ゴー・ザ・ライト・ステア(R)
この旅はどこから始まっただろうか。果てしなく長い道を歩いてきた気がする。当初は当てもない旅だったが、京都市に一歩足を踏み入れた瞬間から目的地は自ずと明確になっていた。
旅人はひどく疲れていたが、その歩みは旅が始まった時よりも遙かに力強い。吉田神社、熊野神社、平安神宮、禅林寺。彼は名だたる名所には目もくれず、行脚僧のようにただひたすら歩き続けていた。
「やっと見つけた。ここだ、この通りだ」
市の動物園のすぐ近く、二条通りと白川通の交差点で旅人は足を止め、うわ言のようにそう呟く。旅人の目は彼の歩いていた白川通の更にその先を見つめていた。
体の奥底から溢れてくる感情は名状しがたい。容れ物に注がれた水が多ければ多いほど倒したときにたくさんの水が零れるのと同じように、これまでの苦難が多かった分だけ彼の味わった幸せも大きかった。道の真ん中で呆けた顔をし、ほろほろと落涙してしまうほどの幸福感だ。それに身を任せてこのまま地面に座り込んでしまおうかと旅人が思っていると、突然と鋭いクラクションの音が彼の耳を刺した。音は二条通りの方からだ。旅人が興をそがれた顔を向けた先には大型のトラックが恐竜のように佇んでいる。運転手がうんざりとした様子でクラクションへ拳を振り上げるのを見て、旅人は依然として力が入らない足でふらふらと通りの脇へ歩いていく。
彼は腹立たしげに白川通へ左折するトラックを睨み付けていたが、排気ガスの鼻を突く臭いでようやく顔を背けた。そうだ、僕の旅はまだ終わっていない、あそこに着くまでは気を抜くわけにはいかないな。彼はそんなことを考えながら再び厳かに歩み始め、交差点を抜けた。
その通りは驚くほど平凡だった。幅は五メートルも無く、両端に申し訳程度の歩道がある。右手には疎らに民家があり、左手には、工事をしているのか、プラスチックの仕切りがある。そして、どれほど首を回しても必ず木々が目に入る。午前三時の暗闇に染められながら、どの樹木も風に吹かれてすやすやと寝息を立てていた。どこにでもありそうなありふれた道路だ。多分、そこが東京のある田舎道と言われても沖縄の過疎な通りと言われても何の違和感もないだろう。それほどまでに何の特別さもない通りだった。昼も夜も、今までもこれからも、ただ通り過ぎられるための存在のようにしか見えない。それにも関わらず、旅人の歩みは一歩一歩を味わい尽くすかのようだった。突き刺さるほど踵でアスファルトを力強く押し、舐めるかのように足裏全体を地面に密着させ、水鳥さながらつま先で素早く大地を蹴る。午前三時の人通りの全くない道路の真ん中、疲労にまみれた体でその動作を堪能していた彼は端から見ればゾンビのようだっただろう。旅人もその肉体的な疲れを認識していたが、精神はどこからか聞こえてくる鴨川の流れと同じくらい途方もなく朗らかだった。この旅を始める前とはまるで逆と言えよう。きっとかつての修験者たちも同じような感覚になったことだろうな、と彼は自然に破顔した。
旅人はたっぷり五分かけて歩いた後、ふと足を止めた。それは歩き疲れたとか道に迷ったとか、そのような躊躇いのある緩慢とした停止ではなく、止まることを目的とした動的停止だった。
「間違いない。思い描いていたとおりだ」
それは丁寧に剪定された庭木に囲まれていたせいで周囲の日常にすっかりと溶け込んでいる。しかし、旅人はそれが目の端に映るやいなや、自分が探し求めていたものだと分かった。彼にはそれの隙間から漏れ出ている煌々とした光が見えていたのだ。道路の真ん中に立っていた旅人は顔にぶつかる光に目を細めながら、一歩また一歩と、ゆっくりそれに向かっていった。彼にとってはそこにある全てが愛おしく、庭木の中にちらほらとある欠けた葉っぱや頭上の木から垂れ下がっているクモでさえ、ありがたく感じる。そのように周囲のものに親しげな視線を送っていると、不意に古ぼけた小さな石碑が目についた。
