第十話:ハッピーエンドにはまだ早い
黒石と再会してから、一年と数ヶ月後の春。
父の残していった借金が、完済した。
どうしてこれほど急に、と驚く母には、隠れて水商売をしていたと嘘をついた。
さすがに身売りで稼いでいたとは、事後報告であっても打ち明けられなかった。
「───なんとなく、そんなような気はしてたけど……。」
「………。」
「あんなに、言ったじゃない。
相談してねって、無茶はしないでねって。」
「ごめん。」
「もし何か、トラブルに巻き込まれていたら……。」
「……ごめん。」
「晴子。」
「はい。」
「こっちおいで。」
「……はい。」
「相談、できなくて、辛かったでしょう。
無茶させて、ごめんね。こんな親で、ごめんね。」
「………。」
「よく頑張ったね。ひとりで、よく頑張った。頑張った。」
「……うん。」
「でも、もうやめてね。
好きなことは、好きにしていいから。好きじゃないことは、ちゃんと言ってから、決めてね。」
「わかった。」
「他に、嘘はついてないのよね?」
「……うん。」
「よかった。
せめて水商売で、よかったわ。
実は風俗で働いてました、なんて言われたら、卒倒しちゃうところだった。」
「………うん。そうだね。」
辛い毎日だった。
死にたくなるようなことが、たくさんあった。
ただ、辛いばかりの毎日でもなかった。
死にたくなっても踏ん張れるだけの、嬉しいことや楽しいこともあった。
だって、この仕事を始めたおかげで、黒石と再会できた。
不幸のドン底から、母を解放してやれた。
すべてが良かったとは、やっぱり言えないけれど。
終わり良ければすべて良しなら、気まぐれに呟いてやってもいいかなと、思えた。
「───悲しいかな、手放しには喜んでやれない立場でして……。」
「でしょうね。
無理に引き止められないだけ、ありがたいと思うことにします。」
「引き止めたかった、けどね、ほんとは。
ここが普通の、飲食店とかだったら、普通に引き止めるし、普通に喜んだんだけどね、ほんとね。」
「オッサン、鼻水でてんぜ。」
「オッサンはやめなさいよ。ありがと。」
「……ワタシって、運が良いんだか悪いんだか、よく分かんない人生みたいです。」
「ええ?なーに急に。」
「借金できて、風俗堕ちして、ってとこまでは、ガッツリ不幸だったはずなんですけど。
いざ働いてみたら、よっちゃんもいっちゃんも優しいし、客も意外と、まともな人多かったし。」
「そりゃあ、格安を売りにしてるトコなんかと比べれば、ね。」
「それもこれも、二人がいろいろ根回しとか、守ってくれたおかげだと、思ってる。
ありがとう。」
「ええ……?初めて言われたよそんなん……。」
「卒業式……?」
「元気で、いてね。長生きしてよね。」
「おう。100まで生きるぜ。」
「また路頭に迷うことがあったら───」
「オッサン。」
「嘘だよ。
二度と来んなよ、嬢ちゃん。」
「……ふふ。
二度と来ねーよ、ばーか。」
後日。
身辺整理が済んでから、私は黒石に連絡をとった。
完済のことを報告したらきっと、開口一番におめでとうと言ってくれるだろう。
お祝いに何か美味しいものを食べたり、旅行にでも行こうと誘ってくれるだろう。
そうしたら私は、今度こそエスコートする側になって、恩返しの第一歩を黒石と共に踏み出そう。
なんて、期待していたのに。
『───もしもし。』
「あ……。ワタシ、だけど。」
『うん。久しぶり。どうしたの?』
「ちょっと、話したいこと、あったんだけど……。
大丈夫?具合わるい?」
『そんなことないよ。大丈夫。話したいことって?』
「えっと、実は、借金のことなんだけど───」
長い発信音のあと、ようやく電話に出た黒石は、明らかに暗い声をしていた。
おめでとうは言ってくれても、お祝いをしようとは誘ってくれなかった。
少し前までなら、連絡イコール次の予定を相談していたのに。
こちらのスケジュールを確認もしなかったということは、黒石の方が都合がつかないのだろうか。
内心がっかりしつつ、忙しいのであれば日を改めてと、この時は報告だけで電話を切った。
「("また今度"……、って。
前もそう言って、結局ワタシから連絡してばっかなんだよな。)」
けれど、その次も、その次の次も。
電話をかけてもメッセージを送っても、前向きな返事が返ってくることはなかった。
次第に、応答さえしてもらえない日が続くようになっていった。
「(このまま待ってるだけじゃ、駄目な気がする。
てか、受け身でいるのが、そもそもらしくないんだよ、ワタシは。)」
もしかして、避けられているのだろうか。
嫌われるようなことを、私はやらかしてしまったのか。
仮にそうだとして、正直に言い合える仲にはなったはずだ。
黒石の性格を考えても、当てこすりで避けられている可能性は極低い。
やむを得ない事情。
嫌じゃないのに避ける理由って、一体なんだ。
我慢できなくなった私は、これから行くとメッセージで伝えた上で、初めて自分の意思で、黒石の自宅を訪ねてみることにした。
そこで私は、衝撃的な場面に遭遇した。
「(なんだ、あれ。)」
黒石のアパートに着いた直後。
私の視界に飛び込んできたのは、二人の女性が言い争う姿だった。
片や黒石、片や見知らぬ年配女性。
私が現場に到着した頃には、既に口論の真っ最中だった。
「───埒が明かないわ。
お前の気持ちがどうあれ、こっちはこっちで進めさせてもらいますからね!」
やがて、吐き捨てるように怒鳴った年配女性が、立腹した様子で現場を立ち去った後。
玄関先に残された黒石が、へなへなと膝から崩れ落ちていったのが見えた。
思わず駆け寄った私は、大きな声で黒石の名前を呼んだ。
はっと顔を上げた黒石は、掠れた声で私の名前を呼び返した。
寒さで赤く染まった彼女の頬には、いつかとは違う透明な涙が伝っていた。
「大丈夫?怪我してない?
何があったの?さっきのひと誰?なんの話してたの?」
動揺のあまり、私は矢継ぎ早に質問を投げかけた。
黒石は首を振ると、ぐっと拳を握り締めて答えた。
「……母親。
あのひと、わたしの母親なの。」
母親。
一番に候補に上がって然るべき、けれども先程の様子からは結び付かなかった存在。
私は瞬時に、こう悟った。
黒石の母親の存在は、きっと私たちの将来にも、影を落とすに違いないと。