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2024年から、昭和の時代へ逆行した少女が借りたのは、のちにスーパースターとなる17歳の母親・唯川夏目の才能でした。
少女が、過去の運命を変えてしまわないように監視をする少年は、星への階段を懸命に昇っていく彼女に惹かれていきます。
特別措置
貴殿におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
このたび、唯川夏目の生命を救うために、その親族の一部を、1987年4月15日に移送することに決定しました。
ついては「医科大学病院」にご足労いただければ幸いです。
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ミーティングエリア・ある出版社(港区)
左手の壁面に新刊本が展示されているため、かろうじて、ここが出版社だとわかる。右は編集部のオフィスと、このミーティングエリアを隔てる木目調の壁。
まだ十七時なのに、打ち合わせをする者の姿はなく、他のテーブルはすべて空いている。
――いつも思うけど、何の特徴もない、ありふれたミーティングエリアだよね。
誰も文句は言わないが、センスも面白味も全く感じられない場所だ。
善如寺はため息をついて、テーブルの向こう側に座っている「来客」を見た。
たぶん、編集者であるわたしの名前を、あとがきで見つけてたずねて来たんだろう。私立校の制服を着ていて礼儀正しいし、害もなさそうな男の子だけど。
まあ、男の子といっても……善如寺は心の中で笑った。この子はいくつ? もちろん私より年下だけど、落ち着いてるしハンサムだわ。色白できゃしゃに見えるけど肩幅が広いから制服が似合ってる。
善如寺は、先ほど男の子に手渡されたA4のレポートに目をやった。
五分くらいなら読んであげてもいいかな。今日は装丁の依頼状を送るくらいしか仕事は残ってない。あの「唯川夏目」の名が書かれたレポートは気になるし、この男の子も気になる。
照明のせいかもしれないけど、やけに顔色がさえない。具合でも悪いのかな。
考えながら善養寺は手にしたページの続きをめくり、思わず声を漏らした。
「どうして、きみが『会話記録』をもっているの?」
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医科大学病院の会話記録
――ICUに隣接する治療室は空室で、塩化ビニルの床には可動式の処置台が置かれているだけ。壁には手洗い台と、ビデオカメラが取りつけられている。医師は何かを気にするようにちらりとカメラを見て、その場につれてこられた若い女性に声をかけた。
医師「あなたは、唯川夏目さんの?」
羽根「長女です。唯川羽根と言います」
医師「そうでしたか。こんな場所で申し訳ありません。ぼくはとなりの治療室から離れられなくて」
羽根「あの、先生……母は痛がっているんでしょうか?」
医師「意識がないため、痛みは感じていないと思います」
(医師の答えを聞いて羽根は泣きそうな顔をする)
羽根「どうして母は、意識がないんですか?」
医師「はっきりわかりません。すぐに病名が特定できないのは珍しいことではないんです。しかし血圧があまりにも低く心拍も弱い。……お嬢さんには言いにくいですが、深刻な状態です」
(医師の言葉と、あたりに漂う消毒薬の匂いのせいで、羽根は卒倒しそうになる)。
医師「ぼくは24時間、唯川さんを見守ります……ただ、早くほかの親族の方も呼んだほうがいい」
(その時、医師のポケットでアラームが鳴り、彼は集中治療室へ戻っていく。その場に立ち尽くす長女を、看護士の一人が抱きかかえるように廊下に連れだした)
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ミーティングエリア・出版社(港区)
善如寺は読み耽っているレポートから顔を上げず、男の子に質問した。
「まるで、その場で見ていたみたいだけど、この『会話記録』は、きみがとったの?」
うなずく気配に、善如寺は眉をひそめた。
「困ったな……きみわかってる? あれほど有名な人のことを適当に書いたら、どんなことになるか?」
「適当に書いてません。実際あそこにいましたから」
「いた? 医科大学病院に?」
「はい。呼び出されたぼくは、治療室でぜんぶ見ていました。自由に歩きまわっていたし、あの日病院の外で起きたことも知っています」