不明門
誰が建て 誰が行き来る 不明門
掘られた文字は風化してほとんど読み取ることはできなかったが、辛うじてそれだけは読み取ることができた。なんだかへんてこな句だな、と旅人は鼻で笑いながら不明門に手を添える。しかし、門は、彼が力を込めるより早く、旅人を迎え入れるかのように勝手に開いてゆくではないか。少しだけ呆気にとられた後、彼の顔には水面の波紋のように次第に笑みが広がった。僕は歓迎されているんだ。彼の目の前には、天にも届くほど高くてどこまで続いているかも分からないほど長い、光り輝く階段がそびえていた。
「やった!とうとう辿り着いたぞ!ずばりこの階段だ!ここを上るために僕は何年も歩き続けてきたんだ!この苦難ばかりの旅路の果てに!ただひたすら善行ばかりを積んで!」
瞳には強く輝く階段の光がこれでもかといわんばかりに降り注いでいたにもかかわらず、彼は眩しそうな様子を見せるどころか、瞬き一つさえしていなかった。ただ眼前の光景をひたすら自身の網膜と脳に焼き付けようとしているかのごとく。
旅人は数分もの間、足に杭でも刺されたかのように微動だにしなかった。まぶたもまた動いていない。ひょっとすると、心臓さえも動いていなかったかもしれない。
とにかく彼は自身の旅の苦労とその成果物を満足いくまで何度も反芻して噛み締めると、その光の階段を上るために門をくぐろうとして一歩踏み出した。この先には、きっと何か素晴らしいものが待っているんだろう。僕の旅路の苦労に報いるような、積み重ねた善行に相応しいような。もしかすると、それは幸福というやつかもしれない。旅人はそんなことを考えながら門の真下を、不明門の内側と外側のちょうど境界線を、足の裏で力強く踏み込んだ。
「おい、おまえ。何をしとるか」
どこからか声が聞こえた。境界線を踏んだまま、旅人は辺りを見回す。かなり近い場所から聞こえてきたような気がするが、声の主は見当たらなかった。
「おまえにこの光の階段を進む資格はあると思うか?」
旅人が声を無視して先に進もうとしていると、再び声が聞こえた。そして、内側へ開いた不明門の扉の裏から声の主が姿を現した。
奇妙な男性だった。髪の毛は白髪で腰ほどまでの長さのものを首に巻いており、髭もだらしなく伸ばしっぱなしになっている。そのようなみずぼらしさとは裏腹に、身長は2メートルを越えるほど高く、顔つきは溢れ出る精気を止めようとしない精悍としたものだ。とりわけその目つきは鋭く、旅の中で数多の試練を克服してきた旅人でさえ一瞬間でも怯んでしまうほどである。しかし、そのような個性的な特徴さえ後退させてしまうものがその男性の服装だった。上には紺の作務衣を着ているが、下はすねが丸見えになってしまうほど短いガウチョを着ていて、極めつけにはコック帽と同じくらい長いシルクハットまでかぶっているではないか。
「・・・誰だ?あんた」と旅人は身構えながら言った。
その男性の目は闇夜で鋭くギラギラと光っており、まるで山で熊に遭ってしまったかのような本能的な恐怖を抱かせる。旅人はその恐怖を相手に悟られないための好戦的姿勢を自然にとっていた。彼の様子を見て、不気味な男性は呆れたように口を開いた。
「私が誰か、か。そんなの番人に決まっとるだろう、ここのな」
「番人だって?だから僕があの階段を上る資格があるかとか言ってたのか?でもそんなの必要ないだろ!僕はこの場所に引き寄せられてきたんだ。それだけであの階段を上る資格は十分なはずだ。第一、僕がこの門に触れた時にまるで迎え入れるかのように扉が開いたんだ。あんただって見てただろ!」
