第二十二話 多くの愛を受け入れることは勇者の宿命である。だが、初心を忘れれば、足元を掬われるだろう
Ⅰ:デイジー視点
ぴこん、と小さく跳ねる感覚で目が覚めた。
視線を落とすと、毛布の上で色ネズミが前足をばたつかせていた。
「おはよう」と声を掛けると、嬉しそうに頬へ身体を擦りつけてくる。
くすぐったくて、思わず笑ってしまった。
身体を起こして、そっと胸に手を当てる。
昨日は遅くまで起きていたはずなのに、妙に調子がいい。頭もすっきりしている。
……もう、大丈夫そうだ。
そう思ったところで、昨夜の出来事が、一気に頭の中によみがえった。
「……っ」
顔から火が出そうになって、慌てて枕をかぶった。
声にならない声が、布に吸い込まれていく。
――俺は、デイジーを妻として迎えたいと思っている。
思い出すたびに、胸の奥がぎゅっと縮こまる。
この世界で“勇者”としてではなく、“木鈴トウヤ”として。
私を、妻に。
「~~~~……!」
布団の中でひとしきり悶えてから、ようやく枕から顔を出す。
大きく息を吐いて、天井を仰いだ。
「……はぁ」
色ネズミが心配そうに、首を傾げながらこちらを見ている。
「どうしたらいいと思う?」
問い掛けてみるけれど、色ネズミは小さく鼻を鳴らしただけで、やっぱり何も答えない。
少しだけ首をかしげてから、今度は尻尾を追いかけてぐるぐる回り始めた。
「……だよね」
この子にはきっと、難しいことなんてわからない。
ただ、お腹が空いたら食べて、眠くなったら眠って、好きな人のそばにいるだけ。
――本当は、私だって、もう答えは知っている。
それを、自分で認めきれないだけだ。
ふと、窓の外が気になって、カーテンを少しだけ開けてみる。
冷たい朝の空気が、細い隙間から部屋に入り込んだ。
庭では、エミリアとトウヤ様が桶を運んでいた。
エミリアが大きな声で何か言って、トウヤ様が苦笑しながら頷く。
その光景だけで、胸の奥が温かくなる自分がいる。
……その瞬間、エミリアと目が合った。
エミリアはぴょん、と軽く跳ねて、大きく手を振ってくる。
思わず、私も手を振り返した。
次の瞬間、エミリアは手に持っていた桶をトウヤ様に預けると、その場から全力で駆け出した。
残されたトウヤ様は、受け取った桶の重さに耐えきれず、派手に転んでしまう。
「あ……」
思わず口元を押さえる。
……けれど、どうしても笑いがこみ上げてきて、声を殺すのに必死だった。
――昨日、トウヤ様が食後すぐに席を外したあと、エミリアと話した。
「同い年なんだから、敬語やめよ?」
そう言って笑うエミリアに、最初はひどく戸惑った。
お世話になっている家の娘さんに、敬語をやめるだなんて。
でも、あの真っ直ぐな目で言われると、断るのも失礼な気がして。
「……努力は、してみる」
結局、そんな情けない返事しかできなかった。
自分のことを少し話した。
父が議員であったこと。
物心ついた頃から「こうしなさい」と言われた通りにしてきたこと。
自分の進む道も、誰と会うかも、ほとんど自分で決めたことがないこと。
エミリアは、真剣な顔で「大変だったにゃ」と言ってくれた。
それから、自分の話もしてくれた。
家族の手伝いで牛飼いをしていること。
“いい人”が見つかったら家を出ようと思っていたこと。
家族は大事だけれど、自分の人生は自分で選びたいと思っていること。
自由に生きてきた彼女が、少しだけ眩しく見えた。
羨ましい――と、心の中で何度も繰り返していた気がする。
そのうち、話題は自然とトウヤ様に移っていった。
「変な人だけど、悪い人じゃない」
それが、私たちの共通認識だった。
妙に大人びているのに、常識がズレていて。
村のことも、細耳族のことも、世間のことも、驚くほど何も知らない。
