能と世阿弥
能と世阿弥
先日、パリのエッフェル塔近くにある日本文化会館で観世流のデモンストレーションによる「船弁慶」を観る機会があった。能の演技は大変シンプルなのだが、何を演題としているのか等々、事前に下調べをしておかないと全く理解できない。言葉遣いも現代と七百年の違いがあるし、観客のイマジネーションに委ねられるところも多々ありで、一筋縄には行かないのだ。
能の歴史を紐解いてみよう。現在、能と称されている起源について正確なことはわかってはいない。7世紀頃に中国大陸から日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。散楽は当初、朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて猿楽と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能楽の原型がつくられた。
能役者・世阿弥は南北朝時代の1363年に生まれた。幼名を鬼夜叉、本名は元清という。11歳の時、京都・今熊野での演能で、世阿弥は一躍人気役者となる。この時、若き将軍・足利義満に出会い、以後、世阿弥は彼の寵童として、そば近くに召し使われた。将軍・義満に愛された世阿弥だったが、晩年、世阿弥のライバルである能役者・犬王が寵愛され、「猿楽の第一人者は道阿弥(犬王)である」とランク付けされた。しかし、義満が病気のため急死し、義持が次の将軍になると、道阿弥に替わり田楽の増阿弥が寵愛された。世阿弥が七十数歳の時に将軍・義教の怒りに触れ、佐渡の島に遠流される。この後の詳細の消息は不明だが、都に帰ることができたとみられている。
話を最初に戻すが、上演の前に狂言と能の簡単な説明があった。極めて大切だと思われるものに能楽師の心と面が一体となり、演じ手の心が表現できるということだ。また、シテ(中心人物、主人公)は能面をつけて声を出す、つまり、謡をするのであるが、面で顔をすっぽり覆うのではなく、顔より少し小さく顎がちょっぴりはみ出して見えるくらいの大きさのものをつけるので、シテが謡うと顎が動き出しシテだとおのずからわかる。また、能面の目の穴は非常に小さなもので、面をかけると視野が極端に狭まる。舞台の上で方角を定めることも容易ではないので、四方に柱などを設置して、能役者が狭い視野でも方向を見誤らないような工夫がなされている。能面は檜を使用。楠も使用される。
能面の発生の経過は定かではないが、室町中期から末期に入ると、面は宗教的な意味をもつ役柄だけに使用されるのではなく、実在の人間を表す場合にも使われるようになった。これは、能の演劇表現が、「幽玄美」を重く扱い、美的表現を強く表すため、顔の表情変化や、顔の衰えの醜さを隠すことが求められるようになったこともある。
さきの能舞台で印象的だったのは二人の男性演者が謡いをするのだが、腹から声を出しているのか、太い声で双方息をぴったり合わせて力強く謡いこなしてるのに圧倒される。また、驚嘆もした。
ここでは、世阿弥の作品である「芭蕉*」を紹介しよう。世阿弥は「芭蕉」という作品の中で法華経**の教えを根底に据えて薬草喩品第五の喩えの草木を主体として立ち上がらせている。草木国土悉皆成仏というのがその拠り所の言葉で仏典には上記の概念が見当たるが、西洋には自然や環境は人間に支配される側にあって、人間が上なのであるから自然と共存共栄や調和の発想は生じないのは明白である。
この作品に引用されている平家物語の有名な「諸行無常と鳴り響く鐘の音」がある。この引用は世阿弥が生きた時代を反映しているように思われるが、芭蕉が女として現れ出て「わびしい」「世は無常」「儚い」との言々句々は無常観を偲ばせる。更に、人も木も成仏するというなら、両者一体の実現を試み、当時、流行の幽玄美を舞台に押し出さしめようと世阿弥は考えたのかも知れない。
最後に、能楽とは畑違いだが、ルーブル美術館に「モナ・リザの微笑」がある。この絵画を目の前で鑑賞した日、モナ・リザが怒っているように見えた。微笑とあるように先入観があるのか、微笑を浮かべているはずであろうモナ・リザがその日に限って怒りを露わにしているのだ。のっぺらぼうな、あるいは、無表情の能面も見る人によっては喜怒哀楽の表情を変えるのかも知れない。
*芭蕉:ばしょう科の大形の多年生植物。中国原産。葉は長い楕円形で大きく、風に裂けやすい。夏秋に黄白色の花が咲く。葉・根は薬用。
**法華経:二十八品から成り立っている。薬草喩品は五番目の章。