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過去で目覚めた人は、どんな行動をとるか?

挿絵(By みてみん)


 ベッドの上で目を開けた彼女は半身を起こし、息をゆっくり吐きながら、自分がいる場所を見回しました。

 ――ここは、さっきまでいた病院じゃない。だとしたら「どこ」にいるの?

 胸がどきどきする。まるで見おぼえのない部屋にいるから。

 彼女のいるベッドの位置から見ると、左側が窓で桜色のカーテンがかかっています。正面の壁には高校の制服が吊るされているから、若い女の子の部屋に見えるけど。

 ななめ前には小さなデスク。上に置いている赤い機械には、AIWAというロゴ……これってラジカセ?

 視線をおろすと、部屋の中央には高さ40センチほどのレトロな丸テーブル。上には雑誌が置かれたまま。表紙に「明星」(昭和62年発行)と印刷されている。

 まっさきに頭に浮かんだのは、〈手の込んだいたずらだ〉というもの。人をだまそうとして、部屋中を昭和風の雑貨で埋めつくして。

 思いを巡らせながら、壁際の方に視線をむけると、異常にかわいい高校生が笑ってる。

 木製の棚の上に飾られていた、写真の中の女の子でした。天気の良い日に、どこか坂の上で撮られた一枚の素敵な写真。

 ――この子、こんなに目が大きいなんて、反則じゃないの。

 

 きらめく瞳を見た瞬間に、誰なのかわかりました。

 ――間違いない、わたしのお母さんだ。

 羽根は写真から目を離し、今度はおそるおそる自分の髪の毛をなでて指先の感触をたしかめ、形容しがたい表情を浮かべています。

 サイドにレイヤーを入れたロングヘア。なんてサラサラでつやつやした髪なの? 

 本当の羽根の髪型はショートボブ。ほんの数分で、長くてつやつやで、おまけにいい香りのするロングヘアになるわけがない。

 頭がくらくらする。

 ――本当に「数分間しか」経っていないの?

 視線を下ろすと、身に着けているのはオフホワイトのトレーナーに、洗いざらしたデニムのパンツ。自分の趣味じゃない。そもそもまったく見覚えがない。

 ――そうだ。鏡。

 確かめるためには、あの鏡を見ればいいんだ。

 

 彼女の視線は、クローゼットの前面に貼られた鏡に吸い寄せられます。

 あれを見たら、はっきりする。

 おそるおそる、ぎしぎし音を立てるベッドから右足をおろします。左足もゆっくりついていきます。よろよろ立ち上がると、まるで氷の上を歩いているかのように、そろそろ鏡にむかって歩きました。

 

 ――あの鏡に映るのは――さっきの看護士の話が真実だとしたら――「わたし」じゃない。

 怖くてたまらない。落ち着け。落ち着くんだ。

 一回だけ深く目を閉じて、それから思い切って目を開け、まっすぐ前をみると――

 

 鏡の向こうから自分を見つめていたのは、大きくてきれいな瞳、日本中の男の子たちが、一瞬で心を奪われたあの瞳。

 

 お母さんの唯川夏目でした。 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


塩野秋生による補記


 人によってはもちろん異論もあり不愉快かもしれないけれど、もしも外見が才能の一つだと仮定したなら、唯川夏目は完璧でした。

 この角度から見ると頬から顎にかけて、なめらかでふくよかで絶妙な曲線を描いていて。

それに綺麗なカタチの眉毛、まっすぐ伸びた鼻すじ、可愛らしいくちびる。

 なによりもすばらしく印象に残るのは、この人の瞳でした。

 深みのある茶色の瞳。人間の目はこれほど光を反射するのかと思えるほど、きらめく瞳。

 それ自体が生き物のような瞳です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 われを忘れて鏡を見ていた羽根は、風船の空気が抜けたみたいに、その場に座り込んだのです。四月の床の表面は、まだひんやりとしていて。

 膝頭の上においた、細くきれいな指をじっと見て考え込んでいます。

 自分のからだが、別人のからだに変わったのですから、動揺するのも当然です。

 今まで、確かなものだと信じていた「自分」が消えてしまっている。

 こういう場合、大抵の人はパニックを起こすか、現実を受けいれられず殻にとじこもるもの。だけど、この子のふるまいは違っていました。

 しゃがみこんだままの姿勢で顔を上げると、もう一度自分の姿を確かめるように鏡を見はじめたのです。

 最初、その表情はやっぱり硬くて青ざめていて、長いまつ毛も震えていました。

 だけどそれから、この女の子に起こった変化に、驚いたのです。

 

 鏡をのぞきこんでいる彼女は、とても優しい顔をしています。

 いままでぼくが見たことがないくらい、とてもとても優しくて穏やかな顔を。

 この変化をもたらしたものが何か、考えられることはたった一つしかありません。

 鏡のむこう側から、見てくれている人がいたからです。

 その人が、羽根の気持ちを落ち着かせて、安心させる暖かい何かを与えてくれたからだと思います。

 ぼくの言いたいことが、わかってもらえたらいいのですが……。

 

 しばらく時間が経ってから、東京のどこかにある静かな部屋のなかで、一人の女の子がそっとつぶやく声が聞こえました。


 「これが現実に、わたしの身に起こっていることなら、あの看護士さんが言ったことは本当だったんだ。……だとしたら、お母さんは死んだりしない。いつかきっと目をさまして、わたしの名前を呼んでくれるんだ」


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