なのに、“やるべきこと”だけは迷わずに選んでしまう。
エミリアは冗談混じりにいろいろと言っていたけど――
今思えば、あの時、エミリアはもうトウヤ様のことが好きになっていたのだろう。
その時の私は、まだそれに気づいていなかった。
でも今なら、よくわかる。
「……私も、だよ」
口に出してみる。
空気が喉の奥で震えた。
私は、トウヤが好きだ。
私と子どもを作れると聞いた時、嬉しかった。
細耳族の悲願だと言われたけれど、そんなことはどうでも良かった。
“君がいい”と、そう言われた時――
責任とか、怖さとか、後戻りできないことよりも、胸の中の喜びが全てを塗り潰してしまった。
「自分はふさわしくない」
「父も国も裏切ることになる」
そう思い込もうと何度もした。
でも、ダメだった。
私は、この人が好きだ。
この人と、共に生きたい。
溢れて止まらない感情が、正直、怖かった。
自分が、自分じゃなくなってしまいそうで。
むしろエミリアみたいに、感情で一直線に動けたらーーー
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれた。
「デイジー、入っていいかにゃ?」
「いいよ」
扉が開くと、エミリアが顔を覗かせる。
私の顔を見るなり、ふっと目を細めた。
「……なるほどにゃ」
何が“なるほど”なのかは教えてくれない。
代わりに、一歩大きく踏み込んで――昨日と同じような勢いで、私に向かって飛び込んできた。
「きゃっ!」
ベッドに押し倒される。
色ネズミが慌てて枕の影に隠れた。
「説得に来たけど、不要だったかにゃ」
「……私、好きすぎて、トウヤ様と面を向かって話せないかもしれない」
言葉にした途端、また顔が熱くなった。
エミリアは、そんな私を見て、楽しそうに口元を緩める。
「それでもいいにゃ。わたしがトウヤを独占できるにゃ」
「ずるい! 私が先にプロポーズされたのに!」
「準備と行動力の勝利にゃ!」
「ずるい、ずるい!」
思わず子どもみたいに言い返してしまって、自分でおかしくなる。
昨日までのぎこちなさは、いつの間にかどこかへ消えていた。
エミリアがふっと真顔になる。
「それなら……ちゃんと伝えられる?」
「……うん。エミリア、ありがとう」
胸の奥で固まっていた何かが、少し溶けた気がした。
ひとつだけ、どうしても聞いておきたいことがあった。
「エミリアは……その、嫉妬とか、そういうのはないかな?」
エミリアは少しだけ目を閉じてから、肩をすくめる。
「そもそも、トウヤは条約で独占が禁止されているから、全世界の共有物みたいなものにゃ。丸耳族も細耳族もみんな、きっと欲しがるにゃ。一日でも独占できただけで、わたしは満足にゃ」
「……それ、すごく譲ってる気がするんだけど」
「ただ――」
エミリアは、今度は真っ直ぐに私を見る。
その黄土色の瞳に、冗談の色はなかった。
「『自分の感情と人の命とを天秤にかけるつもりはない』とは言っておくにゃ」
エミリアは、誰かの言葉を引用するようにそう言った。
その言葉は、エミリア自身への戒めであり、私への警告でもあった。
トウヤは、もう“ただの一人の人間”ではいられない。
きっと、どこかの国が、誰かが、その血と力を欲しがる。
「……そっか」
私は、自分の中で暴れている感情を、ぎゅっと抱きしめるように心の中で叱った。
――それでも、私は選ぶ。
この人と生きることを。
◇
Ⅱ:トウヤ視点
エミリアに腕を掴まれ、半ば強制的に連れて来られた先は、デイジーの部屋だった。
ベッドの上には、顔を真っ赤にして俯いたデイジーが座っている。
毛布の端をぎゅっと握りしめ、今にも逃げ出したいと体全体で訴えているように見えた。
