怪死事件》――
昭和二十X年、東京都青梅市にかつて存在した山間の寒村、
守部村で、短い期間に複数の住民が不可解な形で命を落とし、
その後、集落としての機能を喪失した記録が残されている。
事件当時の関係者は少なく、詳細は今も謎に包まれたままだ。
――扶栄堂書店刊『幻秘探訪録』特集「山野にひそむもの」