過去の世界へ行きましょう
このミーティングエリアの温度は一定に保たれているはず。どうして首筋がぞくぞくするんだろう。
「ふしぎな話。唯川夏目のために、長女がタイムリープしたってわけね」
男の子は、善如寺を見つめながら言った。
「あなたは信じてないけれど、ぼくが嘘つきだという確信ももてない。そうでしょう?」
「そうかもね。実はさっきから、ずっと気になっている…。最初にすべきだったけど、そもそもきみは、なにをするために、病院にいたの?」
「バタフライ効果を避けるため」
「バラフライ・・・効果?」
「生きている人間が時間を逆行したとき、過去の世界に物理的な影響を及ぼすリスクが生じます。たとえ小さな変化でも、時間の経過とともに巨大な変化となり、後の世界に重大な混乱をもたらす可能性がある。――いわゆるバタフライ効果です」
「それで?」
「それで、バタフライ効果を避けるために、長女の〈監視役〉を送りこむことにした」
善如寺は、男の子にむかって言った。
「もしかして、きみのこと?」
「ええ。監視なんて言葉は好きじゃなかったけれど」
「監視かなにか知らないけど、つまり、きみも1987年にタイムリープしたというの?」
「ほんとは断りたかった。こんなのうまくいくはずがないって思っていたから。あの人にも、そう言ったんです。唯川さんは天性の才能をもっていたけど、長女はそうじゃない。母親のことを愛していたけれど、それだけでは〈代替〉はムリなんです」
おだやかで感情をおさえていた彼の声が、すこし高くなっていた。
「ぼくは、こんな仕事に関わりたくなかった。それに2024年のあいだに、やらなきゃいけない大事なことがあったし」
「じゃあ行かずにすんだの? きみは」
「いいえ。あの人はどうしても、ぼくにやれといった。なぜ選ばれたか分からなかったけど、ぼくに選択の自由はありません」
善如寺は、すこし考えてから言った。
「なるほど。きみは〈過去〉へ逆行したけれど、いまは、もう〈現在〉に戻って来て、ここにいるというわけなのね?」
問いつめるような聞き方はしないつもりだったが、うまくいかなかったかも。
そろそろ空想のお話は切り上げるときだ。善如寺は、時計をみるふりをしてから、男の子に視線をもどした。
彼は、なにかを心に決めたような目をして善如寺の顔をみている。
「手を出してください」
「は?」
「あなたの手をテーブルの上でまっすぐ伸ばして、そのままじっとして」
ちょっととまどったけれど、善如寺が言うとおりにすると、男の子もテーブルの下から手を出した。
あわてて善如寺は腕を引っこめようとする。
「だいじょうぶ。ぜったい触りません。もし触ったらぼくたちは、とんでもないことになる。……いいから、よく見くらべて」
「手がどうしたというの?」
「その下」
善如寺は、座っていた椅子をはね飛ばす勢いで立ち上がった。
おどろきのあまり、ひきつった口から喘ぎ声がもれる。
「きみは……か、影がない」
テーブルには男の子のまっ白な手だけで、照明がつくりだす影が映っていない。立ち上がった善如寺の影だけが、つるつるしたUV塗装面に映っているだけ。
この子は……まさかこんなこと。後ずさりしようにも、うろたえて足がふるえる。
体を支えるためにテーブルのふちに手を付け、固まっている善如寺の耳に、男の子の声が聞こえた。
それまでと同じ、低くておだやかで憂鬱そうな声だった。
「ぼくは自分の姿を可視化することも、逆に消すこともできます。いわば幻のようなものだから」
顔には、傷つくことを予期していた者の微笑が浮かんでいた。
「怖がらないで。ぼくはもう行きます。でもよかったら、続きのレポートを読んでください。添付ファイルを、あなたにメールしました。ぼくはただ読んで欲しかっただけだから、あとは消去するなりなんなり、好きにしていい」
のどに大きな塊がつまっていた善如寺は、こう言うのがせいいっぱいだった。
「きみは、まぼろしだと言いながら……メールを打つことはできるの?」
「さすが編集者さん。ぼくがメールを打つなんて、おかしいですよね。さっきあの人が、魂というのはエネルギーだと話していたのを覚えていますか? ぼくは死んでいるけれど、意志の力でキーボードを叩くこともできるし、物体も持てる。スマホをジャックすることもできるんです」
「いったい、なぜきみを長女の監視役にしたの?」
男の子がこたえないうちに、善如寺のスマホが手帳の上でぶるぶるっとふるえた。
目線を下にやると、一件のメールが着信されている。
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●塩野秋生からのお知らせ
【送信完了】『唯川は1987年に目を覚ます』
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「し、塩野秋生って、きみのこと?」
善如寺は画面から顔を上げて、視線を戻した。
男の子は、消えていた。
つづく