「どうして、一般人にそんなことができるの?」
「一般人ですか……」
男の子の顔を見ると唇が少しゆるみ、奇妙な微笑みが浮かんでいる。
「ぼくにはできたんです。とにかく日没をすぎて騒ぎがおさまるどころか、もっと広がっていった。あなたもテレビを見て知っているかもしれませんけど」
ほんの半年前の騒ぎだったから記憶にはっきり残っている。
この男の子は、洪水のように流された「唯川夏目のニュース」をつぎはぎして、ストーリーを組み立てているのだろう。
善如寺は、なにくわぬ顔で調子を合わせる。
「あの夜はテレビにくぎ付けだったわ。どのチャンネルも彼女の特別番組を流していたし、YouTubeも過去最高の視聴回数だったっていうし」
「……たとえ世界中が映像を見ていたとしても、駆けつけた唯川さんの長女は、何も見ることはできませんでした」
彼は、憂鬱な声でつけ加えた。「ずっと、せまい家族控室に一人っきりでいたから」
すでに五分がすぎていた。作り話と思いながらも、善如寺は先が知りたくてたまらなくなっていた。
「それで、なにがあったの? 聞かせてくれる?」
男の子は、記憶をたどるような目をして話を続けた。
「あの時、長女は閉ざされた部屋にずっといました。もしも病院の外へ出ていたら、取り囲んでいるメディアの行列のむこうに、べつのものを見たと思います」
「べつのもの?」
「最初は数人でした。それが十人になり三十人になり、どんどん増えて日没後には二千人を超える人が集まって、病院を取りかこむ〈人びとの輪〉ができていたんです」
「フアンね……唯川夏目さんの」
「ぼくが見たこともないほど、ふしぎな人びとの群れでした。あの病院に引き寄せられたようにやって来て、男も女の人も何ひとつしゃべらず病院の窓を見つめていた。
まるで、窓にむかって願いをかけているようでした。一人が立ち去ると、うしろの人がかわりに前へすすみ、やっぱり同じように、じっと窓を見つめていました」
――この子、本当に病院で見ていたかのように話している。
「あの時、みんなが何を願っていたのか、わかりますか?」
「わかるよ。わたしもテレビに向かってお祈りしてたもの」
善如寺が応えると、男の子は年のわりに大人びた瞳を向けて言った。
「ええ。みんな、唯川さんが生き続けることだけを願っていました。うまく言えないけど、とても強くてピュアな祈りだった。だけどぼくは、戸惑ってしまって……」
「どうしてきみが、戸惑うわけ?」
「なぜ、こんなにも多くの人が、彼女のために祈っているんだろうって」
「それは唯川さんが特別な…」
「はい。唯川さんが特別な〈才能〉を持っていたからだと、ぼくは思い込んだんです」
「彼女を知っている人は、みんな彼女を好きになったわ。それを才能と呼んでいいのか、わからないけど」
つい、自分の口からこぼれた言葉に驚き、善如寺はあわててつけたした。
「だけど、どうしてきみが唯川さんに興味をもつの? きみくらいの年だと、彼女がトップスターだったときは生まれていないはずよ」
男の子は淀みなく、すらすら答える。
「彼女が出したソロ・アルバムは10枚、主演映画もTVドラマも大成功し、唯川夏目は〈社会現象〉とまで言われました。レコード大賞、日本アカデミー賞、紅白歌合戦、朝ドラのヒロイン、さらに雑誌も学術誌を除くすべての表紙を飾っています。ラジオ番組まで含めると、もはや数えきれません」
「一応調べてるみたいね……そのとおり、彼女は特別だった」
「ぼくは唯川夏目さんのことを知っているけれど、知りませんでした」
「は? なにを言ってるの、きみ?」
「いえ。いいんです」
「ねえ、もしかしてきみは病院で何かを目撃したの?」
「はい」
「それが最初に書いていた〈特別措置〉なの?」
「はい」
――この子はどうして、冷たいプールで泳いできたような顔色をしてるんだろう。
「くり返すけど、〈特別措置〉ってなんなの? 君の話は謎だらけなんだ」
男の子は、善如寺が手にしているレポート用紙を指さした。
この子には、どこか断われない雰囲気があるけど……善如寺はもう一度ため息をついた。
これを見ろ、ということね。
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唯川夏目の長女
氏名 唯川羽根 2005年生まれ
母 唯川夏目
出身 神奈川県
身長 161センチ、血液型B型
体重 個人に配慮し非公開
略歴 以下、幼稚園、小・中・高校名が記載されているが非公開
交友関係 個人に配慮し非公開