――デイジーはトウヤのことを好きすぎるから、顔を見れないかもしれない。
――積極的に行けないから、トウヤから積極的にいくべき。
――無言は肯定。
ここに来る前、廊下でエミリアからありがたいアドバイスを頂いている。
一体、俺は何回プロポーズをすればいいのだろう。
まだ、折り返し地点にすら立っていない気がする。
ちなみにエミリアは、部屋の入口付近で腕を組み、じっとこちらを見ている。
完全に監督者モードだ。
聞く勇気はないが、彼女の中で俺のプロポーズに点数がついていくのだろう。
――点数なんて気にしていたら、一生プロポーズなどできはしない。
本人同士が良ければ、それでいい。
相手の心に寄り添って、言葉にして伝えればいい。
……そう、自分に言い聞かせる。
ベッドの前まで歩み寄り、片膝をついた。
座っているデイジーと、目線の高さだけ合わせる。
「デイジー」
呼びかけると、デイジーの肩がぴくりと震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
真っ赤になった頬と、潤んだ空色の瞳が、恐る恐るこちらを覗き込んできた。
少し息を吐いてから、言葉を紡ぐ。
「おはよう、デイジー。昨日は、急にいろいろと押し付けてしまって悪かった」
「……いえ」
か細い声が漏れる。
それでも、しっかりと聞こえた。
「でも、俺が言ったことは、紛れもなく本心だ。俺は君と共に歩みたい」
胸の奥にある言葉を、一つ一つ拾い上げる。
背後から、エミリアの視線が刺さる気がしたが、振り返らない。
「だから、もう一度ちゃんと言わせてほしい。……デイジー。俺の妻になっていただけないだろうか」
そう言って、静かに手を差し出した。
部屋の中が、しんと静まり返る。
遠くで牛の鳴き声が聞こえた気がした。
デイジーはしばらく俯いたまま固まっていたが、やがて小さく、震える手を伸ばしてきた。
指先が、俺の手のひらに触れる。
ぎゅっと、力が込められた。
「……はい」
今にも消えてしまいそうな、小さな声。
それでも、その一言は、誰よりも強い意志を宿していた。
――圧をかけなくても、わかっているって。
思わず、笑いそうになるのをこらえる。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
俺はその手を軽く引き、デイジーをそっと抱き寄せる。
腕の中に収まった身体は、驚くほど軽かった。
『黒曜のベリウス』のあとより、少し痩せたのではないだろうか。
ここに来るまでに、どれだけ不安と恐怖を抱えていたのか。
本当に、苦労をかけている。
「……ありがとう」
耳元で、そう囁いた瞬間――
「はいストーップにゃ!」
勢いよく何かが突っ込んできて、俺とデイジーはまとめてベッドに倒れ込んだ。
「ぐっ!?」
背中に衝撃。
振り返ると視界いっぱいに、エミリアの笑顔が広がる。
「うふふ、これでみんな家族にゃ」
両腕を大きく広げて、俺とデイジーをぎゅーっと抱きしめるエミリア。
骨がまた軋む。
だから痛いって。
ここには、デイジーもいるんだぞ。
「エ、エミリア……っ」
「デイジー、これからよろしくにゃ」
「……うん。よろしくね、エミリア」
デイジーは、大粒の涙を零しながら、エミリアの手をぎゅっと握り返した。
その横顔は、不安と覚悟と、それでも消えない喜びでぐちゃぐちゃだったけれど――とても綺麗だと思った。
俺はというと、三人の真ん中で、やや押し潰され気味になりながら、内心で苦笑していた。
――俺は付録みたいなものかな。
それでも、守るべきものが増えたこと、そして、これから始まる困難な道を、はっきりと感じていた。
全てと共に歩むためにーーこの手を離さないと決めた。