旅人は今が深夜であることも忘れてしまったのではないかと思うほど大声で男性にまくし立てた。そして、その勢いのまま不明門の内側へと足を踏み入れようとした。しかし次の瞬間、世界が大きくブレたかと思うと、彼の視界には古ぼけた不明門の石碑だけが映る。誰が建て 誰が行き来る 不明門。手には土や砂利が食い込んで痛い。目をギョロギョロと動かすと、視界の隅で番人と名乗った男性のふざけたガウチョが揺れ動くのが見える。
「気の毒なやつだな。何も分かっとらん。私がここの番人なんだ。おまえが呼ばれたとか歓迎されたとか、関係ないんだよ。おまえがここを通るべきかどうか、最後に判断するのは私なんだ」
旅人がひりひりと痛む肩をさすりながら顔を上げると、番人が顔を顰めて立っていた。その表情には確かに怒りが見て取れたが、理不尽で敵対的な怒りというよりは親が過ちを犯した子に叱責するときの怒りに近い。それがかえって旅人の癪に障った。
「何も分かっちゃいないのはあんたの方さ。番人だか何だか知らないが、僕があの輝く階段を上るに足る行為をしてきたことは、僕自身が一番分かってるんだ。あの階段だって、不明門だって分かってる。あんただけだ、何も知らずに偉そうなことを言ってるのはな。この頑固で唐変木の木偶の坊が!番人だって名乗れば僕が媚びへつらうとでも思ったか!じじいになると病院とかコンビニとかの労働者以外には構ってもらえなくなるから寂しいんだろ!痛い目を見ないうちに家に帰ってラジオ体操でもしてるんだな!」彼はついカッとなり、腹立たしさに身を任せて番人を罵りながら立ち上がった。
しかしながら、濁流のような侮辱に対して老人は軽く鼻を鳴らすだけでいなした。
「随分と威勢がいいじゃないか。あんなにたくさん歩いてきたのにな」と彼は続けた。
「当たり前だ。ようやくここまで辿り着けたんだからな。見返りなんて求めてなかった善行が思いも寄らない恩恵で報われるんだ」旅人は恍惚そうに微笑んで言う。その瞬間だけは番人のことなど忘れてしまったかのようだった。
「善行?おまえ今、善行とか言ったか?」
そう言った番人の口元は歪んできた。おかしくも何ともないが、ただ相手を嘲りたいときにする笑い方だ。
「そうだ。何もおかしくないぞ。あんたは何も知らないからそうやって馬鹿にしようとするがな」
今にも老人に襲いかかりそうな勢いで旅人は彼を睨み付けた。
「はん、そりゃあいい。それじゃあちょいと私に教えとくれよ。あんたの善行ってやつをな」
番人の突然の提案に彼を殴り倒してでも先に進もうとしていた旅人は呆気にとられ、意外にもあっさりと老人の提案に従った。
「怪我をした老婆を背負って隣町にある自宅まで送ってやったことがある。それに人手が足りないコンビニで、無賃で働いたこともある。誘拐されそうになっていた子供を保護したことだってあるよ」
旅人は得意げだった。自分の善行をひけらかす気は無かったが、それでもやはり改めて口にすると、自らの高尚さが誇らしくなったのだ。それ見たことか、身に沁みたか、僕が立派な人間だってことが。旅人は満足げに番人の反応を待ったが、彼が期待したようなものは返ってこなかった。
「なるほどな、確かにそうだ。嘘はついていない。嘘ってのは良くないものな。善行とは言えんものな。だが、都合の悪いことを隠すってのも善行とは言えないよな」
番人はそう言うと、ズンと一歩だけ彼に近づいた。
「隠すだって?僕が一体何を隠していると言いたいんだ?」旅人は顔を顰めながら言った。
老人はクツクツと痰の絡んだ忍び笑いをするだけで何も言わない。焦れったくなった旅人が彼の肩を掴もうとした時、不意に老人は彼の耳に口を近づけた。
「おまえはたくさんの悪行も為してきただろ?たあくさんのな」
一体こいつは全体何を言っているんだ?旅人の思考は凍り付いた。どう答えるのが正しいのか、彼には分からなくなった。怒鳴り散らすべきか、冷静に聞き返すべきか、そんな彼の様子を見て、番人は続けて歌うように言った。
「何だ?忘れちまったのか?それとも気づいていないのか?あるいはそのふりをしようとしているのか?そりゃあ通じない。私にゃ嘘もごまかしも通じない。私は何でも知っている」
「・・・あんたは何を言っているんだ?僕は善行を積むことだけを考えてここまで来たんだ。悪行なんて適当なこと言うなよ」
「なるほどな。それならいくつか例を挙げてやろうじゃないか」番人は舌で上唇を舐めて、「まず、おまえはあそこ、白川通と二条通りの交差点でトラックの通行を邪魔したろ?その上、それについて悪びれる様子もない。次に、おまえはそこの石碑に彫ってある句を嘲笑ったな?へんてこな句だとかさ。そして、こんな深夜の住宅街で馬鹿でかい声を出して周辺の住民に迷惑をかけた。本当に信じられんな。最後に、おまえは私を散々罵ったり暴力で退けようと考えたりしていたよな?ほれ見ろ、一夜も明けないうちにおまえはすでにこんなに悪行をやっちまってる」と一度もつっかえることなく言った。
「それは・・・。やっとここに辿り着いて気分が上がってたし、あんたも僕に水を差すようなこと言ってたからだろ」
旅人はそう答えたが、番人の指摘に頭が真っ白になった中で無意識に口走ったのだった。
「ああそうかい、おまけに言わせてもらうがね、さっきおまえが言ってた善行とやらのことだが。まず、怪我した老婆を家まで送ってやったんだったよな。確かに事実だ。でもおまえはばあさんを負ぶっている最中に財布をパクったろ?鮮やかにな。次は、コンビニで無償労働したってやつだ。これも事実だ。大したもんだよ、確かにあのコンビニの店長は過労死寸前だったものな。だがね、おまえはあの店長のかみさんと寝ただろ?弱みにつけ込んで何度も。最後は、誘拐の件だな。全くその通りだ。おまえは子供が車に押し込まれそうになってたところでズバリと現れた。が、おまえはその誘拐未遂犯の行動を全部遠くから盗撮してたよな?そしてそれを使ってそいつを強請ることでがっつり稼いだ。何か誤りはあるか?」と番人は言って呆れたようにため息をついた。
「誤りだって?そんなもの・・・」ここで引き下がったらこの旅の意味が無くなってしまう、僕は何としてもあの光り輝く階段を上らなければならないんだ、と思いながら旅人は過去の善行を振り返ろうとしたが、頭の中は混乱するばかりだった。
目ざとい番人がその隙を見逃すはずはなかった。
「無いよな?そりゃそうだ。どうやら思い出したみたいだな。おそらく、おまえは自分の善行のことばかり考えるあまり、自身の犯した罪まで意識が回っとらんかったようだ」
「・・・確かに、僕は罪を犯した。それは認めるしかない。でも、それを遙かに上回るほどの善行を積み重ねてきた。あの階段を上る資格は十分なはずだ」
旅人にはもう思い出すことができる悪行など無かった。そう、僕にはまだたくさんの善行があるんだ。彼はこのまま番人を押し切ろうとしたが、番人が寸前のところで遮った。
「ほお、犯した罪を遙かに上回るほどの善行か。例えば?」
「例えば・・・って。そうだ、海外で災害が起こった時に募金活動を行ったことがある。あと、大阪にいた頃にお金が無い子供の世話をしたことだってある」
唐突な質問に詰まりながらも、旅人はそう答えた。すると、いつの間にか彼の心の中には強い自信と誇りが蘇ってきている。そんな彼を番人は、呆れたような、怒っているような、哀れむような目で見ていた。
「そうか、それじゃあ精々おまえの善行をみんな思い出すんだな。全部思い出して、そしてその上でまだあの光の階段を進みたいと思うんなら進ませてやるさ。ここにいる限り、飯ぐらいは世話してやるよ」
門番はそう言うと、扉を両手で挟んで慎重に不明門を閉めてゆく。階段の光が遮られると同時に、ズシンという重い音が深夜の静まりかえった京都に響き渡っていった。
行く日も来る日も、旅人は不明門の前に座り続けていた。食事する時以外はピタリとも動かず、空気の色を見極めるかのようにどこかをじっと見つめる様は、さながら道祖神のようである。通行人たちも当初は道すがら不思議そうに彼を見たり、気味悪がって警察を呼んだりしたが、次第にそういったこともなくなっていった。季節は冬から春になり、春から夏になり、木々は葉を落として再び繁るというのを繰り返している。太陽が沈んでは月が浮かび、道行く人々も絶えず変化してゆく。その中で不明門の番人が作るおにぎりだけはいつも変わらない味だった。具や海苔のない、とても簡素な塩にぎりだ。南禅寺か禅林寺かは知らないが、どこからか七時と一八時に鐘の音が響くと、その五分後に番人は門を開けて旅人の背後に二つのおにぎりが載った皿を置いていく。老人は基本的には何も言わずに丁寧に門を閉めるのだが、季節の変わり目や雨風が強い日には旅人に話しかけることがあった。しかしながら、今年も桜がきれいに咲いたな、とか、こうも風が強いと隙間風がうるさくて昼寝もできんよ、とかいったような世間話ばかりで、善行を全て思い出したかどうかを聞いてくることは一度もなかった。
夏のある日、果てしなく繰り返される日々のとある一日のことだ。旅人は夜が明ける前に目を覚まし、虚空を眺めていた。番人が運んできたおにぎりを食べ、再び思考し、またおにぎりを食べる。朝日が昇り始めると同時に蝉があちこちの木から鳴き始め、旅人の体に止まることもあった。昨日や一昨日よりも人通りが多いためどうやら日曜日のようだ。薄紫色になっていく空を眺めていると、鐘の音が聞こえてくる。少し後に番人が皿を置く音が聞こえた。旅人は振り向いたがすでに彼はいない。おにぎりを食べ終えた旅人は暗闇を見つめ直す。日付が変わってしばらく後にふと足下に視線を向けると、蝉の死骸が転がっているのを見た。それは二日前から旅人の左腿に止まっていた蝉だった。
旅人はすでに作業を止めてしまっていた。より厳密に言うと、その作業に意味がないと理解してしまっていた。自らの善行を必死に思い出そうとする。ようやく一つ、二つを思い出す。しかし、それまでに数多の罪が脳表に溢れかえる。もはや数えるまでもなかった。旅人の言う善行とやらと彼の犯してきた悪行の数々、どちらが多いかは一目で明らかなのだから。地面に彫った正の字はずっと前から増えることも減ることもなくなっている。自分にはあの光の階段を上る資格はないことは明確だった。今、こうして蝉の死骸を眺めている間も旅人の中では罪の記憶が掘り起こされ続けている。償わなければならない。旅人は衝動的に立ち上がった。彼の体に止まっていた数匹の蝉はそれに驚き、弧線を描きながら飛んでいった。旅人は苦い顔をしてそれを見送ると、不明門の方を向いた。番人にはかつて嫌なことをたくさん言われたが、結局は彼が正しかったのだ。それにこれまでの飯の恩もある。せめて礼の一つでもしなければ旅人は気が済まなかった。
旅人が扉に手を添えると、いつかと同じように扉は自分から開いてゆく。不明門の中にはあの日と同じように輝く階段が天まで続いており、その傍らには例の番人が立っていた。彼は旅人の顔を見て、足を見て、もう一度彼の顔をみると、口を開いた。
「おまえは今、境界線にいる。不明門の内側と外側のな」
「はい。今から現世に戻って罪を償うつもりです。ただ、最後にあなたにお礼を言いたくて」
「構わんよ、私は仕事でやっていただけだからな。どこで自分の肉体を捨てたのかについても思い出したか?」
「はい。京都に来る少し前、大阪と兵庫の境です。この旅の道のりも全て思い出しました。だから、それを遡りながら贖罪をしていこうと思っています」
「それも良いかもしれんな。だが、もう現世にはあんたが贖罪せねばならん人間は一人も残っとらんよ。皆、死んだ。なんてったって、もう百年近く経っちまったんだからな」
「そんなまさか。僕はずっとこの門の傍にいましたけど、僕以外の人間が不明門を通るところなんて見たことありませんよ」
「そりゃそうだろう。だって、この門はあんただけのための門なんだからな」
「それなら、僕はどこへ行けば・・・」
その時、それまでは光の階段と番人に遮られてずっと見えていなかったが、門の奥、輝く階段の右にある大きな穴が旅人の目に入った。おそらくそれは地下へ続いている階段なのだろう。
「まあ、そういうことだ。仕方がないとしか言えんがな」番人は何かを察した旅人を見ながら言った。
「あの右の階段を進め、ということですか?」
旅人が彼の方を見ると、彼は黙って頷いた。旅人は目を瞑って少しだけ逡巡した後、不明門の内側へ一歩目を踏み入れた。彼は名残惜しそうに光の階段に目を留めたが、迷いを振り払うかのように体の向きを変えてもう一つの階段の方へ向かう。階段の前に立つと、旅人はその物々しい雰囲気にたじろいだ。階段は、空気を塗りつぶすほど暗く、下に向かってどこまでも深く続いていて、奥から獣の唸り声のようなものが聞こえたと思うと生温い風が吹き上げてくる。旅人は怖くてたまらなかったが、不安はなかった。僕は今、正しい道を歩いている。そう思いながら彼は階段の一段目に足を着けた。
「普通、人間ってのは肉体が死んで少し経ってから魂が抜きとられる。そういった魂は問答無用で振り分けられる。でも、たまにおまえみたいなやつが現れるんだ。肉体と魂の分離が同時に起きるやつが、死んだことに気づかないやつが」番人は旅人の背中にそう投げかけた。彼の語気は相変わらず刺々しい。「すぐに体を見つければ生き返ることもできる。まあ、ほとんどのやつらは肉体を置きっぱなしにして彷徨うがな。そしておまえのように、いずれ門を見つける。そいつらは自分の意思で行き先を選べるんだ。おまえも輝く階段を上ろうとしただろう?そいつらを説得して人生を回顧させるのが私たち番人の仕事なんだよ」
彼は続けてそう言った。何が言いたいのだろうか、と旅人は一瞬だけ思い巡らせた。いずれにせよ、番人には世話になったものな。旅人は彼の方を向いて深くお辞儀をした。そして、再びどこまでも続く階段を降り始めた。力強い足音とともに、彼の背中は少しずつ見えなくなってゆく。彼の姿が見えなくなった後もその足音は階段の入り口まで反響し続けていた。
「まあ、自分が犯した罪を自覚して償えるってのは良いことだ。それができたんなら、もう進んで同じ罪を犯そうとは思わんだろう。次おまえがこの門を訪れるようなことがあったら、そのときは笑顔でさっさと階段を上らせてやれるといいんだけどな」
番人は旅人の足音を聞きながら彼が消えていった闇を眺めている。どれだけ待っても彼が戻ってこないことを確信すると、番人は綻んだ顔を引き締めて不明門に向かい、優しく静かに扉を閉めた。
京都はもう何千度目かの夏を迎え、番人の作務衣も薄らと汗ばんでいる。扉の外は彼とあの旅人が初めて会った日と同じ、深夜だった。しかし、夏は京都に早い朝をもたらすのである。比叡山の向こうから光がやってきて、薄い皮を剥がすかのように、少しずつ明るみ始めた。それから一時間と経たないうちに京都市内は太陽の光が敷き並べられ、蝉の忙しない鳴き声で満遍となった。
不明門は今日も固く閉ざされたまま白川通の一角にひっそりと佇んでいる。




